北斉受難   3.後主の暴虐
 
重鎮粛清 

 斉の尚書右僕射祖廷(「王/廷」)の権勢は、朝野を傾けていた。左丞相斛律光はこれを憎み、彼に会う度に言った。
「小人は貪欲で飽きることを知らない。国家をどうするつもりか!」
 また、かつて諸将へ言った。
「軍事は、かつては趙令と我とで論じていた。ところが、盲人(祖廷は、かつて武成帝の拷問で盲となった。)が機密を掌握してからは、我の意見がまるで聞かれない。このままでは、国家を誤らせてしまうぞ。」
 ある時、斛律光が朝堂にて御簾を垂らして坐っていると、祖廷が、そうと知らずに乗馬のままその前を通り過ぎたので、斛律光は怒って言った。
「小人のくせに、何様のつもりだ!」
 後、祖廷が門下省にて声を張り上げている時、通りすがった斛律光がこれを聞いて、怒った。それを知った祖廷が、斛律光の奴隷へ金を贈って斛律光の心意を尋ねると、奴隷は言った。
「公が権勢を振るうようになってから、王は夜毎に膝を抱いて嘆いております。『盲人が、この国を滅ぼす。』と。」
 穆提婆が斛律光の娘を嫁にしたかったが、斛律光は許さなかった。また、斉王が、穆提婆へ晋陽の田を贈下しようとすると、斛律光は朝廷で言った。
「あの田は、神武帝以来、禾を植えており、それは軍馬数千匹の馬草となっている。これを穆提婆へ賜下したら、我が国の軍務はどうなるのか!」
 これらによって、祖廷も穆提婆も、斛律光を怨んだ。
 斛律后は、後主から寵愛されていなかった。そこで、祖廷はそこへつけこもうと考えた。
 斛律光の弟の斛律羨は、都督・幽州刺史・行台尚書令となっており、兵卒からは慕われ、士馬は精強で軍規も整っていたので、突厥はこれを畏れ、「南可汗」と呼んでいた。
 斛律光の長男の斛律武都は、開府儀同三司、梁・コン二州刺史だった。
 斛律光は、人臣を極めてはいたが、声色を好まず、賓客へは腰を低くして、権勢を貪らない。朝廷での会議では、いつも最後に発言し、言えば必ず理に合っていた。行軍は、父親の斛律金を真似て、兵営が完成するまで幕舎で休むことはなかった。一日中立ちっ放しだったことも、終日甲冑を脱がなかったこともある。士卒に過失が在った時は、ただ大杖で背中を小突くだけで、妄りに処刑することはなかった。だから、兵卒達は、彼の為になら争うように命を投げ出した。従軍してから負けを知らず、敵国からは、深く憚られていた。
 この頃、北周の勲州刺史韋孝寛が、密かに歌を造った。
「百升は上天へ飛び、明月は長安を照らす。」
「高山は支えきれずに自ら崩れ、槲木は扶けもないのに自然に挙がる。」
 そして、業へ間諜を放って、この歌を流行らせた。いつの間にか、業の子供達はあちこちでこの歌を歌うようになってしまった。
 すると、祖廷は、この歌へ後を付けた。
「盲の老公は背中へ斧を受け、饒舌な老母は話すこともできなくなる。」
 そして、妻の兄の鄭道蓋へ、この歌を上奏させた。
 四年、五月。後主が祖廷へ尋ねると、祖廷も陸令萱も答えた。
「実際、その通りです。」
 そして、祖廷は歌を解説した。
「百升は、斛です。盲目の老公は臣を指します。饒舌な老母は、女侍中の陸氏のことでしょうか。それに、斛律家は、代々大将を輩出しています。明月(斛律光の字)の名声は関西に鳴り響き、豊楽(斛律羨の字)は突厥から畏れられております。娘は皇后になり、子息は皇女を娶っています。この流行歌は、軽く聞き流してはいけません。」
 後主は、次に韓長鸞へ相談した。すると、韓長鸞は猛反対したので、この件は沙汰一旦沙汰止みとなった。
 祖廷は、後主へ謁見して、再び斛律光の粛清を請うた。この時、傍らには、ただ何洪珍のみがいた。
 後主は言った。
「韓長鸞が、造反などあり得ないと力説したのだ。」
 すると、祖廷が答えるより早く、何洪珍が言った。
「そりゃ、今まではなかったでしょう。しかし、こちらが処刑しようとして中止したことが、もしもばれたらどう出るでしょうか?」
「その通りだ!」
 しかし、後主は、なお、躊躇した。
 そのような時、丞相府佐の封士譲が密かに言った。
「以前、斛律光が西へ討伐した帰り、兵卒を解散させるよう敕が降りたにもかかわらず、斛律光は兵を率いて帝城へ迫り、不軌を行おうとしましたが、果たせずに中止しました(太建三年。詳細は、「北周、北斉、交々闘う」へ記載)。彼の家には弩や甲冑が山積みされ、奴僕は数千人。豊楽や武都と使者を往来して陰謀を巡らせています。早く処置しないと、大変なことになりますぞ。」
 後主は、遂にこれを信じて何洪珍へ言った。
「人心は測りがたい。我は以前、奴の謀反を疑ったが、果たしてあれは事実だった。」
(訳者、曰く。「三人から聞けば、市場に虎が出る。」と諺にも言う。それは、これを指すか。)
 後主は臆病な性格。謀反を恐れて、祖廷を緊急に召し出して、言った。
「斛律光を召し出したいが、素直に従うまい。」
 すると、祖廷は言った。
「駿馬を賜下してください。そして、使者を派遣して伝えるのです。『明日、東山へ遊覧する。王は、この駿馬へ乗って同行せよ。』すると、斛律光は必ず謝礼にやってきますから、そこを捕まえるのです。」
 後主は、これに従った。
 六月、斛律光が涼風殿へ入ると、劉桃枝が、後ろから斛律光を殴りつけた。しかし、斛律光は倒れず、彼を顧みて言った。
「お前はいつでもそうだな。我は国家に背いていないぞ。」
 劉桃枝は三人の力士へ、斛律光を縊り殺させた。斛律光の血が地面に流れたが、それは削り取っても、其の跡を消せなかった。
 ここに於いて、斛律光の謀反を詔で告発し、彼の二子、斛律世雄と斛律恒加も殺した。
 祖廷は、二千石郎の刑祖信を斛律光の屋敷へ派遣して、所蔵物の目録を作らせた。すると、刑祖信は言った。
「弓が十五。宴席で使用する為の矢が百本、刀が七本、陛下から賜下された矛が二本あったっきりです。」
 祖廷は、声を張り上げて言った。
「他には何もなかったのか?」
「棘で造られた杖が二十本。これは、奴僕が誰かと私闘した時、その曲直を問わず、この棘杖で百回叩くことにしているのです。」
 祖廷は慙愧し、声を低めて言った。
「朝廷は、既に誅殺したのだ。郎中が、それを冤罪と表明するなど、分に過ぎるぞ。」
 そして、退出させた。
 ある人が、刑祖信の抗直をたしなめると、刑祖信は慨然として言った。
「賢宰相が殺されたのだ。我がどうして余生を惜しもうか!」
 斛律武都、斛律羨及び斛律羨の五人の子息も全員誅殺された。斛律羨は、権勢が増大してから懼れるようになり、しばしば隠居を請願していたが、許されなかったのだ。
 これを知った北周の武帝は、大赦を行った。
 八月、皇后の斛律氏が廃されて庶民となった。任城王皆が右丞相となり、馮翊王潤が太尉、蘭陵王長恭が大司馬、廣寧王孝行が大将軍、安徳王廷宗が大司徒となる。 

  

  

祖廷 

 祖廷と侍中の高元海は、共に北斉の政治を執っていた。高元海の妻は、陸令萓の姪である。それで、高元海は、しばしば陸令萓へ祖廷のことを密告させていた。
 祖廷が領軍を求めた。後主はこれを許したが、高元海は後主へ密かに言った。
「祖廷は漢人で、盲目です。どうして領軍になどさせられましょうか。」
 又、祖廷が廣寧王孝行と仲がよいことも告げたので、沙汰止みとなった。
 すると、祖廷は謁見し、自ら弁解した上で、言った。
「臣と高元海は反りが合わないので、彼は必ず臣を讒言するでしょう。」
 そして祖廷は、高元海と司農卿の尹子華らが結託していることを語った。
 また、高元海が洩らしたことを、陸令萓へ伝えた。陸令萓は怒り、高元海を鄭州刺史へ飛ばした。尹子華らも、とばっちりを食らって降格される。
 これ以来、祖廷は国政を専横するようになった。 

  

胡皇后 

 胡太后は、自身の醜聞を恥じ、後主の歓心を買おうと、姪を飾り立てて後宮へ置いた。後主は、果たして彼女を一目で気に入り、昭儀へ取り立てた。(昭儀は、皇后に次ぐ位である。)
 やがて斛律后を廃すると、陸令萓は穆夫人を皇后へ立てるよう勧めた。太后は胡昭儀を皇后へ立てたかったが、力が及ばない。そこで、陸令萓へ厚く賄賂を贈った。陸令萓もまた、胡昭儀の寵愛が厚いことを知っていたので、やむを得ず、彼女を薦めた。こうして、胡昭儀が皇后となり、穆氏は昭儀となった。
 それでも、陸令萓は諦めきれず、後主へあれこれ吹聴したが、後主は胡太后に夢中で、てんで効果がない。そこで、陸令萓は呪術を行った。そうすると、胡太后は次第に精神が恍惚となり、情緒は不安定になっていった。後主の胡后への熱も、次第に冷めて行く。そのようになってから、陸令萓は穆昭儀を飾り立てて後主へ薦めた。後主もその気になり、穆昭儀を右皇后に立て、胡后は左皇后とした。
 それでも、陸令萓にとって、胡后は邪魔だった。
 十二月、陸令萓は太后の前で癇に据えかねた面もちで言った。
「姪っ子のくせになんて事を言うのだ!」
 胡太后が訳を尋ねても、陸令萓は答えない。しかし、胡太后が重ねて問うと、言った。
「太后陛下のことを、こう言われたのです。『太后はふしだらな事が多く、手本にならない。』と。」
 胡太后は怒り、胡后を呼び出すと、彼女を詰って髪を切り、実家へ追い返した。
 辛丑、胡后は、廃されて庶民となった。だが、後主は、まだ彼女へ未練を残し、様々に賜を下した。
 これ以来、陸令萓と穆提婆の権勢は内外を傾け、売官や裁判での賄賂などが横行するようになった。殺生予奪も、全て彼等の勝手気儘だった。
(訳者、曰く。せっかく和士開が殺されたとゆうのに、今度は祖廷や穆提婆を側へ寄せる。結局、暗愚な人間が皇帝で居る限り、どうしようもないのだ。) 

  

佞臣跋扈 

 五年、高阿那肱を録尚書事として、外兵の指揮権を与え、内省の機密に関与させた。侍中の穆提婆、領軍大将軍韓長鸞も政権を執り、彼等を「三貴」と号した。三貴は、国を食い物にし民を害し、その専横は日々激しくなっていった。
 韓長鸞の弟の韓万歳、子息の韓宝行、韓宝信は皆、開府儀同三司となり、侍中を兼ねたり公主を娶ったりした。群臣が参内する時は、皇帝へ謁見する前に、必ず韓長鸞を訪問する。軍国の機密は、全て彼の手を経由した。
 韓長鸞は士人を憎み、朝な夕なに讒訴を続けたので、朝士は彼を仰ぎ見る者が居なかった。彼は、いつも罵って言った。
「漢狗には我慢できぬ。いずれ皆殺しだ!」 

  

祖廷失脚 

 北斉は、和士開が政権を握ってから、政治も風紀も乱れてしまった。やがて、祖廷が執政となると、彼は衆望を担った士を登庸したので、称賛された。
 ここで祖廷は、政務の見直しや無駄な官員の整理を考えた。しかし、陸令萓と穆提婆はこれに賛同しなかった。そんな折、主書の王子沖が収賄をした。そこで祖廷は、御史中丞の麗伯律へ、彼を弾劾するよう風諭した。この収賄事件は陸令萓と穆提婆へも繋がっていたので、これを契機に二人を失脚させようと考えたのだ。
 だが、後主が近習への情に溺れるかもしれない。その不安もあったので、祖廷は、更に皇后の後ろ盾を得ようと考えた。そこで、胡后の兄の胡君瑜を侍中・中領軍とするよう請願した。又、胡君瑜の兄の梁州刺史胡君璧を御史中丞にしようと考えた。
 陸令萓は、これを聞いて怒り、所かまわず誹謗して回ったので、胡君瑜は中領軍を解任されて金紫光禄大夫となり、胡君璧は、梁州へ戻された。胡后が廃されたのも、これが原因である。また、王子沖は赦されて、収賄事件は不問となった。
 祖廷は、日々疎まれ、宦官はグルになって讒言を続ける。後主が祖廷の処遇を陸令萓へ尋ねると、陸令萓は返答しなかった。しかし、何度も尋ねられると、陸令萓は言った。
「老婢の罪は死罪に値します。もともと、和士開が祖廷を博学だと評価していましたので老婢は彼を人物と思って推挙したのでございます。しかし、見ると聞くとは大違い。何とも大した姦臣でした。人を知るのは難しいことでございます。軽々に人を推挙しました罪。老婢の罪は死罪に値します。」
 そこで後主は韓長鸞へ裁定させた。韓長鸞は、もともと祖廷を憎んでいたので、彼が勅書をでっち上げて賜を受けたことが十余回もあったと弾劾した。
 後主は、祖廷の今までの功績に免じて死一等を減じたが、侍中・僕射を解任して、北徐州刺史に飛ばした。
 祖廷は後主への謁見を求めたが、韓長鸞は許さない。柏閣から追い出そうと役人を派遣したが、祖廷は座り込んで逆らった。そこで韓長鸞は、祖廷を引きずり出した。
 五月、穆提婆が尚書左僕射・侍中となり、段孝言が右僕射となった。段孝言は、段韶の弟である。
 祖廷が執政となった頃、彼は段孝言を補佐役にしようと、吏部尚書に任命した。だが、段孝言が推挙するのは、縁故筋や賄賂を贈った者ばかり。彼は好き勝手に人を抜擢して得意顔だったが、とうとう、将作丞崔成が衆人の中で言った。
「尚書は天下の為の尚書だ。段家の為の尚書ではないぞ!」
 段孝言は、反論できなかった。
 彼はそうゆう人間だったが、今回、韓長鸞と共に祖廷の失脚に尽力したため、右僕射に返り咲いたのである。
訳者、曰く。祖廷については、「多芸だったが、性悪な男だった」だの、「盗みを働いて庶民になった」だの、散々に言われていた。(詳細は、「武成帝」へ記載)しかしながら、政権を執った時は、何とかまともにやっていたではないか。後、州刺史として任地で北周と戦った時には、見事な忠臣ぶりを発揮した。その詳細は、「北周、北斉を滅ぼす」に記載。彼については、佞臣の頃の記載には誇張があるのかも知れない。) 

  

蘭陵王粛清 

 蘭陵武王長恭は、美貌の勇者。亡山での殊勲以来、その威名は鳴り響いた。武士は彼を褒め称えて「蘭陵王入陳曲」とゆう歌にまで詠われた程である。しかし、その評判があまりに高くなったので、後主は彼を忌むようになった。
 やがて、段韶に代わって定陽攻撃の督諸軍となったが、この時彼は、金をかき集めることばかりに夢中になった。それを見て、友人の尉相願が言った。
「王は朝廷からたくさんの賜を貰っているのに、どうしてそんな事をするのか?」
 蘭陵王は答えない。すると、尉相願は言った。
「亡山で威名が響きすぎたので、わざと悪事を働いて、評判を落とすつもりか?」
「その通りだ。」
「だが、朝廷がもしも王を忌んでいるなら、これを理由に罪に落とすぞ。それでは罪を避けるどころか、罪の中へ飛び込んで行くようなものではないか!」
 それを聞いて、蘭陵王は涙を流して計略を請うた。そこで、尉相願は言った。
「王は既に大功を建てた。この上勝利を重ねたら、威名は益々重くなる。ここは病気に託して引きこもり、政務に預からぬことだ。」
 蘭陵王は、それを正しいと思いながらも、隠遁することができないでいた。
 三月、陳が来寇し、江・淮地方での戦禍が拡大すると、動員されることを恐れて、嘆いて言った。
「我は去年、腫れ物で苦しんだ。どうして今できないんだ!」
 それ以来、病気になっても治療しなくなる。
 五月、後主は鴆毒を贈って殺した。 

  

(訳者、曰く) 

 仮病を使って引きこもるのは、最も愚劣なやり方だ。それだけで、謀反人と決めつけられかねない。だから蘭陵王は、本当に病気になるしかなかったのだ。
 それにしても、この年の陳の来寇は強力だった。五月までに秦州・合州と陥落し、陳軍は更に破竹の勢いで進軍した。一旬に数城が降伏するとゆう状況にあって、有能な将を処刑するなど、どうゆう事だろうか?
 あるいは、不安から疑心暗鬼になったのだろうか? 

  

張雕 

 国子祭酒の張雕は、後主の学問の先生だったので、後主は彼を重んじていた。ところで後主は、胡人の何洪珍を寵愛していたが、彼は張雕と結託していた。これは、穆提婆と韓長鸞にとって面白くなかった。
 何洪珍が、張雕を侍中加開府儀同三司とするように上奏し、裁可された。後主は張雕を信頼し、彼のことを「博士」と呼んでいた。
 張雕は、下賤の身から大臣にまで出世したので、何とかその大恩へ報いようと、会議の度に正論を振りかざし、身の不利を厭わなかった。省宮の不急の出費は削減し、左右の臣下の放縦驕慢を禁じる。だから後主は、ますます彼を頼りにした。遂に張雕は、清廉潔白を自認するようになり、奸臣達からは煙たがられるようになった。
 尚書左丞の封孝淡は、封隆之の甥である。彼と侍中の崔季舒は、祖廷と結託していた。ある時、崔季舒が祖廷へ言った。
「公は衣冠の宰相。他の人々とは違う。」
 これを聞いた近習達は、白けきってしまった。
 さて、後主が晋陽へ御幸しようとした時、崔季舒が張雕と協議した。
「今、淮南では陳軍が大暴れしている。寿陽が包囲されて、大軍が出動した。途中の街道は、使者達が行ったり来たり。それに、人民達も動揺しきっており、陛下はヘイ州へ逃げ出すとの噂で持ちきりだ。この御幸は諫めなければ、動揺は益々広がるぞ。」
 それで、武帝を諫めようと、今回の御幸のお付きの文官達相手に連名運動を行った。ところが、時の貴臣の趙彦深、唐邑、段孝言等は、この意見に賛同せず、論争が続いて容易に決しない。その隙に、韓長鸞は武帝へ言った。
「漢人の官吏達が署名運動を行っております。上辺はヘイ州への御幸を諫めると言っていますが、これが造反の連判状でないとは言い切れません。誅戮を加えるべきでございます。」
 後主は署名した人間を全員含章殿へ集め、崔季舒、張雕、封孝淡を始め、散騎常侍劉逖、黄門侍郎裴沢、郭遵を斬った。彼等の家族は北辺へ流され、婦女は後宮へ入れ、幼い男子は宮刑として、家財は全て没収した。
 こうして、後主は晋陽へ御幸した。 

  

天が鏡を賜ったのに・・・ 

 十月、陳軍は寿陽を陥落した。しかし、それを聞いても、穆提婆や韓長鸞は平然としていた。
「あそこは、もともと呉のものだった。取り返されても、もともとだ。」
 後主は、寿陽陥落を聞いて憂いを含んだ。すると、穆提婆は言った。
「まだ、淮河以南が奪われたに過ぎません。もしも黄河以南を全て失っても、まだ、我が国はクチャ(西域の国)くらいの国力はあります。一生遊び暮らすには、それで充分ではありませんか。」
 その一言で、後主は大喜びして、酒と歌舞を楽しんだ。 

  

南安王の変 

 朔州行台の南安王思好はもともと高氏の養子、驍勇で部下の心を掴んでいた。
 六年、後主の朝使として、斤骨光弁が朔州へ行った時、彼は南安王へ無礼だった。南安王は怒り、遂に造反する。
「入朝して、君側の奸を討つ。」
 曲陽まで進軍し、自ら大丞相と名乗った。
 この時、武衛将軍趙海が、陽曲に駐留していた。趙海は、事が急なので上奏する暇がないと考え、詔をでっち上げて兵を動員して防戦する。
 変事を聞いた後主は、尚書令唐邑等を晋陽へ派遣する。
 辛午、後主は後続軍を派遣したが、それらが到着する前に南安王は敗北し、川へ飛び込んで自殺した。
 南安王の麾下は二千人。劉桃枝がこれを包囲し、戦いながら降伏を呼びかけたが、遂に降伏する者はおらず、全員討ち死にした。
 さて、これ以前に南安王の造反を告発する者が居た。だが、南安王は韓長鸞の娘婿だった為、韓長鸞は上奏した。
「これは誣告です。彼を殺さなければ、以後も中傷が続出するでしょう。」
 そして、告発者を斬った。
 南安王が造反した後、告発者の弟が、闕下へ伏して兄の官位を復するよう求めたが、韓長鸞は、それを握りつぶした。
 丁未、後主は業へ戻り、唐邑は録尚書事となった。 

  

良いコンビ 

 定州刺史の南陽王綽は、残虐な人間。
 ある時外出して、赤子を抱いた夫人を見かけた。南陽王は、赤子を取り上げて、犬に食わせた。夫人は、狂ったように泣き叫ぶ。南陽王は怒り、赤子の血を夫人に塗りたくると、犬をけしかけて食わせてしまった。
 彼は、常に言っていた。
「俺は、文宣伯の為人を手本としているのだ。」
 後主はこれを聞くと、南陽王を鎖で縛って行在所へ連行させたが、やがて赦して、尋ねた。
「任地にいる時、何が一番楽しかった?」
「蠍をたくさん集めて穴へ入れ、その中へ人を入れて眺めるのが一番楽しかったです。」
 そこで後主は、蠍を一斗ほど集めさせ、これを風呂場へ入れて、そこへ裸の人間を追い込んだ。人々は、叫び声を揚げながら転げ回る。それを見て、後主は笑い転げた。
 その後、後主は南陽王を叱りつけた。
「こんな面白いことを、どうして今まで隠していたのか!」
 以来、後主は南陽王を寵用した。南陽王は大将軍となり、朝夕後主とふざけ回る。
 韓長鸞は、これを気に病み、南陽王を斉州刺史として下向させた。
 南陽王が出発する直前、韓長鸞は、密告者に誣告させた。
「南陽王が造反をたくらんでいます。」
 韓長鸞は、上奏して言った。
「これは国法を犯したのです。赦せません!」
 それでも後主は南陽王を明誅するに忍びず、密かに殺した。 

  

漁色 

 昔、魏が西涼を滅ぼした時、その住民を全て東魏へ移住させて、これを「隷戸」と名付けた。北斉が建国された後、彼等は雑務に使役され、「雑戸」と呼ばれた。
 八年、雑戸の未婚の女性を、全て徴集した。もしも隠す者がいたら、その家長を殺した。 

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