高宗皇帝  その二
 
 乾封元年(丙寅、666年)正月、戊申朔。上が泰山の南にて昊天上帝を祀った。
 この封禅の儀式の詳細は、「宗教」に記載する。 

 七月乙丑朔。殷王旭輪を豫王とした。
 大司馬兼検校太子左中護劉仁軌を右相とする。
 初め、仁軌は給事中となり、畢正義の事件を裁断した。李義府はこれを怨み、青州刺史に左遷する。百済討伐の時、仁軌は兵糧の海輸を指揮した。天候が不順で延期していたところ、義府から催促されて強行したが、暴風にあって大勢の丁夫が溺死した。上は監察御史袁異式を事件調査に派遣した。この時、義府は異式へ言った。
「君が巧く言ったなら、無官の心配はなくなるぞ。」
 異式は到着すると仁軌へ言った。
「君は朝廷の誰かから怨まれている。はやく適宜な処置を執りなさい。」
 仁軌は言った。
「仁軌は官にあって職務に失敗した。国に常刑があり、公が法を施行して臣を殺すのなら、逃げようがない。しかし、自決させて仇を悦ばせようとゆうのなら、その手には乗らんぞ!」
 そして、つぶさに事実を語った。
 異式は帰る時、自らその鎖を持った。
 証言が終わると、義府は上言した。
「仁軌を斬らなければ、百姓へ顔向けできません。」
 すると、舎人の源直心が言った。
「海上で暴風が起こったのです。人の力ではどうしようもありません。」
 上は、仁軌を除名し、白衣として従軍させた。(詳細は「朝鮮」に記載)
 義府は、仁軌を殺害するよう劉仁願へ風諭したが、仁願は殺すに忍びなかった。
 やがて義府が失脚し仁軌が大司憲となると、異式は懼れ、不安になった。すると仁軌は異式へ杯を与えて言った。
「仁軌が昔のことを根に持っていたら、杯を与えないぞ!」
 仁軌が知政事となると、異式は・事丞となったので、種々の噂が乱れ飛んだ。仁軌はこれを聞き、異式を司元大夫へ推挙した。
 監察御史の杜易簡が人へ言った。
「これは、曲を矯正して行き過ぎるとゆうものだ!」 

 九月戊子、金紫光禄大夫致仕廣平宣公劉祥道が卒した。子の斉賢が嗣ぐ。斉賢の為人は方正で上は甚だこれを重んじ、晋州司馬とした。
 将軍史興宗がかつて苑中で上に随従して狩猟をした。この頃の晋州は佳い鷂の産出地で、今は劉斉賢が司馬なので、興宗は、彼へ取り寄せるよう命じた。すると、上は言った。
「劉斉賢が鷂を捕らえたりするものか!卿は彼を何だと思っているのか!」 

 二年正月。上が籍田を耕した。役人が持ってきたすきには、彫刻が施してあったが、上は言った。
「すきは農夫が使う物だ。こんな美麗なものがあるか!」
 そして、取り替えさせた。
 これで九回耕した。(月令と鄭及注の周礼では、天子は三回耕すことになっているが、盧植注の礼記では「天子は九回耕す」としている。) 

 三月、上は、侍臣が賢人を進めないことを屡々責めた。衆は皆、敢えて言い返さなかったが、司列少常伯李安期が言った。
「天下に賢人が居ないわけではありませんが、群臣が敢えて隠蔽しているわけでもありません。公卿が賢人を推薦すると、朋党を造っていると讒言され、推薦された人間が抜擢されないばかりか、推薦した人間が罪に落ちてしまいます。それで皆は口を閉ざしているのです!陛下が本当に至誠でこれを待つならば、知人を推挙したがらない者がおりましょうか!原因は陛下にあるのです。群臣のせいではありません。」
 上は深く納得した。
 安期は、百薬の子息である。 

 四月乙卯。西台侍郎楊弘武、戴至徳、正諫大夫兼東台侍郎李安期、東台舎人昌楽張文灌(ほんとうは王偏)、司列少常伯兼正諫大夫の河北の趙仁本を同東西台三品とした。
 弘武は素の弟の子、至徳は冑の兄の子である。
 この頃、蓬莱、上陽、合璧等の宮を造営し、四夷征伐は頻繁に起こり、厩には一万匹の馬が飼われており、官庫は次第に乏しくなっていった。そこで、張文灌は諫めた。
「隋鏡は遠くありません。百姓に怨みを生じさないでください。」
 上はその言を納れ、厩馬を数千匹へ減らした。 

 総章元年(668年)四月丙辰。五車に彗星が見えた。上は正殿を避け、食膳を減らし、音楽を撤廃した。すると、許敬宗等が常に復すよう上奏した。
「東北に彗星が見えるのは、高麗が滅亡する兆しです。」
 上は言った。
「朕の不徳が、天に顕れたのだ。なんでその咎を小夷へ押しつけられようか!それに、高麗の百姓も又、朕の百姓である。」
 常に復すことを許さなかった。
 戊辰、彗星は消えた。 

 十月戊午。烏荼国のバラモン盧迦逸多を懐化大将軍とする。
 逸多は、不死の薬を調合できると吹聴しており、上はこれを雇用しようとしたが、東台侍郎赤處俊が諫めた。
「寿命は天命です。薬で延ばすものではありません。貞観の末、先帝は那羅邇娑婆寝の薬を服用しましたが、結局効果がありませんでした。先帝の体が弱ってくると名医も為す術が無く、中には罪を全て娑婆寝へ押しつけるものまで出て、娑婆寝は誅戮を加えられる寸前まで行きましたが、戎狄から笑われることを恐れて中止されました。前鏡は遠くありません。どうか陛下、深くお考えください。」
 上は思い止まった。 

 十二月、渭南尉劉延裕は若くして進士第へ登り、政治の実績は畿内一だった。李勣は、彼へ言った。
「足下は若くして高名を得た。これからはすこし貶抑して、独りだけ突出しないようにしなさい。」 

 この頃、敕があり、征遼軍士の逃亡者(期限内に到着しない者や、到着しても逃げた者)は、本人は斬罪にし、妻子は官の奴婢とされた。すると、太子が上表して言った。
「このようにしますと、その数があまりに多くなります。或いは病気になって期限に間に合わずに逃げ出したり、或いは薪などを取りに行って賊徒に掠められたり、或いは渡海して漂流したり、或いは賊領へ深く入り込んで殺傷されたり。軍法が余り厳しすぎると、同じ隊の者が連座を恐れて隊を挙げて逃亡することにもなり、軍旅の中、相当する者は数え切れません。隊司の報告書を鵜呑みにして全て適用させ、その妻子を奴婢とするのでは、人情としてあまりにも哀れです。書経にも言います。『その無辜を殺すくらいなら、むしろ罪人を見逃す方がよい。』と。伏してお願い申し上げます。逃亡者の家族を奴婢とするのはご容赦ください。」
 これに従う。 

 甲戌、司戎太常伯姜恪に検校左相を兼務させ、司平太常伯閻立本を守右相とする。 

 二年、二月辛酉。張文灌を東台侍郎とし、右粛機、検校太子中護の焦(「言/焦」)の人李敬玄を西台侍郎とし、共に同東西台三品とする。
 これまで、同三品は入金(「行/金」)できなかったが、これ以降できるようになる。(「行/金」が、判別できませんでしたが、禁中のある箇所を指すのではないかと思います。) 

 癸亥、ヨウ州長史盧承慶を司刑太常伯とする。
 承慶はいつも内外の官を考課していた。ある時、一官吏が運搬を監督しているときに風に遭って運んでいた米を損失させた。承慶は、その官吏を考課して言った。
「運搬を監督した米を損失させた。中の下とする。」
 すると、件の官吏は自若としており、無言のまま退出した。承慶はその雅やかな器量を重んじて、考課を改訂した。
「風に遭ったのは、人力の及ぶところではない。中の中とする。」
 だが、件の官吏は喜びもしなかったし、愧じる言葉もなかった。そこで再び改訂した。
「寵にも辱にも心がとらわれない。中の上とする。」 

 三月丙戌。東台侍郎赤處俊を、同東、西台三品とする。 

 八月丁未朔、十月に涼州へ御幸すると詔した。
 この頃、隴右が虚耗しており、大勢の官僚が、遊幸は良くないと言い合った。上はこれを聞き、辛亥、延福殿へ出向き、五品以上を召集して言った。
「古来より巡守しない帝王はいなかった。だから朕は遠方の風俗を巡視しようと思ったのだ。もしもこれが不可だとしても、面と向かっては何も言わず、退出した後に言うとは、どうゆう訳だ?」
 宰相以下、言い返せる者はいなかったが、詳刑大夫来公敏独り進み出て言った。
「巡守は帝王の常事ではありますが、高麗は平定したばかりで余寇はなお多く、西辺の経略でも戦争は止みません。隴右の戸口は疲弊しきっておりますのに、乗與が御幸するとなると、その準備の為に民の労苦は大変なものがあります。このような議論は多かったのですが、既に御幸すると明言されてしまったので、群臣は敢えて陳述しなかったのでございます。」
 上はその言葉を善として、西巡を中止した。それからすぐに、公敏を黄門侍郎へ抜擢した。
(来公敏の陳述を読んで感じたのですが、「議者多以為未宜遊幸」は、「臣下達が互いに言い合った」だけで、「上へ向かって陳述した」のではないような気がします。「上言」などの言葉が入らずに、ただ「議者〜」と記載してあった時は、「皆が内々で言い合った」と解釈するべきなのでしょうか?今まで厳密に区別していなかったので、これまでの訳文が、かなり心配になりました。) 

 甲戌、瀚海都護府を安北都護府と改称する。 

 十一月丁亥。豫王旭輪を冀王とし、輪と改名させた。 

 司空、太子太師、英貞武公李勣が病に伏せった。上は、地方にいた彼の子弟を悉く召して看病させた。李勣は、上や太子から賜下された薬は服んだが、子弟が医者を連れて来ても、診察させずに言った。
「我はもともと山東の田夫。それが聖明と遭って三光にまで出世した。そして、年も八十だ。もはや寿命ではないか!長短は天命、医者に就いてまで長生きする気はない!」
 ある夕べ、弟の司衞少卿弼へ言った。
「今日は、少し体調がよい。一緒に酒でも楽しもう。」
 そこで、子孫を全員集めた。酒がたけなわの時、勣は弼へ言った。
「我は、もうダメのようだ。だから、汝等と別れをしたいのだ。汝等は、悲泣しないで、我が約束を聞いてくれ。房と杜が終生勤苦して僅かに門戸を立てたのに、不肖の子息が家門を覆してもはや遺族もいない有様を、我は見てきた。我にこれだけの子孫が居るが、今、これを悉く汝へ託す。埋葬が終わったら、汝はすぐに我が堂へ入って孤幼を撫で謹んでこれを視察せよ。不倫の志気を持つ者や良からぬ輩と交遊する者が居たら、まずこれを殺してから上聞せよ。」
 それ以上、何も言わなかった。
 十二月戊申、卒す。上はこれを聞いて悲泣した。葬儀の日、未央宮へ御幸し、楼へ登って轜車を望み慟哭する。陰山、鐵山、烏徳建(「革/建」)山へ塚を立て、突厥、薛延陀を撃破した功績を遺した。
 勣は将となっては謀略も決断力もあり、人と議論したら流れるように善に従った。戦争に勝ったら功績を部下へ譲り、賜下された金帛は悉く将士へ散らした。だから彼の麾下は皆戦死に臆せず、連戦連勝だった。事に臨んで将を選ぶ時は、必ず人相を見て、その状貌が豊厚な者を選んだ。ある人がその理由を問うと、言った。
「運の悪い人は功名を成せないのだ。」
 一族へは、とても睦ましく、そして厳格に接した。かつて姉が病気になった時には、勣は僕射だったのに、自ら粥を煮て、うちわで扇いで須や鬢の熱を冷ましてやった。姉は言った。
「僕には妾も多いのに、どうして自分でここまでするの!」
 勣は言った。
「使える人間が居ない訳じゃない。しかし、姉も勣ももう年だから、姉の為に粥を煮てあげようと思っても、いつまでもできやしないじゃないか!」
 勣はいつも人へ言っていた。
「我は十二三の時には無頼の賊で、人に遭ったら殺していた。十四五の時には不当の賊で、気に入らない奴を殺した。十七八では佳賊となり、戦陣に臨んで敵を殺した。二十では大将になり、兵を用いて人が死ぬのを救った。」
 勣の長男の震は夭折しており、震の子の敬業が襲爵した。
(李勣は、昨年十二月に高麗を滅ぼして凱旋したばかりだった。) 

 咸亨元年(670)正月丁丑。右相劉仁軌が退職を願い出、許諾された。 

 三月、甲戌朔。旱が起こったので、天下へ赦を降し、改元する。 

 壬辰、太子少師許敬宗が退職を願い出、許諾された。 

 突厥の酋長の子息へ東宮へ仕えるよう敕が下った。
 西台舎人徐斉 が上疏した。
「皇太子の左右には、文学端良の士を置くべきです。どうして戎狄のような醜類を軒闥へ入侍させてよいものでしょうか。」
 又、奏した。
「斉献公(文徳皇后の父の長孫晟)は陛下の外祖です。その子孫に国を犯した者がいたとはいえ、どうして祀らずにいられましょうか!今、周忠孝公(皇后の父の武士護)の廟は立派に造られていますが、斉献公の廟は壊されています。これでは陛下は何を以て海内へ教えを示し、孝理の風を顕わすのですか!」
 上は、ともに従った。
 斉 は充容(天子の側室で、九嬪の一つ)の弟である。 

 十月庚寅、官名を皆、旧名へ戻した。 

 二年九月丙申。路(「水/路」)州刺史徐王元禮が卒した。
 三年、二月己卯、侍中永安郡公姜恪が卒した。 

 七月壬午。特進高陽郡公許敬宗が卒した。
 太常博士袁思古が議した。
「敬宗は長男を荒境に棄て、娘を夷人へ嫁がせました。諡法を案じますに、『名と実が合わないのを繆という。』とあります。どうか諡は『繆』としてください。」
 敬宗の孫の太子舎人彦伯は、思古は許氏と怨みがあったと訴え、諡の改正を請うた。すると、太常博士王福畤が反論した。
「得失は一朝、栄辱は千載。もしも嫌悪が事実なら、法に據りて厳格にするべきだし、そうでなければ義として変えてはならない。」
 戸部尚書戴至徳が畤へ言った。
「高陽公はこんなに寵遇されたのに、どうして『繆』と言うのか。」
 対して答えた。
「昔、晋の司空何曾は忠孝だったが、一日萬銭を浪費したので奏秀はこれへ『繆』と諡した。居敬宗は忠も孝も曾に及ばない。しかも息子や娘の縁者での飲食は彼以上だ。これへ『繆』と諡しても、許氏へ背かないぞ。」
 詔して五品以上を召集し、更に議論させた。すると、礼部尚書陽思敬が提議した。
「諡法を案ずるに、過ちを改めることのできる者を『恭』と言います。どうか『恭』と諡してください、」
 詔して、これに従う。
 敬宗はかつてその子の昴を嶺南へ流すよう上奏し、娘を蛮の酋長の(馮央(「央/皿」)の息子)へ嫁がせ、多額の結納金を得た。だから思古はこのように提議したのである。 ちなみに福畤は、勃の父親である。 

 九月、癸卯、沛王賢をヨウ王とする。
 十月己未、太子を監国にすると詔した。
 太子は、まれにしか幕僚と接しなかったので、典膳丞の全椒の刑(ほんとうは大里)文偉が太子の食膳の数を減らし、併せて上書して太子を諫めた。太子は返書を出し、病気がちで政務を執る時間が少ないことを謝り、その意を嘉納した。
 この頃、右史に欠員があったので、上は言った。
「刑文偉は我が子へ仕えておるが、食膳を減らして諫言を進めた。これは直士だ。」
 そして右史へ抜擢した。
 太子が宴会中、幕僚達へ擲倒(踊りの一種)を踊るよう命じた。順番に演じて左奉裕率王及善の番になった時、及善は言った。
「擲倒は、それを演じるための役者がいます。臣がこの命令を承るのは、殿下の羽翼の所業ではないと考えます。」
 太子は、これへ謝った。
 上はこれを聞いて、及善へケン(「糸/兼」)百匹を賜下し、左千牛衞将軍とした。 

 十二月癸卯。左庶子劉仁軌を同中書門下三品とする。 

 四年正月丙辰。絳州刺史鄭恵王元懿が卒した。 

 八月辛丑、上がマラリアに罹ったので、太子へ延福殿にて諸司の報告を受けさせる。 

 十月壬午、中書令閻立本が卒した。 

 上元元年(674)八月壬辰。宣簡公を宣皇帝、妣の張氏を宣荘皇后、懿王を光皇帝、妣の賈氏を光懿皇后、太武皇帝を神堯皇帝、太穆皇后を太穆神皇后、文皇帝を大層文武聖皇帝、文徳皇后を文徳聖皇后と追尊した。
 皇帝を天皇、皇后を天后と称し、先帝、先后の呼称を避けた。
 改元して天下へ赦を下す。
戊戌、敕が降りた。
「文武三品以上は紫の服で金玉帯、四品は深緋の服で金帯、五品は浅緋の服で金帯、六品は深緑の服、七品は浅緑の服で共に銀帯、八品は深青服、九品は浅青服で、共にユ石帯、庶人は黄服で銅鐵帯とする。非庶人(工商雑戸)は、黄色の服を着てはならない。」
 九月癸丑、長孫晟、長孫無忌の官爵を復し、無忌の曾孫の翼に趙公を襲爵させるよう詔が降りた。無忌の喪に服すことを許し、昭陵へ陪葬する。 

 同月甲寅、上が翔鸞閣へ御幸し、大ホ(集まって酒を飲むこと)を観た。音楽を東西の朋へ分け、ヨウ王賢へ東朋を、周王顕へ西朋を指揮させ、勝負させて楽しもうとした。すると、赫處俊が諫めた。
「二王はまだ幼く、人格も未だ完成されておりません。今は、梨や棗を譲り合うように親しみ合わなければなりません。それなのに、二派に分けて競い合わせる。俳優は小人ですから、その言葉は無節操。交々勝負を争ううちに、礼を失うこともありましょう。これでは礼儀を祟び敦睦を勧めることができません。」
 上は驚いて言った。
「卿の遠くまで見据える見識は、衆人の及ぶところではない。」
 そして、これを中止した。
 この日、衞尉卿李弼が宴会中に急死したので、彼の為に一日ホを廃止した。 

 箕州録事参軍張君澂(まん中は育)等が、刺史の蒋王軍(「心/軍」)とその子息の汝南郡王韋(「火/韋」)が造反を謀っていると誣告した。通事舎人薛思貞へ現地へ行って取り調べるよう敕が降る。
 十二月、癸未。軍は恐惶して首吊り自殺をした。上は彼の無実を知り、君澂等四人を斬った。 

 壬寅、天后が上表した。
「国家の聖なる始祖は玄元皇帝(老子のこと。本名は李耳。李姓なので、唐皇室は自分達の先祖とゆうことにした。)から始まりました。どうか、王公以下の全員へ老子を習わせ、毎年の明経にて孝経や論語に準じて試験を行ってください。」
 又、請う。
「今後は父が生きていても、母の喪には三年間服しますように(古礼では、父親が健在なら母親の喪は一年である)。又、京官の八品以上は棒禄を増やしますように。」
 その他、改革案が合計十二条あった。詔が降りてこれを褒め、全て施行した。 

 この年、劉暁とゆう者が上疏した。
「今、公で行われている人選の考課基準は、書判を第一としており、徳行や才能は考慮されておりません。その上、書判は代筆を利用する者が大半です。また、礼部が人を採用する時は専ら文章を取って甲乙を付けています。ですから天下の士は皆、徳行を棄てて文芸へ赴きます。その挙げ句、朝に登用された者が夕方には刑に陥るのです。毎日万言を口ずさんだとて、治道に何の関わりがありましょうか!七歩歩く間に文章を作れても、立派な人格者とは言えません。ましてや草木の間に心を尽くし煙霞の際に筆を極めることが褒めそやかされるなど、大きな誤りではありませんか!夫人が名を慕い、水が低きに流れるように、上が好めば下の者はもっと甚だしくなります。陛下がもし士を選ぶときに徳行を先とし文芸を末とするならば、多くの士が雷奔し、四方から風に吹かれるように動いてくるでしょう!」 

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