朝鮮   3.百済滅亡
 
 貞観二十二年(648)、正月。新羅王金善徳が卒した。善徳の妹の真徳を柱国とし、楽浪郡王に封じ、使者を派遣して册命した。 

 同月丙午、右武衞大将軍薛萬徹を青丘道行軍大総管とし、右衞将軍裴行方を副官として、三万余の兵と楼船戦艦を率い、莱州から海を渡って高麗を討つよう、詔が降りた。
 四月甲子、烏胡の鎮将古神感が兵を率いて海路から高麗を攻撃した。高麗の歩騎五千と易山にて遭遇し、これを破る。
 その夜、高麗兵萬余人が神感の船を襲撃したが、神感は伏兵を設けており、これも撃破して、還った。
 六月、太宗は、高麗が困窮したと見て、明年三十万の軍を発して一挙に滅ぼそうと思い、議論させた。ある者は、大軍が東征するには兵糧の準備が不可欠だとして、これを運ぶ為に軍艦を整備しようと言った。ところで、隋末の動乱期に、剣南だけは盗賊が起きなかった。遼東の軍役も剣南には及ばなかったので、その百姓は裕福だった。そこで、彼等へ舟艦を造らせればよい、と建議した。上は、これに従う。
 七月、領左右府長史強偉を剣南道へ派遣し、木を斬って舟艦を造らせた。その大きいものは、長さ百尺、広さ五十尺あった。別の使者を水道から派遣して、巫峽から江・揚を通って莱州へ向かわせた。
 同月、房玄齢が卒した。玄齢は、卒するに当たって、上の朝鮮出兵を諫めた。詳細は、「貞観の治 その六」に記載する。
 八月、己酉朔、日食が起こった。
 丁丑、越州都督府と務、洪等の州へ海船及び双舫千百艘を造るよう、敕した。
 九月癸未、薛萬徹等が高麗を伐って還った。萬徹は軍中で勝手気儘に掠奪をした。裴行方がその怨望を上奏したので、萬徹は有罪となり象州へ流された。
 己丑、新羅が、百済から攻められて十三城を破られたと上奏した。
 十二月癸未、新羅の相金春秋とその子の文王が入見した。春秋は眞徳の子息である。
 上は春秋を特進として、文王を左武衞将軍とした。春秋は、新羅の朝廷で中国と同じ服装を使うことを請うた。そこで唐では、冬服を賜下した。 

 二十三年、六月、太宗皇帝が崩御した。高宗皇帝即位。
 永徽二年(651)百済の使者が入貢した。上はこれを戒めた。
「新羅や高麗と戦争をしてはならない。そんなことをしたら、我は出兵して汝を討つ。」
 三年春、正月、己未朔、吐谷渾、新羅、高麗、百済が使者を派遣して入貢した。 

 五年閏月壬辰、新羅女王金眞徳が卒した。詔してその弟の春秋を立てて新羅王とする。 

 十月、高麗がその将安固へ高麗、靺鞨の兵を率いて契丹を攻撃させた。松漠都督李窟哥がこれを防ぎ、新城にて高麗軍を大いに敗った。
 六年、正月。高麗と百済、靺鞨が連合して新羅の北境を侵略し、三十三城を取った。新羅王春秋は救援の使者を派遣する。
 二月、乙丑、営州都督程名振、左衞中郎将蘇定方を派遣し、兵を発して高麗を攻撃した。
 五月、壬午。名振等は遼水を渡った。
 高麗軍は敵が少ないと見て、門を開き、貴端水を渡って逆戦する。名振は奮撃して大いにこれを破り、千余人を殺獲する。その外郭及び村落を焼き払い、還る。 

 顕慶三年、(658年)六月、営州都督兼東夷都護程名振、右領軍忠郎将薛仁貴が兵を率いて高麗の赤烽鎮を攻撃し、これを抜く。斬首は四百余級、捕虜は百余人。
 高麗はその大将豆方婁へ三万の兵を与えて派遣し、拒戦させた。名振は契丹を以て迎撃し、大いにこれを破る。二千五百級を斬首する。
 四年十二月、右領軍中郎将節仁貴等が横山にて高麗の将軍温沙門と戦い、これを破った。 

 百済は高麗の援助を恃み、屡々新羅を侵略した。新羅王春秋は上表して救援を求める。
 五年正月辛亥、左武衞大将軍蘇定方を神丘道行軍大総管として、左驍衞将軍劉伯英等謬万を率いて百済を討伐させた。
 春秋を嵎夷道行軍総管とし、新羅の衆を率いてこれに合流させた。
 八月、蘇定方が兵を率いて成山から海を渡った。百済は熊津江口へ據ってこれを拒んだが、定方は進撃してこれを破った。百済の死者は数千人。その他は皆潰走した。
 定方は水陸二道から進軍し、その都城へ直進した。まだ二十余里にも至らない内に、百済は総力を挙げて来戦したが、これを大いに破る。万余人を殺し、逃げるのを追ってその郭へ入る。百済王義慈と太子隆は北境へ逃げた。定方は進軍して都城を包囲した。
 都城では、義慈の次男泰が自立して王となった。衆を率いて固く守る。すると、隆の子の文思は言った。
「王も太子も健在なのに、叔父上ははやばやと兵を擁して王と名乗った。彼等が唐軍を撃退したら、我が親子は必ず殺される。」
 遂に左右を率いて城壁をこえて降伏した。百姓は皆これに従う。泰は止めきれなかった。定方は、登城して幟を立てるよう軍士へ命じた。泰は切羽詰まり、開門して命を請うた。
 ここにおいて義慈、隆及び諸城主が皆降伏した。
 百済は元々五部に分かれ、三十七郡に分けて統治し、二百城、七十六万戸だった。この土地へ熊津等五都督府を設置するよう詔が降る。その酋長を都督や刺史とする。
 十一月、戊戌朔。上が則天門楼へ御幸し、百済の捕虜を受ける。その王義慈以下皆を赦した。
 蘇定方は前後して三国を滅ぼし、三度ともその主を生け捕りにした。
 天下へ赦を下す。 

 十二月壬午、左驍衞大将軍契必何力を貝(「水/貝」)江道行軍大総管・左武衞大将軍蘇定方を遼東道行軍大総管、左驍衞将軍劉伯英を平壌道行軍大総管、蒲州刺史程名振を鏤方道総管として、軍を分けて各々別道から高麗へ向かわせた。
 青州刺史劉仁軌は、監督していた兵糧船が転覆したので有罪となり、白衣を以て従軍し尽力した。
 龍朔元年(661)正月、乙卯。河南北、淮南の六十七州兵から募集して四万四千人を得て、平壌、鏤方の陣営へ向かわせた。
 戊午、鴻臚卿蕭嗣業を扶餘道行軍総管として、回乞等諸部の兵を率いて平壌へ向かわせた。 

 蘇定方が百済を平定した時、郎将の劉仁願を留めて百済府城を鎮守させた。又、左衞中郎将王文度を熊津都督として、その余衆を安撫させた。
 文度が海を渡って卒すると、百済の僧道深(ほんとうは王偏)と元の将軍福信が衆を集めて周留城を占拠し、元の王子豊を倭国から迎え入れて擁立した。そして兵を率い、府城の仁願を包囲した。
 三月、劉仁軌を検校帯方州刺史として、王文度の軍を率いさせ、新羅の兵を徴発して仁願を救援するよう詔が降りる。
 仁軌は喜んで言った。
「天は、この翁を富貴にしてくれるか!」
 やがて州司は唐の暦及び廟諱を使用したいと請願したので、言った。
「吾は東夷を掃平し、大唐の正朔を海表へ頒布するのだ!」
 仁軌の御軍は厳整で、戦いながら進軍し、向かうところは全て下した。
 百済は、熊津江口へ二つの柵を設けていた。仁軌は新羅の兵と合流して攻撃し、これを破る。百済は万余人が戦死、溺死した。
 道深は府城の包囲を解き、退却して任存城を保つ。新羅は、兵糧が尽きて退却した。
 道深は領軍将軍を自称し、福信は霜岑将軍と自称した。人々を招き集め、その勢力は益々増大する。仁軌は兵力が少なかったので、仁願と合流して士卒を休めた。
 新羅が出兵し、新羅王春秋は詔を奉じ、その将金欽へ兵を与えて派遣し、仁軌を救援させた。だが、古泗にて福信がこれを攻撃して、破る。欽は葛嶺道から新羅へ逃げ帰り、再び出ようとしなかった。
 福信は道深を殺し、国兵を専断した。 

 四月庚辰、任雅相を貝江道行軍総管、契必何力を遼東道行軍総管、蘇定方を平壌道行軍総管として、蕭嗣業及び諸胡兵およそ三十五軍と共に水陸から並進させた。
 上は、自ら大軍を率いて後続となりたがった。癸巳、皇后は抗表で高麗親征を諫める。詔して、これに従った。
 七月甲戌。蘇定方が貝江にて高麗を破った。定方は屡々戦ったが、全て勝ち、遂に平壌城を包囲した。
 九月癸巳朔、特進新羅王春秋が卒した。その子の法敏を楽浪郡王、新羅王とする。
 高麗の蓋蘇文が子息の男生へ精兵数万を与え、鴨緑水へ派遣して守らせた。諸軍は、渡河できない。九月、契必何力が到着すると、川の水が凍り付いたので、何力は衆を率いて氷を踏んで渡河した。軍鼓を盛大に鳴らして進むと高麗軍は大いに潰れた。数十里追撃して、三万級を斬首する。その余衆は、皆、降伏した。男生は僅かに体一つで逃げ出した。
 ここで休戦の詔が降りたので、還った。 

 二年二月甲戌、貝江道大総管任雅相が軍中で卒した。雅相は将となってからは、親戚や昔の部下を従軍させるよう上奏したことがなく、皆、所司へ移して代わりを授った。彼は、人へ言った。
「官は大小となく、皆、国家の公器だ。どうして私意で使って良いものか!」
 これによって、軍中は賞罰が公平で、人は服従した。
 戊寅、左驍衞将軍白州刺史沃沮道総管龍(「广/龍」)孝泰が蛇水の上で高麗と戦い、敗北した。その十三人の子息は全員戦死する。
 蘇定方は平壌を包囲したが、長い間落とせない。やがて大雪にあったので、包囲を解いて還った。 

 七月丁巳、熊津都督劉仁願、帯方州刺史劉仁軌が熊津にて百済を大破し、眞見(「山/見」)城を抜く。
 初め、仁願、仁軌等は熊津城へ屯営していた。上はこれへ敕書を与えた。その大意は、
「平壌の軍が撤退した。一城では弱い。宜しく撤退して新羅へ戻れ。もしも金法敏が卿等の力を借りたら留まって鎮守できるとゆうのなら、彼の元へ留まれ。だが、それができなければ海路から帰国せよ。」
 将士の中には西へ帰りたがる者も居た。だが、仁軌は言った。
「人臣が公家の利益の為に働くのだ。死ぬことはあっても二心を持って生きることはない。どうして私欲を先に持つことができようか!主上は高麗を滅ぼしたがっておられる。だから、先に百済を誅し、兵を留めてこれを守り、その心腹を制したのだ。余寇が充満して守備は非常に厳重だが、兵を練り馬へ馬草をたっぷり与え、その不意を衝いたなら、勝てぬ筈がない。既に勝った後に士卒の心を安堵させる。そして兵を分散して険に據り、形勢を開き、飛表を出して援軍を求めるのだ。朝廷がその成功を知れば、必ず将へ出陣を命じる。これが声援すれば、凶醜は自ら殲滅する。これは、ただ成功を棄てないだけではなく、実に海表を永く清められる。今、平壌の軍は既に還った。熊津まで抜かれたら百済の余燼はすぐにでも再興する。そして高麗の寇が残ったなら、いつになったら滅ぼせるのか!それに、今一城で敵地のまっただ中に居る。下手に動いたらすぐに捕らえられてしまうぞ。たとえ新羅へ入ることができても、客分になるのだから不自由なもの。悔いても及ばないぞ。いわんや福信は凶悖残虐。君臣は猜疑し、今に屠戮が起こる。ここは堅守して変を観、便宜に乗じてこれを取るべきだ。動いてはならない。」
 衆はこれに従った。
 この時、百済王豊と福信は、仁願等が孤城無援なので使者を派遣して言った。
「大使等はいつ西へお帰りになるのか。当方はお送りしてあげましょう。」
 仁願、仁軌は彼等に備えがないことを知り、突然出撃してその支羅城及び尹城、大山、沙井等の柵を抜き、大勢を殺獲して兵を分けてこれを守った。
 福信等は眞見城が険要なので、兵を加えてこれを守った。仁軌は敵の志気が緩むのを伺い、新羅兵を率いて夜、城下へ行き、城壁をよじ登り、明け方、その城へ入り據った。これによって、遂に新羅からの糧道が確保された。 

 仁願が援軍を奏願すると、詔してシ、青、莱、海の兵七千人を熊津へ派遣した。
 一方百済では、福信が専横を振るい、百済王豊との間に次第に猜疑が芽生えてきた。福信は病気と称して窟室に伏し、豊が見舞いにくるのを待ってこれを殺そうと思った。豊はこれを知り、自ら兵を率いて襲撃し、福信を殺した。そして高麗、倭国へ使者を派遣し、唐兵を拒む為の援軍を請うた。
 十二月、戊申。高麗、百済討伐の詔が降りる。河北の民が征役で疲れきったので、泰山の封禅と東都御幸は共に中止となった。 

 三年四月乙未、新羅に鶏林大都督府を設置し、金法敏を都督とする。 

 九月、戊午。熊津道行軍総管、右威衞将軍孫仁師等が白江にて百済の余衆及び倭兵を破った。その周留城を抜く。その経緯は、以下の通り。
 劉仁願、劉仁軌が眞見城に勝った後、上は孫仁師へ、兵を率い海へ浮かんでこれを助けるよう詔した。百済王豊は倭人を味方に引き込んで唐兵を拒んだが、仁師は仁願、仁軌と合流して、その威勢は大いに振るった。諸将は、加林城が水陸の要衝なので、まずこれを攻めるよう欲したが、仁軌は言った。
「加林は険固だ。急攻したら士卒を傷つけ、ゆっくり攻めたら持久戦に持ち込まれる。周留城は虜の巣窟で群凶が集まっている。悪を除くには、元から絶つこと。まずこれを攻めよう。周留に勝てば、諸城は自ら下る。」
 ここにおいて仁師、仁願と新羅王法敏は陸軍を率いて進んだ。仁軌と別将杜爽、扶餘隆は水軍及び糧船を率いて熊津から白江へ入り、陸軍と共に周留城へ向かった。
 倭兵と白江口にて遭遇した。四戦して全勝し、その舟四百艘を焼く。煙炎は天を焦がして海水は朱に染まる。
 百済王豊は体一つで脱出し高麗へ逃げた。王子忠勝、忠志等は衆を率いて降伏する。
 こうして百済は悉く平定したが、ただ別帥遅受信だけは任存城へ據って下らなかった。
 さて、ここに百済西部の人黒歯常之とゆう男がいる。彼は、身長七尺余、驍勇で謀略があった。百済へ仕えて達率兼郎将となったが、これは中国で言う刺史のような職務だ。
 蘇定方が百済に勝った時、常之は手勢を率いて降伏した。ところが定方は王と王子を縛りあげ、兵には掠奪をさせたので、壮者が大勢死んだ。常之は懼れ、左右十余人と本部へ逃げ帰り、亡散者をかき集めて任存山を保ち、柵を結んで守備を固めた。旬月の間に三万人が集まった。
 定方は兵を遣ってこれを攻めたが、常之は拒戦し、戦況は唐兵不利だった。常之は二百余城を回復し、定方は勝てずに還った。
 常之と別部将沙託(本当は、口偏)相如は、各々険に據り福信に応じたが、百済が敗北すると部下を率いて降伏した。
 劉仁軌は常之、相如とその部下達へ任存城を取らせようと、兵糧を与えてこれを助けた。すると孫仁師が言った。
「こいつらは獣心だ。何で信じられるか!」
 だが、仁軌は言った。
「我の観るところ、この二人は忠勇で謀略もあり、信に厚く義を重んじる人間だ。ただ、前回は託した者が悪人だっただけ。今、まさに感激して功績を建てる時だ。嫌疑は不用だ。」
 遂に糧杖を配給し、兵を分けてこれに従う。
 唐軍は任存城を抜き、遅受信は妻子を棄てて高麗へ逃げた。
 劉仁軌は兵を率いて百済を鎮守し、孫仁師、劉仁願は還るよう詔が降りた。
 百済は戦乱の後で、家などは焼け落ち、屍は野に満ちていた。仁軌は屍を埋葬させ、戸籍を作り、村へ人を集め、官長を一時代行し、道路を開通させ、橋梁を立て、堤防を補強し、陂塘を復旧し、耕桑を勧め、貧乏へ賑給し、孤老を養い、唐の社稷を立てて正朔と廟諱を頒布した。百済は大いに悦び、皆、生業に安んじた。仁軌は、その後に屯田を修めて、兵糧を蓄え、士卒を訓練し、高麗を図った。
 劉仁願が京師へ至ると、上はこれへ尋ねた。
「卿が海東で前後して上奏した事は、皆、機宜に合っており文理も備わっている。本は武人なのに、どうしてそんなにできたのだ?」
 仁願は言った。
「これは皆、劉仁軌のやったことです。臣の及ぶところではありません。」
 上は悦び、仁軌へ六階を加え、帯方州の正式な刺史とし、長安へ弟を築き、その妻子へ厚く賜った。また、使者を派遣して璽書を賜り、これを慰労して励ました。
 上官儀が言った。
「仁軌は白衣として従軍したのですが、よく忠義を尽くしました。仁願は節制を持ち賢人を推挙しました。皆、君子と言うべきです!」 

 麟徳元年(664)十月庚辰。検校熊津都督劉仁軌が上言した。
「臣が伏して見ますに、現地の守備兵は疲弊したり負傷した者が多く、勇健な兵は少く、衣服は貧しくくたびれ、ただ帰国することばかり考えており、戦意がありません。
 臣が、『かつて海の西にいた頃は、百姓は自ら募兵し争うように従軍しているのを見た。あるいは自ら威服兵糧を携えて「義征」と言っていたものだ。それなのに、今日の兵士はどうしてこうなったのか?』と尋ねてみたところ、ある者は言いました。
『今日とかつてでは官府が変わってしまいましたし、人心もまた異なります。かつての東西の征役では王事に没しますと、勅使の弔祭を蒙り、官爵を追贈され、あるいは死者の官爵が子弟へ授けられました。凡そ遼海を渡る者は、皆、勲一轉を賜ったものです。ですが顕慶五年以来、征人は屡々海を渡るのに官は記録しません。戦死しても、誰が死んだのか聞かれもしません。州県が百姓を徴発するたびに、壮にして富める者は銭を渡して誤魔化し合い、皆、免れてしまい、貧しい者は老人でも連行されてしまうのです。先頃百済を破り高麗と苦戦しました。当時の将帥の号令は勲賞を許し至らぬ事はありませんでした。ですが西岸へ到達するに及んでは、ただ枷や鎖で強制されるのを聞くばかり。賜を奪い勲を破り、州県から追いかけられて生きることさえままならぬ。公私共に困弊し、言い尽くすこともできません。そうゆう訳で、昨日海西へ出発した時、既に逃亡する者もいましたが、これは何も海外に限ったことではありません。又、もとは征役の勲級によって栄寵したものですが、近年の出征は、勲官でもお構いなしに引っぱり出しており、白丁と変わりなくこき使われています。百姓が従軍を願わないのは、この様なけです。』
 臣は、又、尋ねました。
『往年の士卒は鎮に五年留まったが、今の汝等は赴任して一年しか経っていない。それなのに、なんでそんなにくたびれた有様なのだ?』
『家を出発する時に、ただ一年分の装備のみを支給されたのです。ですが既に二年経ちました。まだ帰して貰えません。』
 臣は軍士達が持っている衣を検分しました。今冬は何とか身を覆うことができるでしょうが、来秋はどうやって過ごせましょうか。
 陛下が兵を海外に留めているのは、高麗を滅ぼすためです。百済と高麗は昔からの同盟国で、倭人も遠方とはいえ共に影響し合っています。もしも守備兵を配置しなければ、ここは元の敵国に戻ってしまいます。今、既に戍守を造り屯田を置きました。士卒と心を一つにしなければならないのに、このような意見が出ています。これでどうして成功しましょうか!増援を求めるのではありません。厚く慰労を加え、明賞重罰で士卒の心を奮起させるのです。もしも現状のままならば、士卒達は疲れ果てて功績などとても立てられないでしょう。
 耳に逆らうことは、あるいは陛下へ言葉を尽くす者がいないかも知れません。ですから臣が肝胆を披露し、死を覚悟で奏陳するのです。」
 上はその言葉を深く納め、右威衞将軍劉仁願へ兵を与えて派遣し、守備兵を交代させた。そして仁軌へは兵卒達と共に帰国するよう敕した。
 仁軌は仁願へ言った。
「国家が海外へ派兵したのは、高麗経略の為だが、これは簡単には行かない。今、収穫が終わっていないのに、軍吏と士卒が一度に交代し、軍将も去る。夷人は服従したばかりだし、人々の心は安んじていない。必ず変事が起こる。しばらくは旧兵を留め、収穫が終わり資財を揃えてから兵を返すべきだろう。軍をしばらく留めて鎮撫するべきだ。まだ帰れない。」
 仁願は言った。
「吾が前回海西へ還った時、大いに讒言された。吾が大軍を抱えて留まれば、海東へ割拠することを謀っていると言われ、きっと禍は免れない。今日はただ敕の通りにやるだけだ。どうして勝手に変更できようか!」
 仁軌は言った。
「いやしくも御国の利益になるならば、人臣は知りて為さないものはない。なんで私に曳かれようか!」
 そして上表して便宜を陳述し、自ら海東へ留まって鎮守する事を請願した。
 上は、これに従った。そして扶餘隆を熊津都尉とし、その余衆を招かせた。 

 二年九月、上は、熊津都尉扶餘隆と新羅王法敏へ過去の怨みは水に流すよう命じた。八月、壬子、熊津城で同盟する。
 劉仁軌は、新羅、百済、耽羅、倭国の使者が海路で西へ還ったので、泰山の祠で会合した。高麗も太子福男を派遣して侍祠した。 

  

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