乞伏、南涼を滅ぼす。
 
姑藏陥落   

南涼王辱檀は、北涼王蒙遜と何度も戦い、互いに勝敗があった。  

 晋の安帝の義煕六年(410年)、正月。辱檀は自ら五万騎を率いて蒙遜を攻撃した。窮泉にて戦い、辱檀は大敗して、体一つで逃げ帰った。 
 蒙遜は勝ちに乗じて進軍し、姑藏を包囲した。姑藏の住人は、王鐘の時の多量虐殺を目の当たりに見ていたので(義煕四年、王鐘が造反を企んだ事件で、大勢の人間が連座で殺された。「禿髪、廣武に據る」に記載。)、この事態に至ると驚いて逃げ出した。そして、夷・夏の一万余戸が、蒙遜へ降伏した。 
 辱檀は懼れ、司隷校尉の敬帰と子息の佗を人質として派遣し、蒙遜へ講和を求めた。蒙遜はこれを許した。蒙遜は、八千戸の住民を略奪して帰国した。蒙遜軍の帰国の途中、敬帰等は逃げ出したが、佗は捕らえられた。 
 同月、右衛将軍の折掘奇鎮が、石驢山に據って造反した。辱檀は、蒙遜を恐れ、又、姑藏が石驢山に近いこともあり、楽都へ遷都した。この時、大司農の成公緒を姑藏へ留めて鎮守させた。 
 ところが、辱檀等が城を出ると、侯甚等が城門を閉ざして造反した。その勢力は三千余家まで膨れ上がり、南城に據った。彼等は焦朗を推戴して大都督、龍驤将軍とし、侯讃は涼州刺史と自称して、蒙遜へ降伏した。  

 七年、蒙遜は姑藏を攻撃し、これを抜く。焦朗を捕らえたが、罪を赦した。 
 蒙遜は、拏(蒙遜の弟)を秦州刺史に任命し、姑藏を鎮守させた。そのまま、彼等は南涼を攻撃し、楽都を包囲したが、一月余りしても落とせなかった。 
 辱檀が子息の安周を人質としたので、蒙遜等は帰国した。  

   

南涼の衰退 

 辱檀は、蒙遜討伐軍を起こそうとした。すると、甘川護軍の孟豈が諫めて言った。 
「孟遜は姑藏を占領したばかりで、日の出の勢い。攻撃してはいけません。」 
 しかし、辱檀は従わず、五道から進軍し、番禾近辺にて五千余戸を略奪した。 
 将軍の屈右が言った。 
「今、勝利を得たのですから、速やかに帰国しましょう。蒙遜は戦上手。もしも奴が軽騎を率いてやって来たら、外は大敵と戦い、内は叛徒が暴れることとなり、極めて危険です。」 
 すると、衛尉の伊力延が言った。 
「奴等は歩兵、我等は騎兵。負けはしません。今、急いで逃げ帰れば、天下へ弱味を見せることになります。それに、資財を棄てて行くのも、得策ではありません。」 
 この時、俄に濃い霧が出てきて、雨風が吹き荒れた。そして蒙遜の大軍が来襲し、辱檀軍は大敗した。 
 蒙遜はそのまま進軍して楽都を包囲した。辱檀は籠城して対抗する。やがて、辱檀が子息の染干を人質として差し出すと、蒙遜は帰国した。  

 九年、辱檀は蒙遜を攻撃した。蒙遜は、これを若厚塢と若涼で連破した。 
 北涼軍は、そのまま進軍して楽都を包囲したが、二十日余りしても勝てなかった。 
 この時、南涼の湟河太守文支が郡ごと蒙遜へ降伏した。蒙遜は、文支を廣武太守に任命した。 
 蒙遜は再び南涼討伐を決行した。すると、辱檀が太尉の倶延を人質として講和を請うたので、蒙遜は帰国した。  

   

南涼滅亡 

 十年、唾契汗、乙佛等の部族が、皆、南涼へ造反した。 
 辱檀がこれを攻撃しようとすると、孟豈が諫めた。 
「今は連年の飢饉続き。それに、南からは西秦、北からは北涼が攻め込み、百姓の心は不安に満ちております。遠征とゆうものは、たとえ勝ったところで、後患が必ず起こります。ここは西秦と同盟を結んで通商し、雑部を慰撫して穀物を蓄え兵を鍛錬し、時期を待ってから動くべきでございます。」 
 辱檀は従わず、太子の虎台へ言った。 
「北涼とは講和したばかり。しばらくは事が起こるまい。今、憂慮するのは、ただ西秦だけである。だが、西秦は兵力も少なく、防ぎやすい。汝は謹んで楽都を守れ。吾は一月以内に必ず戻る。」 
 そして七千騎を率いて乙佛を攻撃し、これを大いに破った。馬牛羊四十余万を獲える。  

 西秦の熾磐は、これを聞いて楽都を襲撃しようとした。群臣は皆、これを止めたが、太府主簿の焦襲は言った。 
「辱檀は近患(蒙遜、熾磐)を顧みず、遠利を貪っています。我等はこれを攻撃し、更に楽都の西路を遮断しましょう。つまり、辱檀の帰路を閉鎖して楽都を孤立させるわけです。そうすれば、虎台が守る楽都など、簡単に奪えます。これは、天が南涼を滅ぼすのです。この機会を失ってはなりません。」 
 熾磐はこれに従い、二万の軍勢で楽都に出陣した。虎台は籠城し、熾磐は四面からこれを攻撃した。 
 南涼の撫軍従事中郎尉粛が虎台へ言った。 
「外城は広大で、守るのに適しません。殿下は国人(鮮卑の禿髪部の人間)を率いて内城を守って下さい。臣は晋人を率いて外で戦います。そうすれば、たとえ勝てなくても、まだ守備を固められます。」 
 しかし、虎台は言った。 
「熾磐など小賊。一日で撃退してみせる。卿は何を大仰に考えているのだ!」 
 虎台は、晋人を疑っていた。そこで、名望の高い者や知謀勇猛な者を悉く集めると、内城内へ軟禁した。 
 孟豈は泣いて言った。 
「熾磐が、虚を狙い、国内は造反が相継ぐ。我が国は、累卵の危うきにあります。豈等は、上は御国へのご恩返しの為、下は家族を守る為、命を捨ててでも戦おうと思っておりますのに、殿下は我等を疑ってこのように扱われますのか!」 
 虎台は言った。 
「卿等の篤き忠義を、吾がどうして知らぬだろうか!吾はただ、狼藉者の短慮から、御身等を守りたいだけなのだ。」 
 その日、守備軍は壊滅し、熾磐は楽都へ入城した。  

 熾磐は、平遠将軍捷虔に五千騎を与えて辱檀を追撃させた。又、鎮南将軍謙屯を都督河右諸軍事・涼州刺史として、楽都を鎮守させた。禿髪赴単(禿髪烏孤の息子)を西平太守として西平を鎮守させた。趙恢を廣武太守として廣武を鎮守させた。曜武将軍王基を晋興太守として浩畳を鎮守させた。そして、虎台及びその文武百姓万余戸を、枹干へ強制移住させた。  

 南涼の安西将軍樊尼(烏孤の子息)が、西平から辱檀のもとへ駆けつけて、楽都の陥落を告げた。  

 辱檀は、部下へ向かって言った。 
「今、妻子が全て熾磐へ捕らわれてしまった。しかも退却しようにも、逃げ込む場所さえない。こうなった以上、乙佛からの略奪品を兵糧として契汗を攻略するしかないぞ。」 
 そして、更に西へ進軍した。だが、兵卒達は、故郷や家族が気に掛かり、次々と逃亡して行く。辱檀は、鎮北将軍の段苟に、彼等を追いかけて連れ戻すよう命じたが、段苟もそのまま逃げ出してしまった。 
 ここにおいて、兵卒は逃散した。残ったのは、樊尼と中軍将軍乞勃、後軍将軍洛肱、散騎侍郎陰利鹿だけだった。 
 辱檀は言った。 
「蒙遜も熾磐も、昔は我等へ人質を寄越して『臣』と称していたのだ。それが今やこうなろうとは。四海はかくも広いのに、身の置き所一つない。何たることだ!しかし、このままここで全員死ぬより、別れ別れになれば、生き延びる率も高くなる。樊尼は、我が兄の子で、宗族の期待は大きい。そして北方に、一万戸程の我が部落がある。蒙遜が士民を招撫しているので、存亡継絶はお前次第だ。乞勃と洛肱もこれに付き従え。我はもう老いた。どうせ寄る辺がないのなら、せめて家族と共にいたい。」 
 すると利鹿が言った。 
「臣には、老母がおります。帰りたくないわけではありません。しかし、既に臣下となった以上、忠孝両立など考えません。臣は不才で、陛下の為に泣血して隣国に援軍を請うことなどできません。それならせめて、死ぬまで仕えさせて下さい!」 
 辱檀は嘆いて言った。 
「人を知るのが、何と難しいことか!大臣も親戚も、皆、逃げ去ってしまった。この期に及んでさえ忠義を汚さなかったのは、ただ、卿一人だけだ!」  

 辱檀の諸城は、全て熾磐へ降伏した。ただ、尉賢政のみ、浩畳を固守して抗戦していた。 熾磐は使者を派遣して伝えた。 
「楽都は既に陥落した。卿の妻子も、我が手元にいる。それに、今更孤城を守ったところで、何になると言うのだ?」 
 すると、賢政は言った。 
「涼王の御厚恩を受けて屏藩となったのだ。楽都の陥落は知っている。妻子が人質となったのも知っている。そして、急いで帰順すれば褒賞を受け、遅れれば誅されるのも知っている。しかし、主上の存亡が知れず、その命令も受けてはいない。妻や子などの些事で心は動かぬぞ!それに、一事の利益を貪って、大事の仕事を放棄するような人間なら、大王のお役にも立ちますまい!」 
 そこで、熾磐は虎台の手書きの書状で彼を諭した。しかし、賢政は言った。 
「汝は世継ぎとなっていながら、節を尽くすこともできず、おめおめ他人に捕縛された。父を棄て、君を忘れ、万世の業を台無しにしたのだ。賢政は義士だぞ!なんで汝をみならおうか!」 
 やがて、辱檀が出頭したと聞いて、西秦へ降伏した。 
 辱檀が自首したと聞き、熾磐は使者を派遣して迎えさせ、上賓の礼でもてなした。  

   

辱檀の死 

 七月。熾磐は、辱檀を驃騎大将軍に任命し、左南公の爵位を与えた。南涼の文武の官人も、才覚によって職を与えた。  

 後、一年ほどして、熾磐は辱檀へ毒を賜下した。辱檀の側近達は皆、寛恕を請うたが、辱檀自身は言った。 
「我が病は、治療をしても治らない!」 
 こうして、毒を仰いで死んだ。諡は景王。 
 辱檀が死ぬと、蒙遜は虎台のもとへ使者を派遣し、誘いをかけた。 
「番禾、西安の二郡を与えよう。それに兵も貸す。西秦を伐って、父の復讐をして、もとの領土を回復してみろ。」 
 虎台は密かにこれを受諾したが、陰謀が洩れて、中止した。虎台は、熾磐の皇后の兄だったので、この件の後も、熾磐は虎台をもとの通り厚遇した。 
 辱檀の子息の保周・賀、倶延の子息の履龍、利鹿孤の孫の副周、烏孤の孫の承鉢等は、皆、蒙遜のもとへ逃げたが、後に魏へ亡命した。魏では、保周を酒泉公、賀を西平公、副周を永平公、承鉢を昌松公に封じた。 
 魏王嗣は、賀の才覚を寵愛し、言った。 
「汝の先祖は、朕と同族だ。よって、源の姓を賜下しよう。」(後、魏において、源氏が盛大になった)  

   

暗殺未遂 

 宋の営陽王の景平元年(423年)。熾磐の皇后が、兄の虎台へ密かに言った。 
「秦は、もともとわれらが怨敵。私は確かに婚姻しましたが、これは一事の方便に過ぎません。先王の崩御も、天命ではなく、あいつが殺したのです。私達の一族の土地を全て奪って、自分の子孫へ伝える為に、です。 
 私達は辱檀の子です。それなのに、親の仇の臣下や妾となっているのですよ。報復を思わずにいられましょうか!」 
 そして、武衛将軍の越質洛城と共に、熾磐の弑逆を謀った。 
 さて、皇后の妹は、熾磐の左夫人だった。彼女は姉の陰謀を知ると、これを熾磐へ密告した。熾磐は、皇后、虎台をはじめ十余人を殺した。  

   

(訳者、曰)  

 辱檀は、その才覚を嘱望されていた。父親がその才覚を愛でていた為に、長兄は自分の息子へ王位を譲らず、弟へ譲った。そして中兄も又、その意思を尊重して辱檀へ譲ったのである。 
 このプロットは呉の季札に似ている。 
 呉王の寿夢は、末っ子の季札の才能を愛でていた。長男の諸樊はそれを知っていたから、王位を息子へは譲らず、弟の余祭へ譲った。余祭は、父と兄の想いを受け、王位を弟の余昧へ譲った。そして、余昧は死に臨んで、弟の季札へ王位を譲ると遺言したのである。ただし、季札は兄弟継承を善しとせず、これを拒絶して亡命したが。 
 この故事は史記にも記されているが、実際には、どうだったのだろうか? 
 太古においては、兄弟相続が普通だった。少なくとも、殷代は兄弟での継承に違和感はなかった。春秋時代後期の呉ならば、兄弟相続が尋常のかたちだとしても不思議はない。季札へ王位を譲る為に兄弟が力を合わせたのではなく、案外、彼等は当時の常識に従っただけかも知れない。 
 では、南涼ではどうだろうか?彼等はもともと遊牧民族であるし、この時代の鮮卑なら、兄弟相続の部族があっても不思議はないだろう。実際、十六国の系図を辿ると、直径相続は非常に稀である。(もっともこれは、叔父による簒奪が多かったせいもあるが。)それに、乱世ならば、幼君より長君が望まれるのも自然の情理である。辱檀の才覚が見込まれて、兄弟で相続していったとは限らない。  

 しかしながら、後秦から使者が辱檀と語って感激した話を見ても、辱檀が知謀の士だったことは間違いがないだろう。だが、南涼は、彼の代で滅んだ。それも、完全な自滅である。辱檀が、戦争を続けたから滅んだのである。 
 辱檀を称して、「智伯の亜流」と言った人が居るが、的を得た表現だ。彼はその知謀を駆使し、諫める人間の口を塞いで専横の限りを尽くし、結局は国を滅ぼしたのである。「知者は知に溺れる」とはこの事か。   

 なお、義煕十年に南涼が滅亡すると、北涼と西秦が国境を接するようになった。翌、十一年から、この両国が戦火を交えることとなるのである。({蒙遜、西秦を伐つ」参照)