高宗皇帝  その一
 
 永徽元年(650年)、正月辛丑朔、改元する。
 丙午、王氏を皇后に立てた。后は思政の孫である。后の父の仁祐を特進、魏国公とした。
 己未、張行成を侍中とする。
 辛酉、上は朝集使を召して、言った。
「朕は即位したばかりだ。百姓に不便なことがあれば、悉く陳述せよ。口に出せないことならば封奏せよ。」
 これより、毎日刺史を十人入閣させて、百姓の疾苦を問い、政治に反映させた。
 洛陽の人李弘泰が、長孫無忌が造反を謀っていると誣告した。上は、すぐに李弘泰を斬罪に処した。無忌と猪遂良は心を併せて政治を輔け、上も又二人を尊礼し、その述べることは恭しく拝聴した。だから、永徽の政治に百姓は安んじ、貞観の遺風があった。
 二月、辛卯。皇子孝を許王、上金を杞王に、素節をヨウ王に立てた。 

 九月癸亥、上が狩猟に出て、雨に遭った。上は、諫議大夫の昌楽の那律へ問うた。
「油衣にすれば濡れないかな?」
 対して言った。
「瓦ならば、絶対洩れません。」
 上は悦んで、狩猟を止めた。 

 李勣が辞職を求めた。
 十月、戊辰。李勣の左僕射を解任し、開府儀同三司、同中書門下三品とした。 

 二年、正月乙巳。黄門侍郎宇文節と中書侍郎柳爽を共に同中書門下三品とした。爽は亨の兄の子で、王皇后の舅である。
 八月、己巳。于志寧を左僕射、張行成を右僕射、高季輔を侍中とする。志寧と行成は同中書門下三品とする。 

 九月、癸巳。玉華宮を廃止して、仏寺とした。
 戊戌、九成宮を萬年宮と改称する。 

 同月庚戌、左武候引駕の盧文操が、ひめがきを越えて左藏物を盗んだ。
 引駕職とゆう、盗人を捕まえるべき人間が自ら盗みを働いたので、上は誅殺するよう命じたが、諫議大夫の蕭鈞が諫めて言った。
「文操のやったことは、心情としてはとても赦せません。しかし法では死罪にはなりません。」
 上は文操の死を免除し、侍臣を顧みて、言った。
「これこそ、真の諫議だ。」 

 閏月、上が宰相へ言った。
「官司達は互いの顔色を見ながら仕事をしており、公に尽くさないことが多いと聞くぞ。」
 長孫無忌が対して言った。
「正論です。しかし、情に流れて法を曲げるような事態にまでは至っておりません。些細な事に目をつぶることまで論じるのなら、陛下とて同罪になってしまいますぞ。」
 無忌は元舅として輔政していた。およそ彼の言うことは、上は皆嘉納した。 

 三年正月。梁建方等が處月を討伐した。その詳細は「西域」に記載する。
 さて、高徳逸が敕令を受けて馬を買ってきたが、その中で一番の駿馬は梁建方が取ってしまった。上は、建方は軍功を挙げたので赦して不問とした。
 大理卿李道裕が上奏した。
「徳逸が取った馬は筋力が素晴らしい逸品です。これを中厩へ入れましょう。」
 上は侍臣へ言った。
「道裕は法官だ。馬を進めるのはその本分ではないのに、妄りに我が心に阿った。朕の常日頃の行動が悪かったから、このような事をすれば喜ぶと臣下から思われたのだ。どうしてこれでよかろうか!朕は自分を咎める。だから敢えて道裕を降格しないのだ。」 

 正月己巳、同州刺史猪遂良を吏部尚書、同中書門下三品とする。
 丙子、上が太廟で饗宴を開いた。
 丁亥、先農で饗宴し、自ら籍田を耕した。
 二月、甲寅、上は安福門楼へ御幸し、百戯を観る。
 乙卯、上は侍臣へ言った。
「昨日楼へ登ったのは、人情及び風俗の奢倹を観たかったのだ。声楽を楽しみたかったのではない。胡人は撃鞠の戯が巧いと朕は聞いており、かつて一度観たことがある。昨日始めて楼へ登ったが、群胡が撃鞠をしていた。彼等は、朕がこれを好むと思っていたのだろう。だが、帝王の所業が、どうしてそんな甘い物だろうか。朕は既にこの鞠を焼いた。胡人がこれで我が想いを理解し、戒めとしてくれるよう冀っている。」 

 三月、辛巳。宇文節を侍中、柳爽を中書令、兵部侍郎の三原の韓爰(「王/爰」)を守黄門侍郎、同中書門下三品とする。 

 秋、七月、丁巳。陳王忠を皇太子に立て、天下へ恩赦を下す。 

 九月、守中書侍郎来済を同中書門下三品とした。
 四年二月、開府儀同三司李勣を司空とした。
 九月壬戌、右僕射北平定公張行生が卒した。甲戌、猪遂良を右僕射とした。同中書門下三品は従来通りで、知選事も兼任する。
 十一月癸丑、兵部尚書崔敦礼を侍中とした。 

 五年閏月丁丑、夜、大雨が降った。山水が溢れ、玄部門へぶつかる。宿衞の士卒は、皆、逃げ散った。右領軍郎将薛仁貴が言った。
「天子に急がある時に、宿衞の士が死を畏れて良いものか!」
 そして門へ登って宮内へ大声で警戒を呼びかけた。上が急いで飛び出して高みに登ると、たちまち水が寝殿へ入ってきた。衞士や麟遊県の住人が溺れ、三千余人が死んだ。
 六月、丙午。恒州で大水が起こった。呼沱が溢れて五千三百家が水浸しとなった。
 
 同月、中書令柳爽は、王皇后の寵愛が衰えたのを見て内心不安になり、政事からの解任を請願した。癸亥、吏部尚書を辞職する。 

 七月戊戌、上が五品以上へ言った。
「先帝の左右にいた頃は、五品以上が論争したり、あるいは杖下にて面と向かって陳情したり、退出後に封事したのを見たものだ。どうして、今日だけ何事もないことがあろうか。公等、どうして何も言わぬのだ?」
 十月。ヨウ州から四万一千人を雇用して長安に外郭を築かせた。工事は、三旬で終わる。
 癸丑、ヨウ州参軍薛景宣が、封事を上納し、言った。
「漢の恵帝は長安城を築いた後、崩御しました。今、この城を復元する。必ず大きな咎がありますぞ。」
 于志寧等が、景宣は縁起が悪いことを言うので誅殺するよう請うと、上は言った。
「景宣は狂妄ではあるが、もしも封事を上納したことが原因で罪を得るなら、これからは発言を絶やすことになる。」
 遂に、これを赦す。 

 六年正月庚寅、皇子弘を代王に、賢を路(「水/路」)王に立てた。
 五月壬辰、韓爰を侍中とし、来済を中書令とした。
 六月乙酉、侍中崔敦礼を中書令とした。
 八月、尚書奉御の蒋孝璋を員外に特置して、正員と同格にした。員外同正は孝璋から始まった。
 九月、戊辰、許敬宗を礼部尚書とする。
 十月、武昭儀を皇后に立てる。
 顕慶元年(656年)正月、皇后の子息、代王弘を皇太子に立てる。
 壬申、天下へ赦し、改元する。
 二月、辛亥。武士護(言偏ではなく、尋)を司徒として、周国公を賜下した(これらの詳細は、「則天武后」に記載する。)。
 三月、度支侍郎杜正倫を黄門侍郎、同三品とした。 

 五月己未、上が侍臣へ言った。
「朕は人を養う道を考えるが、まだ、その要諦を得ない。公等、朕へ述べてみよ!」
 来済が言った。
「昔、斉の桓公が外へ出た時、飢え凍えた老人をみました。これへ食事を与えるよう命じると、老人は言いました。『どうか国中の飢えた者へ賜ってください。』着物を与えると、言いました。『国中の凍える者へ与えてください。』公は言いました。『寡人の蓄えで、どうして国中の飢え凍えを救えようか!』老人は言いました。『君が農事を奪わなければ、国人皆に食物が有り余ります。養蚕を奪わなければ、人は皆余分の着物まで持てます!』
 今、山東の役丁は毎年数万です。これを労役で取れば人々は疲れ果てますし、庸で取ればその費えが大変です。どうか陛下、公家に必要なもの以外は、悉く免除してください。」
 上はこれに従った。 

 七月癸未、中書令崔敦禮を太子少師、同中書門下三品とした。
 八月、丙申、固安昭公崔敦禮が卒した。 

 李義府は容貌は温厚恭謙で、人と語るときには微笑みを絶やさなかったが、狡猾陰険で凌がれることを嫌った。だから、時人は「義府の笑みの中には刃がある」と言った。又、上辺は柔らかいのに物を害するので、李猫とも言った。
 永徽六年(655年)十二月、李義府が中書侍郎から参知政治となる。やがて李義府は、寵愛を恃んで専横になった。
 洛州の婦人惇于氏は美人で、大理獄に繋がれていた。義府の属官の大理寺丞畢正義が法を曲げてこれを釈放し、義府の妾にしようとした。大理卿段寶玄は、これに疑惑を持って上奏した。上は、給事中劉仁軌へこれを取り調べさせた。義府は事の露見を懼れ、正義に獄中で首吊り自殺をさせた。上はこれを知ったが、不問に処した。
 八月、侍御史連(「水/連」)水の王義方がこれを弾劾しようと思い、まず、その母親へ言った。
「義方は御史です。姦臣を見て糺さなければ不忠者。しかし、これを糺せば身は危うく、憂えが親に及びます。これは不孝者。二つのうちどちらか選ばねばなりません。どうしましょうか?」
 母は言った。
「昔、王陵の母は、身を殺して子の名を成したのです。汝が忠義を尽くして君に仕えてくれるのなら、我は死んでも恨みはありません!」
 そこで、義方は奏上した。
「義府は獄中にて六品寺丞を殺しました。かりに正義が自殺したとしても、それは義府の権威を畏れ、身を殺して口を封じたのです。それだと、生殺の権威が上以外から出たことになります。この風潮は助長させてはなりません。どうか厳しい処罰を与えてください。」
 そして、杖を持って義府を叱りつけた。義府は退出を望まず上を顧みたが、義方が三度叱咤しても、上は無言のままだった。義府はとうとう退出し、義方は弾劾文を読んだ。
 上は義府を赦して不問に処し、義方が大臣を侮辱し、その言葉は不遜だったとして、莱州司戸へ左遷した。
 顕慶二年(657年)癸丑、李義府へ中書令を兼務させる。 

 顕慶元年(656年)、太常卿フバ都尉高履行を益州長史とする。
 二年、正月癸巳。哥邏禄部を分けて陰山、大漠の二都督府を設置した。
 五月、丙申。上は避暑の為、明徳宮へ御幸した。
 上は即位以来毎日政務を執っていた。庚子、宰相は天下が無事なので政務を隔日に執るよう請願した。これを許す。
 七月、丁亥朔。上は洛陽宮へ還った。
 九月辛巳、礼部尚書許敬宗を侍中とし、兼度支尚書杜正倫は中書令を兼務させた。
 十月丁卯、洛陽宮を東都とし、洛州の官吏の員品はヨウ州に準じさせる。
 十二月、吏部侍郎劉祥道を黄門侍郎、仍吏部選事とする。
 祥道は言った。
「今、官吏として採用する者が多くなりすぎています。毎年、千四百人もの官吏を登用し、歯止めがありません。今、内外の文武官は一品から九品まで合わせて、一万三千四百六十五人です。登用して三十年働くとするなら、毎年五百人を登用すれば勘定が合います。どうかご改革ください。」
 杜正倫も、また採用人数が多すぎると上言していた。そこで上は正倫と祥道へ詳しく議論するよう命じた。だが大臣は、改正されることを憚り、うやむやにしてしまった。
 祥道は林甫の子息である。 

三年、中書令李義府が上から寵愛され、諸子は幼児でも高官に列した。それに義府は貪欲で厭きることが無く、母、妻及び諸子、婿は官位を売ったり賄賂で裁判を曲げたりした。その門前は市を為し、朋党を大勢作り、朝野を傾けた。
 中書令杜正倫は先輩として振る舞っていたが、義府は上の寵を恃んで謙らない。これによって仲が悪くなり、上の前で義府を訟した。上は大臣が不和なので、共に責めた。
 十一月、乙酉。正倫を横州刺史、義府を普州刺史へ左遷する。やがて正倫は横州にて卒した。
 ヨウ州司士許韋(「示/韋」)は来済と仲が良く、侍御史張倫と李義府を怨んでいた。
 吏部尚書唐臨が、韋を江南道巡察使とし、倫を剣南道巡察使とするよう上奏した。この時、義府は晋州へ飛ばされていたが、皇后は常に保護していたので、臨が私的な想いで人選したと受け取った。
 四年、二月、乙丑。臨を免官する。 

 三年、十一月戊戌、許敬宗を中書令とし、大理卿辛茂将へ侍中を兼任させる。 

 同月、開府儀同三司ガク忠武公尉遅敬徳が卒した。
 敬徳は晩年は閑居し、長生の術を学び、池台を造り音楽を奏でさせて自ら楽しんだ。およそ十六年、賓客とは付き合わなかった。享年七十四、病気で没する。朝廷の恩礼はとても厚かった。 

 四年四月丙辰。于志寧を太子太師、同中書門下三品とした。
 乙丑、黄門侍郎許圉師を参知政治とする。
 五月、丙申。兵部尚書任雅相、度支尚書盧承慶を共に参知政治とする。承慶は思道の孫である。 

 六月、丁卯。氏族志を姓氏録と改称すると詔が降りた。その経緯は、次の通り。
 太宗が高士廉等へ氏族志を造るよう命じ、氏族の格を昇降去取して、完成したときには時宜にあっていると称された。だがここに至って許敬宗等は、この書は武氏の氏族が欠落しているので、改訂するよう奏請した。そこで礼部郎中孔志約等へ比類昇降させ、后族を第一等とし、その余はことごとく唐の官品の高下を帰順として九等に分類した。
 おかげで、軍功で五品へ出世した士卒は士の格となった。時人は、これを「勲格」と言った。 

 八月、壬子。晋州刺史李義府へ吏部尚書、同中書門下三品を兼務させる。
 義府は貴くなると、元は趙郡出身だと自称し、諸李と昭穆を記した。大勢の無頼の徒が、彼の権勢を借りようと、拝伏して兄叔となった。
 給事中李祟徳は、もともと彼と同譜だったが、義府が晋州へ飛ばされると、たちまちこれを除いた。義府はこれを聞いて含み、相へ復帰すると、人へ彼の罪を誣告させ、獄に下して自殺させた。 

 九月、石、米、史、大安、小安、曹、抜汗那、邑(「?/邑」)怛、疏勒、朱駒半等の国へ州県府百二十七を設置した。 

 十月、丙午。太子を元服させ、天下へ赦を下した。
 閏月戊寅。上が京師を発し、太子を監国とした。だが、太子は父を恋しがるばかり。上はこれを聞くと、急遽行在所へ連れてきた。
 戊戌、車駕が東都へ到着した。 

 十一月丙午。許圉師を散騎常侍、検校侍中とした。
 十二月、盧承慶を同中書門下三品とした。 

 五年三月、丙午、皇后が朝堂にて親戚故旧隣人と宴会を開いた。婦人は内殿にて宴する。各々へ恩賞を賜下した。
 詔が降る。
「八十以上の并州の婦人へは皆、郎君を賜下する。」 

 七月丁卯、度支尚書、同中書門下三品盧承慶が、租税の徴収が巧く行ってないとして、免官された。(度支尚書は、徭賦職貢を司る職。) 

 十月、上は始めて風眩頭重に苦しんだ。目が見えなくなることもある。百司の上奏は、上はあるいは皇后へ決裁させた。后は明敏な性で、文史を読み漁っており、諸事皆、皇帝の御意にかなっていた。ここにおいて始めて政治が委ねられ、権力が人主と等しくなった。 

 龍朔元年、三月丙申朔、上と群臣及び外夷が洛城門にて宴会を開いた。屯営にて新作の舞が披露され、「一戎大定楽」と名付けられた。
 この頃、上は高麗へ親征しようと思っていたので、用武の勢いを象徴したのである。 

 九月壬子、路王賢を沛王とする。
 賢は、王勃が文章が巧いと聞き、召し抱えて修撰とした。勃は通の孫である。
 この時、諸王が闘鶏をしたので、勃は戯れに「檄周王鶏文」を作った。上はこれを見て怒り、言った。
「これは仲違いを芽生えさせる。」
 そして勃を斥して沛府へ出した。 

 二年二月、甲子。百官の名称を改める。門下省を東台、中書省を西台、尚書省を中台。侍中を左相、中書令を右相、僕射を匡政、左・右丞を粛機、尚書を太常伯、侍郎を少常伯。その他二十四司、御史台、九寺、七監、十六衞は、皆、その機能が判じるような名称にした。職務は代わらない。 

 五月丙申。許圉師を左相とした。
 八月壬寅。許敬宗を太子少師、同東西台三品、知西台事とした。
 十月丁酉。上が驪山の温泉へ御幸した。太子が監国となる。丁未、宮へ還る。
 庚戌。西台侍郎陜の人上官儀を同東西台三品とする。
 左相許圉師の子息の奉輦直長自然が、狩猟をして遊んでいて、他人の田へ入って荒らしてしまった。田主が怒ると、自然はカブラ矢でこれを射た。圉師は自然を百回杖で打ったが、上聞しなかった。
 田主は司憲へ行ってこれを訴えたが、司憲大夫楊徳裔は耳を貸さない。すると、西台舎人袁公瑜が人を派遣し、変名を使って上封で告発した。
 上は言った。
「圉師は宰相なのに、百姓を侵陵し、その事件を握りつぶした。これは『威福を作る』とゆうやつではないか!」
 圉師は謝して言った。
「臣は枢軸の位を備え、直道で陛下へ仕えました。しかし全ての人から親しまれることができず、人から攻められる羽目になってしまいました。しかし、『威福を作る』と申しますのは、強兵を握ったりとか、重鎮に住んだりすることです。臣は文吏で聖明へお仕えして、ただ門を閉じて自分を守ることを知っているだけ。どうして威福を作ったりいたしましょうか!」
 上は怒って言った。
「汝は兵力がないのが恨めしいのか!」
 許敬宗が言った。
「人臣としてこんなことをしでかしたのです。その罪は誅を免れません。」
 速やかに引き出させた。詔して特に免官とする。
 三年三月、許圉師は再び貶され虔州刺史となった。楊徳裔は阿りの党として、庭州へ流す。圉師の子の文思と自然は、共に免官となる。 

 二年九月戊寅。初めて八品、九品へ碧衣を着させる。 

 十月癸酉。皇子旭輪を殷王に立てる。 

 三年、正月乙酉、李義府を知選事のまま右相とした。
 やがて、李義府が官吏を選ぶことになった。彼は中宮の勢力を恃み、売官にばかり専念した。金は乱れ飛び、怨みの言葉は路に満ちる。上はこれを何度も耳にしたので、くつろいだ時に義府へ言った。
「卿の子や婿は不謹慎な者が多く、不法行為もしょっちゅうだ。それでも我は卿をかばってやっている。卿も戒めよ!」
 義府は勃然として顔色を変えた。頸や頬を膨らませたまま、言った。
「誰が陛下へ密告したのですか?」
 上は言った。
「ただ、我がこのように言っているだけだ。何で我の出所を探らなければならぬのか!」
 義府は我が身を咎めもせずに、緩やかに歩いて去った。上は、これ以来不機嫌になった。
 望気者の杜元紀が、「義府の住んでいる第に獄気があるので、二十万緡の銭で厄払いをするがよい」と言った。義府はこれを信じたので、益々激しく金を求めた。
 義府は母親の喪の期間だったので、朔と望(月の始めと半ば)に哭の為の休日を貰えた。その日には、時々微賤な服を着て元紀と共に城東を出、古塚へ登って気色を望み見たりしていた。ところが、ある者がこれを、「義府は気を窺っていますが、これは造反の想いがあるに違いありません。」と密告した。
 また、その子の右司議郎津を使いにして長孫無忌の孫の延を呼び寄せ、その銭七百緡を受け取って、延を司津監へ任命した。右金吾倉曹参軍の楊行穎が、これを告発した。
 四月乙丑。義府を獄へ下した。司刑太常伯劉祥道と御史や詳刑を派遣し、共に詰問させる。また、司空李勣に監督を命じた。告発は、全て事実だった。
 戊子、義府を除名して 州へ流し、津を除名して振州へ流し、諸子及び婿を除名して庭州へ流すと詔があった。朝野はこぞって慶賀した。
 ある者は、「河間道行軍元帥劉祥道が銅山の大賊李義府を破る」とゆう幟を作って、通りの傍らに立てた。義府は、大勢の人間を取って奴婢としていた。敗れるに及び、各々実家へ帰してやったので、その幟には、「奴婢に混じって乱を放つ。各々家を識っていて、競って入った。」と書かれていた。(漢の高祖が太上皇となって新豊に造営した。後の人はその事件について、「混鶏犬而乱放、各識家而競入」と書いた。) 

  四月丙午、蓬莱宮含元殿が落成した。上は始めて杖を移してここに住む。故宮を西内と改名する。
 戊申、初めて紫宸殿にて政務を執った。 

 十月、戊申。東海で何年も戦争が続き、百姓は徴兵に苦しみ、大勢の士卒が戦死で愧死したので、上は詔して三十六州の造船を中止し、司元太常竇徳玄等を十道へ分遣して人々の疾苦を問い、官吏を黜陟した。
 徳玄は毅の曾孫である。
 十月辛巳朔。太子は五日毎に光順門にて諸司の奏事を内視し、その小さな事は皆、決裁を太子へ委ねるよう詔した。(まだ、生後十一年の筈だが?) 

 麟徳元年(664)正月丙午、魏州刺史旬(「旬/里」)孝協が贈賄の罪で死を賜った。
 すると、司宗卿隴西王博乂が上奏した。
「孝協の父の叔良は王事に死にました。孝協には兄弟がいないので嗣が絶えてしまいます。」
 だが、上は言った。
「法は画一で、親疎で適応を変えてはいけない。いやしくも百姓に害を与えたのなら、皇太子と雖も赦されないのだ。孝協には一人息子がいる。何で祀が乏しいと憂えることがあろうか。」
 孝協は第にて自殺した。  

 十二月、太子右中護・検校西台侍郎楽彦韋(「王/韋」)、西台侍郎孫處約が共に同東西台三品となる。 

 二月、上が語るうちに隋の煬帝の話題になり、侍臣へ言った。
「煬帝は諫を拒んで亡んだ。朕は常にこれを戒めとして、虚心に諫言を求めている。しかし、遂に諫める者がいないのは、なぜかな?」
 李勣が対して言った。
「陛下が善を尽くしているので、群臣は諫めようがないのです。」
(訳者、曰く)武皇后を退けるよう諫めた上官儀の言葉を武皇后へ伝え、結果として誅殺させたのは、数ヶ月前のことである。(詳細は、「則天武后」の項に記載)
 これでは諫める人間が居なくなるのも当たり前だ。 

 三月、甲寅、兼司戎太常伯姜恪を同東西台三品とした。恪は竇誼の子息である。
 四月戊申。左侍極陸敦信へ右相を検校させる。西台侍郎孫處約と太子右中護・検校西台侍郎楽彦韋(「王/韋」)は、共に政事を罷免させられた。 

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