孝昭帝
 
側近と大叔 

 陳の文帝の天嘉元年(560年)、二月。常山王演が太師・録尚書事、長廣王湛が大司馬・ヘイ省録尚書事となった。尚書左僕射平秦王帰彦を司空、趙郡王叡を尚書左僕射とする。
 顕祖の喪は、常山王が禁中にて指揮した。婁太后は常山王を即位させたがったが、果たせず、皇太子の済南王が即位した。
 しかし、天子が未だ幼いとして、常山王を東館へ置き、上奏文は、まず彼へ決済させた。楊音等は、やがては常山王が天子を凌ぐのではないかと、心中忌んだ。
 やがて、常山王は、自分の第へ戻った。以来、彼は詔勅に殆ど関与しなくなった。
 ある者が、常山王へ言った。
「鷲が巣を離れると、必ず卵を奪われてしまいます。今日、大王はどうして巣を出られたのですか?」
 中山太守陽休之が、常山王の元へやって来たが、常山王は会見を拒んだ。そこで陽休之は、王の友人の王晞へ言った。
「昔、周公は朝に百編の書を読みながらも、夕方には七十人の士と会見し、それでも士へのもてなし方が足りないのではないかと恐々としていました。今、王は何を畏れて賓客を拒まれるのか!」
 話は遡るが、顕祖の御代には、人々は我が命を守るだけで汲々としていた。やがて、済南王が即位するに及んで、常山王は王晞へ言った。
「我等の命も保たれた。朝廷は寛仁。まさしく、守文の良主だ。」
 すると、王晞は言った。
「先帝の時、東宮の教育係は、胡人がたった一人だけでした。今、既に陛下は成長なされ、万機を決裁なさっております。その補佐役が一人では何もできません。殿下はどうか朝に夕に陛下のそばに侍られてください。もしも、他の人間にその役を奪われましたら、大権は自ずと彼の手の中へ入って行きます。殿下が単なる藩王として身を終えるおつもりでも、どうしてそれが叶いましょうか!それに、殿下が中途でいなくなれば、この国はどうなってしまうのでしょうか?」
 常山王は暫く黙りこくった後、口を開いた。
「それで、我にどうせよと言うのか?」
「周公は、成王を抱いて七年間執政をした後、成長した成王へ政権を返還いたしました。殿下もそれをお考えください。」
「我が、どうして周公に比べられようか!」
「いいえ、今日の殿下は衆望を一身に集めておられます。周公になるまいと思っても、できはしません。」
 常山王は応じなかった。
 顕祖は、いつも胡人の康虎児に太子を保護させていた。だから、王晞はこのように言ったのだ。 

 即位した斉帝は、晋陽を出発して業へ向かうことになった。この時、人々は、常山王が晋陽の留守を守るべきだと言った。晋陽は、高歓が大丞相になった時に大丞相府を置いた場所で、北斉にとっては根本の地である。しかし、執政は常山王を疑って、業へ連れて行くことにした。代わりに長廣王を晋陽へ留めることにしたが、やがて彼のことも疑い、二人とも業へ連れて行くことになった。地方官達は、これを聞いて、皆、驚愕した。
 王晞は、ヘイ州長史に任命された。
 常山王が出発しようとすると、王晞が見送りに来た。常山王は密偵を恐れ、王晞へ城へ帰るよう命じ、彼の手を執って言った。
「くれぐれも慎んでくれ!」
 そして、馬へ飛び乗って、去った。 

  

平秦王 

 平秦王帰彦は、禁衛を総て麾下へ置いていた。だが楊音は、五千の兵を晋陽へ留めるよう勅を降ろした。密かに、非常事態に備えたのである。
 平秦王は、業へ到着して数日経って、この事を知った。これによって、平秦王は楊音を怨んだ。
 領軍将軍可朱渾天和は、可朱渾道元の子息である。高歓の娘の東平公主を娶っていた。彼は、いつも言っていた。
「もしも二王を誅殺しなければ、陛下の地位は危ない限りだ。」
 燕子献は太皇太后を北宮へ移して、政権を皇太后へ渡そうと考えた。
 又、天保八年以来、爵位が乱発されるようになっていた。楊音はこれを是正しようと、まず自身から開府と開封王の爵位を返上した。こうして、大勢の人間が爵位や開府を返上することになったが、それによって失業した者も多く、大勢の人間が楊音を怨み、二叔(常山王演と長廣王湛)へ心を寄せた。
 平秦王は、もともと楊音や燕子献の党類だったが、途中で変心し、彼等の計画を全て二王へ密告した。
 これを聞いて、太皇太后は燕子献等を憎んだ。 

  

粛清 

 侍中宋欽道は宋弁の孫である。顕祖は、彼を東宮へ置き、太子へ吏事を教えさせた。
 さて、太子が即位すると、彼は言った。
「二叔の権威は重すぎます。可及的速やかに除くべきです。」
 しかし、斉帝は許さず、答えた。
「楊音と共に、よく考えて行え。」
 楊音等は、二王を刺史として地方へ出向させようと考えたが、慈仁溢れる斉帝が却下することを恐れ、まず皇太后へ、彼等を朝廷に置いている恐ろしさをつぶさに述べた。
 宮人の李昌儀は、高仲密の妻だが、李太后は自分と同じ姓なので、殊に寵遇していた。そこで、彼女にこの事を話したところ、李昌儀は太皇太后へ密告した。
 楊音等は、二王を同時に下向させたら拙いと考え直し、長廣王を晋陽へ下向させ、常山王を録尚書事とするよう上奏した。二王は、この勅令を拝受する。こうして録尚書事となった常山王は、尚書省にて百僚を集めた。楊音がこれへ参加しようとしたら、散騎常侍の鄭頤が言った。
「何が起こるか判りません。軽々しく行かれますな。」
 すると、楊音は言った。
「我等は、至誠の想いで国へ仕えている。常山王が職務を拝受したとゆうのに、どうして出向かずにおられようか!」
 長廣王は、手飼の男達数十人を尚書後室へ集めておき、儀式の席で、賀抜仁や斛律金等数人と約束した。
「酒が楊音のもとへ回ったら、我は勧めるが、奴目はきっと断るだろう。俺はまず言うぞ。『さあ、飲みなさい。』次に言う。『さあ、飲みなさい。』そして、三度目に言う。『何故飲まないのか。』そしたら、その言葉を合図にして、お前達は楊音を捕らえよ!」
 宴会に及んで、彼の指示通りに行われた。
 楊音は大声で言った。
「諸王は叛逆して忠臣を殺すつもりか!天子の権威を尊び諸侯の権益を削るのも、誠心で国へ尽くしていればこそではないか!何の罪があると言うのか!」
 それを聞いて、常山王は赦そうとしたが、長廣王は断固拒絶した。
 ここに於いて、楊音、宋欽道、朱渾天和は、皆からボコボコに殴られ、皆、顔面から流血した。
 燕子献は怪力で暴れ回ったが、遂に斛律金に捕まえられた。
 燕子献は嘆いて言った。
「計画が遅れたために、こんな羽目に陥ってしまったか!」
 太子太保の薛孤延等は、尚薬局にて鄭頤を捕らえた。
 鄭頤は言った。
「智者の言葉を用いなくて、こうなってしまった。これが天命か!」
 二王と平秦王帰彦、賀抜仁、斛律金は楊音を擁して雲龍門へ入った。すると、そこに都督の叱利騒がいたので招いたが、彼はやってこない。そこで、叱利騒を殺した。
 開府儀同三司の成休寧は、刀を構えて常山王を叱咤した。常山王は平秦王へ説得させたが、成休寧は声を荒らげて、従わない。しかし、平秦王は長い間領軍だつた。軍士達は彼に心服しており、皆、杖を捧げた。それを見て、成休寧は嘆息し、諦めた。
 常山王は、昭陽殿まで進んだ。長廣王と平秦王は、朱華門の外で待機する。すると、斉帝と太皇太后が並んで出てきた。
 太皇太后が殿上に座り、皇太后と斉帝はその傍らに立つ。常山王は、叩頭し、言った。
「臣と陛下は、骨肉の間柄ですのに、陽音が朝廷を専断しようと、朝臣達を威圧しました。今では王公以下、息を潜め、目と目で語り合う有様。これは騒乱が起こる兆しです。早く手を打たなければ、社稷が危うくなります。臣と湛は国家を重んじ、賀抜仁と斛律金は献武皇帝の功業を惜しみ、共に酔う音を捕らえて入宮いたしましたが、まだ、刑戮までは行っておりません。しかしながら、朝臣を勝手に捕らえたこと、その罪は万死に値します。」
 この時、庭中や廊下に二千余人の衛兵がいた。彼等は武装して、詔を待っていた。
 武衛の娥永楽は武力絶倫の男で、もともと顕祖から親任されていた。彼は刀を叩いて斉帝を仰ぎ見たが、斉帝は目を逸らした。
 斉帝は、もともとどもりだった上、泡を食らって言うべき言葉が見つからない。太皇太后は衛兵へ武器を収めるよう命じたが、誰も退出しない。太皇太后は声を荒らげた。
「この奴隷共、首を斬られたいのか!」
 そこまで言われて、衛兵達は退出した。娥永楽は、刀を収めて泣いた。
 太皇太后は尋ねた。
「楊郎をどうしたのじゃ?」
 すると、賀抜仁が答えた。
「目玉を一つ、くり抜きました。」
「楊郎を、これ以上使って良いものか!」
 そして、太皇太后は斉帝へ言った。
「奴等は、叛逆を起こし、我が二人の息子(常山王と長廣王は太皇太后の子息)を殺そうとしたのだよ。その上、この私まで邪魔者扱いで除こうとする。お前は、どうしてそんな奴を赦すのかね?」
 斉帝は、なおも無言のまま。太皇太后は怒り、かつ、悲しんで、言った。
「我等母子が、漢人の老婆の為すがままにされるのか!」(太皇太后は鮮卑で、皇太后は漢人だった。)
 そう言われて李太后が陳謝したので、太皇太后は李太后へ誓った。
「演も湛も、大それたことは考えていないよ。ただ、身を守っただけじゃ。」
 常山王は、叩頭したままだった。
 太皇太后は斉帝へ言った。
「叔父へ対して、何を疑うのかね!」
 とうとう、斉帝は言った。
「たかが漢人、惜しみはしません。叔父上達へお任せします。」
 こうして、楊音達は斬られた。
 長廣王は、かつて鄭頤から讒言を受けたことがあった。そこで、鄭頤の舌を抜き、手を斬ってから殺した。
 又、娥永楽も殺す。
 太皇太后は、楊音の喪に臨んで、慟哭した。
「楊郎は、忠義の余り罪を作ってしまった。」
 そして、楊音の身内へ金を賜下した。
 常山王もまた、楊音を殺したことを後悔した。そこで、詔を降ろして楊音の罪状を列挙したが、最後に付け加えた。
「その罪は楊音一身に留まり、家族は一切罪に問わない。」
 中書令趙彦深が、楊音に代わって政務を執った。鴻臚少卿の陽休之は言った。
「千里を走る麒麟を殺して、びっこの驢馬を後がまにするのか。こんな悲しいことはない!」
 常山王演は、大丞相、都督中外諸軍、録尚書事となった。長廣王は太傅、京畿大都督、段韶は大将軍、平陽王淹は太尉、平秦王帰彦は司徒となる。 

  

拠点入手 

 常山王は晋陽へ行った。そして、到着すると王晞へ言った。
「卿の言葉を用いなければ、我が国は転覆していた。今、卿は我へ何を求めるのか?」
 王晞は答えた。
「殿下は、かつての地位にあったときでさえ、あれだけのことができました。ましてや今日では、他人の及ぶところではありません。」
 常山王は、趙郡王叡を長史とし、王晞を司馬とした。
 三月、詔が下りた。
「軍国の大事は、全て晋陽へ諮問せよ。」
 壬申、世宗の子の孝行(「王/行」)を廣寧王、長恭を蘭陵王とする。(有名な蘭陵王の名前は、ここで始めて出てきた。)
 五月、開府儀同三司劉洪徽が尚書右僕射となった。 

  

口開く人は皆・・・・ 

 王晞は儒学者である。だから、常山王は、彼を寵用したら武官から反発を買うと考え、夜毎に彼と密談したが、昼間は言葉も交わさなかった。
 ある時、王晞を密室へ呼んで、言った。
「王侯諸貴が、我のことを警戒している。このままでは乱が起こるかも知れない。これを法で裁こうと思うが、どうかな?」
 すると、王晞は言った。
「朝廷に列席しているのは、親戚とはいえ疎遠な者達です。殿下が自ら裁くのは、人臣として正しくありません。上下でお互い疑いあっていたら、どうして国が保てましょうか!殿下が神器から遠ざかるのは、天命に逆らい先帝の功績を失墜させる行いですぞ。」
「卿は何とゆうことを言うのだ!謀反をそそのかすなど、まず卿から裁かねばならぬではないか!」
「天の時も人事も、全て我等の味方です。ですから、私は敢えて斧鉞を冒すのです!」
「いや、国の危難を是正するのは、聖哲だけだ。我など才覚が足りない。もう、何も言うな!」
 丞相従事中郎の陸杳が使者に出ようとする時、王晞の手を執って、禅譲を勧めた。そこで王晞は、陸杳の言葉を常山王へ告げた。すると、常山王は言った。
「もし、内外の全てがそのように思っているのなら、趙彦深は、どうして何も言わないのだ?」
 王晞は、密かに趙彦深の本音を探った。すると、趙彦深は言った。
「常山王への禅譲の話が朝野に満ちているのは、我も知っている。弟が既に発端となっているのなら、我も又、命をかけてでもお供しよう。」
 そして、王晞と共に常山王へ勧めた。
 常山王は、遂にこの事を太皇太后へ語った。すると、趙道徳が言った。
「丞相王は、成王を補佐した周公の故事に倣わず、骨肉で奪い合おうと欲せられました。後世から簒奪と言われることを畏れられませんのか!」
 太皇太后は言った。
「道徳の言うことは正しい。」
 しかし、それからいくらも経たないうちに、常山王は再び伝えた。
「天下の人々が不安がっております。変事が勃発する前に早く名位を定めましょう。」
 太皇太后は、これに従った。 

  

孝昭帝即位 

 八月、壬午、太皇太后は令を下した。これによって、斉帝は済南王となり、別宮へ出された。済南王は、後世「廃帝」と呼ばれている。そして、常山王が帝位を継ぐ。これが孝昭帝である。この時、太皇太后は、常山王を戒めた。
「済南王には、これ以上手を出すでないぞ。」
 孝昭帝は、晋陽にて即位した。大赦を下し、皇建と改元する。太皇太后は、皇太后へ戻り、皇太后は文宣皇后と改称した。
 孝昭帝は、沈着明敏。若い頃から台閣にいたので、吏故地には習熟していた。即位した後は、自ら政治に励み、顕祖時代の弊害を大いに改めた。この時代の人々は、その明哲に服しながらも、細かさを謗った。
 ある時、孝昭帝が、舎人の裴澤へ得失について尋ねたところ、彼は言った。
「陛下の聡明さと公平さは、昔の聖君にも負けません。しかし、識者は、陛下があまり細かいところにまで目を光らせ過ぎていると評しております。」
 すると、孝昭帝は笑って言った。
「まさしく、卿の言うとおりだ。しかし、朕は今、万機に臨んだばかりだ。だから、細かいところまで見ている。やがて、巧く廻るようになったら、大きな所にだけ気を配るようにしよう。」
 以来、裴澤は寵遇されるようになった。
 庫狄顕安も同様のことを言った。しかし、この頃は無法の時が長く続いた直後だったので、丁寧に整えて行かなければならなかったのだ。
 又、孝昭帝は孝行者だった。太后が重病になると、孝昭帝は真っ直ぐ歩くこともできず、顔色は憔悴しきってしまった。飲食も薬物も、自らの手で勧め、自分の着替えせずに看病に勤しんだ。諸弟達も慈しみ、君臣の隔たりをなくす程だった。
 長廣王を右丞相、平陽王を太傅、彭城王を大司馬とする。
 十一月、妃の元氏を皇后とし、世子の百年を太子とする。この時、百年はわずかに五歳だった。 

  

外征 

 孝昭帝は、前の開府長史の廬叔虎を中庶民とした。彼は、廬柔の義理の叔父である。
 孝昭帝が時事を尋ねると、廬叔虎は北周討伐を請願し、言った。
「我等は強く、奴等は弱い。我等は豊かで奴等は貧しい。それでいて、敵を併呑することができずに、戦争が続いているのは、強富の使い方を間違えたからです。
 軽兵で野戦しては、勝敗の行方は判りません。これが従来のやり方でしたが、それは万全の方策ではないのです。それよりも、平陽へ要塞を築いて、敵方の蒲州と対峙するべきであります。壕を深く掘り、兵を高く築き、兵糧を多量運び込みます。それへ対して、奴等が関を閉じて出てこなければ、河東地方を少しずつ蚕食して行きます。奴等が出兵しても、十万以上でなければ我等の敵ではありません。敵が大挙してきたら、我々は城へ籠もって防戦します。そして、敵が退却したら、その疲弊しきったところへ追撃を掛けるのです。
 長安から西は、土地は広いのですが人間は少ない。このような持久戦に出られたら、奴等は農業をする暇もなくなり、三年以内に国が破綻するでしょう。」
 孝昭帝は、これを善とした。 

 孝昭帝は、自ら庫莫奚と戦い、天池まで進軍した。
 庫莫奚は、長城を出て、北へ逃げた。孝昭帝は追撃し、牛や羊を七万頭捕らえて帰った。 

 顕祖の晩年、斉では国内で多量の穀物を移動しなければならず、大変だった。
 廃帝の時代に、尚書左丞の蘇珍芝等の建議に従い、石鼈等の屯田を整備して、淮南軍が自給できるようにした。
 孝昭帝が即位すると、平州刺史稽曄が、督亢陂に屯田を置くよう建議した。これによって、稲や粟が毎年十万石も収穫され、北境の兵糧は満ち足りた。
 又、河内に懐義等の屯を置き、河内の穀物もまかなえるようになった。
 これらの努力で、穀物を移動させなくても良くなった。

  

文宣帝の影 

 ある時、孝昭帝は衆目の前で人を斬り、王晞へ尋ねた。
「こいつは殺されて当然だったかな?」
 すると、王晞は答えた。
「当然でした。ただ、処刑の仕方が拙かったのが残念です。
 臣は聞いたことがあります。『市場にて処刑して、人々と共に、これを棄てる。』と。
 殿庭は、処刑場ではありません。」
 孝昭帝は、容貌を改めて陳謝した。 孝昭帝は王晞を侍郎にしたがったが、王晞は固辞して受けなかった。 

  

長廣王 

 孝昭帝が楊音と燕子献を誅殺した時、長廣王湛を皇太弟(時代の皇帝)とした。しかし、後にこれを廃立して子息の百年を皇太子としたので、長廣王は心中不平を抱いた。
 この時、孝昭帝は晋陽に居たが、長廣王は業の守備をしていた。副官は、散騎常侍高元海(高元海は、高歓の義子の子息である)。
 孝昭帝は、長廣王の権力を削ぐ為に、長廣王の領軍の庫狄伏連を幽州刺史とし、その代わりに斛律光の弟の斛律羨を領軍として、長廣王のもとへ送り込んだ。
 これへ対して長廣王は、庫狄伏連を手元へ留め、斛律羨の口出しは無視した。 

  

済南王受難 

 話は遡るが、済南王となった廃帝は業に住んでいた。ところが、占い師などは口を揃えて言った。
「業から、皇帝の雲気が立ち上っております。」
 これを聞いた平秦王帰彦は、廃帝が復位するのではないかと思ったが、それは彼にとっては死活問題である。そこで、彼を始末するよう、孝昭帝へ勧めた。
 孝昭帝は、平秦王を業へ派遣し、済南王を晋陽へ連行するよう、長廣王へ命じた。
 長廣王は、心中不安でならず、高元海へ計略を求めた。すると、高元海は言った。
「皇太后が健在ですし、陛下は孝友に篤うございます。殿下の不安は杞憂です。」
「それでは、我の邪推だというのか!」
 高元海は、自分の役所へ帰って一晩じっとり考えたいと申し出たが、長廣王は後堂へ一晩閉じこめた。高元海は、明け方まで眠らずに考える。まだ、夜が明けきらないうちに長廣王がやって来て、再び尋ねた。すると、高元海は言った。
「三つ、策があります。一つは、数騎を率いて晋陽へ行き、まず太后へ面会して窮状を訴え、次に陛下へ謁見して、兵権の返上を申し出、死ぬまで政治に関わらないと誓うのです。そうすれば、一生は泰山のように安泰。これこそ上策です。そうでなければ、上表するのです。『権威が大きすぎると、人々から何かと噂されてしまいます。これでは国の乱れを造るようなもの。どうか、業の守りを解任して、青・斉二州刺史とさせてください。そうすれば、人々の口も収まるでしょう。』と。これが中策です。」
「下策は?」
「それを口にすると、私は一族全員が誅殺されてしまいます。」
 しかし、長廣王は、強いてこれを迫った。とうとう、高元海は言った。
「もともと、済南王が、正嫡だったのですが、主上が太后の権威を借りて、帝位を奪ったのです。今、文武の臣を集めて済南王の敕書を示し、斛律羨を捕らえ、平秦王を斬り、済南王の復位をお題目にして天下へ号令を掛ければ、順を以て逆を討つもの。これこそ、万世一時の好機です。」
 長廣王は大いに喜んだ。しかし、元々彼は怖じ気づくタイプで、なかなか踏ん切りが付かなかった。そこで、術士の鄭道謙等に占わせると、皆、答えた。
「挙兵は凶。静かに待つのが吉です。」
 林慮令の潘子密が占って、密かに長廣王へ言った。
「陛下の寿命は、長くありません。やがて、殿下が天下の主となります。」
 そこで、長廣王は数百騎の兵卒に、晋陽まで済南王を護送させた。
 九月、孝昭帝は済南王を殺したが、後、これを悔いた。 

  

孝昭帝崩御 

 十月、孝昭帝は狩りの最中、突然飛び出したウサギに馬が驚き、地面に落ちて肋を折った。婁太后が見舞いに来たが、この時、彼女は済南王の居場所を聞いた。孝昭帝は、答えられない。婁太后は怒って言った。
「殺したのかえ?私があれ程言ったのに。死んでしまうが良い!」
 そのまま振り向きもしないで帰っていった。
 孝昭帝の怪我は恢復しそうにない。十一月、皇太子が未だ幼少なので、長廣王を呼び寄せて即位させることにした。孝昭帝は、長廣王へ書を書いた。
「百年には、何の罪もない。お前の子孫をそんな目に会わせたくなければ、私の真似をするでないぞ。」
 孝昭帝は、太后に会えないことを恨みながら死んでいった。廟号は、粛宗。 

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