南郡王の叛
 
藏質の不逞 

 江州刺史藏質は、一世の英雄と自負しており、公言して憚らなかった。皇太子劭の大逆事件の時、藏質は、密かに不逞の企てを持った。南郡王義宣は凡庸で操縦しやすい人間だったので、これを皇帝に建てようと考えたのだ。藏質は、義宣の母親の甥でもあったので、江陵へ到着した時、義宣へ即位を勧めた。だが、義宣は、この時既に駿(孝武帝)を盟主と仰いでおり、この話に乗らなかった。
 新亭まで進軍した時には、藏質は、今度は義恭へそそのかした。
「天下大乱の時期です。平時の礼にこだわってはいけません。」 

  

造反決意 

 劭が誅殺された時、義宣と藏質は功績第一と賞された。これによって、二人とも驕慢放埒になった。又、孝武帝も、彼等の望みは全て叶えてやったのである。
 もともと義宣は、十年に亘って荊州を統治しており、財産は豊富で兵力も強大だった。だから、朝廷の命令でも、意にそぐわないことは遵守しなかった。
 藏質は、建康から江州へ行く時、千余艘の舟をすらりと並べ、その船団は前後百余里も続いた。孝武帝は、即位すると自ら采配を振るいたがったのに、藏質は若君へ対するように接して、政刑慶賞を全て好き勝手に行った。そして、遂には盆口や鉤斤の米の専断まで行ったので、さすがに台府からも屡々詰問されるようになった。これによって次第に猜懼が生まれてきた。
 そんな中で、孝武帝が義宣の娘達を荒淫の餌食とした。義宣が孝武帝を怨んだので、藏質は義宣のもとへ密かに使者を送った。
「不賞の功績を建て主君の威信を脅かす程の力を持った臣下が身を全うした試しなど、古来、どれ程あったでしょうか?今、殿下の威名は天下を覆っておりますし、天下の万民は殿下に心を寄せております。もし、徐遺宝と魯爽に、西北の精鋭兵を率いて江上に進軍させ、藏質には九江の軍艦を率いて殿下の前駆とさせるなら、既に天下の半ばを得たようなものでございます。そこで、殿下が八州の兵を率いてこれに臨めば、韓信・白起が生まれ変わったところで、建康を守り通すことなどできますまい。それに、陛下の不徳は巷の噂にも上っています。沈慶之も柳元景も、私の子分です。なんでそんな皇帝の為に力を尽くしましょうか!
 それ、留めることのできない物は年です。失ってならない物は時です。私の力を思う存分に振るって殿下の為に露払いをすることもできぬまま、黄泉へ旅立って行くのではないか、と、私はそればかりを恐れているのです。」
 諮議参軍の蔡超と司馬の竺超民は、義宣の腹心の部下だったが、彼等は立身出世の野望に燃えていた。それで、この話を聞くや、藏質の威名を利用して日頃の望みを遂げようと、義宣へ挙兵を勧めた。藏質の娘が義宣の息子へ嫁いでいたので、義宣は藏質が裏切ることはあるまいと考え、遂にこれを許した。
 この時、藏敦は黄門侍郎だったが、折りもおり、孝武帝は彼を義宣のもとへ使者として派遣した。途中、藏敦が尋陽へ到着すると、藏質は藏敦へ対して、義宣を説得するよう命じた。これによって、義宣は遂に造反を決意した。 

  

先走り 

 豫州刺史の魯爽は勇力溢れる人間で、もともと義宣とは親密だった。義宣は、魯爽とコン州刺史徐遺宝のもとへ密かに使者を派遣し、この秋を期して、同時に挙兵するよう連絡した。だが、その使者が寿陽へ到着した時、たまたま魯爽は酔い痴れており、義宣の指示を聞き誤って即日挙兵をしてしまった。その頃、魯爽の弟の魯瑜は建康に住んでいたが、魯爽の造反を聞くや、すぐに叛徒のもとへ逃げ込んだ。
 魯爽は、兵卒達の頭に黄色い頭巾をかぶせて目印とし、法服を造って登檀すると、自ら建平元年と号した。挙兵に反対している部下は、処刑した。
 徐遺宝もまた、挙兵して彭城へ向かった。 

  

義宣、立つ 

 二月、魯爽の挙兵を聞いた義宣が、狼狽して挙兵した。
 魯瑜の弟の魯弘は藏質の府佐となっていたので、朝廷は、彼を監禁するよう藏質へ命じたが、藏質はその使者を捕らえると、挙兵した。
 義宣と藏質は、共に上表した。
「陛下の側近達の讒言に悩まされていたのです。」
 そして、君側の悪を誅殺すると宣言した。
 義宣は、魯爽を征北将軍に任命した。そこで魯爽は、先に造った輿や服を義宣へ送った。
 藏質は、魯弘を輔国将軍として、大雷を守備させた。義宣は、諮議参軍の劉甚之へ一万の兵卒を与えて、魯弘のもとへ派遣した。そして、司州刺史の魯秀を呼び寄せて、劉甚之の後がまとした。
 魯秀は江陵へ出向き、義宣に謁見したが、退出した後、部下へ言った。
「兄貴のせいで、全てをなくした。あんな痴人と共に造反したら、年内に敗北するぞ!」
 義宣は荊、江、コン、豫の四州の兵力をその指揮下に置き、威厳は遠近を震わせた。又、都督中外諸軍事を自称し、幕僚へいろいろな官職を与えた。 

  

朝廷の対応 

 孝武帝は、領軍将軍柳元景を撫軍将軍とし、左衛将軍王玄謨を豫州刺史とした。そして、王玄謨を始めとする諸将を指揮して義宣を撃つよう、柳元景に命じた。官軍は梁山洲まで進軍し、両岸に月塁を築いて、水陸力を合わせて賊軍を待ち受けた。
 三月、内外に戒厳令を布いた。安北司馬の夏侯祖歓をコン州刺史に任命した。又、徐州刺史の蕭思話を江州刺史、柳元景をヨウ州刺史として、それぞれ藏質、朱修之と代わらせようとした。蕭思話の代わりに、龍秀之を徐州刺史にした。 

  

去就 

 義宣は州郡へ檄を飛ばし、簡易の進級を約束して加担を誘った。ヨウ州刺史の朱修之は、偽ってこれを許諾したが、その傍ら孝武帝のもとへ使者を走らせ、事情を説明して忠誠を誓った。
 益州刺史の劉秀之は、義宣の使者を斬り殺し、一万の兵を派遣して江陵を襲撃した。
 義宣は、十万の大軍で、江津を出発した。その船団は、舳艫を数百里も連ねていた。子息の滔は、左司馬の竺超民と共に江陵に留めてここを鎮守させた。
 又、朱修之へは、一万の兵力で後続となるよう檄を飛ばしたが、朱修之はこれを拒絶した。これで義宣は、朱修之の二心を知った。そこで、魯秀をヨウ州刺史に任命し、一万の兵力でこれを襲撃させた。こうして、魯秀は義宣の本体から外れた。これを聞いた王玄謨は、大いに喜んで言った。
「蔵質なんか、一ひねりだ。」 

  

徐遣宝の敗北 

 冀州刺史垣護之の妻は、徐遺宝の姉だった。そこで徐遺宝は造反するよう檄を飛ばしたが、垣護之はこれを拒絶し、派兵して賊軍を襲撃した。
 徐遺宝は、彭城を攻撃した。徐州刺史蕭思話は既に出撃していたので、長史の明胤がこれを守って、撃退した。明胤は余勢をかって、夏侯祖歓や垣護之と共に湖陸城(コン州の州都)を攻撃した。徐遺宝は城を焼き、部下を見捨てて魯爽のもとへ逃げ込んだ。 

  

義宣軍、進軍。 

 義宣は、尋陽へ到着すると、蔵質を先鋒として進撃した。魯爽もまた、兵を率いて歴陽へ赴き、蔵質と共に水陸両軍で川を下った。
 これに対して、官軍の殿中将軍沈霊賜が百艘の軍艦を率いて迎撃した。彼は南陵にて蔵質の前軍を撃破、軍主の徐慶安等を捕らえた。
 藏質は梁山まで来ると、両岸を挟んで陣を布き、官軍と対峙した。
 四月、後将軍劉義基を湘州刺史に、朱修之を荊州刺史に任命した。 

  

魯爽の敗北 

 孝武帝は、左軍将軍薛安都と龍驤将軍宗越等に歴城を守らせた。彼等は魯爽の前鋒楊胡興等と戦い、これを斬った。魯爽は進軍できず、大見に留まり、魯瑜を小見に留めた。
 更に、孝武帝は、鎮軍将軍沈慶之を派遣して揚子江を渡らせ、諸将を指揮して魯爽を攻撃させた。魯爽は兵糧が乏しくなったので、少し後退し、自ら殿を務めた。沈慶之は、薛安都に軽騎を与えて、追撃させた。薛安都は、小見にて、魯爽軍に追いついた。
 戦いを始めようとゆう時、魯爽は酒を飲み過ぎて酔っぱらってしまった。薛安都はこれを望み見るや、馬を飛ばして大呼し、まっすぐ駆けつけて魯爽を刺した。左右の范隻が、その首を斬る。
 大将を殺された魯爽軍は散り散りとなった。魯瑜も又、部下から殺された。官軍は遂に寿陽まで進んでこれを落とした。徐遺宝は東海へ逃げたが、そこで殺された。
(李延寿、曰)
 凶人が野望を達成できるのは、乱世だけである。魯爽は、平穏無事な時に乱世の考え方で行動した。敗れ去るのも当然である!(呼応する者が少なすぎました。姉婿まで敵に回るようでは・・・。皆が戦争を厭がっている時に造反しても、誰も呼応しないから、結局敗北してしまう、と言う事でしょう)
 南郡王義宣が鵲頭まで進軍した時、沈慶之から魯爽の首と共に書状が送られて来た。
”私は一方の鎮守を任され、不貞の輩に目を光らせておりました。すると近年、計らずも小軍にて造反するものがおりました。私はこれを撃破し、賊首魯爽の首を取った次第です。思いますに、公は常日頃魯爽と親密に交わっておられました。あるいはその御首を一目みたいかとも考え、これを進呈致します。”
 魯爽は、代々将軍の家柄で、本人も勇猛な戦上手だった為、一人で万人にあたるとの評判だった。義宣と蔵質は、その彼が戦死したと聞いて、驚懼してしまった。 

  

梁山の攻防 

 王玄謨は、蔵質が大軍と考え、救援を求めた。そこで孝武帝は、採石に陣取っていた柳元景を姑敦へ移動させた。
 太傅の義恭が、義宣へ手紙を書いた。
「蔵質は、若い頃から軽薄な人間と評判でした。今、その彼が西楚の兵力を利用して、自分の野望を遂げようとしているのです。もしもこの凶謀が成功すれば、全てのものを奪われてしまう事が恐ろしいのです。」
 これ以来、義宣は蔵質を猜疑するようになった。
 五月、義宣軍は無湖まで進軍した。すると、蔵質が計略を出した。
「今、一万の兵力で南州を取ると、梁山の柳元景色は孤立します。それから、一万の兵で梁山を奪えば、王玄謨はまず動きません。私は流れに沿って石頭を直撃致します。これこそが上策です。」(この時、沈慶之と薛安都は江西に居た。柳元景と王玄謨は義宣に釘付けにされている。もしもこの策が採用されていたら、建康は危なかった。)
 義宣が、この献策に従おうとすると、劉甚之が密かに言った。
「蔵質が先鋒を買って出ましたが、その真意はどこにあるのでしょうか?ここは、精鋭を全て梁山へ投入し、これを落とした後、長躯建康を衝くべきでしょう。それでこそ万全です。」
 義宣は、これに従った。
 梁山の西塁を守っていたのは、冗従僕射の胡子反等である。西南の風が吹き荒んだ時、蔵質は、配下の将軍殷周之に西塁を攻撃させた。その時、胡子反は東岸で王玄謨と軍略を練っていたが、西塁襲撃の報告を受けて急いで帰ってきた。
 偏将の劉季之が水軍を率いて必死の防戦をしながら、王玄謨へ救援を求めた。王玄謨はこれを却下したが、大司馬参軍のさい勲之が固く諌めたので、崔勲之と積弩将軍垣詢之(垣護之の弟)を派遣した。だが、結局城は落ち、崔勲之も垣詢之も戦死した。子反等は、東岸へ逃げた。
 蔵質は、又、配下の将軍龍法起に数千の兵を与えて王玄謨の背後を襲撃させようとしたが、遊撃将軍垣護之が、これを撃破した。 

  

朱修之、固守する。 

 朱修之は、馬鞍山の通路を絶ち、険阻な地形を利用して守備を固めた。魯秀はこれを攻撃したが、勝てず、屡々朱修之に敗北した。とうとう、魯秀は江陵へ引き返したので、朱修之も兵を引いた。
 ある者が追撃を勧めたが、朱修之は言った。
「魯秀は驍将だ。切羽詰った獣は大暴れするではないか。追撃してはいけない。」 

  

賊軍敗北 

 王玄謨は、垣護之を使者として、柳元景のもとへ派遣して、急を告げた。
「西城が落ち、東城に一万の兵力があるだけだ。賊軍はこの数倍、とても敵わない。無駄な犠牲を払わず、姑敦へ撤退するのが上策だ。節下に御協力願いたい。」
 しかし、柳元景は許さず、言った。
「賊の勢力は旺盛。こちらが先に撤退したら、ますます図に乗ってしまうぞ。俺が自ら救援に赴く。」
 すると、垣護之は言った。
「賊軍は、南州には三万の兵力が居ると思っています。しかし、将軍の麾下は、その十分の一に過ぎません。もしも将軍が梁山へ出向かわれましたら、全て暴露してしまいます。王豫州は、命令に背きませんので、一部の兵を援軍に下さい。」
「よろしい。」
 そこで、老人兵や負傷兵を残し、精鋭兵に沢山の幟を持たせて総動員した。梁山からこれを望み見れば、あたかも大軍の様に見えた。皆は、建康から大援軍が来たと思い、兵卒の動揺は静まった。
 蔵質は、自ら東城攻撃を志願した。すると、諮議参軍の顔楽之が義宣へ言った。
「もしも蔵質が東城を陥落したら、大功は彼のものになってしまいます。ここは麾下を派遣するべきです。」
 そこで、義宣は劉甚之を蔵質と共に進めた。やがて義宣が梁山へ到着し、西岸へ屯営し、蔵質と劉甚之は東岸を攻撃した。
 王玄謨は諸軍を都督して大いに戦った。薛安都が突撃して、賊陣の東南を落とし劉甚之の首を斬った。続いて劉季之と宗越が西北を落とし、蔵質等は大敗した。
 垣護之は江中の軍艦を焼き払った。その火炎は水面を覆い、西岸まで延焼、西側の塁は殆ど燃え尽きた。諸軍がこの勢いに乗って攻撃したので、義宣軍も又、潰滅した。
 義宣は、単舟で逃げ出し、戸を閉めて泣いた。それでも、荊州の人間はなお百余艘程も彼についていった。
 蔵質は、善後策を練ろうと義宣の本陣へやってきたが、義宣は逃げ出してしまっていた。蔵質には、義宣の行方も判らず、彼もまた逃げ出した。部下は皆、降伏するか、逃げ散った。 

  

蔵質、逃避行 

 蔵質は尋陽へ逃げ込むと、府舎を焼き払い、妓妾を載せて西へ逃げた。腹心の何文敬に兵を与えて露払いさせ、西陽へ到着する。すると、西陽太守の魯方平が何文敬へ言った。
「詔では、ただ元悪のみを捕らえ、その他は不問に処すと言っているのです。逃げるのが一番ですよ。」
 何文敬は、皆を捨てて逃げ去った。
 蔵質は、妹婿の羊沖を武昌郡太守に抜擢してやっていた。そこで、武昌を目指したが、羊沖は、既に郡丞の胡庇之から殺されていた。それで、藏質は武昌へ入らず、南湖へ逃げた。食糧が無くなったので、蓮の実を採って食べていると、官軍が追撃してきた。藏質は荷物で頭を覆うと湖へ入り、水の中へ沈んで鼻だけ出した。
 戊辰、軍主の鄭倶児が藏質を射殺し、首を斬って建康へ送った。藏質の子孫も、皆、さらし首となった。柳元景等は、恩賞を賜った。 

  

義宣の凋落 

 丞相義宣は、江夏へ逃げた。そこで、官軍が巴陵まで来ていると聞いて、江陵へ向かった。その間に兵卒達は次々と逃げだし、最後には左右十人ばかりになってしまった。
 どうにか江陵の郊外までたどり着くと、先触れを派遣して、竺超民へ帰還を伝えた。竺超民は礼装をした兵卒達を率いて出迎えた。
 この時、荊州にはなお一万余りの武装兵がいた。そこで、義宣は将佐を鼓舞する為に演説を行った。その為に、側近の擢霊宝が草稿を作って義宣へ教えた。
”蔵質の指揮が適宜ではなかった為に、巧く行かなかった。しかし、今、兵を治め甲を修繕し、更なる行動を起こす。昔、漢の高祖は百敗したが、遂には大業を成し遂げ・・・”
 だが、義宣は演説の途中で台詞を忘れ、誤って「項羽は千敗し」と言ってしまった。諸人は皆、口を押さえて笑った。
 魯秀や竺超民等は、なおも余兵を集めて決戦を挑みだがった。しかし、義宣は怯えきってしまって、内へ入ったきり、出てこない。それを見て、左右も心が冷めてしまい、次第に人臣も離散してしまった。
 魯秀は北へ逃げた。義宣は自立できないと諦め、魯秀と共に北へ逃げようと考え、子息の滔の他に、愛妾五人を男装させて従えた。城内は大混乱に陥っており、刀を振り回している人間が、あちこちにいた。義宣は懼れて落馬し、そのまま徒歩で逃げた。竺超民は、その義宣を城外へ送り出し、馬を与えると、自身は城へ戻って守備を続けた。
 義宣は魯秀を探したけれど、見つからない。左右は悉く彼を見捨てて散って行った。その夜、義宣は江陵城外の官舎へ戻った。義宣は地面に座り、嘆いて言った。
「藏質の老いぼれが、俺を誤らせたのだ!」
 魯秀は、部下が逃散したので、逃げることができずに江陵へ戻ってきた。すると、城上から矢を射掛けられたので、魯秀は川へ身投げした。兵卒は、その首を取った。 

  

乱の終焉 

 孝武帝は、丞相義宣に、せめて自殺させようと考え、王公・八座、そして荊州刺史朱修之へ手紙を出した。だが、それが到着しない内に、朱修之は江陵へ攻め込み、義宣を殺した。その他、彼の十六人の子息達や、一味の竺超民、蔡超、顔楽之等も殺した。
 竺超民の兄弟まで誅殺されそうになったが、何尚之が上言した。
「賊は既に遁走しました。大軍どころか、一夫でもこれを捕まえることができます。もし、竺超民がよからぬことを考えたなら、その時に殺せば済んだことです。ですが、竺超民にそのような想いはありませんでした。彼は官の為に城府の混乱を収め、謹んで官庫の備蓄を守り、端座して縄目を受けました。今、その殺戮が兄弟にまで及ぶのならば、彼の扱いは他の逆賊達と変わらないではありませんか。」
 孝武帝は、竺超民の兄弟を赦した。