陳併合   4.江東の叛乱
 
遺民の乱 

 江表は、東晋以来刑法が緩やかで、豪族達が庶民を凌駕する土地柄だった。陳が平定されて後、派遣された地方官達は、この風俗を変える為に努力した。
 開皇十年(590年)、蘇威が、五教を作って民へ教え、幼長の区別無く暗唱させたので、士民へ怨嗟が広まった。そんな中で、”陳の住民は関東へ強制移住させられる”とゆう噂が流れたので、民衆は動揺した。
 ここにおいて、務州の汪文進、越州の高智恵、蘇州の沈玄檜等が挙兵して反旗を翻し、各々天子と自称して百官を設置した。楽安の蔡道人、将山の李俊、饒州の呉世華、温州の沈孝徹、泉州の王國慶、杭州の楊寶英、交州の李春等は、大都督と自称して、州県を攻め落とした。
 もとの陳の国境内は、大抵造反した。その集団は、大きいもので数万人、小さいもので数千人。共に呼応しあって県令を捕らえ、あるいは彼等の腸を引きずり出したり、その肉をミンチにして食べたりして言った。
「これでも、我等へ五教を読ませられるか!」
 文帝は、楊素等を行軍総管として、これを討伐させた。
 楊素は、揚子江を渡る前に、敵状を窺おうと、麦鉄杖へ偵察を命じた。麦鉄杖は夜遅く、藁束に乗って揚子江を渡り、敵陣を窺って帰ろうとしたが、その途中、捕まってしまった。しかし、彼は賊の刀を奪って、手当たり次第賊を斬り殺し、その鼻を切り取って懐へ入れ、自陣へ戻った。楊素はこれを大いに褒め、儀同三司とするよう上奏した。
 楊素は水軍を率いて楊子津へ入り、賊軍の朱莫問を京口で撃破した。更に進軍して晋陵の顧世興と無錫の葉略を襲撃して平定する。沈玄檜は敗走したが、捕らえられた。
 高智恵は、浙江の東岸へ據り、陣営を造っていた。その周囲百余里へ船艦を浮かべる。楊素がこれと戦おうとすると、子総管の来護児が言った。
「呉の人間は軽率で激情家。水戦が得意です。今、奴等は必死。この状態でまともに水戦するのは不利です。公は防備を固めて戦わずにいてください。そして、私へ数千の兵を貸して下されば、密かに揚子江を渡り、奴等の本陣を破ります。そうすれば水軍は、帰ることも戦うこともできません。これこそ、韓信が趙を破った戦略です。」
 楊素はこれに従った。
 来護児は軽船数百で江岸を登り、敵の本陣を襲撃した。彼等が火を放つと、煙と炎は天まで膨らんだ。賊軍は火を顧みて懼れた。その機を逃さず楊素が総攻撃を掛け、賊軍は壊滅した。高智恵は、海へ逃げた。
 汪文進は、蔡道人を司空に任命して楽安を守らせたが、楊素は進撃してこれを破った。
 楊素は、史万歳へ二千の兵を与え、別働隊として沿海の渓洞を攻撃させた。史万歳は連戦連勝。前後七百余戦して、千余里も転戦した。その間数ヶ月も彼の噂さえ聞こえなかったので、隋の人々は、てっきり史万歳は戦死したものだと思っていた。ところが、史万歳は竹筒の中へ書を入れて水に流していた。これを見つけた人々が隋軍へ届けた為に、その戦勝を知ることができた。楊素はこれを上奏した。文帝は感嘆して史万歳の家へ銭十万を賜下した。
 楊素は、温州にて沈孝徹を撃破した。そこから天台へ向かい、臨海を指して残余の掃討を行った。前後百余戦。高智恵はビン、越へ逃げ込んでここを保った。
 文帝は、楊素が長い間戦っているので、彼を休ませてやろうと朝廷へ呼び戻した。しかし、楊素は残党を残しておけば向後の憂いになると答え、会稽まで進軍した。
 王國慶は、海路の険しさを恃みとしていた。北方の人間は船が苦手だから海からは攻めて来るまいと多寡を括り、防備も碌にしない。しかし、楊素は海路から攻め込んだ。王國慶は懼れ、州を棄てて逃げた。
 王國慶等の残党は、海へ逃れ、島々を拠点にした。楊素は、諸将を分遣して、これらを掃討する。そして、王國慶のもとへ、密かに使者を放った。
「高智恵を捕まえたら、お前の罪は水に流そう。」
 王國慶は、高智恵を捕まえ、泉州にて斬った。余党は、悉く降伏する。
 こうして、江南はおおかた平定された。この手柄で、楊素の子息の楊玄奨が儀同三司となった。
 楊素は、自己の権威を振りかざして兵卒を抑えつけ、戦闘時には兵略を多用した。兵卒の統制は厳格。敵陣へ臨むたびに、兵卒の些細な過失もほじくり出して斬罪にした。その数は、多い時で百人を超え、少ない時でも数十人。目前で兵卒達の血が流れるのを笑って見物する。いざ戦闘の時には、まず一二百人ほどの兵卒に突撃させた。それで敵陣を落とせれば良し。もしも落とせずに逃げ帰ったら、そんな兵卒は人数に関係なく皆殺しにした。そしてその場には、次に二三百人で同じことをさせる。だから、将士は戦慄し、いつも必死の覚悟だった。だから、楊素は戦って勝てないことはなく、それ故、名将と呼ばれていた。だが、この頃の楊素は位が貴く文帝から親任されていたので、賞罰などは意のままに行えた。だから楊素に従った将兵は僅かな功績でも必ず賞され、他の将軍の下で戦えば大功を建てても大抵は文吏が難癖を付けて碌に賞されなかった。そうゆう訳で、楊素は残忍ではあったけれども、自らから彼の軍への配属を請願する将兵は後を絶たなかった。 

 ヘイ州総管晋王廣が、揚州総管を命じられ、江都を鎮守した。秦王俊が、ヘイ州総管を命じられる。 

  

嶺南の乱 

 番寓(正しくは、ウ冠がない)夷の王仲宣が造反した。嶺南の首領達の多くがこれに応じ、兵を率いて廣州を包囲した。
 韋洸は、流れ矢に当たって戦死する。文帝は、彼の副官の、慕容三蔵を検校廣州道行軍子とした。又、給事郎裴矩を巡撫嶺南とした。矩が南康へ到着すると、数千の兵を入手した。
 王仲宣は、別将の周師挙へ東衡州を包囲させたが、矩と大将軍鹿愿が、これを迎撃して斬った。官軍は、南海まで進軍する。
 洗夫人は、孫の馮暄を廣州救援に派遣した。だが、馮暄は、賊将の陳佛智と仲が良かったので、兵を留めたまま進軍しなかった。夫人はこれを知ると激怒して、使者を派遣して馮暄を捕らえ、牢獄へ繋いだ。更に孫の馮央(「央/皿」)を派遣した。馮央は陳佛智と戦い、これを斬る。
 馮央は進軍して、南海で鹿愿と合流、更に慕容三蔵と合流し、王仲宣と戦った。王宣仲軍は総崩れとなり、廣州は解放された。
 洗氏は、自ら武装して騎衞を率い、矩に従って二十余州を巡撫する。すると、蒼吾の首領陳坦等が駆けつけて謁見した。矩は彼等を刺史や県令として、その部落を統治させた。
 こうして、嶺表は平定した。
 矩が復命すると、文帝は潁と楊素へ言った。
韋洸は二万の兵を率いながら、嶺の平定に手間取った。だから朕は、兵力が少ないのではないかと悩んでいたのだ。ところが、裴矩は疲れ切った三千の兵で、南海まで平定したではないか。皆がこのようであれば、朕には何の憂いもないぞ!」
 そして、裴矩を民部侍郎とした。
 馮央は高州刺史となる。馮寶には、廣州総管、焦国公を追賜する。洗夫人は焦国夫人として、幕府を開かせた。彼女には、危急の折には部落六州の兵馬を徴発する権限も与える。また、夫人の忠誠を嘉し、特に馮暄も赦し、羅州刺史とする。
 皇后も、夫人へ首飾りや宴服などを贈った。夫人は、毎年、それまで拝領した沢山の賜下品を庭に並べて子孫へ示し、言った。
「我は、三代主へ仕えたが、いつも忠順一途を忘れなかった。この賜物は、全てその報いだよ。お前達もこれを想って、ただ天子へ赤心を尽くしなさい!」 

 番州総管の趙訥は、貪欲で残虐。だから、諸々の俚やリョウは、大勢逃亡した。
 洗夫人は都へ使者を派遣して、この有様を封書で文帝へ伝え、彼が遠人を招懐できないことを訴えた。文帝は趙訥を法に照らして処分し、夫人へ亡命者の招慰を命じた。
 夫人は、自ら使者と名乗り、詔書を持って十余州を回って上意を宣述し、俚やリョウを諭した。すると、彼等は次々に降伏してきた。
 文帝はこれを嘉し、臨振県を湯沐邑として彼女へ賜り、馮僕を崖州総管、平原公とした。 

賀若弼の末路  

 開皇十二年、十二月。楊素が尚書右僕射となり、高潁と共に朝政の責任者となった。
 さて、右領軍大将軍賀若弼は、自分では”平陳の功績はどんな朝臣よりも大きく、宰相として迎えられてもおかしくはない。”と思っていた。ところが、楊素が僕射となったのに、賀若弼は単なる将軍に過ぎなかったので、不平が大きく、その想いは事毎に言葉や態度に現れた。そのおかげで、とうとう罷免となったので、怨望はますます大きくなった。
 やがて、文帝は賀若弼を牢獄へ落として、言った。
「我は潁と楊素を宰相としたのに、汝はいつも『あんな奴等は無駄飯食いだ。』と吹聴している。どうゆうつもりだ?」
「はい、潁とは古馴染みで、楊素は臣の舅の子。ですから臣は彼等の為人を昔から知っております。まさしく、この言葉通りでございます。」
 公卿達は、「賀若弼は陛下を恨んでおります。これは死刑に相当します。」と上奏した。
 文帝は言った。
「臣下は法を守るもの。それとも、何か申し開きがあるか?」
 賀若弼は言った。
「臣は、陛下の意向を背に、八千の兵を率いて揚子江を渡り、陳叔寶を捕らえました。どうか、その手柄に免じて命だけはお助けください。」
「あの手柄へ対しては、既に破格の重賞で報いていておる。この上何を追加できるか!」
「臣は既に破格の重賞を蒙りました。ですが、今一度、どうか破格のお恵みを!」
 結局文帝は、彼の功績を惜しみ、特に除名のみで済ませた。
 一年ほどして、賀若弼は爵位だけは復旧したが、文帝は彼を忌み、二度と登庸しなかった。ただ、宴会や賜下品では、賀若弼は甚だ厚く遇された。 

李光仕の乱  

 十七年、桂州の俚帥李光仕が造反した。文帝は、上柱国王世積と前の桂州総管周法尚を派遣した。
 王世積は嶺北の兵を徴発し、周法尚は嶺南の兵を徴発し、尹州で合流した。ところが、王世積の軍は気候が合わずに病人が続出したので、進軍できずに衡州に屯営した。こうして、周法尚が単独で討伐に向かった。
 李光仕は敗戦し、逃げ出して白石洞を保った。
 周法尚は、桂州にて李光仕の兵卒達の家族を捕獲した。そして、降伏した兵卒には、すぐに妻子を帰してやった。そうゆうわけで、十日も経たないうちに数千人が降伏してきた。李光仕は逃げ出したけれども、追撃を受けて斬り殺された。
 文帝は、嶺南夷や越が屡々造反するので、ベン州刺史の令狐煕を桂州総管十七州諸軍事として、全権を与えた。刺史を始め十七州の官吏達は、皆、彼の指揮下に入る。
 令狐煕は任地へ着くと民へ寛大な政治を布き教育も施したので、酋長達は言い合った。
「今までの総管は、皆、兵力で脅しつけるだけだった。しかし、今回は教え諭してくれる。どうしてあの人に背けようか!」
 こうして、多くの部落が帰属した。 

 虞慶則誅殺 

 同年七月、桂州の李世賢が造反した。
 文帝は討伐について協議すると、数人の将軍が出征を自選した。しかし文帝は許さず、右武候大将軍虞慶則を顧みて言った。
「卿の官職は宰相で、爵位は上公。それなのに、国家に賊が現れた時に出征を希望しないとは、どうゆう事か?」
 虞慶則は恐懼して拝謝した。そこで虞慶則を桂州道行軍総管として李世賢を討伐させた。
 ところで、虞慶則の正室の弟の趙什住が随府長史となったが、彼は虞慶則の愛妾と密通していた。彼は、事がばれるのを恐れ、宣伝して回った。
「虞慶則は、出陣したがっていない。」
 この噂は、文帝の耳にも入った。だから、虞慶則への礼賜は甚だ薄かった。
 虞慶則は、李世賢を討伐すると、潭州臨桂嶺まで進軍し、山川の地形を眺め、言った。
「なんと険固なことだ。しかも兵糧は充分。これに加えて、もしも有能な将軍が居たならば、誰も攻め落とすことなどできないぞ。」
 虞慶則は、趙什住を使者として都へ派遣し、賊軍平定を報告させた。趙什住は、文帝の顔色を窺ってから言った。
「虞慶則は、造反を考えております。」
 そこで文帝は、これを調べさせた。
 十二月、虞慶則は誅殺され、趙什住は柱国となった。 

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