西域      クチャ
 
貞観二十一年(647年)九月クシャ王伐畳が卒した。弟の訶黎布失畢が立ったが、臣下としての礼がない上、近隣を侵略してまわった。上は怒る。
 戊寅、使持節・崑丘道行軍大総管・左驍衞大将軍阿史那社爾、副大総管・右驍衞大将軍契必何力、安西都護郭孝恪等へ、兵を率いてこれを討つよう詔する。鐵勒十三州、突厥、吐蕃、吐谷渾へ、合流してこれを討伐するよう命じる。
 二十二年三月甲午、上が侍臣へ言った。
「朕は若い頃から戦上手で、敵の動向の予測が巧かった。今、崑丘へ出兵したが、處月、處密の二部とクチャで権勢を振るっているのは、羯猟顛と那利が筆頭だ。絶対、彼等の首が届いてから、次に布失畢が来るぞ。」
 六月庚寅、西突厥の相屈利啜が部族を率いてクチャ討伐へ従軍することを請願した。
 九月庚辰。崑丘道行軍大総管阿史那社爾が處月、處密を撃ち、これを破った。余衆は全て降伏する。阿史那社爾は處月と處密を破ると、兵を退いて焉耆の西からクチャの北境へ赴いた。兵を五道へ分けて敵の不意を衝く。
 耆王薛婆阿支は城を棄ててクチャへ逃げ、その東境を保つ。社爾は追撃してこれを捕らえ、斬る。そして、その従父弟の先那準を立てて耆王とし、職貢を修めさせた。
 クチャは大いに震駭し、億の守将が城を棄てて逃げた。社爾は進軍して磧口へ屯営した。そこは、クチャの首都から三百里の場所である。伊州刺史韓威へ千余を与えて先鋒として派遣し、右驍衞将軍曹継叔が後続となる。
 多褐城へ至ると、クチャ王訶利布失畢と、その相羯猟顛が五万の軍を率いて拒戦した。交戦すると、威は偽って逃げた。クチャは全軍を挙げて追撃する。三十里ほど進むと、威は後続の継叔と合流した。クチャは懼れ、退却する。継叔がこれに乗じたので、クチャは大敗し、八十里逃げた。
 クチャ王布失畢は敗北の後、都城へ逃げ込んで、確保した。阿史那社爾が進軍してこれに迫ると、布失畢は軽騎で西へ逃げた。社爾はその城を抜き、安西都護郭孝恪に守らせた。
 沙州刺史蘇海政と尚輦奉御薛萬徹が精騎を率いて布失畢を追撃する。六百里進軍すると、布失畢は切羽詰まって撥換城を保った。社爾は、進軍してこれを四旬、攻め続けた。
 閏月、丁丑、これを抜き、布失畢と羯猟顛を捕らえる。
 那利は体一つで逃げ出したが、密かに西突厥の衆とクチャの兵万余人を率いて、孝恪を襲撃した。この時、孝恪は城外に屯営していた。これを報告してくれたクチャの人間も居たが、孝恪は気に留めなかった。
 那利がやって来ると、孝恪は手勢千余人を率いて城内へ入った。那利の兵が城へ登ると、城内の降胡がこれに呼応して共に孝恪を攻撃してきた。矢が、雨のように降る。孝恪は敵しきれず、城から脱出しようとしたが、西門にて戦死した。
 城中は大騒動になった。倉部郎中崔義超が募兵して二百人を得た。軍資財物を守り、城中でクチャと戦う。曹継叔と韓成もまた、城外に屯営し、城の西北の隅を攻撃した。
 那利はしばらくして退却した。三千余の首級を斬り、城中はようやく安定した。
 旬余日後、那利は北クチャの兵万余人を率いて、再び国都へ攻め寄せた。継叔は迎撃して、大いに破り、八千の首級を挙げる。那利は単騎で逃げたが、クチャ人がこれを捕らえ、軍門へ差し出した。
 阿史那社爾は敵の大城を合計五つ破った。左衞郎将権祇甫へ諸城を巡らせて禍福を説かせると、皆、降伏を請うてきた。これによっておよそ七百城を得、男女数万人を虜にした。社爾はそれらのうち父老を呼び寄せ、唐の威霊を述べ、今回の戦争が罪を伐つものだったことを伝え、王の弟の葉護を王に立てた。クチャの人々は大いに喜ぶ。
 西域は大騒動となり、西突厥、于眞(「門/眞」)、安国が争うように軍糧を満載した駱駝を贈ってきた。社爾は戦功を石へ刻み込んで還った。
 二十三年、正月辛亥。クチャ王布失畢と、その相那利等が、京師へ到着した。上は、彼等を責譲した後、赦してやり、布失畢を左武衞中郎将とした。
 阿史那社爾がクシャを破ると、行軍長史節萬備は兵威で于眞王伏闍信を入朝させるよう請い、社爾はこれに従った。
 六月、太宗皇帝崩御。七月、己酉。伏闍信が萬備に従って入朝した。高宗は詔して梓宮にて謁見する。
 ところで、阿史那社爾は葉護を王に立てていたが、唐軍が帰国すると、酋長達は王位を争って互いに攻撃しあった。
 永徽元年(650年)八月壬午。高宗は布失畢をクチャ王に復位させると詔し、これを帰国させて衆を慰撫させた。 

 顕慶元年(656年)八月乙巳、クシャ王布失畢が入朝する。 

 話は遡るが、クチャ王布失畢の妻阿史那氏は、相の那利と密通していた。布失畢は、禁じることができなかった。これによって君臣は猜疑し、各々派閥を作って互いに相手を告発した。そこで上は両者を召し出した。二人が出頭すると、上は那利を捕らえた。布失畢は、左領軍郎将雷文成に送らせて帰国させた。
 クチャの東境の泥師城へ到着すると、クチャの大将羯猟顛が衆を指揮して入国を拒んだ。そして、西突厥の沙鉢羅可汗へ使者を派遣して降伏した。
 布失畢は城に據って守り、敢えて進まない。上は、左屯衞大将軍楊冑へ、兵を発しこれを討伐するよう詔した。
 やがて布失畢が病死すると、冑は羯猟顛と戦い、大いに破つた。羯猟顛とその一党を捕らえ、悉く誅殺し、その地にクチャ総督府を設置した。
 三年正月戊申、布失畢の子息素稽を立ててクチャ王とし、総督を兼任させた。
 五月、癸未。安西都護府をクチャへ移し、旧安西を復して西州都護府とし、高昌の故地を鎮守させた。 

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