明帝即位
 
同志を増やせ 

 建武元年(494年)八月、始安王遥光が南郡太守となったが、彼は任地へ赴かなかった。遥光は、宣城郡王鸞の甥である。宣城郡王には野望があり、遥光はこれに賛同していた。およそ、大きな誅罰には、必ず彼が参与した。 

 中書郎蕭遥はコン州刺史となった。蕭遥欣は、蕭遥光の弟である。宣城郡王は有力な同士を増やしたかったので、これを抜擢したのである。 

  

番陽王の乱 

 当初、番陽王鏘は鬱林王の廃立に関わってなかった。やがて宣城郡王の権勢がいよいよ重くなると、彼が即位を目指していることは公然の秘密となった。
 番陽王鏘が宣城郡王の屋敷を訪問すると、宣城郡王は、靴を履くのももどかしげに出迎えるのが常だった。そして二人して国家について語ると、宣城郡王は興奮して涙を流しながら語るのだった。それを見て、番陽王鏘は宣城郡王を信頼した。
 宮省の人間は、皆、番陽王鏘に心服しており、兵を率いて入宮するよう鏘へ勧めていた。制局監の謝粲が、番陽王鏘と随王子隆へ言った。
「二王は、ただ油壁車に乗って入宮していただくだけで良いのです。天子を朝堂へ連れ出して号令をかけ、我々が城門を閉める。そしたら、誰が逆らえましょうか!東府城の官吏達は、蕭鸞を縛り上げて連れてきますぞ。」
 子隆は、この計略に乗ろうとした。だが鏘は、宮中内の兵力の大半が、既に東府の麾下にあることを考え、勝てないかもしれないと恐れて躊躇した。
 馬隊主の劉巨は世祖の頃からの旧臣である。彼は鏘のもとへ出向き、土下座して決起を頼んだ。とうとう、鏘は駕を出して宮中へ向かったが、途中で引き返して母親の陸太后へ別れを告げた。この為、日が暮れて、結局挙行できなかった。これによって彼の典籤がこの計略を知り、宣城郡王へ密告した。
 癸酉、宣城郡王は二千人の兵で鏘の邸宅を包囲し、番陽王鏘を殺した。又、随王子隆と謝粲も殺した。
 この頃、太祖の諸子の中では随王が最も壮大で才能があったので、宣城郡王は彼を一番忌んでいたのだ。 

  

安晋王の乱 

 随王と番陽王の殺害を聞いた江州刺史の安晋王子懋は決起しようと欲し、防閣の陸超之へ言った。
「成功すれば宗廟は安泰だ。失敗しても、義鬼となってみせよう。」
 すると、防閣の菫僧恵が言った。
「この州は小さいとはいえ、宋の孝武帝はここから決起して天下を併呑しました。もしも挙兵して都へ向かい、鬱林王殺害の罪を表明すれば、誰が我らを拒めましょうか!」
 安晋王の母親の阮氏は、建康に住んでいた。そこで、安晋王は密かに手紙を書いて、彼女を迎えようとした。手紙を受け取った阮氏は、同母兄の于瑤之に相談した。ところが、于瑤之はこれを鸞へ密告してしまった。
 乙亥、鸞は黄鉞を預かり、内外に戒厳令を布いた。そして、中護軍王玄貌へ安晋王討伐を命じた。又、軍主の裴叔業と于瑤之には、尋陽を攻撃させた。これを知った安晋王は、三百人を派遣して盆城を守らせた。
 裴叔業は流れを遡って進軍し、夜半、盆城を襲撃した。すると、城局参軍の楽賁が城門を開いて、これを迎え入れた。これを聞いた安晋王は、府州の兵力を率いて籠城した。
 安晋王の配下にはヨウ州の人間が多かった。彼等は皆、勇躍して奮戦を乞うた。裴叔業は、その戦意を畏れ、安晋王を説得させようと、于瑤之を使者として派遣した。
 于瑤之は言った。
「今、都へ帰ったら、そんなに大袈裟にはなりません。官位を失うとしても、富貴は元のままです。」
 この時、安晋王は籠城していて出撃しなかったので、兵卒の戦意も阻喪していた。中参軍の于林之は、于瑤之の兄だったが、彼も安晋王を説得した。
「裴叔業へ厚く贈賄すれば、禍は免れます。」
 そこで、安晋王は于林之を裴叔業のもとへ派遣した。裴叔業は、軍主徐玄慶へ四百人の兵を与え、于林之と共に州城へ入れた。安晋王の僚佐は皆、逃げ散ってしまった。
 于林之は、二百人の兵卒を従えて、抜刀したまま安晋王の部屋へ突入した。安晋王は罵って言った。
「小人!何でここまでできるのだ!」 
 于林之は、袖で顔を隠し、兵卒に安晋王を殺させた。 

 王玄貌は、菫僧恵を捕らえた。将に殺そうとした時、菫僧恵は言った。
「晋安王は、義兵を挙げようとした。僕はただ、その企てに参与しただけ。主人の為に死ぬのなら、もとより望むところだ!」
 王玄貌は、彼を義人と認め、宣城郡王鸞へ報告した。宣城郡王は、彼の死一等を減じ、東治へ流した。
 ところで、この時、安晋王には九才の子息がいた。名は昭基。彼は、二寸四方の絹に手紙を書いて、五百銭の金と共に菫僧恵へ贈った。これを受け取った菫僧恵は、言った。
「若様の手紙だ!」
 彼は、悲しみの余り慟哭し、卒した。 

 于林之は、陸超之へ逃げるように勧めた。すると、超之は言った。
「人は皆、必ず死ぬ。恐れる事か!ここで逃亡したなら、晋安王の眷属になれないだけではない。古くは田横の客人から笑われてしまうわ!」
 王玄貌は、彼を都へ連れて帰ろうとした。だが、陸超之は端座して死を待つばかり。結局、陸超之の門生が、恩賞目当てに彼を殺した。 

  

諸王誅殺 

 事ここに至って、宣城郡王鸞は諸王を殺そうと考えた。 

 荊州へは徐玄慶を派遣した。
 臨海王昭秀は荊州刺史となっており、西中郎長史の何昌寓が、実質的に州の政治を切り盛りしている。江陵へ到着した徐玄慶が、臨海王昭秀暗殺について何昌寓へ語ると、何昌寓は答えた。
「僕は朝廷の引き立てで、外藩の翼輔となったのだ。そして、殿下には何の失徳もない。君は一介の使者に過ぎないのに、何でそのようなことを言うのか!もしも朝廷が殿下を誅罰しようとゆうのなら、これを天下に堂々と公示するべきではないか。そのような事になったのならば、その時に考えよう。」
 こうして、臨海王は建康へ帰ることができた。
 何昌寓は、何尚之の甥である。 

 郢州の政治を切り盛りしていたのは、呉興太守の孔秀之である。宣城郡王は、彼に晋煕王の暗殺を命じた。だが、孔秀之はこれを拒否し、断食して死んだ。
 孔秀之は、孔靖の子息である。 

 裴叔業は、尋陽から湘州へ進軍し、湘州刺史の南平王鋭を殺そうとした。すると、防閣の周伯玉が、民衆の前で大言した。
「これは天子の意向ではない。今、裴叔業を斬って、社稷を正す為に挙兵したら、誰もが勇んで馳せ参じるわ!」
 南平王の典籤は、これを叱りつけ、斬り殺させた。 

 乙酉、南平王鋭を殺す。又、晋煕王トと南豫州刺史宜都王鏗も殺した。
 丁亥、廬陵王子卿を司徒とし、桂陽王鑠を中軍将軍、開府儀同三司とした。
 十月、戒厳令が解かれた。 

  

謝兄弟 

 宣城王鸞は太傅、領大将軍、揚州牧、都督中外諸軍事となり、殊礼を加えられて王へ進爵した。
 宣城王は、即位の陰謀を張り巡らせて、朝廷の名士達を同志へ引きずり込んだ。侍中の謝出(月/出)は、それを望まなかったので、呉興太守として地方へ下向することを願い出た。呉興へ到着すると、弟の吏部尚書謝淪へ、手紙と共に酒を数斗送った。
「これを飲んで、人との交際を避けることだ!」 

(司馬光、曰く) 

「人から賜った衣を着ている人間は、その人の憂いを想い、人から養って貰っている人間は、その人の為に命を賭ける。」
 と聞く。
 謝出と謝淪の兄弟は、誰よりも貴く、平和な時は、栄華と俸禄を享受して暮らしていた。それなのに、危険については与り知らぬと言う。臣下としてこのような態度をとるなど、忠臣と言えようか! 

  

追従 

 宣城王鸞が国政を専断していたが、人々の心情は、まだまだ彼に心服してはいなかった。
 ところで、宣城王の肩胛骨の辺りに、赤い痣があった。驃騎諮議参軍の軍城王佑は、この痣を他人へ見せるように勧めた。そこで、宣城王は王洪範へ見せて、言った。
「人々は、この痣を見て『日月の相』と言うのだ。だが、この事は秘密にして、他人へは語ってくれるな。」
 すると、王洪範は言った。
「公は、その体に日月をお持ちなのです。何で隠されるのですか?どんどん宣伝するべきですぞ!」 

  

誅殺続く 

 戊戌、桂陽王鑠、衡陽王鈞、江夏王ホウ、建安王子眞、巴陵王子倫が死んだ。
 それらの経緯については、次の通り。 

 桂陽王鑠は、番陽王鏘と同じぐらい名望があった。番陽王は文章が好きで、桂陽王は名理が好き。だから、当時の人々は「番・桂」と並び称していた。九月に番陽王が殺されると、桂陽王は不安でならない。とうとう、東府の宣城王鸞へ面会に行き、帰ってきてから左右の臣下へ言った。
「宣城王は、慇懃に応対してくれたが、顔には慚愧の想いが顕れていた。これは、私を殺すつもりに違いない。」
 果たして、その日の夕暮れ、桂陽王は殺害された。 

 宣城王が諸王を殺す時には、まず、夜半に兵を派遣して王の屋敷を包囲させた。そしてその兵卒達は、関を斬り垣根を越えて叫びながら乗り込み、家財は皆封印するのが常だった。
 さて、江夏王ホウは才能があり業績が高かった。
 かつて、宣城王が言った。
「遙光には才能も実力もあるので大任を任せられる。」
 すると、江夏王は言った。
「かつて殿下が高祖皇帝へ仕えられたように、遙光は殿下へ仕えております。宗廟を護り社稷を安んじるには頼りがいのあるお方です。」
 宣城王は顔色を無くした。
 やがて宣城王が諸王を殺すようになると、江夏王は宣城王のもとへ手紙を書いて、これを大いに責め立てた。宣城王はこれを深く憚っていたので、兵を派遣して彼の屋敷を包囲することができなかった。そこで、江夏王に太廟の祠官を兼任させ、夜、太廟へ兵を派遣した。
 襲撃を受けて、江夏王は車へ登る。兵卒達が後を追って車へ登ろうとすると、江夏王はその剛力で数人を地面へ打ち倒し、その後に自殺した。 

 宣城王は、建安王子眞へ対しては、典籤の柯令孫を派遣した。
 建安王はベットの下へ逃げ込んだが、柯令孫から引きずり出された。そこで、彼は土下座して「奴隷になる」とまで言ったけれども、聞き入れられずに殺された。 

 巴陵王子倫へ対しては、中書舎人の茹法亮を派遣した。
 巴陵王子倫は勇気があって果断な性格。この時彼は南蘭陵太守として琅邪を鎮守しており、城内には守備兵も居た。その彼があっさり自殺してくれるかどうか疑問だったので、宣城王は典籤の華伯茂へ尋ねてみた。すると、華伯茂は答えた。
「もしも兵を繰り出したなら、多分一波乱起きます。しかし、私に任せてくださるなら、たった一人でやってのけて見せましょう。」
 そして、自ら鴆毒を手にして巴陵王へ迫った。巴陵王は、衣冠を正して詔を受け取り、茹法亮へ言った。
「我が朝は、昔、宋を滅ぼして国を奪った。今日の事は、因果応報というものだ。我が家へ長い間仕えてくた君がこのような使者になったのは、やむを得ない事情があるのだろう。それにしても、この酒はやり取りする酒ではないなあ。」
 そして、毒酒を仰いで死んだ。享年十六。茹法亮も左右の臣も、皆、涙を零した。 

  

典籤の害毒 

 ところで、斉では、諸王が地方の鎮守に出向する時、必ず典籤を置き、実務は彼等へ委ねるのが常だった。典籤が朝廷へ出向いて報告することは、一年の間に数回に及ぶこともあった。この時、皇帝は典籤の口を通して州の実態を知るのだから、刺史の評価は全て彼等の言葉にかかっている。だから、州刺史以下全ての官吏が、兢々として彼等へ取り入った。こうして、典籤は州の独裁者のようになり、姦利を為す者が多かった。
 典籤の横暴については、次のようなエピソードが残っている。
 武陵王曄は、厳正な性格で、犯しがたい人間だった。江州刺史として出向しても、それは変わらない。すると、典籤の趙渥之が知人へ言った。
「今から都へ行って、刺史を変えてやる!」
 そして世祖と謁見すると、口を極めて武陵王曄を謗った。果たして、武陵王曄は免官となって呼び戻された。
 南海王子罕が琅邪を守っていた時の事、東堂へ遊びに行こうとしたら、典籤の姜秀が許さなかった。南海王は、帰ると泣いて母へ言った。
「五歩も外を歩くことができない。これでは囚人と同じだ!」
 ある時、邵陵王子貞が熊料理を求めると、料理人は「今、典籤が居りません。」と答えて、与えなかった。
 永明年間、巴東王子響が、長史の劉寅等を殺害するとゆう事件が起こった。この時、報告を受けた世祖は、群臣へ言った。
「子響は造反したか!」
 すると、戴僧静が大声で言った。
「どうして巴東王だけでしょうか。諸王の居る都市は、全て造反しますぞ!」
 世祖が訳を質すと、戴僧静は答えた。
「諸王は罪もないのに囚人扱い。一杯の水を求めるだけでも、一々典籤へお伺いを立てなければならないのです。典籤がいない日には、終日渇きに耐えなければなりません。諸州では典籤が居ることを聞きますが、刺史が居ることなど誰も知りません。何で造反せずに済みましょうか!」
 ある時、意陵王子良が衆人へ尋ねた。
「士大夫は、何で典籤のもとへ詣でたりするのだ?」
 すると、参軍の范雲が答えた。
「長史以下の官吏達には、実権がありませんので、彼等を詣でても何の役にも立ちません。しかし、典籤のもとへ贈り物をしたら、たちまち数倍になって返ってくるのです。何で彼等を詣でずにいられましょうか!」
 その答えを聞いて、意陵王は恥じ入った。 

 さて、今回宣城王は、諸王の殺害を典籤達へ命じたが、この命令を拒んだ者はただの一人も居なかった。それを聞いて、孔圭は泣きながら言った。
「衡陽王と江夏王は、我が国の羽翼とも恃むお方でしたのに、殺害されてしまった。もしも典籤がいなければ、ここまではならなかったでしょうのに。」
 宣城王も典籤の弊害を痛感し、詔を出した。
「今後、州で危急のことがあったら、封印した手紙を使者へ持たせればよい。わざわざ典籤を派遣したりしてはならない。」
 これ以後、典籤の権威は次第に軽くなっていった。 

  

明帝即位(付、大臣の去就) 

 新皇帝は、即位した後、起居飲食全てについて、宣城王へお伺いを立ててから行った。ある時、蒸した魚を食べたいと思ったが、太官令は、「録公(宣城王の事。この時、録尚書事だった。)の命令がありません。」と答えて、与えなかった。
 十月、辛亥。皇太后が令を下した。
「嗣主は幼少で、政治のことなど判りません。それに、幼い頃から病弱でしたので、この大任は務まらないでしょう。太傅の宣城王は宣皇(蕭承之。高祖の父で、蕭鸞の祖父。宣皇帝と追諡された。)の血を引き、高祖からも高く評価されてきました。彼に継承させるのが宜しいでしょう。今上の帝は海陵王へ降封し、我は別館へ隠居します。」
 そして、宣城王を、高祖の養子とした。
 癸亥、蕭鸞が即位した。明帝である。大赦を下し、建武と改元する。
 太尉の王敬則を大司馬とする。
 司空の陳顕達を太尉とする。
 尚書令の王晏へ驃騎大将軍を兼任させる。
 左僕射の徐孝嗣へ中軍大将軍を兼任させる。
 中領軍の蕭甚を領軍将軍とする。
 度支尚書の虞宗は、病気と称して列席しなかった。彼は古くからの大臣なので、明帝は何とかして官職に就けたいと思い、王晏に説得させた。だが、虞宗は言った。
「主上は聖明で、公卿は力を尽くしております。この老いぼれなど、どこに出る幕がありましょうか!このご命令は聞けません!」
 そして、慟哭した。
 朝廷の臣下達は、彼を糾弾したが、徐孝嗣は言った。
「古の実直さが遺っているのです。」
 そこで、虞宗は不問に処された。
 明帝は、群臣を集めて宴会を開いた。この席で、明帝自らが功臣へ酒を注いでやると言い出した。すると、王晏等は席を立ったが、謝淪一人席を立たずに言った。
「陛下が即位なさったのは、天意と人心に従ったまで。王晏は、天功を妄りに横取りするつもりか!」
 明帝は大笑いし、皇帝のお酌は中止となった。
 宴会が終わった後、王晏は謝淪を呼び、同乗して令省へ帰ろうと誘った。すると、謝淪は顔色を変えて言った。
「卿の巣窟はどこにあるのか!」
 王晏は、彼のことを甚だ憚った。