突厥   黙啜可汗
 
  延載元年(694年)正月、骨篤禄可汗が卒した。その子が幼かったので、弟の黙啜が自ら立って可汗となった。
 臘月、黙啜が霊州へ来寇した。二月庚午、僧懐義を代北道行軍大総管として黙啜を討たせる。
 三月甲申、鳳閣舎人蘇味道を鳳閣侍郎、同平章事とし、李昭徳を検校内史とする。僧懐義を朔方道行軍大総管に変更し、蘇味道を司馬にして、契必(「草/必」)明、曹仁師、沙託(本当は口偏)忠義等十八将軍を率いて黙啜を討たせる。だが、出陣前に虜が退却したので、中止した。
 昭徳が懐義と議論した時、懐義の意向に背いたので、懐義は彼を打った。昭徳は惶懼して罪を請うた。 

 二月、武威道総管王孝傑が、冷泉と大嶺で、吐蕃の勃論贊刃と突厥の可汗妥(「人/妥」)子等各々三万余人を破る。
 四月壬戌、王孝傑を同鳳閣鸞台三品とする。
 八月戊辰、王孝傑を瀚海道行軍総管として、朔方道行軍大総管薛懐義の指揮下へ入れた。
 天冊萬歳元年(695)正月丙午、王孝傑を朔方道行軍総管として、突厥を撃たせた。
 七月辛酉、吐蕃が臨兆(「水/兆」)へ入寇したので、王孝傑を粛辺道行軍大総管として討伐させる。
 冬、十月。突厥の黙啜が使者を派遣して降伏した。太后は喜び、左衞大将軍、帰国公の冊を授ける。 

 萬歳通天元年(696)三月素羅汗山にて、王孝傑と婁師徳が、吐蕃と戦い大敗した。詳細は、「吐蕃」に記載する。五月には、契丹が唐へ叛いた。唐は屡々敗戦する。この詳細は、「契丹」へ記載する。
 九月丁巳、突厥が涼州へ来寇し、都督の許欽明を捕らえた。欽明は、紹の曾孫である。この時、領土を見回っていたところを、突厥数万が襲撃して来て、宿泊していた城下まで押し寄せた。欽明は拒戦したが、捕らえられた。
 欽明の兄の欽寂は、この時龍山軍討撃副使となり、祟山にて契丹と戦い、敗戦して捕らえられていた。虜は安東を包囲寸前。ここで、城中の降伏していない者を、欽寂に説得させた。安東都護裴玄珪がまだ城中に居たので、欽寂は言った。
「狂賊が天を犯したが、滅亡は旦夕にあるぞ。公は兵を励まして謹んで守り、忠節を全うせよ。」
 虜は、これを殺した。 

 黙啜は、太后の子となることを請い、併せてその娘へ婚礼を求め、河西を挙げて降伏し、その部衆を率いて御国の為に契丹を討伐することを申し出た。
 太后は、豹トウ衞大将軍閻知微、左衞郎将摂司賓卿田帰道を派遣して黙啜へ左衞大将軍、遷善可汗の冊を授けた。知微は立徳の孫、帰道は仁會の子息である。
 冬、十月辛卯、契丹の李盡忠が卒し、孫萬栄が代わって部下を統率した。黙啜は、その隙に乗じて松漠を襲撃し、盡忠と萬栄の妻子を捕らえて去る。太后は、黙啜の称号を進めて頡跌利施大単于、立功報国可汗とした。 

 神功元年(697)正月、黙啜が霊州へ入寇した。この時、許欽明は自ら進んで随従した。
 城下へ至ると、欽明は大声で美醤、粱(リャン、最高級の粟)米及び墨を求めた。これは、良将を選び精鋭兵を率いて虜営へ夜襲を掛けろと城中へ伝えたかったのだが、城内では誰もそれに気がつかなかった。(醤と将、米と兵は発音が似ているのだろうか?墨は暗夜を意味するのかな?)
 癸亥、黙啜が勝州へ来寇したが、平狄軍副使安道買が撃破した。 

 三月、閻知微と田帰道が突厥へ使者となり、黙啜を可汗と認証した。知微は道中で突厥の使者と遭ったので、これへ緋袍と銀帯を与え、上言した。
「虜の使者が都へ行きます。どうか盛大に持てなしてください。」
 帰道は上言した。
「突厥は、積年、反発しておりましたが、いまでは過去の過ちを悔いております。どうか、寛宥なる聖恩を降してください。ところで、今、知微は彼等へ独断で袍や帯を与え、朝廷からの御恩とゆう形を取っていません。彼等へは、国を出た時の服装へ着替えさせて、謁見させるべきです。又、彼等は野蛮な小国からの使者ですから、盛大な宴会を設営するほどのことではありません。」
 太后は、同意した。
 知微は、黙啜と謁見すると、舞踏して彼の靴鼻へ接吻した。だが、帰道は拱手しただけで拝礼もしなかった。黙啜は帰道を幽閉して殺そうとしたが、帰道は堂々とした態度を崩さず、彼の無礼を責めて禍福を述べた。すると、阿波達干の元珍(達干は官名。阿史徳元珍のこと)が言った。
「大国からの使者です。殺してはなりません。」
 黙啜の怒りは少し収まったが、帰道を抑留したまま帰国させなかった。
 ところで、咸亨年間には、突厥から降伏した者が居ると、彼等を皆豊、勝、霊、夏、朔、代の六州へ住ませていた。今回、黙啜は六州に居留している降伏者と、単于都護府の領土および穀種、繪帛、農器、鉄を求めたが、太后は許さなかった。黙啜は怒り、言葉が横柄傲慢になった。すると姚壽と楊再思は、契丹がまだ平定してないことを理由に、黙啜の要望を叶えるよう進言した。だが、麟台少監、知鳳閣侍郎の贊皇の李喬(「山/喬」)が言った。
「戎狄は貪欲で信義がありません。これはいわゆる、『盗賊へ腹ごしらえをさせる』とゆうものです。奴の要求を呑むよりも、軍備を増強するべきです。」
 しかし、壽と再思は彼等へ与えるよう固く請うた。そこで、六州の降戸数千帳を全て黙啜へ引き渡し、併せて穀種四万斛、雑綵五万段、農器三千事、鉄四万斤を賜り、通婚も許諾した。
 こうして黙啜はますます強大になった。
 だが、これによって、田帰道は帰国を許された。彼は帰国すると太后の前で閻知微と論争した。帰道が、「黙啜は絶対盟約に背くので、和親を恃みにせず、軍備を厳重にせよ。」と言ったのに対して、知微は、「和親は絶対保たれる」と述べた。 

 六月、黙啜は契丹の孫萬栄を背後から攻撃し、これを滅ぼす。詳細は「契丹」へ記載した。 

 聖歴元年(698)六月甲午、淮陽王武延秀が突厥へ入り、黙啜の娘を納めて妃とした。
 豹トウ衞大将軍閻知微を摂春官尚書、右武衞郎将楊斉荘を摂司賓卿として、巨億の金帛を突厥へ送った。延秀は、承嗣の子息である。
 鳳閣舎人の襄陽の張柬之が諫めて言った。
「古より、中国の親王が夷狄の娘を娶った試しはありません。」
 これによって張柬之は太后の機嫌を損ね、合州刺史に飛ばされた。
 八月戊子、武延秀が黒沙の南庭へ到着した。
 突厥の黙啜が閻知微へ言った。
「我は、娘を李氏へ嫁がせたかったのに、どうして武氏の子など連れてきたのか!これが、天子の子か。わが突厥は、代々李氏の恩を受けてきたが、今、李氏の子孫はほとんど死に絶え、ただ二人の子息が残っているのみだと聞く。我は今から挙兵して彼が立つのを助けよう。」
 そして、延秀を別所に幽閉し、知微を南面可汗として唐の民を統治させた。
 遂に兵を発して静難、平狄、清夷等の軍を襲撃する。静難軍使慕容玄則(「山/則」)は五千の兵を率いて降伏した。虜は大いに気勢を挙げて為(「女/為」)、檀等の州へ進攻する。
 以前、閻知微の従者として突厥へ入った者は、黙啜から五品や三品の服を賜下されていた。太后は、これを悉く没収した。
 黙啜は、唐の朝廷へ書を与えて、その罪状を数え上げた。
「我へ蒸した穀物の種を与えたので、これを播いても芽生えなかった。これが一つ。金銀の器は皆粗悪品で、本物ではなかった。これが二つ。我が使者へ与えた緋服や紫服を全て奪った。これが三。賜下された繪帛は全て粗悪品だった。これが四。我は可汗。その娘は天子の児へ嫁ぐのが当然なのに、武氏などの小姓を選んだ。これでは家格が釣り合わないのに、妄りに婚姻を為そうとした。これが五。よって我は起兵したが、これは河北を奪取するのみである。」
 監察御史裴懐古は、閻知微の従者として突厥へ入った。黙啜はこれへ官位を授けようとしたが、懐古は受け取らない。そこで幽閉して殺そうとしたが、寸前に逃亡できた。晋陽まで逃げ帰った時には、ボロボロの姿。突騎がこれを見つけて間諜と勘違いし、その首を取って功績にしようと騒ぎ立てた。ところが、その中に一人の果毅がいた。彼は無実の罪で陥れられようとしたところを懐古が正しく裁いたことがあったので、懐古のことを憶えており、大声で叫んだ。
「彼は裴懐古だ。」
 そして救ったので、懐古はどうにか助かった。
 都へ到着すると謁見を受けて、祠部員外郎となった。
 この時、諸州は突厥が入寇したと聞き、争って民を徴発し、城壁を補修した。だが、衞州刺史の太平の敬暉は僚属へ言った。
「『金が湯水のようにあっても、粟がなければ城は守れない』と聞く。なんで収穫を棄てて城郭を整備できようか?」
 そして、労役を中止して、民を田へ帰した。百姓は、大いに悦んだ。 

 八月、司属卿武重規を天兵中道大総管、右武衞将軍沙咤(本当は、ウ冠がない)忠義を天兵西道総管、幽州都督の張仁愿を天兵東道総管とし、三十万の兵を与えて突厥の黙啜を討伐させた。又、左羽林衞大将軍閻敬容を天兵西道後軍総管として、十五万の兵を与えて後詰めとした。
 癸丑、黙啜は飛狐へ入寇した。
 乙卯、定州が陥落。刺史の孫彦高及び吏民数千人が殺された。
 九月、黙啜を、斬啜と改名する。
 黙啜は、閻知機へ、趙州を招諭させた。知機と虜は城下にて手を繋いで万歳楽を歌って踊った。すると、将軍陳令英が、城の上から言った。
「尚書は軽い位ではないのに、虜と一緒に歌って踊る。恥ずかしくないのか!」
 知機は、小声で吟じた。
「やむをえない、万歳楽。」
 戊辰、黙啜は趙州を包囲した。長史の唐般若が城内から内応した。
 刺史の高叡と妻の秦氏は、服薬して死真似をした。虜は、彼等を輿に乗せて黙啜のもとへ運んだ。黙啜は金獅子の帯と紫の袍子を彼等へ示して言った。
「降伏したら官位を授けるが、降伏しなければ殺すぞ!」
 叡が妻を顧みると、妻は言った。
「国恩へ報いるのは、まさに今日ですよ!」
 遂に、二人して目を閉じて何も言わなかった。そのまま二日経つと、虜も屈服できないと悟り、これを殺した。
 虜が撤退すると、唐般若は一族誅殺となった。叡へは冬官尚書を贈り、節と諡する。叡は、潁(ほんとうは、水ではなく、火)の孫である。 

 九月、皇嗣が、位を盧陵王へ譲ることを固く請い、太后はこれを許した。
 壬申、盧陵王哲を立てて皇太子とし、名を元の顕へ戻す。天下へ恩赦を下した。
 甲戌、太子を河北道元帥として、突厥討伐を命じた。
 それまでは、募兵しても一ヶ月で千人足らずしか集まらなかったが、太子が元帥になったと聞いて、応募する者が雲集し、数日の内に五万人を数えた。
 戊寅、狄仁傑を河北道皇軍副元帥、右丞宋元爽を長史、右台中丞崔獻を司馬、左台中丞吉頁を監軍使とする。この時は、太子は出征せず、仁傑を知元帥事として、太后自らがこれを送った。藍田令薛訥は、仁貴の子息である。太后は彼を左威衞将軍、安東経略へ抜擢した。
 
 癸未、突厥の黙啜は、趙・定州から掠めてきた男女万余人を悉く殺して、五回から去っていった。通過する途中では、殺掠の限りを尽くす。
 沙咤忠義等は、ただ兵を率いて後をついて行くだけで、敢えて接近しない。狄仁傑は十万の兵力で追撃したが、追いつかなかった。
 黙啜は漠北へ還ると、四十万の兵を擁し、萬里に據った。西北の諸夷は、皆、彼へ帰順し、中国を非常に軽んじた。 

 癸卯、狄仁傑を河北道安撫大使とした。
 この頃、突厥に追い立てられた北方の住民は、虜が退出した後も、誅罰を懼れて逃げ隠れていた。そこで、仁傑は上疏した。その大意は、
「朝廷の議論では、契丹や突厥に脅されて服従した者を罪としております。様々な理由があっても、造反したことに変わりはないというのです。しかしながら事実を見ますと、山東近縁の軍は大打撃を受け、家道は悉く破れ、逃亡へ追い込まれた者もおるのです。それなのに官吏は逃亡したとゆう事実のみを見て刑罰で臨みました。枷や杖で皮膚を破られる苦痛が迫ると、礼儀に関わっておれなくなります。生きて行くことが苦しいほど辛い境遇になれば、目先の利に飛びつき生き延びることだけを思う。これは君子が恥じる行いではありますが、小人の常でございます。また、一旦賊軍に降伏して救援を待っていた諸城もあります。彼等は天兵が来るとすぐに城門を開いたでしょうが、将士は功績を求めて戦って攻め落としたと報告します。これを鵜呑みにして賞を濫発するのは、無辜の民を罰してしまうことになりかねません。一旦賊徒に従ったからと言って賊徒同様に扱えば、彼等の妻子は辱められ財貨は掠奪され、兵士も役人も誅罰を免れないようになってしまいます。これでは賊を平定した後、彼等はますます苦しんでしまいます。それに、賊を平定する時の要点は招聘にあり、秋毫も犯ないのが理想です。今、彼等は正道へ返ったのですから、平人へ戻ったのです。それなのに殺傷されてしまうなど、なんと痛ましいではありませんか!
 それ、人は水のようなものです。水は、これを擁すれば泉になり、流れる先を造ってやれば川となるもの。通も塞も地形に従うだけ。なんで常態がありましょうか!今、降伏した兵卒達は、実家に帰れず山沢に逃げ隠れしながら露営しております。これを赦免すれば出てきますが、赦免しなければ切羽詰まって凶行に出てしま、山東の群盗をますます寄せ集めて結束されることになります。
 臣は思います。辺塵は起こったばかりで憂うに足らず、中土の安否は彼等への処遇こそが鍵である、と。彼等を罰すれば皆の心は恐懼し、手心を加えれば安心します。どうかお願いいたします。河北の諸州を曲げて赦し、一つとして詰問しないでください。」
 これに従うとの制が降りた。
 ここにおいて仁傑は百姓を慰撫した。突厥から取り返した掠奪品は、全て元の持ち主へ戻し、物資を貧民へ開放し、郵駅を修復して軍を整備した。諸将や使者が妄りに金品を要求できないように、自ら粗食に甘んじた。部下達へは百姓への横暴を禁じ、違反した者は斬った。
 河北は、遂に安定した。 

 黙啜が趙州を離れ、閻知微を返してきた。太后は、これを天津橋の南に磔にして、百官に射るよう命じた。処刑が済んだ後、その肉を骨が出るまで削ぎ落とし、その骨を砕いた。彼の三族を皆殺しにした。親しい者や疎遠だった者の区別どころか、今まで閻知微と会ったことさえなかった者でも、三族ならば処刑した。
 段志玄の子息の褒公段贊(「王/贊」)は、これ以前に突厥で没していた。かつて突厥が趙州を占拠していた頃、贊は楊斉荘へ、共に逃げようと持ちかけたことがあった。だが、斉荘はびびって出発しない。そこで、贊だけが先に逃げ帰ったところ、太后は彼を賞した。次いで斉荘が逃げ帰ると、彼の処遇を河内王武懿宗へ裁かせるよう敕が降りた。
 懿宗は、斉荘が速やかに帰らなかったのは彼の心に降伏の想いがあったからだと判断し、遂に閻知微と同様に誅殺するよう決定した。斉荘は、針鼠のように矢を打ち込まれたが死にきれない。そこで、その腹を裂いて心臓をえぐり出した。その心臓を地面に投げ捨てたが、それはまだピクピクと動いて止まらなかった。
 田帰道は夏官侍郎に抜擢され、とても厚く親任された。 

 二年臘月、河南、北へ武騎団を設置し、突厥へ備えた。
 二月壬辰、魏元忠を検校并州長史として天兵軍大総管にし、突厥に備えた。
 八月癸巳、突騎施の烏質勒がその子の遮弩を派遣して、入見した。
 侍御史の元城の解宛(「王/宛」)を派遣して、烏質勒及び十姓部落を安撫する。 

 この年、黙啜は、弟の咄悉匐を左廂察に、骨篤禄の子の黙矩を右廂察に立て、各々二万余の兵を指揮させた。子息の匐倶は小可汗とし、二人の上へ置いて、處木昆等十姓、四万余の兵を麾下に入れ、拓西可汗と号した。 

 久視元年(庚子、700年)臘月、西突厥の竭忠事主可汗の斛瑟羅を、平西軍大総管として、砕葉を鎮守させた。 

 阿悉吉薄露(西突厥の弩失畢五俟斤の一つ)が造反した。左金吾将軍田揚名、殿中侍御史封思業を派遣して、討伐させる。
 軍が砕葉まで到着すると、薄露は夜半、城のそばで掠奪して去った。思業は騎兵で追撃したが、敗北した。揚名は西突厥の斛瑟羅の衆を率いて敵の城を攻撃したが、十日余り攻めても落とせない。
 九月、薄露が偽って降伏したところ、思業はこれを誘い込んで斬り、遂にその衆を捕らえた。 

 十二月甲寅、突厥が隴右の監馬一万余匹を掠めて去った。
 長安元年(701年)五月、魏元忠を霊武道行軍大総管として、突厥に備えさせた。 

 八月、突厥の黙啜が辺境へ来寇した。安北大都護相王を天兵道元帥として、諸軍を率いて攻撃させる。だが、彼等が到着する前に虜は撤退した。 

 十月、主客郎中郭元振を涼州都督、隴右諸軍大使とした。
 涼州の南北の境界は四百余里に過ぎず、今まで突厥と吐蕃が頻繁に城下まで来襲していたので、百姓はこれに苦しんでいた。
 元振は南境の夾(「石/夾」)口へ和戎城を設置し、北境の磧中に白亭軍を設置し、その要衝を背景にして国境線を千五百里も広げた。これ以来、寇は城下までこなくなった。
 元振は、また、甘州刺史李漢通へ屯田を開かせ、水陸の生産性を高めさせた。
 かつての涼州では粟や麦が一斛で数千にもなったが、漢通が民を集めて耕作させてからは、一兼(「糸/兼」:繊維の一種でしょう。唐代は、まだ貨幣制度が不完全で、反物が貨幣の代わりに流通していました。)で数十斛が購入できるようになり、数十年分の軍糧が蓄えられた。
 元振は、統治に気を配ったので、涼州に五年在任しているうちに夷人からも華人からも畏慕された。民は法令を遵守したので、牛や羊は野に放し飼いにされ、落とし物を拾う人間もいないとゆう有様だった。 

 二年、突厥が鹽、夏二州へ入寇した。
 三月庚寅、突厥が石嶺を撃破し、并州へ入寇した。ヨウ州長史薛李昶を摂右台大夫にして山東防禦軍大使とし、滄、瀛、幽、易、恒、定等の州諸軍は皆、李昶の指揮下へ入れた。
 四月。幽州刺史張仁愿へ幽、平、為(「女/為」)、檀の防禦を専任させ、李昶と連携して突厥を拒ませた。
 五月乙未、相王を并州牧にして安北道行軍元帥とし、魏元忠をその副とした。 

 七月甲午、突厥が代州へ来寇した。
 九月壬申、突厥が忻州へ来寇した。
 庚辰、太子賓客武三思を大谷道大総管として、洛州長史敬暉を副とした。
 辛巳、相王旦を并州道元帥とし、三思、武攸宜、魏元忠をこれの副とした。姚元祟を長史、司禮少卿鄭杲を司馬とした。しかし、結局派遣しなかった。
 十二月甲午、魏元忠を安東道安撫大使とし、羽林衞大将軍李多祚を検校幽州都督とし、右羽林将軍薛訥、左武衞将軍駱務整を副とした。
 戊申、庭州に北庭都護府を設置した。 

 三年六月辛酉、黙啜が臣下の莫賀干を派遣し、娘と皇太子の子息を結婚させるよう乞うた。 

 八月庚戌、夏官尚書、検校涼州都督唐休景を現職のまま鳳閣鸞台三品とする。
 この時、突騎施の酋長烏質勒と西突厥の諸部とが戦争しており、おかげで安西道が通行できなくなっていた。そこで太后は、休唐と宰相達へその対処を議論させた。彼等が決議を上奏すると、太后はそれに従って施行した、その後十余日して安西の諸州が増兵を乞うたが、その期日まで休唐の計画通りだった。太后は、休唐へ言った。
「卿の登用が遅すぎたのが恨めしい。」
 そして、宰相達へ言った。
「休唐は辺事に精通しております。卿等はその十分の一にも及びません。」
 この時の西突厥可汗の斛瑟羅は、刑罰を残酷に適用したので、諸部は不服だった。対して烏質勒は、もともと斛瑟羅へ隷属して莫賀達干と名乗っていた男。しかし彼は部下を良く慰撫していたので、諸部はこれへ帰順した。
 烏質勒には二十人の都督がおり、その各々が七千人の兵を率いていた。彼等を砕葉の西北へ屯営させる。後、砕葉を攻め落として、牙帳をそこへ移動した。
 斛瑟羅の部族は離散した。そこで斛瑟羅は唐へ入朝し、二度と帰国しなかった。烏質勒は、その領土を併呑する。 

 十一月、突厥が、通婚を許可してもらったことへの感謝の使者を派遣した。宿羽台にて宴会を設け、これには太子も出席した。すると、宮尹崔神慶が上疏した。
「今、五品以上が亀型の符を身に帯びているのは、敕によって徴召された時に、その敕が贋作ではないか亀符を取り出して照合してから、応命する為です。ましてや太子は国の本。古来から徴召には玉契を用いていました。これは誠に、重慎の至りです。最前、突厥の使者が来た時に太子が朝廷へ出向きましたが、この時はただ文符が下されただけで、敕でさえも降りませんでした。太子は毎月、朔と望の二回朝廷へ出向くものですが、それ以外に徴召される時には、墨敕と玉契を降ろすべきかと、臣は愚考いたします。」
 太后は、大いに同意した。 

 四年正月丙申。右武威将軍阿史那懐道を西突厥十姓可汗とした。懐道は、斛瑟羅の子息である。
 七月丙午、夏官侍郎、同平章事宗楚客が罪を犯し、原州都督へ左遷され、霊武道行軍大総管となった。
(訳者曰く。罪人が左遷されて行軍大総管となった。多分、誤訳ではないと思います。まともな感性とは、とても思えないのですが。)
 八月、黙啜と和親が成立した。戊寅、彼等は淮陽王武延秀を送り返した。
 九月壬子、姚元之を霊武道行軍大総管とする。辛酉、元之を霊武道安撫大使とする。 

 神龍元年(705)正月癸卯、張易之と昌宗が誅殺された。詳細は、「張易之」へ記載する。丙午、中宗が即位する。
 六月壬子、左驍衞大将軍裴思説を霊武軍大総管として、突厥に備えた。 

 二年十二月己卯、黙啜が鳴沙へ来寇した。霊武軍大総管の沙忠義がこれと戦ったが、敗北。六千余人が戦死する。
 丁巳、突厥は原、會まで進攻し、隴右の牧馬万余匹を掠めて去った。忠義を免官する。 

 景龍元年(丁未、707)正月庚戌、黙啜が辺境を荒らすので、内外官へ突厥を平定する策を献上するよう制を降ろす。すると、右補闕の盧甫(「人/甫」)が上疏した。その大意は
郤穀は礼楽を悦び詩書に敦く、晋の元帥となりました(春秋左氏伝の故事)。杜預の弓の腕は札を穿つこともできなかったのに、呉を平定する勲功を建てました。これは、軍略が優れていれば一夫の勇など要らないことを知っていたのです。沙忠義などは驍将の人材ですが、大任をこなすには役者不足でした。また、鳴沙の戦役では、主将が真っ先に逃げました。これを国法で裁き、賞罰を明確にすれば、敵は必ず服従します。また、辺州の刺史は、能力のある人間を選び抜いて、兵卒を訓練させ兵糧を備蓄させます。敵が来襲すれば拒み、去っていったら警備を厳重にします。去年、四方で旱災が起こったので、遠征軍を興すのは大変だからです。内を固めて外へ及ぼし、近くを懐ければ遠方は服従してくるとゆうのが、物の道理です。官庫が満ち、士卒が訓練されるのを待ってから、大挙してこれを討ちましょう。」
 上は、これを善しとした。 

 五月戊戌、左屯衞大将軍張仁愿を朔方大総管として、突厥に備えた。
 十月丁丑、張仁原に突厥を攻撃させた。ここにいたって、虜は撤退した。これを追撃して大いに破る。 

 二年三月丙辰。朔方道大総管張仁愿が河上へ三つの受降城を築いた。
 当初、朔方軍と突厥は、河を境界としていた。河北には払雲祠があり、突厥は入寇する時には必ずこの祠を詣でて祈願し、その後に馬や人を肥やしてから河を渡った。
 この頃、黙啜が兵を総動員して突騎施を攻撃した。仁愿は、その虚に乗じて漠南の土地を奪取し、河北へ三つの受降城を築くことを請願した。これらが呼応すれば突厥の南寇の通路を断つことができるのだ。
 太子少師唐休景は言った。
「漢代以降、北は黄河を防衛線としていました。今、突厥の領土内へ城を築いても、人力を浪費するばかりで、最後には虜に奪われてしまうでしょう。」
 しかし、仁愿が固く請うて止まなかったので、上も遂にこれに従ったのだ。
 仁愿は期限が満ちて帰郷する防人達を鎮へ留めて工事の手助けをさせるよう上表した。咸陽の兵卒二百余人が逃げ帰ったが、仁愿は彼等を悉く捕らえて城下にて斬った。軍中は戦慄し、二ヶ月で城が完成した。
 払雲祠を中城とし、東西に各々四百余里離して二つの城を築く。全て険阻な地形に據り、唐の領土は三百余里広がった。
 また、牛頭の朝那山の北に千八百の狼煙台を造り、左今(「金/今」)衞将軍論弓仁を朔方軍前鋒遊?使として諾眞水を守らせ、巡回守衛をさせた。
 これ以来、突厥は山を越えて放牧しようとせず、朔方も又掠奪を受けなくなり、鎮守の兵卒も数万人減らされた。
 仁愿は三城を築城する時、ヨウ門(城外に垣などを作って、城門を遮蔽した門)や守備の道具を設置しなかった。ある者が理由を問うと、仁愿は言った。
「兵は進取を貴び、退守は良くない。敵が来襲したら力を併せて討って出て、踵返して城へ向かう者は斬り殺すべきだ。守備を用いて退却の心を生み出して、なんで良いものか!」
 その後、常元楷が朔方軍総管となった時、始めてヨウ門が築かれた。人々はこの一事を以て仁愿を重んじ元楷を軽んじた。
 七月癸巳、左屯衞大将軍、朔方道大総管張仁愿を同中書門下三品とした。 

 景雲元年(庚戌、710年)、睿宗皇帝即位。
 二年、正月癸丑、黙啜が講和の使者を派遣した。これを許す。
 三月、宋王成器の娘を金山公主として、黙啜へ娶らせることを許す。
 御史中丞和逢堯を摂鴻臚卿として突厥への使者とし、黙啜へ説いた。
「處密と堅昆は可汗が唐の皇女と結婚したと聞けば、皆、帰属します。それならば、可汗が唐の冠帯を身にして諸胡へ宣伝すれば、もっと素晴らしいではありませんか!」
 黙啜は許諾した。翌日、黙啜はボク頭、紫衫(唐の三品以上の服)を着て、南へ向かって再拝し、臣と称した。
 その子の楊我支と国相を逢堯へ随従して入朝させた。十一月戊寅、一行が京師へ到着した。逢堯はこの功績で戸部侍郎となった。
 先天元年(712年)乙未、上が安福門へ御幸し、突厥の楊我支と宴を開き、金山公主を見せた。
 しかし、やがて上が帝位を譲ったので、結局この婚姻は成立しなかった。 

 先天元年(712年)八月庚子、玄宗が即位した。
 開元元年(713)八月丙辰、黙啜がその子息の楊我支を派遣して通婚を求めた。丁巳、蜀王の娘南和県主を妻とすることを許す。
 二月乙未、黙啜が子息の同俄特勒と妹婿の火抜頡利發、石阿失畢へ兵を与えて派遣し、北庭都護府を包囲した。都護の郭虔カンが、これを撃破する。同俄が単騎で城下へ迫ったが、道の脇へ虔カンが伏せておいた壮士が飛び出して、これを斬った。
 突厥は、軍中の資糧全てを差し出して同俄と交換しようと請うたが、既に死去したと聞き、慟哭して退却した。
 石阿失畢は同俄を失ってしまったので、敢えて帰国しなかった。
 閏月癸未、その妻と亡命してきたので、右衞大将軍として燕北郡王に封じた。その妻を金山公主と命名する。 

 西突厥の十姓酋長都擔が造反した。
 三月已亥、磧西節度使阿史那献が砕葉等の鎮に勝ち、都擔を捕らえて殺す。その部落二万余帳は降伏した。 

  四月辛巳。黙啜が再び使者を派遣して通婚を求めた。この時、「乾和永清太フ馬、天上得果報天男、突厥聖天骨咄禄可汗」と自称した。 

 六月壬寅、北庭都護郭虔カンを涼州刺史、河西諸軍州節度使とする。 

 黙啜は耄碌して、昏虐がますます激しくなった。
 九月壬子、葛邏禄等の部落が涼州を詣でて降伏した。
 十月己巳、黙啜が再び使者を派遣して通婚を求めた。上は、来年公主を迎えることを許した。 

 同月、突厥の十姓胡禄屋等の諸部が、北庭を詣でて降伏を請うた。都護郭虔カンへこれを撫存するよう命じる。
  十一月丙申、左散騎常侍解宛(「王/宛」)を北庭へ派遣し、突厥から降伏した者を宣慰する。細かいことは、彼の便宜に任せる。
 突厥の十姓から降伏する者が、前後で一万余帳に及んだ。
 高麗の莫離支文簡は十姓の婿である。三年二月、彼と夾(「足/夾」)跌都督思泰羅もまた、突厥から衆人を率いて来降した。
 三月、胡禄屋の酋長支匐忌羅が入朝した。
 四月庚申、十姓からの来降者が益々多くなってきたので、上は右羽林大将軍薛訥を涼州鎮大総管として、赤水羅の軍をその管轄下に入れ涼州へ住まわせ、左衞大将軍郭虔カンを朔州鎮大総管として、和戎羅の軍をその管轄下に入れ、并州へ住まわせ、兵を指揮して黙啜へ備えさせた。
 黙啜は兵を発して葛邏禄、胡禄屋、鼠尼施等を攻撃して、屡々これを破る。北庭都護湯嘉恵、左散騎常侍解宛等へ兵を発してこれを救うよう、敕を降ろす。
 五月壬辰、嘉恵等と葛邏禄、胡禄屋、鼠尼施及び定辺道大総管阿史那献へ互いに連携を取るよう敕を降ろす。 

 九月、九姓思結都督の磨散等が来降した。己未、全員へ官を与えて帰した。 

 壬戌、涼州大都督薛訥を朔方道行軍大総管とし、太僕卿呂延祚、霊州刺史杜賓客を副官として、突厥を討伐させる。 

 黙啜は北方の抜曳固を攻撃して、独楽水にて大いに破った。それで勝ちを恃んで軽々しく帰国し、警備もしなかった。たまたま、抜曳固の敗残兵の頡質略が柳林から突撃し、黙啜を斬った。
 この頃、大武軍の子将赤(「赤/里」)霊全(「草/全」)が皇帝の使者として突厥に在住していた。四年六月癸酉、頡質略は彼へ黙啜の首を献上して帰順し、彼と共に闕を詣でた。首は、廣街へ懸けられる。
 抜曳固、回乞(「糸/乞」)、同羅、習(「雨/習」)、僕固の五部が、皆、中国へ来降したので、大武軍北を設置する。 

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