蒙遜、張掖に據る

 

羅仇の誅殺

 張掖廬水胡の沮沐(「水/巨/木」)羅仇は、匈奴の沮沐王の後裔である。代々部落を率いていた。呂光は羅仇を尚書に任命した。
 晋の安帝の隆安元年(397年)、彼は呂光の西秦討伐に従軍したが、この戦役で呂延が戦死した。(詳細は、「乞伏、金城に據る。」に記載。)
 羅仇の弟の三河太守麹粥が羅仇へ言った。
「主上は耄碌して、讒言を容易く信じるようになりました。今、将軍が戦死しました。これは、知勇の士が猜忌されるのに十分です。我が兄弟は、必ず粛清されます。でっち上げの罪状で殺されるより、兵を率いて西平へ向かい、造反しようではありませんか。涼州だって平定して見せます。」
 すると、羅仇は言った。
「お前の言う通りだ。だが、我が家は、代々忠孝で名高かった。例え他人から裏切られようとも、我が他人を裏切るには忍びない。」
 呂光は果たして讒言を聞き入れ、敗戦の罪を羅仇と麹粥へ押しつけて、誅殺した。

 

蒙遜起兵

 羅仇の甥の蒙遜は雄傑で策略があり、史書に詳しかった。
 羅仇と麹粥の喪に服する為帰郷すると、その葬儀には諸部の姻戚が大勢参列しており、その数は一万人を超えていた。蒙遜は慟哭して、彼等へ言った。
「呂王は混迷無道で、無実の民を大勢殺した。だが、見ておれ、我が先祖は河西を虎視した家柄だ!今、諸部と共に二父の恥を雪ぎ、先祖の威勢を復興してやる!我に従うか!」
 衆人は皆、万歳と叫んだ。そこで、彼等と盟約を結んで決起し、涼の臨松郡を抜き、金山へ據った。
 五月、呂光は、太原公呂纂へ蒙遜討伐を命じた。呂纂は忽谷にて蒙遜を破り、蒙遜は山野中へ逃げ込んだ。

 

段業起兵

 さて、蒙遜の従兄弟の男成は涼の将軍だったが、蒙遜が決起したと聞き、数千の衆を集めて楽棺へ屯営した。酒泉太守塁澄がこれを討伐したが、敗北し、塁澄は戦死した。
 男成は建康へ進攻した。そして、建康太守段業のもとへ使者を派遣して言った。
「呂氏の政権は末期的。権臣の専断は横行し、刑罰は勝手気儘。人々は、生きて行くだけで汲々としている有様です。又、たった一州のこの領土内で造反が相継だ事を見ても、瓦解の象は目前に昭然としているではありませんか。百姓は傲然としておりますが、誰の元へ駆け込めばよいか判らないのです。府君には蓋世の才がありますのに、どうして滅亡寸前の国へ忠誠を尽くされますのか?男成は既に大義を提唱いたしました。この上は府君を推戴して、近辺を切り取り、民を塗炭の苦しみから救出する所存であります。府君の考えは如何でしょうか?」
 段業は従わなかった。こうして、両軍が睨み合ったまま二旬が過ぎた。しかし、救援軍は駆けつけない。しかも、郡内では高逵と史恵が男成の請願を受けるよう段業を唆した。又、段業は、もともと涼の侍中の房咎や僕射の王詳と反りが合わなかったので、内心讒言を畏れても居た。そこで、段業は、遂に男成の請願を容れた。男成は、段業へ「大都督、龍驤大将軍、涼州牧、建康公」の称号を献上し、「神璽」と改元した。又、男成は輔国将軍と名乗り、軍国の任を委任された。
 やがて、蒙遜が逃げ込んできたので、段業は、蒙遜を「鎮西将軍」に任命した。
 呂光は呂纂へ討伐を命じたが、勝てなかった。(詳細は、「禿髪、廣武に據る。」へ記載。)

 

一進一退

 二年、四月。段業は、蒙遜に西郡を攻撃させた。蒙遜は太守の呂純を捕らえて帰った。呂純は、呂光の甥である。
 ここにおいて、晋昌太守の王徳、敦煌太守孟敏等が、領土ごと段業へ降伏した。
 段業は、蒙遜を臨池侯、王徳を酒泉太守、孟敏を沙州刺史に任命した。

 涼では、常山侯呂弘が張掖を鎮守していた。六月、段業は、男成と王徳にこれを攻撃させた。呂光は呂弘へ撤退を命じ、呂纂を迎えに出した。そこで、呂弘は張掖を引き払って東へ逃げた。段業は、張掖を占領し、更に追撃を掛けようとしたが、蒙遜が言った。
「『郷里へ帰る兵を遮ってはならない。切羽詰まった軍隊を追い詰めてはならない。(孫子)』と申します。これは兵家の戒めでごさいます。」
 段業は聞かずに追撃を掛け、大敗したが、蒙遜の活躍で、なんとか逃げ延びることができた。

 段業は安西へ城を築いき、将軍の藏莫孩を太守とした。
 蒙遜は言った。
「藏孩は勇気だけで策略がなく、進を知って退却を知らない猪武者。これでは、奴の墓を造るようなもの。城としての役には立ちません。」
 段業は従わなかった。果たして、藏孩は、呂纂に敗北した。

 

段業即位。(付、蒙遜の造反)

 三年、段業は涼王を名乗った。「天璽」と改元し、蒙遜を尚書左丞、梁中庸を右丞とする。
 さて、蒙遜は勇略だったので、段業はこれを遠ざけようと考えた。蒙遜も又、自ら韜晦した。
 段業は、蒙遜の代わりに、門下侍郎の馬権を張掖太守に任命した。馬権はもともと傲慢な人間だったので、段業から重んじられると蒙遜を侮蔑するようになった。そこで、蒙遜は、彼を段業へ讒言した。
「天下は憂うるに足りません。ただ一つ心配なのは、馬権のみです。」
 段業は、遂に馬権を殺した。

 五年、四月。蒙遜は男成へ言った。
「段公は、詰まらない男。乱世の主にはなれません。常日頃から私が憚っていたのは馬権だけでしたが、それも処刑してしまいました。私は、奴を廃除して、兄上を推戴しようと思いますが、如何ですか?」
 すると、男成は言った。
「段業は、もともと孤立していたが、それを我々が立てたのではないか。魚が水を恃むように、彼は我が一族を恃んでいるのだ。これを裏切るのは不祥だ。」

 造反を断られた蒙遜は、西安太守の職を求めた。段業は、彼を地方へ飛ばせるので、喜んで承諾した。
 やがて蒙遜は、蘭門山を祭ることを、男成と約束した。そして、その傍ら、司馬の馬許へ密告させた。
「男成は、造反を企てております。もしも、奴目が蘭門山を祭ることを申し出たならば、私の言葉を信じて下さい。」
 約束の日になると、果たして、男成は祭りの許可を申し出た。
 段業は、男成を捕らえ、自殺を命じた。すると、男成は言った。
「蒙遜は、私に造反を唆しました。私は一族のことだと思い、これを隠したのです。今、私が生きていれば部族の衆人が従わないと考え、奴目は私を陥れたのです。蘭門山を祭るというのも、奴が言い出したことですぞ。ですから、私が死んだと公表して下さい。そうすれば、奴は必ず造反します。その後に、王命を受けて私が討伐に出かければ、必ず勝てます。」
 しかし、段業は耳を貸さず、男成を殺した。

 男成が処刑されると、蒙遜は慟哭して衆人へ言った。
「男成は、段王へ忠実だった。それなのに、段王は無実の罪で男成を殺したのだ!諸君、仇を討たずにいられようか!それに、もともと我等は安寧な生活がしたくて、段王を推戴したのではなかったか?それなのに、今、州土はかえって荒れまくっている。段王は、その器はなかったのだ!」
 もともと、男成には人望があった。衆人は皆、憤慨し、涙を零して集まった。こうして、てい池の人間が一万余人、蒙遜のもとへ集まった。
 鎮軍将軍の藏莫孩は、手勢を率いて降伏した。きょう胡の大半は起兵して蒙遜へ応じた。蒙遜は、壁侯塢まで進軍した。

 

クーデター成功

 男成を捕らえた時、段業は、田昴が陰謀に加担していると疑い、彼を牢獄へぶち込んでいた。蒙遜が造反して男成の無実が判ると、彼は田昴を釈放し、謝罪した上で兵を与え、梁中庸と共に蒙遜討伐に派遣した。
 別将の王豊孫が言った。
「西平の田氏は、代々謀反人を続出させた血筋です。それに、田昴も、容貌こそ恭謙ですが、心の中は陰険な男。信頼できません。」
 すると、段業は答えた。
「おれも、長いこと彼奴を疑っていた。しかし、蒙遜を討伐できるのは、彼奴しかいない!」
 壁侯塢へ到着すると、果たして田昴は、手勢五百騎を率いて降伏した。
 五月、蒙遜は張掖まで進軍した。すると、田昴の甥の承愛が関を斬って、蒙遜の軍を迎え入れた。こうして造反軍が城内へなだれ込むと、段業の側近達は、蜘蛛の子を散らすように逃げてしまった。
 蒙遜が宮殿へ来ると、段業は言った。
「孤を推戴したのは、お前達ではないか。命だけでも助けてくれ。妻子と共に暮らせたら、それ以上何も求めないから。」
 しかし、蒙遜は段業を斬り殺した。
 もともと、段業は儒者で、権略がなく、威令が行われなかった。そして、寵臣達は彼の名を騙って横暴三昧に明け暮れていたし、彼は占筮も信じなかった。だから、このような末路を辿ったのである。
 男成の弟の富占と、将軍の倶累は、部落五百戸を率いて利鹿孤へ降伏した。累は、石子の子息である。

 六月、梁中庸等は、蒙遜へ「大都督、大将軍、涼州牧、張掖公」の称号を献上した。
 蒙遜は、境内に大赦を下し、「永安」と改元する。又、従兄弟の伏奴を張掖太守・和平侯に、弟の拏を建忠将軍・都谷侯に、田昴を西郡太守に、藏莫孩を輔国将軍に、房咎と梁中庸を左右の長史に任命した。そして賢人を抜擢したので、文武の官人達は大いに喜んだ。

 

蒙遜の外交

 九月、後秦の碩徳が、後涼の呂隆を攻撃した。(詳細は、「後秦、後涼を滅ぼす」に記載。)
 蒙遜の部族のうち、酒泉と涼寧の二郡が、彼に逆らって、西涼へ投降した。 又、呂隆が後秦へ降伏したと聞き、蒙遜は大いに懼れ、拏と牧府長史の張潜を姑藏へ派遣して、碩徳に謁見させ、帰属することを求めた。碩徳は大いに喜び、張潜を張掖太守、拏を建康太守に任命した。
 張潜は、後秦へ帰順するよう蒙遜へ勧めたが、拏は私的な場所で蒙遜へ言った。
「姑藏では、呂隆の勢力が依然として根強く、碩徳は、確固とした支配が、未だできてはおりません。それに、碩徳軍は兵糧も尽きかけており、いつまでも駐屯することなどできません。いずれ帰国します。これだけの領土を自ら放棄し、他人の麾下にはいるなど、馬鹿げた話ではありませんか。」
 藏莫孩も、この説に同意した。そこで、蒙遜は、子息の渓念を人質として南涼の利鹿孤(当時は未だ河西王だった)のもとへ派遣した。しかし、利鹿孤はこれを拒絶して言った。
「渓念は、幼い。人質ならば拏をよこせ。」
 十月、蒙遜は、利鹿孤のもとへ使者を派遣して、伝えた。
「前回、臣は渓念を差し出しましたが、聖旨にそぐわず、拏を要求されました。しかし、臣は思うのです。盟約は、信義で結ぶもの。心に信義さえあれば、その人質が息子でも決して軽々しくはなく、信義がなければ、弟が人質でも重くはありません。今、我等が大敵は未だに猛威を振るっております。どうか、この点ご考慮下さい。」
 利鹿孤は怒り、倶延と文支に一万騎を与え、蒙遜の領内を略奪させた。彼等は臨松まで進軍し、蒙遜の従兄弟の善善を捕らえ、領民六千余戸を略奪した。
 蒙遜は、南涼へ使者を派遣し、拏を人質とすることを承諾した。すると、利鹿孤は、略奪した民を返還し、倶延等を呼び戻した。なお、文支は利鹿孤の弟である。

 

後秦の称号

 元興元年(402年)。姚興が蒙遜へ、「鎮西将軍、沙州刺史、西海侯」の称号を贈った。
 二年、後秦は、梁構を使者として蒙遜のもとへ派遣した。すると、蒙遜は尋ねた。
「禿髪辱檀は公爵なのに、我は侯爵。これはどうゆう訳だ?」
 梁構は答えた。
「辱檀は、ずる賢く、誠実さがありません。ですから、朝廷としては、虚名だけでも重くして、奴の心を繋ぎ止めなければならないのです。それに対して、将軍の忠誠は白日を貫き、我が帝室にても賞賛されております。決して、将軍を信用できないから爵位が低いわけではありません。それに、我が朝の爵位は、功績によって与えられますもの。しかし、尹緯・姚晃のような佐命の臣や、斉難・徐洛のような一事の猛将でさえ、その爵位は侯爵や伯爵に過ぎないのです。将軍がどうして彼等以上の物を求められますのか?
 後漢時代、竇融(光武帝時代の臣下)は、中途で光武帝の麾下へ入ったものですから、旧来の臣下よりも上位になる度に恐懼したと聞いております。今、まさか将軍からこのようなご質問があるとは思ってもおりませんでした。」
「朝廷は、我を張掖公には封じられず、遠く離れた西海へ封じられた。これはどうゆう訳だ?」
「将軍は既に張掖を領有されて居るではありませんか。ですから、今回、西海公に封じ、その領土を広めさせようと考えたのです。」
 蒙遜は悦び、この称号を拝命した。

 

蒙遜即位。

 義煕八年(412年)、十月。蒙遜は、姑藏へ遷都した。
 十一月。蒙遜は西河王を自称した。大赦を下して、「玄始」と改元し、百官を設置した。それは、呂光が三河王と成ったときの故事に倣ったのである。
 又、蒙遜は東晋へ使者を派遣して藩と称し、涼州刺史を拝受した。