劉裕、南燕を滅ぼす。
 
  

慕容超、南燕へ入る。 

 南燕主の慕容徳は、前秦に仕えて張掖太守となっていた頃、兄の納や母の公孫氏と共に、張掖に住んでいた。苻堅の淮南攻撃に従軍する時、慕容徳は、母親へ金刀を渡して別れを告げた。
 やがて彼は慕容垂と共に山東で挙兵した。この時、張掖太守の苻昌は、慕容徳の諸子及び納を捕らえ、全員誅殺した。ただ、公孫氏は老齢だった為見逃した。又、納の妻の段氏は、身籠もっていた為、その処分を保留した。
 さて、張掖の牢獄の長官の呼延平は、もともと慕容徳の部下だった。彼は、公孫氏と段氏をこっそりと「きょう」へ逃がしてやった。
 段氏は、超を生んだ。そして、超が十歳の時、公孫氏が病没した。死に臨んで、彼女は超へ金刀を渡して言った。
「お前が東へ帰れたら、この刀を叔父上へ返すのですよ。」
 呼延平は、慕容超と段氏を、後涼へ逃がしてやった。
 やがて後涼が後秦へ降伏すると、慕容超は涼州の民と共に長安へ移住した。
 呼延平が死ぬと、段氏は、その娘を慕容超へ娶らせた。 

 慕容超は、後秦の人間から捕らわれることを恐れ、奇矯な行いで世間の目を誤魔化していた。だから、人々は彼を馬鹿にしていたが、東平公の姚紹だけは、彼の才覚を見抜き、後秦王の姚興へ言った。
「慕容超の姿形は立派なもの。彼は狂人を装っているだけです。彼へ爵碌を与えて繋ぎ止めましょう。」
 そこで、姚興は慕容超を謁見したが、その席で、慕容超はトンチンカンな事ばかり言った。
 この会見の後、姚興は紹へ言った。
「『見かけが立派なら、中身も備わっている』とゆう諺があるが、あれは誤りだな。」
 そして、慕容超を解放した。 

 そのうちに、「納の遺児が後秦に居る」との噂が慕容徳の耳に入った。そこで、彼は密かに使者を派遣して、慕容超を呼び寄せた。超は、母や妻にもこれを告げず、姓名を変えて南燕へ逃げた。
 その途中、彼は梁父を通ったが、この時、鎮南長史の悦寿が、このことをコン州刺史慕容法へ告げた。すると、慕容法は言った。
「漢代、衛太子の偽物が現れたことがあった。今、奴もどうせその類さね。」
 とど、礼遇しなかった。以来、慕容超は慕容法へ対して含むところができた。(後、慕容超が南燕王に即位すると、慕容法が造反するのは、これが原因である。)
 慕容超の到着を聞くと、慕容法は狂喜して、三百人の騎馬兵に出迎えさせた。
 廣固へ着くと、慕容超は、慕容徳へ金刀を献上した。それを見た慕容徳は、悲しみの余り慟哭した。そして、慕容超を北海王とし、侍中・驃騎大将軍・司隷校尉に任命。幕府を開かせ、評判の賢人達を選りすぐって彼の幕僚とした。 

  

立太子 

 慕容徳には子供がいなかったので、彼は慕容超を後継にしようと思った。そこで、彼の出入りには、下士をかしずかせた。これによって、内外の衆望が、自然と慕容超のもとへ集まった。 

 九月、汝水の水が渇いた。慕容徳は、これを気に病み、気鬱から病床へ伏せった。
 しかし、慕容超が、祈祷をするよう請願すると、慕容徳は言った。
「人主の寿命の長短は、天命だ。祈祷してもはじまらん。」
 慕容超は固く請うたが、結局、慕容徳は許さなかった。
 戊午、慕容徳は群臣を東陽殿に集め、慕容超の立太子を協議した。
 すると、突然地震が起こり、百官は恐れおののいた。慕容徳も不安になったので、立太子の件は沙汰止みとして、そのまま宮殿へ帰った。
 その夜、慕容徳の病状が悪化し、口を利くことさえできなくなった。
 そこで、段后が大声で叫んだ。
「今、中書を召集し、超の立太子の詔を作らせてもようございますね?」
 慕容徳は、目で同意した。
 こうして、慕容超は皇太子となり、大赦が下された。
 その日のうちに、慕容徳は卒した。享年七十。 

  

慕容超即位 

 己未、慕容超は即位して皇帝となった。大赦を下し、「太上」と改元する。段氏は皇太后となった。北地王慕容鐘を都督中外諸軍・録尚書事、慕容法を征南大将軍・都督四州諸軍事とし、慕容鎮に開府儀同三司を加える。尚書令のを太尉、麹仲を司空、封崇を尚書左僕射とする。
 癸亥、慕容徳を東陽陵へ葬り、献武皇帝と諡した。廟号は世宗。 

 慕容超は、親しかった公孫五楼を腹心とした。
 慕容徳が大臣としていた慕容鐘や段宏は不安になり、地方職を求めた。そこで慕容超は、慕容鐘を青州刺史、段宏を徐州刺史とした。
 公孫五楼は、武衛将軍・領屯騎校尉となり、内政に参与した。すると、孚が諫めた。
「『親しい者を外へ出すな。新参者を内へ置くな』と申します(左伝、申無宇が楚の霊王を諫めた言葉)。慕容鐘は国の宗臣で、社稷の頼みとするお方。段宏は外戚の懿望で、百姓から仰がれております。彼等は朝廷に置き、百揆に参与させるべきです。地方へ出してはなりません。それなのに、今、慕容鐘を地方へ出し、公孫五楼を内政に参与させております。これでは、臣は将来が不安なのです。」
 だが、慕容超は従わなかった。
 慕容鐘や段宏は、心中不満で、互いに言い合った。
「白狐のコートを、黄犬の皮で補修することになりかねんぞ。」
 公孫五楼は、これを聞いて、恨んだ。 

  

慕容鐘造反 

 二年、慕容超の猜虐はますます甚だしくなった。政治は、権倖が壟断し、自身は狩猟に耽った。封孚や韓卓が諫めたが、聞かない。
 かつて、慕容超は孚へ尋ねた。
「朕を歴代の帝王に喩えるならば、誰々だ?」
 孚は答えた。
「けつ(「舛/木」)や紂でございます。」
 慕容超は激怒したが、封孚は顔色も変えずに平然と退出した。
 すると、麹仲が孚へ言った。
「天子へ対して何とゆうことを!引き返して陳謝するべきだ。」
 だが、孚は答えた。
「我はもう七十だ。今はただ、死に場所だけを探している。」
 そして、遂に謝らなかった。しかし、孚は当時の名望の士だったので、誅罰は免れた。 

 朝権の独占を望んだ公孫五楼が、慕容鐘のことを、慕容超へ讒言し、誅殺するよう請うた。
 この頃、慕容超は、慕容法のもとへ譴責の使者を派遣した。慕容徳が卒した時、彼が喪に来なかった為である。九月、慕容法は懼れ、遂に、慕容鐘や段宏と共に造反を謀んだ。
 これを聞いた慕容超は、慕容鐘を呼び出したが、慕容鐘は病気と称して出向かなかった。慕容超は、彼等の党類である侍中の慕容統を捕まえ、殺した。
 すると、征南司馬のト珍が、左僕射の封崇を告発した。
「封崇と慕容法は、屡々行き来しておりました。奸悪の疑いがあります。」
 そこで、慕容超は封崇を廷尉へ引き渡した。
 この一連の事件で、太后は懼れ、涙を流して慕容超へ告白した。
「封崇は、黄門令の牟常を、屡々、妾のもとへ寄越し、説得していたのです。『陛下は太后の実子ではありません。永康の事件(慕容寶が、母の段氏を殺した事件)の再現を懼れるのです。』妾は浅はかにも、これを聞いて怖ろしくなり、慕容法へ相談しました。その慕容法が造反を謀んだなど、何と言えばいいのでしょうか。」
 これを聞いた慕容超は、封崇を車裂とした。
 西中郎将の封融は、魏へ逃げた。 

 この造反に対して、慕容超は、青州へ慕容鎮を、徐州へ慕容立を、コン州へは右僕射慕容凝と韓範を派遣した。
 慕容立は呂城を抜き、段宏は魏へ出奔した。
 この頃、魏へ出奔した封融が、群盗を率いて石塞城を襲撃し、鎮西大将軍餘鬱を殺したので、国中が戦慄した。 

 慕容凝は、韓範を殺そうと考え、廣固を攻撃したが、韓範はそれを未然に察知し、逆に慕容凝を攻撃した。慕容凝は梁父へ逃げたが、韓範は追撃し、これを破った。
 慕容法は魏へ出奔し、慕容凝は秦へ逃げた。 

 慕容鎮は青州を落とした。慕容鐘は、自らの手で自分の妻子を殺して、高都公始と共に、秦へ逃げた。
 秦は、慕容鐘を始平太守に、凝を侍中に任命した。 

 慕容超は、旧来の制度を変更するのが好きだったので、多くの者が振り回され、朝野に不満が渦巻いた。又、肉刑を復活させようと考え、釜ゆでや車裂も刑罰に入れたがったが、さすがに、衆議の傲然たる反対にあって中止した。 

 十月、封孚が卒した。 

  

家族の返還 

 さて、慕容超の母や妻は、依然として秦に住んでいた。
 三年、秦へ使者を派遣して彼女らの引き渡すよう請願した。すると、姚興は言った。
「昔、苻氏が滅んだ時、宮廷の楽士達は、西燕へ逃げた。彼等はやがて後燕に略奪され、それが今では南燕に居るはずだ。もしも、燕が我が国に臣従し、この楽士達、又は呉(東晋)の人間千人を我等へ引き渡してくれるなら、返してやろう。」
 慕容超がこれを群臣に協議させると、左僕射の段暉が言った。
「陛下は、社稷を嗣がれたのです。それが、肉親の為とはいえ、尊号を自ら降ろすのは宜しくありません。それに、楽士達が伝えるのは、宮廷の正統な儀式に使う音楽です。渡してはなりません。呉の人間を千人略奪して渡すのが最上です。」
 すると、尚書の張華が言った。
「隣国を略奪すると、必ず報復があります。そうなれば、我々も放置できません。互いに交々戦争を続けるのは、国家の不幸でございます。陛下は、慈愛を以て人心を掌握するべきでございます。虚号を惜しんで膝を屈することができぬなど、とんでも無いことでございます!中書令の韓範は、かつて、姚興と共に苻氏の太子舎人でした。彼を使者として派遣しましたら、きっと巧く行くと心得ます。」
 慕容超はこれに従い、韓範を使者として派遣し、後秦へ対して藩国と称した。
 すると、慕容凝が姚興へ言った。
「慕容超は、母妻を手に入れたら、掌を返すに決まってます。まず、楽士達を献上させるべきです。」
 そこで、姚興は韓範へ言った。
「朕は、燕王の家族を必ず帰してやる。しかし、今は時期が悪い。秋口の、涼しくなるまで待ちなさい。」
 八月、後秦は、燕へ使者を派遣した。慕容超が、この使者をどう扱うか群臣へ尋ねたところ、張華は言った。
「陛下は既に臣従したのですから、北面して詔を受けるべきでございます。」
 すると、封逞が言った。
「大燕は、七代(鬼、光、儁、偉、垂、徳、超)続いた堂々たる大国。なんであんな小僧っ子へ膝を屈しなければならぬのですか!」
 だが、慕容超は言った。
「朕は、太后の為に忍ぶのだ。どうか、諸君は何も言わないでくれ!」
 そして、北面して詔を受けた。
 十月、慕容超は、張華等を使者として、百二十人の楽士を後秦へ届けさせた。そこで姚興は、慕容超の母や妻を丁重に送り返した。慕容超は、自ら六軍を率いて馬耳関まで出迎えた。 

 四年、正月。慕容超は、母を皇太后、妻を皇后とした。
 慕容超が南郊で神を祀ったところ、獣が現れた。外見は鼠のようで、赤い色。大きさは馬くらいあった。これが壇の側までやって来たかと思うと、突然、突風が吹き、辺りは薄暗くなって、羽儀帳幄が吹き倒された。
 慕容超は恐れ、太史令の成公綏へ尋ねると、成公綏は答えた。
「陛下は、奸佞な臣下を信用して、賢良の臣を誅戮しておられます。そして、賦税を頻繁に徴収する。それらの事が重なって、このような怪異が起こったのです。」
 慕容超は大赦を下し、公孫五楼等を降格したが、すぐに復位させた。 

  

東晋攻撃 

 五年、正月。慕容超は、臣下達と宴会を開いたが、楽士達を後秦へ渡した為、音楽が粗末なものとなってしまったことを嘆いた。そこで、晋を襲撃して上手な楽士を略奪しようと言い出した。すると、領将軍の韓卓が言った。
「先帝は、旧京(中山)を失い、どうにか三斉に基盤を築いたのです。ですから陛下は、兵士を養い民を休めて、魏の隙を窺って失地を回復するべきですのに、そうなさらず、南隣を攻撃して更に敵を作ろうと言われますのか!断じてできません。」
 だが、慕容超は言った。
「我が計画は決まったのだ。もう言うな。」
 二月、南燕の将慕容興宗、斛穀提、公孫帰等が宿豫を攻撃し、これを抜いた。大いに略奪して帰国する。そして、さらって来た男女二千五百人へ、太楽を教え込んだ。
 なお、公孫帰は、公孫五楼の弟である。この頃公孫五楼は、侍中・領左衛将軍となり、朝政を専断しており、内外の王公でさえ、その権勢を憚っていた。
 慕容超は、この功績で、斛穀提等を郡公や県公に封じた。すると、桂林王鎮が諫めて言った。
「この数人は、無益な戦争を起こして、隣国の怨みを買っただけです。なんの功績があったというのですか!」
 慕容超は怒って答えなかった。
 尚書都令史の王儼は、公孫五楼に媚びへつらっており、異例の出世を続けて、遂に左丞の官位を得た。そこで、国人は噂しあった。
「侯になりたきゃ、五楼に仕えろ。」
 慕容超は、更に、公孫帰へ済南を攻撃させた。公孫帰は、男女千人を略奪して帰った。
 これ以来、彭城以南の民は、砦を作って自衛するようになった。東晋では、へい州刺史劉道憐に淮陰を鎮守させて、南燕の略奪に備えた。 

  

東晋の反撃 

 三月、東晋にて、劉裕が、南燕討伐を願い出た。朝議では、皆が「不可」と答えたが、ただ、左僕射孟昶、車騎司馬謝裕、参軍蔵熹等は、「必ず勝てる」と言って、劉裕へ北伐を勧めた。
 劉裕は、孟昶を監中軍として、幕下へ留めた。なお、謝裕は謝安の兄の孫である。
 話は遡るが、苻氏が滅亡した後、王猛の孫の王鎮悪が東晋へ亡命し、臨豊県の県令となっていた。この王鎮悪は、乗馬も射撃も下手だったが、謀略があり、果断な性格で、軍国の大事について、よく議論していた。
 ある者が、王鎮悪を劉裕に勧めた。劉裕は彼と語って気に入り、客分として留めた。そしてその翌日、劉裕は麾下の将佐へ言った。
「将軍の家柄からは良将が生まれるもの。鎮悪も又、その一人だ。」
 そして、中軍参軍に抜擢した。(王鎮悪は、後秦攻撃の際、大殊勲を建てる。詳細は、「劉裕、後秦を滅ぼす」に記載) 

 四月、劉裕は建康を出発し、水軍を率いて淮河から四(水/四)水へ入った。
 五月、軍艦や輜重を下丕に留めて、琅邪へ陸行した。この時、途中途中に城を築いて、兵卒を留めて行った。すると、ある者が言った。
「燕軍が、もしも大見(「山/見」)の険を塞いだら、あるいは焼土作戦に出たならば、大軍が深入りしても戦果がないばかりか、全滅の憂き目にあってしまいますが。」
 すると、劉裕は答えた。
「吾もそれを熟慮した。だが、鮮卑は貪婪な性格だ。長期的な展望を持たず、目先の利益に捕らわれる。我等が孤軍だと軽んじて、臨句まで出てくるか、廣固まで退くかのどちらかだ。焦土作戦など採用しない。」
 さて、晋軍の進撃を聞き、慕容超は軍議を開いた。
 征虜将軍の公孫五楼は言った。
「呉軍は遠征軍ですから、速戦を狙っている筈。ですから、こちらは軽々しく戦ってはいけません。まず大見の険に據り、持久戦に出て敵の戦意を挫きましょう。その後、精鋭二千騎を率いて海岸沿いに南下して敵の糧道を断つのです。又、別働隊として、コン州の段暉に、山東から敵の背後を衝かせる。これが上策です。
  各地の守宰に、各々剣に據って守るよう命じ、必要な軍糧以外は全て焼き払わせ、穀物も刈り取ってしまう。そうすれば、奴等は兵糧が不足し、戦おうにも戦えず、旬月のうちに自滅するでしょう。これが中策です。
 賊軍が大見まで来た時、城から出て迎え撃つ。これが下策です。」
 すると、慕容超は言った。
「天文を見るに、今年は、斉の星巡りがよい。天道から推すに、戦わずして勝てる。人事から言うならば、奴等は遠征軍だから疲れ切っている。吾が領土は五州に跨っており、民も豊富で鉄騎がズラリと揃っているのだ。籠城したり、麦を焼き払ったりして弱味を見せるなど、とんでもない!敵に大見を越えさせ、その疲れ切ったところを大軍で迎撃すれば、必ず勝てる!」
 輔国将軍の賀頼廬が苦諫したが、慕容超は聞かなかった。
 退出した後、賀頼廬は公孫五楼へ言った。
「こんなことをすれば、滅亡するぞ!」
 太尉の慕容鎮が慕容超へ言った。
「騎兵は平地でこそ活用できるもの。陛下はそれを考えたからこそ、敵に大見を越えさせるのでしょう。しかし、それならば、我々が大見を越えて襲撃する方が宜しゅうございます。そうすれば、たとえ敗れても険阻な大見の地形を利して敵を防げます。なにも、あの大見を、自ら棄てる必要はありません。」
 しかし、慕容超は従わなかった。
 慕容鎮は退出すると、韓卓へ言った。
「主上は、討って出ようともせず、焦土作戦も採らず、敵の侵入するに任せて、国が滅びるのを手を拱いて見ているつもりだ。これではまるで劉璋ではないか!我が国は、今年中に滅びる。吾はこの国難に殉じるつもりだが、卿は中華の人間だ。呉へ逃げ込まれよ。」
 これを聞いて、慕容超は激怒し、慕容鎮を投獄した。
 こうして劉裕軍は、大見を通過する時にも、敵襲を受けなかった。劉裕は手を挙げて天を指し、大喜びの有様だった。
 左右の臣下達が言った。
「公は、敵と戦ってももないのに、もうそのように喜ばれているのですか?」
 すると、劉裕は言った。
「既にこの険を越えたのだ。ここで敗れれば、敵国から逃げ出すこともできずに全滅するだけ。だから、見よ、兵卒達に必死の想いが現れて居るではないか。それに、敵が焦土作戦に出なかったおかげで、兵糧も欠乏していない。虜は既に、吾が掌にある。」 

 六月、劉裕軍は東完へ入った。
 慕容超は、公孫五楼、賀頼廬、段暉に五万の兵を与えて臨句へ派遣していた。そして、晋軍が大見を通過したと聞くと、自ら四万の兵を率いて臨句へ赴き、公孫五楼を巨蔑水へ派遣した。
 晋軍は、前鋒の孟龍符が公孫五楼と戦い、これを撃破。公孫五楼は退走した。
 劉裕は戦車四千乗で左右翼に方陣を組ませ、ゆっくりと進軍した。そして、臨句の南で南燕軍と戦った。この戦闘は日暮れ時まで続いたが、勝敗がつかない。すると、参軍の胡藩が劉裕へ言った。
「燕軍は総出撃をかけておりますので、臨句城に守備兵は殆ど残っておりますまい。ですから、臣は別働隊として間道を通って臨句城を攻略したいと思います。これこそ、『韓信が趙を破った謀』でございます。」
 そこで劉裕は、胡藩と、諮議参軍檀韶、建威将軍向彌へ臨句城攻略を命じた。向彌等は武装したまま城壁をよじ登り、遂にこれへ侵入した。
 これを聞いた慕容超は仰天し、単騎で臨句城から逃げ出し、城南へ陣取っていた暉のもとへ駆け込んだ。劉裕は、この動揺につけ込んで奮戦し、燕軍は大敗した。晋軍は、暉を始めとする燕の大将十余人を殺し、慕容超は廣固まで逃げ帰った。そして、晋軍は玉璽を獲得した。
 戦勝で勢いに乗った劉裕は、そのまま北進し、廣固の大城を陥れた。慕容超は、部下を纏めて小城へ逃げた。
(訳者、注:歴史地図帳によると、大見山は廣固からほぼ真南に八十キロの地点にあり、東完は大見山から、更に南に六十キロの所にあった。そこから南西八十キロの所が琅邪である。この時の劉裕の行軍コースは、琅邪→大見→東完→廣固である。どうもこれは理屈に合わないようだが、注釈はついてなかった。どなたか、的確な資料をお持ちの方は御教授して下さい。) 

 廣固の大城を占領した劉裕は、城の周りに長囲を築き、濠を三重に掘って守備を固め、降伏した者を慰撫し、賢人を抜擢したので、華人も夷人も、皆、大いに喜んだ。そうしておいて、斉(南燕は遼東の五州を領有していた。つまり、かつての斉である)に蓄えてあった糧食を悉く江・淮へ運び込んだ。
 慕容超は、尚書郎の張綱を使者として後秦へ派遣して、援軍を乞うた。又、慕容鎮を赦し、禄尚書事・都督中外諸軍事に任命し、謁見してかつての不明を詫び、今後の方策を問うた。
 慕容鎮は言った。
「百姓の心は、たった一人を見つめております。今、陛下は自ら六軍を率いて敗北し、逃げ帰ってきましたので、群臣の心は離れ、士民の志気は阻喪しております。後秦は背後の夏との間に紛争が絶えないと聞きますので、援軍は望めないでしょう。ですが、敗残兵は、なお、数万人おります。金帛を全て放出して彼等へ分け与え、志気を高めて一戦交えるべきでございます。もし、天命が我等へ加担すれば、必ずや敵を撃退できます。そうでなければ玉砕するのも、又、死に花ではありませんか。籠城して自滅するより、余程ましです!」
 すると、司徒の楽浪王恵が言った。
「そうではありません。晋軍は勝ちに乗って士気旺盛。我等敗残兵でどうして勝てましょうか!後秦には夏の患いがありますが、大国秦にとって、小国夏の患いなど、どれ程のものでしょうか。それに、我等と後秦とは中原を二分しておりますが、これは唇と歯のようなもの。我等が晋から滅ぼされることを、後秦が、どうして放置できましょうか!ただし、大臣を使者としなければ、大軍の援軍は期待できません。幸い、尚書令の韓範は、燕でも秦でも重んじられております。彼を使者として派遣いたしましょう。」
 慕容超はこれに従った。 

 七月、東晋朝廷は、劉裕の官職に、北青・冀二州刺史を追加した。
 同月、南燕の尚書垣尊と京兆太守苗が城を抜け出して降伏してきた。劉裕は彼等を行参軍に任命した。この二人は、いずれも慕容超の腹心だった。
 ある者が、劉裕へ言った。
「後秦への使者となった張綱は利口者。もしも奴に城攻めさせれば、廣固を抜くなど、造作ないことでございます。」
 張綱が長安から帰って来ると、太山太守の申宣がこれを捕らえて劉裕のもとへ送った。劉裕は、かれを楼車へ登らせると、城内へ叫ばせた。
「劉勃勃(夏の国王)は、秦軍を大破したぞ!ここで頑張っても援軍は来ない!」
 城中の人間は色を失った。
 劉裕は、毎晩こっそりと兵を移動させ、翌朝鳴り物入りで陣へ戻らせたので、傍目には援軍が毎日毎日続々と来ているように見えた。燕の人間は益々不安になり、兵卒を捕まえたり食糧を持参したりして降伏する者が、毎日千人ほど現れ、廣固はますます危うくなった。そうして、張華や封豈まで、劉裕の捕虜となってしまった。
 慕容超は、大見以南を割譲し、晋の属国になると申し入れたが、劉裕はこれを却下した。 

 後秦王姚興が、劉裕のもとへ使者を派遣した。
「慕容氏は、我が良き隣人だ。今、晋はこれを攻撃しているが、我が国は十万の鉄騎を洛陽に集結させた。もしも晋軍が撤収しなければ、我等も進撃するぞ。」
 すると、劉裕は秦国の使者へ言い返した。
「帰って姚興へ伝えよ。燕を滅ぼしたら、三年兵を休め、次は秦の番だ。今回攻めて来るというのなら、却って手間が省けたというものだ。」
 後秦から使者が来たことを聞きつけた劉穆之が、急いで駆けつけて来たが、彼が劉裕のもとへ到着した時には、既に使者は帰っていた。そこで、劉裕が自分の返答を聞かせたところ、劉穆之は訝しんで言った。
「今まで、事の大小となく、私と共に謀り、詳細に検討して答えを出していましたのに、今回は何と性急な!それに、その返答では、奴等は懼れません。却って怒りを掻き立てるだけではありませんか。廣固が陥落しないうちに敵の援軍が到着したら、どうなさるおつもりなのですか?」
 すると、劉裕は笑って答えた。
「卿は、戦争の駆け引きには、まだまだ甘い。だから敢えて参与させなかっただけだ。そもそも、戦争は神速を尊ぶものだ。もしも、奴等が救援に駆けつけるつもりなら、わざわざ我等へ知らせたりするものか!これは、口先だけの恫喝だ。我が軍が出撃してから既に久しい。我等が斉を攻撃したのを見て、奴等は懼れ、自国を守るのに兢々としているのだ。救援軍を出す余裕など、あるものか!」 

 八月、封融が、劉裕のもとへ出向いて、降伏した。 

 九月、東晋朝廷は、劉裕の官職へ太尉を加えたが、劉裕は固辞した。 

 同月、夏王赫連勃勃が後秦を攻撃して、大勝利を収めた。しかし、後秦の左将軍姚文崇が必死で防戦し、どうにか追い返すことができた。
 話は遡るが、韓範が使者として後秦へやって来た時、姚興は、衛将軍姚強へ一万の兵を与え、韓範と共に南燕救援に向かわせていた。だが、今回、大敗を喫したので、慌てて使者を派遣して、姚強を召還してしまった。
 韓範は嘆いて言った。
「天は南燕を滅ぼすのか!」 

 南燕尚書の張俊は、長安から帰ってくると、劉裕へ降伏した。彼は、劉裕へ言った。
「韓範の連れてくる援軍だけが、燕の頼みの綱なのです。今、韓範を捕らえて奴等に見せつければ、連中は必ず降伏します。」
 劉裕は、韓範へ書を遣り、散騎常侍に任官することを条件に、降伏を呼びかけた。
 長水校尉の王蒲は、韓範へ後秦へ逃げるよう勧めたが、韓範は言った。
「劉裕は、布衣出身。それなのに、桓玄を滅ぼして、晋皇室を復興した。そして今、燕を攻撃して向かうところ敵なしの有様だ。これは人力の及ぶところではない。きっと、天命だ。燕が滅んだら、次は秦が滅ぼされる。吾は、二度も屈辱を受けたくはない。」
 遂に、韓範は劉裕へ降伏した。
 劉裕が韓範を連れて廣固城を巡ると、城内の人心は離散した。
 ある者が、韓範の一族を皆殺しとするよう慕容超へ勧めたが、韓範の弟の韓卓が無双の忠義者だった為、一族に手出しはしなかった。 

 十月、段宏が魏から劉裕のもとへ亡命してきた。 

 張綱は、劉裕の為に城攻めの新兵器を工夫して建造した。慕容超は怒り、張綱の母親を城壁に連れ出し、八つ裂きとした。 

 十二月、金星が、虚と危の間へ入った。(ここは斉の分野である。)そこで、南燕の霊台令張光は、慕容超へ降伏を勧めた。慕容超は、即座に張光を殺した。 

 六年、正月。慕容超は天門へ登って、群臣に謁見させた。翌日、慕容超は寵姫の魏夫人と共に城へ登った。眼下に晋の大軍を見下ろし、二人は手を握って泣き濡れた。すると、韓卓が言った。
「陛下、この危難の時にこそ、心を強く持って士民の心を奮起させなければなりません。どうして女子供のように泣き濡れていて良いものですか!」
 慕容超は涙を拭って感謝した。
 尚書令の菫先は、慕容超へ降伏を勧めた。慕容超は怒り、彼を牢獄へぶち込んだ。 

 二月、賀頼廬と公孫五楼がトンネルを掘って晋軍へ奇襲を掛けたが、勝てなかった。
 籠城が続いたおかげで、住民は弱り切っており、降伏する者が相継いだ。
 尚書の悦寿が慕容超へ言った。
「今、天が暴虐な者共を助け、我が国の戦士は疲れ切っております。孤立した城は切羽詰まっておりますが、援軍は望めません。天時も人事も明白ではありませんか。どんなものにも終わりはあります。それは国とておなじこと。その証拠に、堯も舜も政権を禅譲したではありませんか。陛下、どうして変通の計を採られませんのか!」
 慕容超は嘆いて言った。
「興廃は天命だ。だが、璧を含んで生き延びる位なら、剣を奮って殺された方が余程ましではないか!」
 丁亥、劉裕は総攻撃を掛けた。
 ある者が言った。
「今は往亡の時期です。攻撃するには不吉です。」
 すると、劉裕は答えた。
「往亡なら、我が往き、敵が亡ぶのではないか。何が不吉だ!」
 そして、四面から強硬に攻撃させた。すると、悦寿が城門を開いて敵を迎え入れてしまった。慕容超は、左右数十騎と共に囲みを破って逃げ出したが、晋軍はこれを追いかけて捕らえた。
 劉裕は、慕容超が降伏しなかったことを詰ったが、慕容超は自若として一言も答えない。ただ、劉敬宣へ母親を託しただけだった。
 劉裕は、廣固が長い間降伏しなかったことに腹を立て、男は全員穴埋めにして、女は全て将士への恩賞にしようとした。すると、韓範が言った。
「晋室が南遷して以来、中原は動乱の渦に巻き込まれ、士民は寄る辺もなく強者に隷属しましたが、既に君臣となった以上、その主君の為に力を尽くすのは当然でございます。彼等も、もともとは中華の民、先帝の遺民ではございませんか。今、王師が討伐に来て、彼等全てを穴埋めとしたのでは、以後、誰が我等に帰順いたしましょうか!この暴挙によって、西北の人々が我等に失望するのが怖ろしいのでございます。」
 劉裕は、居住まいを改めて、韓範へ感謝した。だが、なおも王公以下三千人を処刑し、万余戸を奴隷に落とし、城壁を壊した。そして、慕容超は建康へ送って斬刑に処した。 

  

(司馬光、曰) 

 晋室が揚子江を渡って以来、国威は奮わず、戎狄が横行して中原を虎噬した。そんな中で、劉裕が始めて王師を率いて、東夏を平定したのである。
 この時、彼が賢人俊才を礼遇し、疲弊した民を慰撫し、残穢の政治を一新したならば、群士は風に靡くように、晋室を慕い、遺黎は次々と東晋へ亡命してきただろう。
 だが、彼は憤気の赴くまま、放埒に屠戮行為を行うにすぎなかった。この行為を比べるに、却って苻堅や姚襄にさえも劣っている。
 劉裕は、四海を統一するという大業を成し遂げることができなかった。それは、彼がただ知勇のみに誇り、仁義を欠いていたからである。