高宗皇帝  その三
 
上元二年(675) 三月丁巳。天后が亡(「亡/里」)山の陽で先蠶を祀る。百官と朝集使は皆、付き添った。 

 上の風眩がとても酷くなったので、天后へ国政を摂知させようと提議した。すると、中書侍郎同三品赤(「赤/里」)處俊が言った。
「天子は外を治め、后は内を治めるのが天の道です。昔、魏の文帝は、たとえ幼主が出ても皇后が朝廷へ臨むことは禁じると、宣言しました。これは、禍乱の芽生えを閉ざすためです。陛下はどうして高祖、太宗の天下を子孫に伝えずに天后へ委ねなさいますのか!」
 李義炎(「王/炎」)が言った。
「處俊の言葉は忠義の至りです。陛下はどうかお聞き入れください!」
 そこで中止となった。 

 天后は大勢の文学の士を麾下へ引き入れ、著作郎元萬頃、左史劉韋(「示/韋」)之等へ列女伝、臣軌、百僚新戒、楽書、凡そ千巻を選出させた。
 朝廷の奏議及び百司の表疏を、時には密かに彼等へ参決させる事で、宰相の権力を彼等へも振り分けた。時人は、これを北門学士と言った。
 韋之は、子翼の子息である。 

 四月庚辰。司農少卿韋弘機を司農卿とする。
 弘機は知東都営田を兼務し、詔を受けて宮苑を全て葺いた。
 苑中にて法を犯す宦官が居ると、弘機はこれを杖で打ってから、事後に上奏する。上は、彼を有能だと思い、絹数十匹を賜下して言った。
「更に法を犯す者が居たら、卿は即座に杖打て。上奏の必要はない。」 

 四月、太子弘仁が卒した。五月、弘仁は、孝敬皇帝と諡された。
 六月、戊寅。ヨウ王賢を皇太子に立て、天下へ赦恩を下した。
 八月、孝敬皇帝を恭陵へ葬った。これらの詳細は、「則天武后」に記載する。 

 天后は慈州刺史杞王上金を嫌った。すると彼女から気に入られようと、大勢の役人達が彼の罪状を上奏した。
 七月、上金は有罪となり官職を解かれ、豊(「水/豊」)州へ安置された。 

 戊戌、戴至徳を右僕射とする。庚子、劉仁軌を左僕射とする。共に、同中書門下三品は従来通り。張文灌を侍中、赤處俊を中書令とする。李敬玄は、吏部尚書左庶子となって、同中書門下三品は従来通り。
 劉仁軌も戴至徳も終日、申請を受けた。仁軌はいつも優しく受け付けたが、至徳は必ず理詰めで詰問し許可を容易に下ろさなかった。だから至徳は、怨みを買うことが多く、密かに上書する者もいた。そうゆう訳で、人々の称賛は仁軌へ集まった。
 ある者が、至徳へその理由を問うたところ、至徳は言った。
「威福は人主が持つ物だ。どうして人臣が盗み得て良い物だろうか!」
 上はこれを聞いて、至徳を深く重んじた。
 ある時老婆が、仁軌へ出すつもりだった申請書を、誤って至徳へ出してしまった。至徳がこれを受け取ると、まだ読み終わらないうちに老婆は言った。
「貴方は物わかりの良い僕射と思ってましたが、意固地な方の僕射でしたか!私の申請書を返してください!」
 至徳は笑ってこれを返した。時人は、至徳を立派だと褒め称えた。
(「牒訴」を、「申請書」と訳しました。誤訳かも知れません。「老区(「女/区」)」は、ごく普通のお婆さんのことでしょう。すると、民間人が僕射へ対して、面会して申請書を提出することになります。この時期の役人と民間人の距離感を読みとる上で、かなり重要なエピソードと思います。ですから、当時の政治事情に精通している方からの検定をお願いします。ついでに言うなら、「更日」も、よく判らない。「更」には通常の「更に」の他、「一刻(二時間)」とゆう意味もありますから、「終日」と訳したのですが。)
 文灌は、当時大理卿を兼務していた。官職が代わったと聞き、皆は慟哭した。
 文灌は厳正な性格で、諸司の奏議の大半は糾駁したので、上はとても信頼した。 

 儀鳳元年(676)正月壬戌。冀王輪を相王とした。 

 二月甲戌。安東都護府を遼東の故城へ移した。これに先だって、東官に任命された華人を全員罷免した。
 熊津都督府を建安の故城へ移す。これまで徐・?等の州へ移住させていた百済人を皆、建安へ移住させた。 

 三月癸卯、黄門侍郎来恒、中書侍郎薛元超を共に同中書門下三品とする。
 恒は済の兄、元超は収の子息である。
 閏月甲寅、中書侍郎李義炎を同中書門下三品とする。
 六月癸亥、黄門侍郎の晋陵の高智周を同中書門下三品とする。 

 八月壬寅、敕が降りた。
「桂、廣、交、黔等の都督府は、今まで土着人に文書を作らせていたので、内容が粗雑だった。今後は四年毎に五品以上の清正官を派遣し、これに充てる。また、御史も同行させて文書を作成させる。」
 時人は、これを南選と呼んだ。 

 九月壬申。左威衞大将軍権善才と左監門中郎将范懐義が、昭陵の柏を誤って断ち切った。大理は、この罪は除名に相当すると上奏したが、上は特に死刑にするよう命じた。
 大理丞狄仁傑が上奏した。
「二人の罪は、死刑には相当しません。」
 すると、上は言った。
「善才等は陵の柏を断ち切ったのだ。殺さなければ、我は不孝になる。」
 仁傑は固執して止まなかったので、上は顔色を変え、退出を命じた。しかし、仁傑は言った。
「顔を犯して直諫するのは、昔から困難なこととされています。しかし、臣はそうは思いません。ケツや紂へ対してならば困難でしょうが、堯や舜へ対してならば容易なのです。今、法では死刑にならないのに、陛下は特にこれを殺したら、法が人々から信じられなくなります。そうなれば、人はどのように行動すればよいのでしょうか!それに、張釈之が言いました。『長陵の一杯の土を盗む者がいれば、陛下はどのように処罰するのですか?』今、柏の一株で二将軍を殺したら、陛下は後世から何と言われるでしょうか!臣が敢えて詔を奉じないのは、陛下が不道へ陥るのが恐ろしく、あの世で釈之に会うのが恥ずかしいからです。」
 上の怒りはやや収まり、二名は除名の上嶺南へ流された。
 後日、仁傑を侍御史へ抜擢した。
 昔、仁傑が并州の法曹だった頃、同僚の鄭祟質が絶域への使者に選ばれた。ところが祟質の母は年老いた上に病気だったので、仁傑は言った。
「彼の母はあの状態だ。どうして万里の憂いをさせられようか!」
 そして長史の 仁基のもとへ出向いて、代わりに行くことを請願した。仁基はもともと司馬の李孝廉と仲が悪かったが、同僚を思う仁傑の姿を見て、互いに言い合った。
「我等が仲違いをしていては、彼等に恥ずかしいぞ!」
 遂に、彼等は仲良くなった。 

 旬(「旬/里」)王素節は蕭淑妃の子息である。警敏で学問を好んだ。天后はこれを憎み、岐州刺史から申州刺史へ左遷した。
 乾封年間の初め、敕が降りた。
「素節は昔の病気がぶり返した。入朝しなくてもよい。」
 だが、実は病気などなかった。素節は、これから長い間謁見できないと思い知り、忠孝論を著した。
 王府倉参軍の張東乃が、この論文に封をして、密かに使者を派遣して上へ献上した。后はこれを見ると、贈賄と誣いた。
 十月丙午、素節は番(「番/里」)陽王に降封され、袁州へ飛ばされた。
 後、(開輝元年(681)二月)、天后が表にて杞王上金と番(「番/里」)陽王素節の罪を赦すよう請うた。上金を 州刺史、素節を岳州刺史としたが、共に朝廷へ来ることを許さなかった。 

 十一月壬申、改元して天下へ恩赦を下す。 

 同月庚寅、李敬玄を中書令とする。 

 十二月戊午、来恒を河南道大使、薛元超を河北道大使、尚書左丞の焉(「焉/里」)陵の崔知悌と国子司業の鄭祖玄を江南道大使とし、道ごとに分けて巡撫した。 

 二年正月乙亥、上が籍田を耕した。 

 三月、癸亥朔。赤處俊と高智周を共に左庶子とし、李義炎を右庶子とする。
 夏、四月。左庶子張大安を同中書門下三品とする。大安は公謹の子息である。 

 河南、北で旱が起こったので、御史中丞崔謐等を道ごとに派遣し、被害状況を検分して賑給するよう、詔が降りた。すると、侍御史の劉思立が上疏した。
「今は、麦の刈り入れと蚕の繭つむぎで人手を取られる時期です。それなのに勅使が撫巡したら、人は皆恐々としてその家業を忘れ、天恩をこいねがって出迎えに集まります。これでは生業に少なからず支障を来します。そして、賑給の為には帳簿を作らなければなりませんので、民を安寧にさせようとして、却ってかき乱す結果になってしまいます。しばらくは州県の賑給へ委ね、秋になるのを待ってから使者を出して褒貶されますよう、お願いいたします。」
 これが受け入れられ、謐等は派遣されなかった。 

 八月。周王顕を英王として、哲と改名させた。 

 三年正月辛酉。百官及び蛮夷の酋長が光順門にて天后へ朝した。
 四月戊申。天下へ恩赦を下し、来年から通乾と改元することにした。
 五月壬戌、上が九成宮へ御幸した。
 丙寅、山中で雨が降り、寒さが厳しく、随従の兵卒に凍死者が出た。 

 上は即位当初、破陣楽を見るに忍びず、これを撤廃させていた。
 七月辛酉、太常少卿韋萬石が上奏した。
「長い間演奏されないと、やがては忘れ去られ復元不能になる懼れがあります。どうか今後は大宴会の時には再び演奏させるようにしてください。」
 上はこれに従った。 

 十月丙午、徐州刺史密貞王元暁が卒した。
 十一月壬子、黄門侍郎、同中書門下三品来恒が卒した。 

 十二月、来年改元予定の通乾とゆう元号は、反語で良くないので中止すると、詔が降りた。 

 調露元年(679)正月己酉。上が東都へ御幸した。
 司農卿韋弘機が宿羽、高山、上陽等の宮殿を造った。それらはとても壮麗だった。
 上陽宮は洛水に臨み、長廓は一里にも及んだ。宮殿が落成すると、上はこれへ引っ越した。侍御史狄仁傑が弘機を、「上へ奢泰を勧める。」と弾劾した。弘機は有罪で免官となる。
 左司郎中王本立は寵恩を恃んで専横で、朝廷はこれを畏れた。仁傑はその姦悪を上奏し、法司に裁かせるよう請うた。上が特に彼を赦すと、仁傑は言った。
「国家に英才が乏しいとはいえ、本立程度の輩がどうして少ないでしょうか!陛下は何で罪人を惜しんで王法を汚されますのか。どうあっても本立を曲げて赦すとゆうのであれば、臣を無人の土地へ棄てて、忠貞の臣下達への将来の戒めとしてください!」
 本立は遂に有罪となった。
 朝廷は、これによって粛然とした。 

 正月庚戌、右僕射、太子賓客道恭公戴至徳が卒した。
 四月辛酉。赫處俊を侍中とした。 

 偃師の人明祟儼は、符呪幻術で上と天后から重んじられ、官は正諫大夫となった。
 五月壬午、祟儼が盗賊に殺された。下手人を捜したが、見つからなかった。
 祟儼へ侍中を追賜する。 

 五月丙戌、太子へ監国を命じる。
 太子の処理は判断が明確だったので、時人はこれを褒めた。 

 六月辛亥、天下へ特赦を下し、改元した。 

 十一月戊寅朔。太子左庶子、同中書門下三品高智周を御史大夫として知政事を辞めさせた。 

 永隆元年(680)二月癸丑。上が汝州の温泉へ御幸した。
 戊午、祟山の處士三原の田遊巖の住居へ御幸した。己未には、道士の宗城の潘師正の住居へ御幸した。上と天后、太子は、皆、彼等を拝礼した。
 乙丑、東都へ還る。 

 五月戊辰、黄門侍郎の聞喜の裴炎、崔知風、中書侍郎の京兆の王徳眞を同中書門下三品とした。
 七月丙申、鄭州刺史江王元祥が卒した。 

 八月甲子、太子賢を廃して庶人とし、右監門中郎将令狐智通等を派遣して賢を京師へ護送させ、別所に幽閉する。
 乙丑、左衞大将軍、ヨウ州牧英王哲を皇太子に立て、改元して天下へ特赦を下す。これらの詳細は、「則天武后」に記載する。 

 九月甲申。中書侍郎、同中書門下三品王徳眞が相王府長史となって朝政から引退した。 十月丙午、文成公主が吐蕃にて卒した。 

 開輝元年(681)正月庚辰、太子が立ったばかりなので、宣政殿にて百官及び命婦と宴会を開くと敕した。九部の伎と散楽は宣政門から入る。
 太常博士袁利貞が上疏した。その大意は、
「正寝は、命婦へ宴会をさせる場所ではありません。路門は芸人風情が通る場所ではありません。命婦は別殿にて会し、九部の伎は東西の門から入れ、散楽は中止されますよう、伏してお願い申し上げます。」
 上は麟徳殿にて別に宴会を設置させた。
 宴会当日、利貞へ帛百段を賜下する。利貞は昴の曾孫である。
 利貞の族孫の誼が蘇州刺史となった。彼は、祖先の袁淑が宋の太尉だった頃から帝室へ忠誠を尽くしてきたことを自ら誇っており、言った。
「琅邪の王氏は、王朝が幾つ変わっても、いつもその大臣だった。そんな輩と比べられるのは、恥だ。」
 また言う。
「名家が貴いのは、代々忠貞に篤く、才覚や功績のある者が続出したからだ。あの、婚姻をダシにして金をかき集める連中など、貴ぶに足らん!」
 時人は、この言葉を正しいとした。 

 三月辛卯。劉仁軌に、現状の官職に加えて太子少傅を兼任させた。侍中の赫處俊を太子太保とし、政事から引退させた。
 少府監裴匪舒は営利の才能があり、苑中の馬糞を売れば毎年二十万緡になると上奏した。上が仁軌へ尋ねると、対して言った。
「利益は大きいのですが、『唐の帝室は、馬糞を売った』と後世から言われるのは、名誉ではありません。」
 それで、中止した。
 匪舒は又、上の為に鏡殿を造った。落成したので、上と仁軌が観に行くと、仁軌は驚いて小走りに殿から駆け下りた。上がその訳を問うと、対して言った。
「典に二つの太陽がないように、地には二人の天子は居ません。ところが壁を視ますと、何人もの天子が居られたのです。なんで熟視できましょうか。」
 上は、これを撤去させた。
 七月甲午、劉仁軌が、僕射解任を固く請うたので、これを許す。 

 太原王妃が卒した時、天后は太平公主を女官として冥福を祈らせたいと請うた。やがて吐蕃が和親を求めると、太平公主を娶らせようと請うた。上は彼女の為に太平観を建て、公主を観主として、これを拒んだ。
 ここにいたって、始めて選光禄卿の汾陰の薛曜の子息の紹へ、太平公主を娶らせた。紹の母は、太宗の娘の城陽公主である。
 七月。公主が薛氏へ嫁いだ。興安門から南下して宣陽坊西へ至る。篝火がズラリと列んで、街路樹の槐がたくさん枯れた。
 紹の兄の豈(「豈/頁」)は、公主の寵愛が盛んなので深くこれを憂えた。そこで一族の長老である戸部郎中克構へ尋ねたところ、克構は言った。
「皇帝の甥が公主を娶るのは国家の故事だ。いやしくも恭慎で対するなら、何の禍が起ころうか!しかしながら、諺に言う。『公主を娶れば、官府を貰える。』懼れをなくしてはならぬぞ。」
 天后は、豈の妻の蕭氏と豈の弟の緒の妻の成氏が貴族ではないので、これを追い出したくなり、言った。
「我が娘を、田舎女と義姉妹にはできません!」
 すると、ある者が言った。
「蕭氏は禹の姪孫です。国家の旧戚ですよ。」
 それで思い止まった。 

 閏七月丁未、裴炎が侍中となり、崔知温、薛元超は共に中書令を留任される。 

 上が田遊巖を太子洗馬としたが、東宮にて何一つ益することがなかった。右衞副率の蒋儼が、書状でこれを責めた。
「足下は巣・由の俊節を背負い、唐・虞の聖主に自惚れ、名声は海内に流れた。主上が万乗の重をおして自ら腰を曲げて三顧の礼を執り、君を商山の客(漢の二世皇帝の地位を確立した四人の賢人達。)とも頼み、不臣の礼で優遇した。これは、世継ぎの君を善導して欲しかったからだ。皇太子は良いお年なのに、立派な行いがあるとゆう噂を聞かない。僕は不才ではあるが、それでも庭にて諫め争っている。足下は調護の待遇を受けているのだから、今こそ言わなければならないときではないか。それなのにただ一言も言わず、悠々として年月を過ごしている。君が周の粟を食べないのなら、僕は何を言おうか!しかし、既に禄を受けて親を養っているのに、何で報いているのか?思うだけでは届かないので、謹んで書にして届ける。」
 遊巖は遂に返事をしなかった。 

 庚申、上は服餌を以て、太子へ監国を命じた。 

 永淳元年(682年)二月、藍田に萬泉宮を造る。
 癸未、改元して天下へ恩赦を下す。 

 同月戊午、皇孫重照を皇太孫に立てる。
 上は、皇太孫府を開いて官属を置かせたかった。そこで、その件について吏部郎中王方慶へ問うと、方慶は答えた。
「晋と斉で、かつて太孫を立てたことがあります。この場合、太子が官属を持つように、太孫も官属を持ちました。しかし、東宮に太子が居るのに、太孫を別に立てるとゆうのは、聞いたことがありません。」
 上は言った。
「我が故事を作るのだ。だめかな?」
「三王は、互いに礼を踏襲しませんでした。なんでいけないことがありましょうか!」
 そして、師傅などの官を設置するよう上奏した。だが、上はこれが法ではないことを疑い、遂に授けなかった。
 方慶は褒の曾孫である。 

 関中が飢饉で、米が一斗で三百銭もしたので、上は東都へ御幸することにした。
 丙寅、京師を出発する。太子は都に留めて監国とし、劉仁軌、裴炎、薛元超に補佐させた。
 この時、突然の出発だったので、随従の士卒が途中で餓死するほどだった。上は、街道に盗賊が多いことを考慮し、監察御史魏元忠へ車駕の前後を監督させた。元忠は詔を受けると、赤県の牢獄を見回り、一人の盗賊を見つけた。彼は、風采も言葉も、他の者より群を抜いて立派だった。元忠は彼の手枷足枷を取り払い、冠帯をつけさせ、車に乗せて天子に随従させた。そして彼と共に起居して食事も共に摂り、盗賊達を寄りつかせないよう頼んだ。その男は、笑って許諾した。
 一行は一万の士馬だったが、東都へ到着するまで一銭も失わなかった。
 四月乙酉、車駕が東都へ到着した。 

 四月、唐行倹が遠征途上で卒した。詳細は、「突厥」に記載する。
 行倹には人を見抜く目があった。前進士王劇と咸陽尉の欒城の蘇味道は、どちらも名を知られていなかったが、行倹は彼等を一目見て言った。
「二君はいずれ、相継いで要職に就く。僕にはまだ幼い息子が居るので、後事を託したいものだ。」
 この時、劇の弟の勃と華陰の楊烱、范陽の盧照隣、義烏の駱賓王等は、皆、文章が巧いことで有名だった。司列少常伯の李敬玄は彼等を最も重んじて、必ず顕達すると言っていたが、行倹は言った。
「士の顕達は、器量見識が第一。才芸は二の次だ。勃等には文華はあるが、性格は浮薄。なんで爵禄を受けるような器か!楊子は沈着冷静だから令長になれるだろうが、他の者は令になれたら幸いだ。」
 後、勃は海を渡って水に落ち、烱は盈川令で終わり、照隣は悪い病気が治らずに入水自殺し、賓王は造反して誅殺された。劇と味道は、行倹の言葉通り、典選となった。
 行倹が将となった時の副将は、程務挺、張虔助、王方翼、劉敬同、李多祚、黒歯常之のように、後に名将となった。
 行倹はいつも左右に犀角や麝香を取るよう命じたが、すぐになくしてしまう。また、敕で馬と鞍を賜った時、令史が駆け込んできて、馬を倒し、鞍を破った事があった。令史達は二人とも逃げ去ったが、行倹は人を派遣して呼び戻し、言った。
「お前達のは単なる過失ではないか。なんで軽はずみに逃げ出したのか。」
 そして、従来通り使った。
 阿史那都支を撃破すると、瑪瑙の盤を入手した。その広さは二尺余。これを将士へ見せようとしたが、軍吏の王休烈が盤を捧げて階段を昇る時に、躓いて砕いてしまった。休烈は恐惶し、流血するまで叩頭した。すると、行倹は笑って言った。
「故意じゃないのに、なんでそこまでするのか!」
 惜しそうな顔色もなかった。
 都支等の資産の金器三千余や雑畜は全て親故や副将達へ賜下すると詔があると、数日ですっかり分配してしまった。 

 同月丁亥、黄門侍郎の穎川の郭待挙、兵部侍郎岑長倩、秘書員外少監・検校中書侍郎の鼓城の郭正一、吏部侍郎の鼓城の魏玄同を皆、中書門下同承受進止平章事とした。
 上は待挙等を登用したかったので、韋知温へ言った。
「待挙等は能力も経験も少ない。朝政に関与させたいが、卿等と同列には並べられない。」
 これ以来、外司四品以下で朝政に関与する者へ、始めて平章事とゆう名称を与えた。
 長倩は、文本の兄の子である。
 話は前後するが、玄同を吏部侍郎とした時、彼は人選の制度の弊害について上言した。
「委任したら成果を責めるのが、人君の礼です。委任した者が妥当だったら、登庸した者が有能だったと言えます。ですから周の穆王が伯冏を太僕正とした時、言いました。『慎重な態度で汝の属僚を選べ(書経、「命冏」)』 これは、群司へ、各々その小者へ適宜な人材を選ばせようとしたのです。そして、天子の人選は、その一番大きなものです。のちに漢代なると、人材の登用は州県の補佐官や五府の盤領から始まって、その後に天朝へ昇らせました。そして、魏、晋になって、始めて選部へ任せるようになったのです。それ、天下は大きく士人は多い。これを数人の手に委ねて刀筆で才能を量り、簿書を基にして実績を察する。これでは天秤のように公平で水鏡のように明哲でも、人力に限界があります。ましてや委任した相手が人を得なければ、暗愚や派閥の弊害が起こりますぞ!どうか、周、漢の登庸法を手本にして、魏、晋の過失を補ってください。」
 疏は上奏されたが、受け入れられなかった。 

 上は宦官を江の沿岸へ派遣し、珍しい竹を漁らせた。苑中へ植える為である。宦官は竹を船に乗せて運んだが、その途中では横暴の限りを尽くした。七月、荊州を行き過ぎる時、荊州長史蘇良嗣がこれを捕らえ、上疏して切に諫めた。その大意は、
「遠方の異物を運ばせて道路を騒がせるのは、聖人が人を愛するやり方ではありません。また、小人が虎の威を借りて専横に振る舞うのは、陛下の聡明を汚すものです。」
 上は天后へ言った。
「我が宦官へ厳重に言っておかなかったから、良嗣からこのように言われてしまった。」
 手詔で良嗣を慰め諭し、竹は江へ棄てさせた。
 良嗣は世長の子息である。 

 太子が京師の留守となったが、狩猟で遊んでばかりだったので、薛元超が上疏して諫めた。上はこれを聞くと、使者を派遣して元超を慰労し、併せて東都へ呼び寄せた。 

 十月丙寅。黄門侍郎劉景先を同中書門下平章事とした。 

 弘道元年(683)三月。太子右庶子、同中書門下三品李義炎が父母を改葬し、その舅氏をもとの墓へ戻した。上はこれを聞いて怒った。
「義炎は権勢を楯にして、その舅家を凌駕したか!こんな男を知政事にはできないぞ!」
 義炎はこれを聞いて不安になり、自ら足の病を理由に隠居を願い出た。
 庚子、義炎を銀青光禄大夫として辞職させた。
 同月癸丑、守中書令崔知温が卒した。
 七月己丑、皇孫の重福を唐昌王に立てる。
 甲辰、相王輪を豫王へ移し、旦と改名させる。 

 中書令兼太子左庶子薛元超が病気で口がきけなくなり、退職を願い出た。これを許す。 

 十一月。上は頭重に苦しみ、ものを見ることもできない。侍医の秦鳴鶴を召し出してこれを診療させると、鳴鶴は、頭へ針を刺して血を出せば治癒すると言った。ところが、御簾の内に天后が居り、彼女は上に平癒してほしくなかったので、怒って言った。
「この男を斬れ!天子の頭へ針を刺して血を流させようとした!」
 鳴鶴は叩頭して治療の実行を請うた。上は言った。
「とにかく刺してみよ。快癒しなくても構わないから。」
 そこで鳴鶴は、百会と脳戸(共にツボの名)の二ヶ所へ穴を開けた。
 上は言った。
「吾の目が見えるようになった。」
 后は手を挙げて額へ当て、言った。
「天の賜です!」
 そして自ら綏百匹を背負って鳴鶴へ賜った。
 太子を監国とし、裴炎・劉景先、郭正一を同東宮平章事とすると詔が降りた。
 上は奉天宮で重症となり、宰相でさえ面会できなかった。丁未、東都へ還り、天津橋南にて百官と謁見する。
 十二月、丁巳、改元して天下へ恩赦を下す。上は則天門の楼にて改元と恩赦を宣言したがったが、病気が酷くて乗馬もできない。そこで百姓を召し入れて殿前にて宣した。
 この夜、裴炎を召し入れ、輔政とする旨の遺詔を授けた。
 上は貞観殿で崩御した。太子は柩の前で即位し、まだ決定していない軍国の大事は天后と共に決定するよう遺詔する。また、萬泉・芳桂・奉天等の宮殿を廃止する。
 庚申、裴炎は、まだ太子が即位していないので敕を宣せず、天后の令を宣して中書、門下にて施行させた。
 甲子、中宗が即位する。天后を尊んで皇太后とし、政事は全て皇太后の裁決を仰ぐ。澤州刺史韓王元嘉は重要な土地におり人望もあるので、太后は彼が変事を起こすことを懼れ、三公等の官を加えて、その心を慰めた。
 甲戌、劉仁軌を左僕射、裴炎を中書令とする。戊寅、劉景先を侍中とする。
 故事では、宰相は門下省にて事を議論した。だからこれを政事堂と言っていたし、長孫無忌が司空となり、房玄齢が僕射となり、魏徴が太子太師となったが、皆、知門下省事だった。裴炎が中書令に遷るに及んで、始めて政事堂も中書省へ遷った。
 壬午、左威衞将軍王果、左監門将軍令狐智通、左金吾将軍楊玄倹、右千牛将軍郭斉宗を并・益・荊・揚州の四大都督府へ派遣し、府司と共に鎮守させる。
 中書侍郎同平章事郭正一を国子祭酒として、政事を辞めさせる。 

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