皇太子晃(付、元嘉の法難。 魏帝、崔浩を誅す。)
 
 元嘉の法難 

 魏帝も崔浩も、道教を奉じ、寇謙之を信重していた。殊に崔浩は、もともと仏教嫌いで、事毎に魏帝へ吹聴していた。
「仏法は虚誕で、金を浪費するばかりです。こんなものは、悉く撤廃するべきでございます。」
 宋の文帝の元嘉二十三年(446)。魏帝は、蓋呉を討伐する為に長安へ御幸した。この時、皇帝の一行は仏寺へ泊まり、寺の沙門達は官吏と共に酒を飲んだ。その最中、ある官吏が寺の中で武器庫を見つけ、これを魏帝へ報告した。
 魏帝は大怒して言った。
「これは坊主共には無用のものではないか。さてはこいつらは、蓋呉と示し合わせて内乱を起こすつもりだな。」
 そして、事を司按に糾明させた。
 司按は、その寺の沙門達を誅殺すると共に財産を検閲した。すると、酒を醸す道具や、州郡の牧守・富豪達から寄進された宝物が山と出てきた。それどころか、奥には隠し部屋があり、婦女まで匿していた。
 この事件を幸いと、崔浩は魏帝へ吹聴した。
「国中の坊主共を誅殺するべきです。又、お経や仏像も全て壊しましょう。」
 魏帝はこれに従った。
 寇謙之は道教の道士だが、さすがにここまでの大弾圧を見るに見かね、崔浩と固く争った。しかし、この件に関しては、崔浩は譲らなかった。
 崔浩は、まず、長安の沙門を悉く誅殺し、お経や仏像を焼き払った。そして、全国へ対して、長安と同様に行うよう命じたのである。
 詔に曰わく、
「昔、後漢の荒君が邪偽を信惑し、世の中の正道を破壊した。(仏教は漢の明帝の頃中国へ入り、楚王英がこれに耽溺して、後漢の桓帝が、皇帝としては始めて仏教に帰心した。)いにしえより、九州(中国全土)に於いて、かつて無かったことである。
 この仏教というものは、人間の本性を全く無視した教えだが、誇張妄誕な大言を吐いているので、末世(原文:「叔季之世」この詔の趣旨から言って、ここで仏教用語を使うのは不自然ですが、日本語に翻訳したら、この言葉が一番分かり易いのです。)の人々は幻惑されてしまう。これを放置すれば、正しい政教は行われず、大礼は崩壊し、社会の基盤はメチャメチャになってしまうだろう。
 朕は天緒を承った。よって、偽を除いて真を定める。伏ギ神農の治世を復活し、その他一切の欺瞞はこれを全て蕩尽して痕跡さえも残すまい。今より以後、敢えて胡神に仕えその像を造る者は、その一族を誅殺する。
 非常の人が出てこそ、非常のことは行えるのだ。朕でなければ、歴代の偽物を滅ぼすことができようか!ここに、征鎮諸軍及び刺史へ命じる。諸々の浮図(仏教)の形像や胡経を見つけたら、これを全て壊燃せよ。沙門どもは、幼長を分かたずに悉く穴埋めとせよ!」
 皇太子の晃は、もともと仏教を好んでいたので、屡々父を諫めたが、魏帝は聞かない。そこで、詔の発布をわざと遅らせて、それに先だって全国へこれを予告した。おかげで、大勢の沙門が逃げ延びることができたし、仏像や経典も、隠して保存されたものが少なくなかった。ただ、魏の国内の塔廟だけは、全て破壊された。 

  

崔浩の専横 

 魏の司徒の崔浩は、才略があり魏帝からも寵任されていたので、魏の朝政を専断していた。ある時など、彼は冀・定・相・ヘイ・幽の五州から数十人の士を推挙し、彼等は皆郡守になった。
 この時、皇太子の晃が言った。
「遊雅、李霊、高允等も又、州郡の人間を推挙しております。その推挙された官吏達は、既に在職も長く、勤労した功績もありますが、未だそれに応えておりません。ですから、まず彼等を郡守や県令とし、今回崔浩が推挙した人材は、郎吏に任命するのが妥当と思われます。」
 だが、崔浩は自説を固持し、遂に推挙した人間を郡守として派遣してしまった。
 中書侍郎の高允が、東宮博士の管恬へ言った。
「崔浩は畳の上では死ねんぞ!強弁で皇太子と争い、自分の非を押し通した。そんな人間が、終わりを良くするわけがない!」 

  

国史編纂 

 元嘉二十七年、魏帝は崔浩を監秘書事に任命し、高允等と共に国記を編纂させた。この時、魏帝は言った。
「努めて事実を記載せよ。」
 さて、著作令史の閔湛と希標は、巧佞な性格で崔浩から寵信されていた。かつて、崔浩が易経や論語、詩経、書経の注釈を書いた時、この二人は上疏した。
「この注釈の精緻な事は、馬融、鄭玄、王粛、賈逵でさえもかないますまい。どうか、これを境内へ広く配布し、天下の人々へ習わさせて下さい。又、礼記についても、崔浩に注釈をつけさせ、後世への手本とさせましょう。」
 そして、崔浩も又、この二人に著述の才能があると推薦した。
 その閔湛と希標が、編纂した国史を石に刻み込んで後世へ残すよう、崔浩へ勧めた。それを聞いた高允は、著作郎の宗欽へ言った。
「閔湛と希標の所業は、崔浩の一族を地獄へ落とすぞ。我々とて、無事には済むまい。一族皆殺しだ!」
 だが、崔浩は二人の発案を採用し、郊壇東に石碑を造った。その石碑は、方百歩(150m四方)。使用した石は三百万にも及んだ。
 崔浩は、これに魏の先世のことを克明に記し、道路沿いに並べ立てたので、道行く人は、皆、これを読むことができた。その文を読み、拓跋氏先祖伝来の臣下達は激怒し、こぞって魏帝へ崔浩のことを讒言した。(なにせ、事実を曲げずに書いてあるので、文明化する前の、野蛮だった頃の所業が赤裸々に記されていたのです。)
「崔浩は、我等の先祖が犯した野蛮な所業を暴き立て、国威を失墜させるつもりです。」
 魏帝は激怒し、崔浩始め秘書郎等の罪状を司按に裁かせた。
 ところで、これはずいぶん昔の話だが、かつて、魏帝から寵任されていた遼東公擢黒子がヘイ州へ行った折、布千匹を受け取った。この贈賄事件が暴露された時、擢黒子は高允へ相談した。
「陛下から詰問されたら、真実を告げるべきでしょうか?それともシラを切った方がよいでしょうか?」
 すると、高允は答えた。
「公は寵臣です。罪状が事実としても、赦されるかも知れません。ですから、真実を告げることです。この上欺妄してはなりません。」
 擢黒子は、更に中書侍郎の崔覧と公孫質にも相談した。すると、彼等は言った。
「もしも事実なら、とても逃げられませんぞ。隠し通しなさい。」
 それを聞いて、擢黒子は高允を怨み、彼へ言った。
「君は、私を地獄へ落とすつもりだったか!」
 そして魏帝に謁見した時、事実を粉飾したので、魏帝は怒り、擢黒子を殺した。そして、その裏話を知った魏帝は、高允へ太子の教育を命じたのである。
 崔浩の事件で告発されるに及んで、太子は高允を東宮へ呼び出し、そこで一泊させてから、翌朝、彼と連れだって入朝した。宮門まで来た時、太子は言った。
「陛下へ謁見したら、私が卿のことを語ろう。もしも陛下から尋ねられたなら、卿はただ我が言葉の通りだと答えればよい。」
 高允は尋ねた。
「何でそのようなことをするのですか?」
「今に判る。」
 さて、太子は魏帝へ謁見すると、言った。
「高允は小心慎密な人間で、官位も微賤でございます。崔浩にどうして逆らえましょうか。これは全て崔浩から無理強いされたことでございます。どうか、死罪だけはお赦し下さい。」
 魏帝は高允へ尋ねた。
「国書は、崔浩が一人で書いたのか?」
「太祖記は、前の著作郎登淵が編纂いたしました。先帝記と今記は臣と崔浩とで編纂いたしましたが、崔浩は政務多忙でしたので、専ら総裁しただけ。実際の著述は、殆ど臣がいたしました。」
 魏帝は激怒した。
「ならば、お前の方が重罪ではないか!なんでノウノウと生きておられるか!」
 太子が懼れて言った。
「高允は小臣でございます。陛下の威厳の前であがってしまい、混乱して訳の分からないことを言っているだけです。臣が密かに問いただした時には、全て崔浩のやったことだと申しておりました。」
「高允、太子の言うことは本当か?」
「いえ、臣の犯した罪は、一族誅殺にも値しましょうが、敢えて虚妄は申しません。殿下は、臣から長い間講義を受けておりましたので、臣を憐れんで、庇って下さっているだけでございます。実際、臣へそのような質問を為されたことはございませんし、臣もそのような答えをしたこともございません。また、臣は、気も動転しておりません。」
 魏帝は太子を顧みて言った。
「剛直な男だ!これはなかなかできることではないが、高允めは見事にやってのけおった!死に臨んでも言葉を変えない。これは信だ。臣下となって、主君を欺かない。これは貞だ。今回は、特に不問に処そう。」
 こうして、高允は赦された。
 そして、魏帝は崔浩を召し出し、詰問した。崔浩は、恐惶するばかりでろくに返答もできない。そこで、高允が代わって答弁したが、それは一々条理に適っていた。
 魏帝は、高允へ詔を書くよう命じた。
”崔浩及び、その僚属の宗欽、段承根等から下は僮吏に至るまで、凡そ百二十八人、皆、五族を誅殺する。”
 だが、高允は疑問を持ち、詔を書かなかった。魏帝が使者を出して催促すると、高允は、詔を書く前に、今一度の謁見を求めた。そこで、魏帝が謁見すると、高允は言った。
「もしも、陛下が指名した者の他に、崔浩の罪に関わる者がいたとしても、臣は知りません。これで終わりにするのですね。そもそも、事実をありのままに述べたことは、殺されるほどの罪ではないのですから。」
 魏帝は怒り、武士に命じて高允を捕らえた。しかし、皇太子が彼の為に拝請したので、魏帝も漸く機嫌を直して言った。
「このような男が居なければ、更に数千人が殺されることになっただろうな。」 

 六月、詔が降りた。清河の崔氏及び、崔浩の同宗の者は遠近を問わずに誅殺された。連座は姻戚にまで繋がり、范陽の廬氏、太原の郭氏、河東の柳氏は全て一族誅殺された。だが、それ以外の関係者は、本人が死刑となっただけで済んだ。
 崔浩等は檻車に繋がれて、城南へ送られた。衛士数十人がこれに小便をしたので、叫声は道にまで聞こえた。
 刑に臨んで、宗欽は感嘆して言った。
「高允は、殆ど聖人だ!」 

 後、太子が高允へ言った。
「人は機を知らなければならない。吾は卿を殺すまいと、助け船を出したのに、卿はそれら従わず、陛下をあのように激怒させてしまった。思い出す度、吾は胸がドキドキするのだ。」
 すると、高允は言った。
「もともと、史は、人主の善悪し、将来への勧戒とするものです。ですから、人主は後世への評判を畏忌し、挙動を謹むのではありませんか。崔浩は、聖恩を独占し、私欲に走って廉潔を忘れ、己の愛憎の赴くままに公直を無視しておりました。これは崔浩の罪です。ですが、今回、彼はそれ故に罰せられたのではありません。朝廷の起居を記録し国家の得失を言うのは、史の太礼です。この件で、崔浩は誤ったことをしてはおりません。そして、臣もまた、崔浩と同じく事を行っておりました。ですからこの件については、義として死生栄辱が等しくなければなりませんでした。今回、殿下から再生の慈を受けましたが、放免されることは臣の願いではなかったのです。」 

 ところで、冀州刺史の崔臣、武城男爵の崔模は、崔浩と同宗だったが、別の族で、崔浩はいつもこの二人を侮蔑していたので、仲は非常に悪かった。だから、この誅殺劇から、二人とも免れることができた。 

 後、魏帝は崔浩を誅殺したことを後悔し始めた。その頃、北部尚書の李孝伯が重病にかかり、既に没したとの風聞が立った。魏帝はこれを哀悼して言った。
「李宣城(李孝伯は、宣城に封じられていた。)惜しむべし!」
 だが、すぐに言い直した。
「朕の失言だ。崔司徒惜しむべし。李宣城哀れむべし!」
 李孝伯は、李順の従兄弟である。崔浩が誅殺されてから、軍国の謀議は全て李孝伯が関与し、かつての崔浩のように寵任されていた。 

  

 皇太子、卒す。 

 魏帝が北涼討伐へ出たとき以来、魏の皇太子晃は監国となっていた。
 元嘉二十八年。皇太子は側近を信任し、又、荘園を経営してその利益を懐に入れていたので、高允が諫めた。
「天地に私心がないから万物を覆載できるように、王も私心がないからこそ、民を容養できるのです。今、殿下は国の儲貳ですから、人々の手本とならなければなりません。それなのに、私田を営み、鶏や犬を養って市場で販売し、民と利益を争っておられる。その所業への誹謗は国中に流布し、覆い隠すこともできません。この国は、全て殿下のものです。四海の富は、求めて得られない物とてございません。それなのに、どうして販夫販婦と寸尺の利益を争われますのか!
 昔、カクが滅亡する時、神が彼等へ土田を賜れましたし、漢の霊帝は府藏を私立いたしました。これらは皆、国が滅亡する前兆。このように悪い前例がございます。畏れずにおられましょうか!
 又、周の武王は周公、邵公、太公望を寵任して天下の王となり、殷の紂王は飛簾、悪来を寵任して国を失いました。今、東宮には俊才が少なくございませんのに、殿下が信任しております側近達は、朝廷に立てる人間ではありません。
 どうか、殿下。奸佞の臣を遠ざけて忠良に親しみ、荘園を貧下へ分給して商売のまねごとをおやめ下さい。そうすれば、名声は日々高まり、誹謗はなくなりましょう。」
 だが、皇太子は聞かなかった。
 皇太子の政治は、精察だった。そして、中常侍の宗愛は陰険暴虐で、法を踏みにじることも屡々行ったので、皇太子は彼を憎んでいた。給事中の仇尼道盛と侍郎の任平城は皇太子の寵遇を得て政治を執っていたが、彼等も宗愛と反りが合わなかった。
 仇尼道盛等から糾弾されることを懼れた宗愛は、ついに、彼等を皇帝へ誣告した。魏帝は怒り、仇尼道盛を市場で斬罪に処した。この事件で、東宮の官属が大勢連座したので、魏帝はますます怒った。
 戊辰、皇太子は憂いがこうじて卒した。壬申、金陵に葬る。諡は景穆。
 やがて、魏帝は皇太子が無実だったことを知り、甚だ後悔した。
 十二月、魏帝は、景穆太子の嫡男の濬を高陽王に封じた。だが、嫡孫の濬を藩王にするのはよくないと考え直し、取りやめとなった。(魏帝は、濬を皇太孫に立てるつもりだったのだろう。) 

  

 魏帝弑逆。 

 二十九年、魏帝は景穆太子を追悼してやまなかった。中常侍宗愛は、誅殺されることを懼れ、二月、魏帝を弑逆した。
 尚書左僕射の蘭延と、侍中の和疋、薛堤等は、喪を隠して発しなかった。この時、皇孫の濬はまだ幼かったので、疋は年長の君を立てようと考え、秦王翰を呼び出して、秘室へ置いた。だが、薛堤は、嫡皇孫の濬を廃してはならないと考えていた。この二人の考えが平行線となってなかなか決着が付かなかったのだ。
 この状況が、宗愛へ洩れた。彼は景穆太子を陥れたのだが、秦王翰とも折り合いが悪かった。その代わり、南安王余と仲が善かったので、密かに彼を招き、中宮便門から禁中へ入れた。そして、蘭延等を召し出すよう、赫連后に命じさせた。
 蘭延等は、もともと宗愛を賤しんでおり、歯牙にもかけてなかったので、疑いもせずに入宮した。宗愛は、宦官三十名を武装させて禁中へ伏せておき、蘭延等が入ってくると、次々と捕え、斬った。そして、秦王翰を永巷で殺し、余を立てた。
 大赦を下し、承平と改元する。皇后は皇太后となった。宗愛は大司馬、大将軍、太師、都督中外諸軍事、領中秘書となり、馮翊王に封じられた。
 この動乱につけ込んで、宋が魏を攻撃した(詳細は、「宋の文帝、恢復を図る」に記載)。 

  

 正統に帰す 

 安南王余は、序列を飛び越えて即位した為、群臣へ厚く賜下して、その心を掴もうとした。おかげで、旬月の間に府藏は底をついてしまった。又、宴会や音楽・狩猟を好み、政治を顧みなかった。
 宗愛は、宰相となって三省を総括し、公卿をあごで使い、専横は日毎に激しくなっていった。余はこれを患い、その権力を奪おうと謀ったので、宗愛は憤怒した。
 十月、余が夜半に東廟を祀っていたところ、宗愛は小黄門の賈周を放って暗殺し、その事実を隠した。ただ、羽林郎中の劉尼だけが、これを知った。
 劉尼は、濬を立てるよう、宗愛へ勧めた。宗愛は驚いて言った。
「お前は馬鹿か!皇孫がもし立ったら、どうして正平の事を忘れようか!(景穆太子が死んだのは、魏の正平年間だった。)」
「でも、他に誰が居ます?」
「宮へ帰ったら、諸王の中から賢人をゆっくり探して立てればよい。」
 劉尼は、宗愛が国を乱すことが怖ろしくなり、殿中尚書の源賀へ密告した。源賀は、劉尼と共に宿衛兵を握り、南部尚書の陸麗と共謀した。
「宗愛は、安南を立て、すぐに弑逆した。その上、今回は皇孫を立てない。このままでは社稷が滅ぶぞ。」
 ついに、彼等は皇孫を立てる為の同志となった。
 弑逆事件から七日後、源賀は尚書の長孫渇侯と共に守衛の兵を動かして宮禁を警備し、劉尼と陸麗は、皇孫を苑中へ迎え入れた。陸麗が馬上にて皇孫を抱いて平城へ入ると、源賀と長孫渇侯は城門を開けて入城させた。
 劉尼は、東廟へ馳せ帰って叫んだ。
「宗愛は南安王を弑逆した。大逆無道だ!今、皇孫は即位なさったぞ!宿衛の士は、皆、宮殿へかえるがよい!」
 諸人は口々に万歳を叫び、宗愛、賈周等を捕らえると、入城して皇孫を皇帝位へ押し戴いた。
 永安殿へ登って大赦を行い、興安と改元した。宗愛、賈周は、三族を皆殺しとした。 

  

(訳者、曰) 

「資治通鑑」の中で「魏主」という言葉を、私は「魏帝」と翻訳しています。(北魏が中原を統一した辺りからですが。)魏の主君を「魏主」、宋の主君を「上」と使い分けたところに、「夷狄が造った北朝なんて、地方政権だ。中国の正統は南朝だぞ。」とでも言いたげな、司馬光の(と、言うより、宋朝の中国人の)気概を感じますが、現代の日本人にそんな思い入れはありません。北朝が統一された辺りで、そろそろ二国分裂と見なして、どちらの主君も「皇帝」でいいじゃないか、と思ってしまうわけです。
 ただ、うっかりしていましたが、「上」を「宋の文帝」と訳している以上、「魏主」も「魏の○○帝」と訳した方が親切でしょう。
 ここ最近活躍している魏帝は、拓跋Z。世祖、太武帝です。即位期間は、宋の文帝の元嘉元年(424)〜元嘉二十九年(452)。ですから、劉裕の北伐の頃、崔浩の進言を採らなかったのは、彼ではありません。話の途中で魏帝が代替わりした項目もありますが、年号で判別して下さい。(実は、私は代替わりに気がつかずに翻訳していました。(^^;))