孔子、呉王夫差をして斉と戦わさしむ。
 
 青は藍より取れて藍より青く、氷は水これを為すに、水よりも冷たい。けだし、弟子は師匠を越えるものである。
 ここに、優れた天才がいたとしよう。彼が、誰からも教えられなくて、「0」の観念を発明したとしたら、これは言うまでもなく奇才である。誰からも教えられずにかけ算やわり算を発明できたとしたら、信じられないほどの天才である。
 しかし、それが何の役に立つだろうか?人から教えられたなら、小学生でさえも0を使いこなせるし、かけ算わり算は、できて当たり前なのだから。
 ご先祖が「0」の観念を発見し、それを教えられた人間がアラビア数字を作り、更にその子孫になってかけ算わり算が体系化され、このような観念が普遍化された社会で微分方程式などの解析数学が確立される。このようにして人間社会は成長して行くのである。 

 さて、中国に儒教とゆう哲学が生まれ、宋代には朱子学が体系化された。これは、非常に完成された哲学だが、孔子は果たしてそれを体得していたのだろうか?私は、かねてからそれを疑問に思っていた。
 私は孔子を尊敬している。彼が非常な天才であったと評価されたなら、一も二もなく頷くだろう。又、彼が非常な努力家だったとゆうことに関しては、絶対に否定しない。
 しかし、それにも関わらず、彼は創始者だった。誰からも体系化された哲学を教わったわけではなく、過去の多くの事例や断片的な教えの中から、人間の生きる道を暗中模索していった、先駆者なのだ。そのような境遇にいたのならば、果たして彼はどこまで行き着けたのだろうか? 

 過去に、斉と呉が戦争したとゆう事件があった。史記を読むと、孔子は、この戦争に深く関わっていたとゆう。斉が魯を攻撃しようとした時、孔子は祖国を守る為に、弟子の子貢へ諸国を遊説させたと言うのだ。
 孔子の意向を受けた子貢は、まず斉へ行って、魯と戦争するよりも呉と戦争する方が得だと説いた。次に越へ行って、范蠡へ、呉を滅ぼす為には呉と斉を戦争させるべきだと説いた。最期に呉へ行って、呉王夫差へ、斉と戦争して覇者となるよう、彼の虚栄心をくすぐった。そして子貢と密かに同盟を結んだ越は、呉へ使者を出して、斉と戦争するように説いた。
 こうして、斉と呉は戦争した。斉は、この戦争で敗北して魯と戦争するどころではなくなった。呉は勝ったけれども国力を疲弊し、越はその隙を衝いて呉を滅ぼした。
 この時、子貢が各国で行った遊説については、史記の「孔子弟子世家」に克明に記されている。これは実に趣深い内容で、何度読み返しても読み厭きない。この時の子貢は、蘇秦張儀顔負けの外交家であり、その成果も縦横道の大家と比べて遜色なかった。 

 ところで、自分が危難を逃れる為に、別の人間同士を喧嘩させるとしたら、それは儒教の精神に悖る。これについて否定する人間は、絶対にいない。
 ところが、孔子は祖国の危機を救う為に、他の数カ国を巻き込んだ大戦争を巻き起こしてしまったのだ。これは、大きな矛盾である。
 この一件について、後世の儒学者は、多くの論文を書いて孔子を擁護したが、私は、そのどれを読んでも、単なるこじつけのような気がしてならない。
 呂東莱の如きは、何の歴史的な事実も論拠とせず、単に思想的に矛盾しているとゆうだけで、「そのような事実はなかった」と決めつけているが、このような事は論外である。それとゆうのも、論語を読んで感じられる孔子の人間像と、このような策略を行う孔子の人間像とに、私は何の矛盾も感じないからだ。
 そもそも、魯は孔子の故郷である。これが、強国の斉に狙われた時、孔子はそれを看過できただろうか?”何とかして魯を助けたい”と考え、魯と斉を戦争させたとしたら、それは孔子の人格を損なうものだろうか?私には、そうは思われないのだ。(勿論、それが私の単なる決めつけだと言われたらそれまでなのだが。)
 そこで、「個人レベルと国家レベルでは行動が違う」とゆう擁護論を出す人間もいる。
 私利私欲で人を殺すのは殺人だが、国家の為に悪人を殺すのは勇者である。孔子は、外交の席でシャシャリ出た道化師を、「礼を損なう人間である。」として斬殺した。(「史記、孔子本紀」より。)とゆう故事もあるではないか、と。
 成る程、これも一理ある。しかし、どうもしっくりこない。
 私は、一つの仮説を立ててみた。「孔子は、儒教精神を体得していなかった」と。 

 儒教とは、孔子の胸の中にモヤモヤとした形で生まれたものであり、彼はそれを得ようと、その一生を暗中模索の中で試行錯誤していったのではないだろうか?その証拠に、孔子自身も言っていたではないか。「朝に道を知れば、夕べに死すとも可なり」と。
 孔子は、その生涯で多くの事績を残し、多くの言葉を残した。それは全て、彼が、彼自身の胸の中にある想いを確固たるものとして捕まえたかった過程の出来事のように思えるのだ。
 そして、彼が彼自身をついに知ることができなかったとしても、その事績や言葉は残った。後世の人間は、それをもとに更に想いを嗣ぐことができる。弟子が完成できなかったとしても、ほんの少しでも進めることができれば、孫弟子はそれをもとにして更に進めることができる。そして、それを元にして曾孫弟子は更に完成させられる。このようにして、大勢の人間が長い年月を掛けて想いを受け継いで行き、ついに体系化された思想こそが、儒教哲学なのである。
 そうやって完成された儒教哲学をもとにしてこの時の孔子の行動を評価するならば、これは大いに非難される。孔子にとって魯が祖国であるように、他の大勢の人間にとって、斉が祖国であり、呉が祖国であり、越が祖国なのだ。どうして一孔子の想いを満たす為に、他の大勢の孔子達の想いを踏みにじって良いものだろうか。
 この行動は、自分の身を安泰にする為だけに他の人間同士を喧嘩させる、人間として最も卑劣な行動であり、礼儀を守る為に道化師を斬り殺した勇猛な行動とは一線を画するものだと、私は考える。
 だが、それでいて、孔子が卑劣な人間とは、私には思えない。
 大勢の人間が、孔子の思想に触発され、多くの人生の中で磨き上げ、それらの積み重ねが、やがて朱子学や陽明学として体系化された。もしも孔子がタイムスリップしてそれらの学問を学ぶことができたならば、きっと感動して貪るようにその精神を吸収したことだろう。そして、先生は先生自身の精神に出会えたはずだ。その後、自分の人生を振り返ったならば、きっと恥じることが多いだろう。 

 人の心の中には多くの想いがあり、それらの中には相反する想いもある。何も考えずに感性だけで生きて行けば、きっと矛盾だらけの人生を送るに違いない。だから、学ぶのだ。 そして多くの積み重ねの中から体系化される。それは、相矛盾する感情を、状況に応じて、どの想いを大切にしてどの想いを我慢するか、予め優先順位を付けて胸の中にしまっておくことかも知れない。この順位付けがしっかりと定まっていなければ、目先の感情にとらわれて、もっと大きな思いを踏みにじってしまっていたと、後から気がつくこともあるだろう。
 孔子は、先駆者である。彼は自分の想いを少しでも完全にしようと一生努力し続けていたのではないだろうか。
 そして、それは遂に体系化することができなかった。それは孔子が劣っていたのではない。孔子が怠けていたのではない。人の全ての想いを、全ての予測される出来事へ対して遂に矛盾が起こらないように軽重を付けるとゆう作業が、たかが一人の人間の能力の限界を遙かに超えているとゆうことだ。
 孔子は、その事を知っていたに違いない。自分一大では儒教が完成しないことを知悉していただろう。晩年に若者の教育に没頭したのは、自分の後継者を通じて自分の思想を万古に伝えたかっただけではなく、彼等が更に磨きを掛けていずれは完成してくれることを願っていたのだろう。顔回・・・孔子が一番期待を掛けていた弟子・・・が夭折した時、先生は叫ばれた。「天我を滅ぼせり、」と。この言葉が、悲嘆に暮れた先生の心の叫びであることは、読んでいてもひしひしと伝わってきた。
 私は思う。孔子は完全な人間ではなかった。先生の生涯の軌跡を追っても、その言葉を全て玩味しても、純粋な儒教の精神はそこには顕れてこない。あちらこちらに矛盾がゴロゴロ転がっている。しかしそれでもなお、先生は聖人だった。仰げば仰ぐ程いよいよ高く、臨めば臨むほどいよいよ深いのだ。

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