明帝の北伐
 
薛安都、魏へ走る。 

 晋安王の乱が平定して薛安都が降伏してきた時、明帝は北魏への武威行動をとろうと考え、張永と沈悠之に武装兵五万を与えて薛安都を迎えにやった。(「安晋王の乱」参照)
 蔡興宗は言った。
「薛安都の帰順は本心です。ですから、一人の軍使を派遣すれば済むことですのに、こんなに仰々しく大軍を派遣する。これでは彼は疑い懼れます。或いは、北虜へ内通するかもしれません。もし、今回の造反は重罪で、必ず誅殺しなければならないと言われるのなら、今まで赦免してきた諸卿をどうしましょうか?ましてや薛安都は辺境にて大鎮を構え、地形は険阻で兵卒は屈強。包囲しても、これを容易には落とせません。国の為に謀りますに、馴撫するべきでございます。もしも彼が北魏へ内通すれば、朝廷にとって大きな憂患となってしまいます。」
 だが、明帝は従わず、征北司馬の蕭道成へ言った。
「吾は、この機会に北伐を敢行しようと思っているが、卿はどう思うか?」
 蕭道成は答えた。
「薛安都は、狡猾で凝り固まったような人間。今、大兵力で迫るのは、国の利ではありません。」
「我が軍は勇猛精鋭。戦って負けるものか!もう何も言うな!」
 大軍が北上していると聞いた薛安都は、恐れ、北魏へ使者を派遣して降伏を乞うた。常珍奇も懸瓠ごと北魏へ降伏し、援軍を請うた。
 薛安都は、息子を人質として北魏へ差し出した。そこで北魏は、彭城救援の為に鎮東大将軍尉元、鎮東将軍孔伯恭等へ一万の騎兵を与えて出撃させた。懸瓠へは、鎮西大将軍西河公石、都督荊・豫・南ヨウ州諸軍事張窮奇を派遣した。又、薛安都を都督五州諸軍事・鎮南大将軍・河東公へ、常珍奇を平南将軍・豫州刺史・河内公へ任命した。 

 北魏軍が南進すると、コン州刺史申簒が偽って北魏へ降伏した。尉元はこれを受諾したが、密かに備えをしていた。北魏軍が無塩まで進軍すると、申簒は城門を閉じて拒戦した。 

 薛安都が北魏軍を招き入れると、畢衆敬はこれを非難し、明帝のもとへ降伏の使者を派遣した。明帝は、畢衆敬をコン州刺史に任命した。
 ところが、畢衆敬の一人息子は建康に住んでいたが、既に別の罪で誅殺されていた。やがて畢衆敬のもとへその報告が入ると、畢衆敬は抜刀し、柱へ斬りつけて叫んだ。
「俺には息子は一人だけ。その命さえ守ってやれなかった。もはや生きる意味もないわ!」
 十一月、北魏軍が瑕丘へ到着すると、畢衆敬は部下を率いて降伏した。
 尉元は、まず部将を派遣して、畢衆敬の城へ入城した。だが、そうなってしまってから、畢衆敬は悔恨し、数日間、何も食べなかった。
 尉元は、更に進軍した。
 西河公石が上蔡まで進軍すると、常珍奇が文武官を率いて出迎えた。西河公は、入城せずに汝北まで進もうと考えたが、中書博士の鄭義が言った。
「今、常珍奇が来ましたが、その真意は測りかねます。まず、入城して城門の鍵を奪い、府庫を封鎖して、その腹心を遠ざける。そうやってこそ万全です。」
 そこで河西公は入城し、大宴会を開いて羽目をはずした。
 鄭義は言った。
「常珍奇の顔色に、不満が満ち溢れています。備えが必要です。」
 その夕方、常珍奇は、府屋へ放火して乱を起こそうと考えたが、魏軍が警備していたので、中止した。(訳者、曰く。畢衆敬も、魏軍が入城した後、降伏を後悔した。記載されていないが、常珍奇と類似の事情があったのかもしれない。それとも、純粋に愛国心から後悔しただけなのだろうか?)
 なお、鄭義は鄭豁の息子である。
 淮西七郡の住民達は、魏の国民となることを願わず、連れ立って南へ逃げた。そこで魏軍は、建安王陸香へ、降伏した民を宣撫させた。建安王は、捕まって奴隷となっていた民を全員解放したので、魏の新民は大いに喜んだ。 

 張永と沈悠之は進軍して彭城へ迫り、下蓋に屯営した。また、王穆之へ五千の兵を与え、武原へ派遣して、輜重を守らせた。
 北魏の尉元が彭城へ到着すると、薛安都はこれを出迎えた。尉元は、まず麾下の李燦を先発隊として、薛安都と共に彭城へ入城させ、城門の鍵を受け取らせた。そして、孔伯恭へ精鋭兵二千を与え、内外を安撫させた後、尉元は入城した。
 その夜、張永は南門を攻撃したが、勝てずに退却した。
 尉元は、薛安都へ対して無礼だったので、薛安都は降伏したことを後悔した。そして、再び魏へ背こうとしたが、事前に察知されたので実行できなかった。その造反計画について糾明されそうになったので、薛安都は尉元へ厚く賄賂を贈り、娘婿の裴祖隆へ全ての罪を押しつけて殺した。
 尉元は、李燦と薛安都に彭城を守らせると、自身は兵を率いて張永を攻撃した。まず、張永の糧道を断ち、次いで王穆之を撃破した。王穆之は敗残兵を取りまとめて張永のもとへ合流し、尉元は進軍してこれを攻撃した。
 三年、正月。夜半、張永は城を棄てて逃げた。
 この頃、大雪が降り、泗水は凍り付いていた。張永等は舟を棄てて歩いて逃げたので、大勢の士卒が凍死した。凍傷で手足をなくした者は、七・八割にも及んだ。
 尉元は、その軍を前方から攻撃し、薛安都は後方から攻撃し、張永軍は大敗を喫した。一万以上の兵が戦死し、死体は累々と六十余里も続き、数えられないほどの器械が遺棄された。張永は足の指を失い、沈悠之は体一つで逃げ出す有様。梁・南秦二州刺史の垣恭祖等は魏軍の捕虜となった。
 敗報を受けた明帝は、蔡興宗へ言った。
「御身にあわせる顔がない!」
 この敗戦責任で、張永は左将軍へ降格され、沈悠之は免官の上、淮陰へ左遷した。この戦いで淮北四州と豫州の淮西の土地を失った。
 こうして彭城は宋軍を撃退したが、戦争が続いた後なので、公私共に困窮していた。尉元は、張永が放置して行った九百艘の舟で、冀・相・済・コン四州の粟を持って来て民へ振る舞うよう請願し、北魏朝廷はこれを裁可した。 

(裴子野、曰く、) 

 昔、斉の桓公は葵丘で傲って九ヶ国から背かれ、曹操は張松を見下した為に蜀を劉備へ取られ天下は分裂した。ほんの些細な無礼がこのように大きな齟齬を生み出すのだ。
 太宗(明帝)が決起した当初は、その威令は百里四方にしか届かず、兵士の心は離間していたが、太宗はこれを真心で開き、誠実さを行き渡らせたので、皆がその恩を感じ徳に報いようと、命がけでこれに従った。そのおかげで、西方を挫き、北方を掃討し、天下を定めることができたのである。
 だが、既に六軍が勝報をもたらし、僅かな余党が逼塞するようになると、明帝は武威を張ろうと欲を出し、無名の軍を出陣させて、淮河以北を失ってしまった。惜しいかな!
 もしも、明帝が虚心になって彼等へ対応し、傲らず伐たなければ、三叛(薛安都、畢衆敬、常珍奇)がどうして北魏へ降伏したりしただろうか!
 宋の高祖は鎧に蟻や虱を湧かせながら戦場を駆け巡り、ようやく国土を広めたのである。それなのに、子孫は日々百里の土地を奪われて行く。家業を守り家を続けることの、何と難しいことか! 

  

西河公石と鄭義 

 二月、北魏の西河公石は汝陰太守張超を攻撃したが勝てず、陳項まで退いた。そこで軍議を開いたところ、「一旦、長社まで退却し、秋になるのを待って再び攻撃しよう。」との案が出た。すると、鄭義が言った。
「張超は既に切羽詰まっており、兵糧も底を尽きかけている筈。このまま対峙していれば、降伏はしないでしょうから、逃げ出すに決まっています。そこを待ち受けて撃破するべきです。今、退却して遠く離れたら、その間に奴は城を修復し、兵糧を蓄えるでしょう。そうなれば益々落としにくくなります。」
 だが、西河公は従わず、長社まで退却した。 

  

青・冀州の攻防 

 話は遡るが、尋陽が陥落した時、明帝は沈文秀を招撫しようと考え、弟の沈文炳を使者として、彼の許へ派遣した。又、輔国将軍劉懐珍へ三千の兵を与えて、沈文炳に同行させた。だが、到着する前に張永が敗北したので、劉懐珍は山陽まで退却した。
 沈文秀が青州刺史明僧高を攻撃すると、明帝は龍驤将軍王廣之へ二千五百の兵を与えて劉懐珍の配下へ就け、救援に向かわせた。
 劉懐珍軍が東海へ到着した時には、明僧高は東莱まで退却していた。劉懐珍は句城まで進軍したが、兵卒達は怯えきって、郁洲まで退却したがった。すると、劉懐珍は言った。
「沈文秀は、青州を制圧して、これを手土産に索虜へ降伏するつもりだ。だが、野蛮人の国民となることに、斉の士民が承服しているわけがない。今、我等が進軍して威徳を見せつければ、諸城が我等へ呼応して決起する。今、グズグズして進軍しなければ、却って自ら崩壊してしまうぞ!」
 そして、更に進軍した。青州や冀州の民は、決起して、沈文秀や崔道固を攻撃した。沈文秀が任命した高密・平昌二郡太守が、城を棄てて逃げた。沈文秀と崔道固は北魏へ降伏して、救援を求めた。
 劉懐珍は、沈文秀のもとへ沈文炳を派遣し、明帝の御心を伝えたが、沈文秀はなおも降伏しなかった。だが、百姓は、沈文炳が来たと聞いて皆喜んでいた。
 さて、沈文秀は、劉桃根を長廣太守に任命しており、彼へ数千の兵を与えて不其城を守らせていた。対して劉懐珍は、洋水まで進軍した。すると、劉懐珍の幕僚達は、守備を固めて対峙するよう進言した。しかし、劉懐珍は言った。
「我軍は、兵力も少なく兵糧も乏しいのに敵地深く進軍して来た。今は、精鋭を率いて素早く動き、敵の不意を衝くしかない。」
 そして、王廣之へ百騎を与えて不其城を襲撃させ、これを抜いた。
 諸城が陥落したと聞いた沈文秀は、降伏を申し出た。明帝は、沈文秀を従来通り青州刺史とした。
 すると、崔道固も降伏して来たので、彼も冀州刺史となった。
 こうして青・冀州が平定したので、劉懐珍等は兵を退いた。
 だが、この時北魏は援軍を出していた。率いるのは平東将軍長陵孫。そして、征南大将軍慕容白曜が五万の兵を率いて後続となっていた。慕容白曜は、燕の太祖(慕容光)の玄孫である。
 宋では、沈悠之が彭城から退却する時、長水校尉王玄載(王玄謨の従兄弟)に下丕を守らせ、積射将軍沈韶に宿豫を守らせており、隹陵や淮陽にも守備兵を置いていた。又、東平太守申簒が無塩を守り、幽州刺史劉休賓が梁鄒を守り、ヘイ州刺史房祟吉が升城を守り、輔国将軍張党が團城を守り、その他にもコン州刺史王整、蘭陵太守桓忻、肥城、靡溝、垣苗等が守りを固めて魏へ抵抗していた。
 慕容白曜は、無塩まで進軍して、これを攻撃しようとした。すると、将佐は皆、言った。
「まだ城攻めの道具が完成していませんので、このまま進軍するのは巧くありません。」
 だが、左司馬の麗範は言った。
「今、軽軍で敵地深く侵入した。どうしてグズグズできようか!それに、申簒も我等の進軍が早すぎるのを見て、『どうせ城攻の道具も作ってはおるまい。攻撃してくるのはまだ先の話だ。』と油断して、守備を固めてもいないだろう。今、その不備を衝けば、勝てる。」
 それを聞いて、慕容白曜は言った。
「司馬の策を取るべきだ。」
 三月、明け方に魏軍は攻撃し、食事も終わらない内に城を落とした。申簒は逃げ出したが、魏軍は追いかけて捕らえ、殺した。
 慕容白曜は、城内の人間を悉く奴隷にして、将兵への恩賞に充てようとしたが、麗範は言った。
「斉は天然の要塞。将来の為に確保しておくべきです。今、王帥はここを占領したばかり。斉の人間は、不安な想いでこの城を見つめており、我が軍を撃退しようと志を固くしています。徳と信で彼等を懐けなければ、斉の平定はできません。」
 白曜は言った。
「よろしい!」
 こうして、民は奴隷とならずに済んだ。
 慕容白曜が肥城を攻撃しようとすると、麗範は言った。
「肥城は小城ですが堅牢。力攻めでは時間が掛かります。それに、これに勝っても軍勢が増える訳ではありませんし、勝てなくても我が軍の軍威を傷つけません。そこで献策いたしますが、奴等は無塩の落城を聞き、恐れている筈です。もし、奴等へ書状を渡して訓諭すれば、たとえ降伏しなくても、城を棄てて逃げ出すでしょう。」
 慕容白曜はこれに従った。すると、果たして肥城は潰れ、魏軍は三十万斗の粟を獲得した。
 慕容白曜は麗範へ言った。
「この軍中に卿がいれば、三斉平定も難しくない。」
 遂に、靡溝・垣苗の二塞を取り、一旬のうちに四城を抜き、その軍威は斉を振るわせた。
 升城を守る房祟吉のもとには、満足に武器を扱える兵卒など、七百人そこそこしかいなかった。だが、慕容白曜はこの攻撃に手こずり、長囲を築いてこれを攻撃し、二月から四月までかけて、ようやく落とした。慕容白曜は、その頑強な抵抗に腹を立て、城中の民を全員穴埋めにしようとした。すると、参軍事の韓麒麟が諫めて言った。
「まだまだ、敵は多いのです。ここで民を虐殺しては、これ以降の抵抗は益々激しくなります。敵を容易に落とせず長期戦となれば、そのうち我が軍の士気は低下し、兵糧は尽きます。敵方がそれに乗じれば、我が軍は危ういですぞ。」
 そこで慕容白曜は民を慰撫し、従来の生業を続けさせた。
 ちなみに、房祟吉は、落ち延びることができた。
 崔道固は、城門を閉じて魏軍を拒んだ。だが、沈文秀は魏軍へ使者を派遣して降伏を申し込み、援軍を求めた。慕容白曜は兵を率いて赴こうとしたが、麗範が言った。
「沈文秀の代々の墳墓は江南にあります。彼は数万の兵を擁し、その城は堅固。力攻めで攻めれば拒戦するでしょうし、手を緩めれば逃げ出すでしょう。それなのに、我が軍がまだその城へ迫ってもいないうちに降伏して来て、早く入城するようせき立てております。何を畏忌して、こうも性急に援軍を求めるのでしょうか!それに、使者の顔色を窺えば、うつむいていて恥じる色があり、やたらと口数が多く、そわそわしています。きっと、偽りで我々を誘おうとゆう罠に違いありません。これに従ってはなりません。それよりも、まず、歴城を取り盤陽に勝ち梁鄒を下し楽陵を平定し、その後ゆっくりと進軍すれば、奴が降伏しなくても、何ほどのこともありません。」
 だが、慕容白曜は言った。
「崔道固の兵力は知れた物。だから、敢えて出戦しないのだ。吾の進軍にどんな障害があろうか。我が軍がこのまま東陽へ直行したら、奴は必ず滅ぶ。それを予見できたから、慌てて降伏してきたのだ。何の疑念があるものか!」
「歴城は兵力が多く兵糧もどっさり。一朝一夕には抜けません。そして沈文秀は、東陽へ據り、諸城の根本となっております。今、大軍を東陽へ派遣すれば歴城は落とせません。しかしながら、少数では東陽を制圧することはできません。もしも進軍して沈文秀に拒戦されたら、退却すると諸城から攻撃され、腹背に敵を受けます。どうか再考して、敵の術中に陥られなさいますな。」
 そこで、慕容白曜は、進軍を中止した。果たして、沈文秀は降伏しなかった。 

  

尉元の上奏 

 尉元が上表した。
「彭城は賊軍の要藩です。全力を挙げて奪還に来るでしょうから、大軍と多量の兵糧がなければ守り通せません。しかし、軍備が十分ならば、劉イクが総攻撃を掛けて来ても、淮北には指一本触れさせません。」
 又、言った。
「もしも賊軍が彭城へ向かうなら、その進路は清・泗から宿豫・下丕を経由して青州へ行くか、あるいは下丕から沂水を経由して東安へ行くことになります。この経路は、賊軍にとっても重要な通路です。もしも我が軍が、まず下丕・宿豫・淮陽・東安を占領すれば、青・冀の諸鎮は、攻撃しなくても陥落できます。逆にこの四城を落とさなければ、例え青・冀を抜いても、百姓は僥倖を頼って抗戦するでしょう。ですから、青・冀攻略はひとまず置き、その兵力で、まず東南を攻撃するべきです。そうやって劉イクの気勢を挫き、青・冀の愚民共からは宋を慕う想いを奪いましょう。」 

  

奇策成らず 

 沈悠之が、自ら、下丕へ兵糧を輸送した。その情報を知った魏軍は、沈悠之をだまそうと、清・泗の人間を派遣して彼へ伝えた。
「薛安都は、宋へ降伏したがっています。どうか兵を派遣して迎えに来て下さい。」
 軍副の呉喜が千人を率いて赴こうと申し出たが、沈悠之は許さなかった。しかし、その情報を伝える使者は次々とやって来くるし、呉喜は請願して止まない。そこで、沈悠之は使者達を集めて言った。
「君達の誠意は判った。もしも薛安都を子弟ごと連れてこれるなら、望むままの恩賞を与えよう。だが、それができないのなら、虚しく往還するつもりはない。」
 すると、使者達は一人も戻ってこなかった。
 沈悠之は、軍主の陳顕達へ千人の兵を与えて下丕へ残し、淮陰へ戻った。(訳者、曰く。呉喜は、晋安王平定の時、大活躍した名将だ。それが、今回はうかうか敵の手にはまる所だった。どんな名将と言っても、万全とはいかないものだ。) 

 薛安都の子息の薛令伯が、梁・ヨウ地方へ亡命し、そこで数千人の人間をかき集め、郡県を攻略した。七月、ヨウ州刺史の巴陵王休若が、南陽太守の張敬児を派遣してこれを攻撃し、薛令伯を斬った。 

  

主命もだし難し 

 明帝は、沈悠之へ彭城攻撃を命じた。この頃、清・泗の水が涸れていたので、沈悠之は兵糧が運搬できないと考え、これを拒んだ。だが、明帝はしつこく命じた。明帝からの使者を七回も返したので、遂に明帝は怒り、強制的に派遣した。
 八月、沈悠之を行南コン州刺史に任命し、出陣させた。そして、淮陰は、蕭道成に千人の兵を与えて鎮守させた。蕭道成は豪族や俊才の心の掌握に務めたので、彼の屋敷には賓客が引きも切らずに訪れるようになった。
 ところで、魏軍が彭城へ入城した時、垣祟祖は手勢を率いて逃げ出したが、以来、彼は句山へ立て籠もっていた。この時になって、その垣祟祖が蕭道成へ降伏を申し込んで来たので、蕭道成は垣祟祖を句山戌主とした。句山は海に面し、孤絶した地形だったので、兵卒達は兢々としていた。そこで、垣祟祖は多くの舟を準備して、事あれば海へ逃げ出せるよう準備した。
 そんな中で、垣祟祖の部将が罪を犯し、魏へ亡命し降伏した。そこで、魏の成固公が二万の兵力で句山を襲撃した。
 魏軍が城外二十里の所まで進軍すると、城中は大騒動となり、人々は我先に舟を降ろして逃げ出そうとした。垣祟祖は、腹心へ言った。
「虜には綿密な計画があったのではなく、叛者にそそのかされて襲撃してきただけだから、対応も簡単だ。百人も居れば撃退できる。ただ、部下が浮き足立ったら使えない。卿は、城外一里の所へ出て大声で叫んでくれ。『艾唐郡の義人が、敵を撃破したぞ。各地の守備兵も、次々と合流して、協力して敵を追い払っている。』とな。」
 この呼び声を聞いて、舟の中の人々は大喜びして上陸してきた。垣祟祖は彼等を城内へ引き入れ、老人や子供は島へ避難させた。(注釈が付いていました。「島とは、海の中から突き出ている山である。」・・・中国は大きな国ですから、内陸部に住んでいる人間なんかは、案外島を知らない人も居たのでしょうね。昔は)そして、人々に二本の松明を持たせて山へ登らせ、軍鼓を盛大に鳴らした。それを見た魏軍は、敵方に備えがあると思い、退却した。
 明帝は、この功績によって、垣祟祖を北琅邪、蘭陵二郡太守に任命した。 

 尉元は、孔伯恭へ一万の兵を与え、沈悠之を拒ませた。又、前回の戦争で捕虜とした沈悠之の兵卒達を、膝を切り落として返還し、沈悠之軍の志気を喪失させた。
 やがて、明帝は強制的に派遣したことを後悔し、沈悠之等を呼び戻した。そこで沈悠之は退却した。途中、下丕から五十里辺りの地点で、陳顕達が沈悠之を迎え入れた。そこへ、孔伯恭が追撃を掛けてきた。沈悠之は退却したが、追いつかれ、大敗を喫する。龍驤将軍姜彦之等が戦死した。沈悠之も負傷して陳顕達の陣営へ逃げ込んだが、その陣も潰れ、軽騎で逃げ出す羽目となった。又しても、万を越える軍資器械が放置されてしまった。
 沈悠之は、淮陰へ戻った。 

  

魏軍の進撃 

 尉元が徐州刺史王玄載へ手紙を書いて禍福を諭すと、王玄載は下丕城を棄てて逃げ出した。魏軍は、辛紹先を下丕太守とした。辛紹先は、明察を尊ばず、要点だけを大切にし、民へは悪事を働かないことと敵を防ぐことだけを教えたので、下丕は安定した。 

 孔伯恭は更に進軍して宿豫を攻撃した。宿豫の守将魯僧遵は城を棄てて逃げる。 

 魏の将軍孔大恒等が千騎を率いて淮陽を攻撃し、淮陽太守崔武仲は、城を焼いて逃げた。 

 慕容白曜は瑕丘まで進んだ。
 話は戻るが、まだ崔道固が宋へ降伏していなかった頃、綏辺将軍房法寿が屡々崔道固軍を撃破し、歴城の人々は彼を畏れていた。やがて崔道固が降伏すると、房法寿は武装を解除した。崔道固は、房法寿が百姓を煽動することを畏れていたので、建康へ帰るよう、房法寿へ迫った。
 そんな中で、従兄弟の房祟吉が、升城からやって来た。彼は母と妻を魏に捕らえられたので、房法寿へ相談に来たのだ。房法寿は、もともと建康へ戻りたくはなかったので、崔道固が迫るのを怨んでいた。
 折りも折り、崔道固が、房霊賓を磐陽へ派遣して、これを守らせた。そこで、房法寿と房祟吉は磐陽を襲撃してここに據り、房祟吉の母妻を返して貰うことを条件に、慕容白曜へ降伏した。
 崔道固は派兵してこれを攻撃したが、慕容白曜も磐陽へ援軍を出したので、崔道固は退却した。慕容白曜は、韓麒麟と房法寿を冀州刺史とし、房法寿の従兄弟八人を皆、郡守とした。
 慕容白曜は、瑕丘から更に進んで歴城の崔道固を攻撃した。又、平東将軍の長孫陵等へは、東陽の沈文秀を攻撃させた。
 崔道固は固守して降伏しなかったので、慕容白曜は長囲を築いて対峙した。
 長孫陵が東陽へ到着すると、沈文秀は降伏を申し出た。だが、長孫陵は西郭へ入城すると、兵卒達へ好き勝手に略奪させたので、沈文秀は悔怒し、城門を閉じて拒守と共に、長孫陵等を攻撃して、撃破した。長孫陵は清の西まで退却し、屡々東陽城へ攻撃を掛けたが、勝てなかった。 

  

献文帝親政 

 この頃、魏本国では馮太后が政権を魏帝(献文帝)へ譲った。献文帝は治世に心を配り、賞罰を厳明にし、貪婪な人間を罰し清節な人間を抜擢したので、魏は大いに治まった。
こうして、魏の牧守に清廉潔白な人間が多数輩出する時代が到来した。 

  

劉休賓 

 十二月、幽州刺史の劉休賓が、コン州刺史となった。
 劉休賓の妻と子供は魏に捕まっていたので、慕容白曜は彼等を城下へ連れてきて、見せつけた。劉休賓は、魏へ降伏したくなり、慕容白曜のもとへ密かに使者を派遣したが、甥の劉聞慰が反対した。すると、慕容白曜は、城下へ使者を出し、大呼した。
「劉休賓!お前は降伏を申し出ながら、何をグズグズしているのか!」
 これによって、この一件が城中に知れ渡り、皆して劉休賓を監禁して抗戦した。そこで魏軍はこれを包囲した。 

  

劉面の活躍 

 西河公石は再び汝陰を攻撃したが、汝陰は軍備が充実していたので功績を建てられず、退却した。
 ところで、常珍奇は魏に降伏したが、内心では宋へ戻りたがっていた。これを知った豫州刺史劉面は、書状を遣って招いた。そこで、西河公が汝陰へ出撃している隙に、常珍奇は懸瓠を焼き払い、上蔡・安成・平輿の民を駆り立てて灌水に屯営した。
 四年、魏の汝陽司馬趙懐仁が武津へ来寇した。劉面は、龍驤将軍申元徳を派遣して、これを撃破。又、魏の于都公を斬り、兵糧運搬車千三百乗を捕獲した。
 魏は報復の為、義陽へ来寇したが、劉面はこれも撃破した。
 淮西の住民賈元友が、魏軍を討伐して淮西を奪還する策を考え、明帝へ上書した。明帝がそれを劉面へ見せると、劉面は言った。
「元友は、『魏は、幼弱の主君を抱え、内外共に多難です。今こそ魏を滅ぼす時です。』と述べています。しかし、昨年から我が王土は虜敵に蹂躙され数郡を奪われている有様。今春以来、敵は幾つもの城へ迫っており、我が国は国境恢復もままならない状況です。何で虜を滅ぼすことなどできましょうか!元友が述べている事は事実無根の誇誕狂謀ばかり。口先では何とでも言えますが、実践は困難です。
 臣は元嘉以来の北伐について振り返ってみましたが、遠征を口にするのは朝廷の人間ばかり。辺境の実情も知らないで、軽々しく討虜を勧め、手ひどい目に遭ってきているのです。今回のことも従前と同様。現実離れしております。」
 そこで、明帝は賈元友の策を却下した。
 二月、常珍奇が都督司・北豫二州諸軍事、司州刺史に任命された。西河公石は、これを襲撃し、常珍奇は単騎で寿陽へ逃げた。
 三月、劉面は、許昌にて魏軍を破った。 

  

懐柔策 

 尉元は、東徐州刺史張党のもとへ使者を派遣し、降伏を勧めた。張党は、團城ごと魏へ降伏した。魏は、中書侍郎高閭と張党を東徐州刺史とし、李燦と畢衆敬を東コン州刺史に任命した。
 尉元は、又、コン州刺史王整と蘭陵太守桓忻にも降伏を勧め、両者とも降伏した。
 魏は、尉元を開府儀同三司、都督徐・南・北コン三州諸軍事、徐州刺史とし、彭城を鎮守させた。
 薛安都と畢衆敬には、入朝を命じた。彼等が平城へ来ると、献文帝は上客の待遇で彼等をもてなし、侯爵に封じて邸宅も賜下した。その俸禄も、たいしたものだった。 

 慕容白曜は、歴城を包囲したまま年を越した。二月、東郭を落とす。とうとう、崔道固は面縛して降伏してきた。慕容白曜は、崔道固の子息の崔景業と劉文曄を梁鄒へ連れていった。すると、劉休賓も降伏してきた。そこで慕容白曜は、崔道固と劉休賓及び彼等の僚属を平城へ送った。
 ところで、明帝は崔道固の甥の崔僧佑を輔国将軍に任命し、数千の兵を与えて歴城救援に向かわせていた。だが、不其まで進んだ所で、歴城陥落の報告を受けた為、崔僧佑も魏へ降伏した。
 三月、慕容白曜は、進軍して東陽を包囲した。
 七月、明帝は沈文秀の弟の沈文静を輔国将軍とし、高密等五郡をその指揮下に置いて、東陽救援に向かわせた。だが、不其まで来たとき、敵の為に進軍できなくなり、不其城へ入城して守備を固めた。魏軍はこれを何度も襲撃したが、勝てなかった。やがて、青州から東青州が分離し、沈文静は東青州刺史となった。
 十月、日食が起こった。
 明帝は、諸州の兵を徴発して、北伐を行った。
 十二月、魏軍は不其城を抜き、沈文静を殺し、東陽城の西郭へ入城した。
 五年、東陽城の包囲は足かけ三年を迎えた。外からの救援はなく、士卒は昼夜分かたず拒戦に務めていた。甲冑からは蚤や虱がわき出たが、士卒達の誰も造反しようとはしなかった。
 正月、乙丑。魏軍は遂に東陽城を抜いた。
 沈文沈は戎服を脱ぐと衣冠を正し、皇帝から与えられた節を持って、斎内で居住まいを正した。やがて、魏の兵卒が乱入してきて言った。
「沈文秀はどこにいる?」
 沈文秀は声を獅轤ケて言った。
「私はここに居る!」
 魏兵は彼を捕らえ、その衣を剥ぎ、縛り上げて慕容白曜のもとへ送った。そして、慕容白曜へ対して拝礼させようとしたが、沈文秀は言った。
「私も彼も、共に一国の大臣だ。何で拝礼しなければならんのか!」
 慕容白曜は、沈文秀へ衣服を返してやり、彼の為に宴席を設けた後、鎖を付けて平城へ送った。
 魏の献文帝は、沈文秀の罪状(降伏を申し出て翻ったことなど)を数え上げたが、特にそれを赦し、下客の待遇でもてなした。下客だから、配給される衣服も食事藻粗末なもの。だが、やがて彼が屈しなかったその態度が献文帝の御意に適い、外都大夫に任命された。
 ここにおいて、青・冀州は全て北魏の版図へ入ってしまった。
 二月、魏の慕容白曜が都督青・斉・東徐三州諸軍事、征南大将軍、開府儀同三司、青州刺史となり、済南王へ進爵した。慕容白曜は人々を慰撫したので、東方の人心は安定した。
 北魏では、天安(宋の泰始二年に、北魏は天安と改元した)飢饉が続き、青・徐州では戦争が止まなかった為、山東の民は重税に疲れ切っていた。顕祖は、税制を改革し、正規の賦税以外は悉く免除した為、民衆は漸く一息つけるようになった。
 五月、魏は、青・斉の民を平城へ強制連行した。平斉郡を新設して、升城と歴城の民はここに住ませた。それ以外は、悉く奴婢として、百官へ分賜した。 

  

(訳者、曰) 

 宋の内乱に乗じて、北魏がその領土を拡大した。ところで、魏軍が降伏した城へ入城した時、その占領下の統治は酷いものだった。薛安都、常珍奇を始めとして降伏した武将は全てそれを後悔したが、無理のない話だ。甚だしきに至っては、降伏してきた城で略奪まで働いている。そもそも、薛安都や常珍奇らは、本心から北魏へ降伏したがっていたのだ。それが忽ち後悔したとゆうのは、宋へ対する感傷ではあるまい。
 後、魏で献安帝が政権を握ると、降伏した宋の重臣達は、平城にて高貴な生活が与えられた。こうすれば、一つには、彼等の再度の裏切りが防止できるわけであるし、二つにはこれから降伏する人間へ対して、安楽な一生を宣伝して、これを呼び寄せることにもつながる。そうなってから、膠着状態が改善されたと見ることはできないだろうか?
 もしも、北魏が占領地での対応法に早くから精通していたら、この戦乱はもっと短期間で片が付いていたに違いない。