後秦の内乱
 
 立太子  

 晋の安帝の元興元年(402年)秦王姚興は、息子の泓を皇太子に立てた。
 姚泓は、穏和な性格で、寛大、文学を喜び、詩を詠む惰弱で病弱な人間だった。だから、姚興は、彼を太子に立てることをずいぶんと迷っていたが、とうとう、皇太子とした。
 同年、姚興は昭儀の張氏を皇后とし、十一人の子息を全員公に封じた。
 義煕三年(407年)、姚泓が録尚書事となった。 

  

 姚弼の増長 

 姚興は、子息の中でも、廣平公姚弼を特に可愛がっていた。やがて、弼をヨウ州刺史とし、安定を鎮守させた。
 さて、姜紀は、弼に媚びへつらっていた。弼がヨウ州刺史として下向すると、姜紀は、姚興の側近達と結託して中央へ戻るよう弼へ勧めた。姚弼はこれに従った。やがて、この運動が功を奏し、姚興は弼を呼び戻して、尚書令・侍中・大将軍とした。以来、姚弼は、朝臣達を次々と籠絡し、虚名を張って、東宮と張り合おうとしたので、国人はこれを憎んだ。
 七年、西北で西秦が造反した。姚興はこれを憂え、しかるべき人間を派遣して、鎮守させようと考えた。隴東太守の郭播は、姚弼を派遣するよう要請したが、姚興はこれを却下。代わりに、太常の索稜を太尉、領隴西内史として、西秦を招撫させた。西秦王乾帰は、使者を派遣して、捕らえていた後秦の守宰達を送り返し、謝罪して降伏を請うた。
 太子の姚泓は、左将軍の姚文宗を寵愛していた。姚弼はこれを憎み、姚文宗が恨み言を述べていたと讒言した。姚興は怒り、姚文宗へ自殺を命じた。以来、群臣は姚弼を畏れるようになった。
 姚興は、姚弼の言うことには大抵従った。姚弼が親しんでいた尹沖は給事黄門侍郎となり、唐盛は治書侍御史となった。およそ、姚興の左右で機密を掌握する人間は、全て姚弼の党類だった。
 右僕射梁喜、侍中任謙、京兆尹尹昭が、折を見て姚興へ言った。
「親子の仲は、他人が口出しするものではございません。しかし、君臣の義は親子の情よりも強いものです。ですから、敢えて言わせていただきます。廣平公弼は、密かに太子の位を狙っております。陛下も又、廣平公を寵愛しすぎておりますし、威権を与えすぎております。挙げ句の果て、無頼の徒が、廣平公のもとへ大勢集まってきているのです。
 今、道を歩く人間でさえも、皆、『陛下は廃嫡するつもりだ』と言い合っております。陛下には、そのような想いがございますのか?」
 姚興は答えた。
「とんでも無い。」
「それならば、廣平公を愛する陛下の想いが、却って公を禍へ突き落とす事へなってしまいますぞ。どうか、側近達を遠ざけ、廣平公の羽翼をもぎ取られて下さい。そうすれば、廣平公のみならず、宗廟社稷にとっても幸いでございます。」
 姚興は、答えなかった。
 大司農宝温、司徒左長史王弼等は、姚弼を太子とするよう、密かに姚興へ勧めた。姚興はこれには従わなかったが、さりとて彼等を罪に落としたりもしなかった。 

  

 姚弼、造反す 

 十年、五月。姚興が病気になった。すると、妖賊の李弘と「てい」の仇常が貳城にて造反した。姚興は輿に乗って親征し、仇常を斬り、李弘を捕まえて帰った。
 姚興の病は、ますます重くなった。すると、姚弼は密かに数千人を動員し、造反を企てた。
 これを知った姚裕は、全国へ使者を派遣して、藩鎮となっている諸兄達へ姚弼の造反を伝えた。ここにおいて、姚懿は蒲阪で、姚光(「水/光」)は洛陽で、姚甚(「言/甚」)はヨウで兵を結集し、揃って長安へ駆けつけ姚弼を討伐しようとした。(裕、懿、光、甚は、全て姚興の息子である。)
 その頃、姚興の病状が、少し持ち直した。そこで姚興が群臣と謁見すると、征虜将軍劉キョウが、涙を零して事実を告発した。梁喜と尹昭は、姚弼の誅殺を請い、かつ、言った。
「陛下がもしも、殺すに忍びないと言われるのなら、せめて彼の実権を奪って下さい。」
 姚興はやむをえず、姚弼の尚書令を解任し、大将軍として廣平公の第へ帰らせた。そこで、姚懿等は武装を解除した。
 やがて、姚懿・姚光・姚甚・姚宣は皆入朝し、姚裕を通じて姚興へ謁見を求めた。すると、姚興は言った。
「姚弼のことを言いたいのだろう。」
 姚裕は答えた。
「陛下に何か言いたいことがございましたら、謹んで傾聴いたします。また、姚懿等の言い分については、是非を判じられればよろしいのです。どうして口を塞がせますのか!」
 そこで、諮議堂にて姚懿等を謁見した。
 姚宣は、涙を流しながら言葉を極めて姚弼を批判した。すると、姚興は言った。
「処分は我が胸にある。お前達が憂える必要はない。」
 撫軍東曹属の姜?(「虫/?」)が上疏した。
「廣平公弼の造反は、全ての国民が知っております。昔、文王の治世では、たとえ妻だろうが兄弟だろうが、その悪行を見逃さなかったものでございます。今、聖朝の乱れは、愛子に端を発しております。恩愛断ち切れなくはございましょうが、逆党の陰謀は燃え上がっておりますし、弼がどうして悔い改めましょうか!どうか凶徒を処分して、禍の根を断ち切って下さい。」
 姚興は、?の疏状を梁喜へ見せて、言った。
「天下の人々は、皆、我が子のことを言い立てておる。どう対処するべきかな?」
 すると、梁喜は言った。
「姜?の言うとおりでございます。どうか、陛下。速やかに裁決なさって下さい。」
 姚興は黙り込んだ。しかし、姚弼へ対して、これ以上の糾明はしなかった。 

  

 姚弼、再度造反す 

 十一年、三月。姚弼は、姚興へ、姚宣のことを讒言した。姚興はこれを真に受け、姚宣の司馬権丕が長安へ来た折、これを捕まえて、輔導不能の咎で誅殺しようとした。権丕は懼れ、罪を逃れようと、姚宣の罪をあることないこと言い立てた。姚興は怒り、杏城へ使者を派遣すると、姚宣を牢獄へぶち込んだ。また、姚弼へは三万の兵を与え、秦州の鎮守を命じた。
 尹昭が言った。
「廣平公は、皇太子と確執があります。その廣平公へ大軍を与えて地方へ下らせると、陛下に万一のことが起こった時、社稷が危なくなります。論語に、『小を忍べなければ、大謀が乱れる』とありますのは、まさにこのことでございます。」
 しかし、姚興は従わなかった。
 九月、姚興の病状が悪化した。すると姚弼は、病気と言い立てて屋敷に閉じこもり、兵卒をかき集めた。これを聞いて、姚興は怒り、弼の党類の唐盛と孫玄等を捕らえ、誅殺した。
 太子は言った。
「私が不肖なばかりに、兄弟仲良くすることができず、とうとうこのような羽目になってしまいました。これは皆、私の罪です。もしも私が死んで国の平和が保たれるのでしたら、どうか私へ死を賜って下さい。もしも陛下が、私を殺すに忍びなければ、どうか私をどこかの藩国へでも下向させて下さい。」
 これを聞いて、姚興は太子を憐れみ、姚讃、梁喜、尹昭、斂曼嵬を呼び出して、処置を謀った。結果、姚弼を捕らえて殺し、党類も皆徹底的に糾明しようとしたが、太子が涙を零して固く請うたので、遂に彼等は赦免された。
 この後、太子は姚弼と従来通りつき合い、怨みの色など全くなかった。 

  

 魏の評定 

 同月、魏では、太史が魏王拓跋嗣へ奏上した。
「火星が天津の東に現れたと思ったら、突然、その所在が判らなくなりました。これはきっと、滅亡する国の領分へ入ったのでしょう。まず、童謡や妖言を聞き、占ってみたいと思います。」
 魏王は名儒十余人を召集すると、太史と共に、この件を議論させた。すると、崔浩が言った。
「火星は、必ずや秦の領分へ入ります。」
 すると、皆が怒って言った。
「天上で星が消えたのだ。その出る所が、どうして人知ではかり知れようか!」
 だが、果たして八十余日後に火星は東井へ出た。そして秦は凶作となり、昆明池が枯れた。童謡や妖言は並び起こり、一年の間に秦は滅んだのである。
 人々は、崔浩の精妙さに感服した。
 十月、姚興は、娘の西平公主を魏へ嫁入りさせた。魏王は、皇后の格式で彼女を迎え入れた。しかし、金で像を造ったら失敗したので、(占いの一種。不吉と出た。)夫人とした。だが、魏王は西平公主を甚だ厚く寵愛した。 

  

 尹沖造反 

 十二年、二月。姚興は、華陰へ御幸し、太子を監国として西宮へ入らせた。だが、病状が悪化し、姚興は中途で長安へ引き返した。
 この時、黄門侍郎尹沖は、姚泓が出迎えに出る時に、これを暗殺しようと計画した。
 姚興が帰郷した時、姚泓が出迎えようとすると、宮臣が諫めた。
「主上は重病で、傍らには奸臣がおります。もしも殿下が、今、城を出られますと、不測の禍が起こりますぞ。」
 すると、姚泓は言った。
「臣下として、息子として、主君が親が重病と聞いて、出迎えにも行かないなど、そんな不忠不孝の男がどうして国を治められようか!」
「いいえ、御身を大切にして社稷を安んじることこそが、何にも勝る大孝でございます!」
 そこで、姚泓は出迎えをしなかった。
 尚書姚沙弥が尹沖へ言った。
「太子が出迎えないのだから、乗輿を廣平公の屋敷へ御幸させよう。宿衛の将士は、乗輿があると聞けば、進んで集結してくる。そうなれば、太子は誰と共に防戦するのか!
 我々は既に廣平公の与党として、反逆の臣下となってしまった。太子が即位すれば、どうなることか!今、乗輿を奪って決起するのは、廣平公の為だけではない。我々の将来の為でもあるのだ!」
 だが、尹沖は、姚興の生死も判らないので、姚興と共に宮殿へ入って造反しようと考え、この策を採らなかった。
 姚興は宮殿へ入ると、太子を録尚書事とし、東平公姚紹と右衛将軍胡翼度に禁中の兵士を統率させ、内外を臨戦態勢とした。又、殿中上将軍斂曼嵬を派遣して、姚弼の屋敷の武器を全て押収させ、姚弼を捕らえた。
 姚興の病状は、ますます悪化した。妹の南安長公主が病状を問うても答えない。姚興の幼子の耕児が宮を出て、兄の南陽公姚音へ告げた。
「陛下は既に崩御しております。速やかに決起して下さい!」
 姚音は、尹沖と共に武装兵を率いて端門を攻撃した。これに対し、斂曼嵬と胡翼度は城門を閉じて防戦した。
 姚音等は、壮士を選んで、城門をよじ登らせ、屋根づたいに馬道へ行かせた。太子は諮議堂で姚興の病状を看ていたが、太子右衛率の姚和都へ東宮の兵を与え、馬道南へ陣を布かせた。姚音等は進撃できず、遂に端門を焼き払った。
 この時、姚興が病をおして前殿へ臨み、姚弼を自殺させた。
 禁兵は、姚興を見て志気が揚がり、争うように賊軍へ突撃したので、賊軍は大混乱に陥った。そこを姚和都率いる東宮兵が背後から攻撃し、賊軍は大敗した。
 姚音は驪山へ逃げ、党類の建康公呂隆はヨウへ逃げ、尹沖と弟の尹泓は東晋へ亡命した。
 姚興は、姚紹、姚讃、梁喜、尹昭、斂曼嵬を率いて寝室へ戻り、輔政を命じる遺詔を出した。
 翌日、姚興は卒した。享年五十一。
 姚泓は喪を秘したまま、姚音、呂隆及び大将軍尹元を捕らえ、彼等を誅殺してから、大喪を発して皇帝位に即いた。大赦を下し、永和と改元する。
 姚泓は、安定公姚恢へ、安定太守の呂超を殺すよう命じた。呂超は呂隆の兄弟である。姚恢はしばらく躊躇したが、やがてこれを殺した。だが、この躊躇によって、泓は姚を疑った。姚恢はこれを懼れ、密かに兵を集め、造反を企てるようになる。
 泓は姚興を偶陵に埋葬し、文桓皇帝と諡する。廟号は高祖。 

  

 姚宣造反 

 話は遡るが、姚興は、李閏のキョウ三千戸を安定へ移住させていた。今回、姚興が死ぬと、キョウの酋長党容が造反した。
 泓は、撫軍将軍姚讃を派遣して、これを討伐させた。そして酋長始め族長達を長安へ移住させ、残りは閏へ帰してやった。
 又、北地太守の毛擁が、趙氏塢に據って造反した。しかし、姚紹がこれを討伐し、捕らえた。
 この時、姚宣が閏を鎮守していた。参軍の葦宗は、毛擁の造反を聞いて姚宣へ言った。
「新帝が即位したばかりで、その威徳は現れておりません。国家の騒乱はどこまで大きくなるか判りませんぞ。殿下も重々お考え下さい。刑望は険阻な地形。ここに據ったら覇王となることも夢ではありません。」
 姚宣はこれに従い、三万八千戸を率いて閏を棄て、刑望に據った。すると、諸キョウは閏に據って造反した。しかし、姚紹がこれを討伐し、撃破した。姚宣は姚紹のもとへ自首したが、姚紹はこれを殺した。 

  

 後秦の姚興が死ぬと、劉裕は後秦討伐軍を起こし、年余の猛攻の末、これを滅ぼした。詳細は、「劉裕、後秦を滅ぼす」に記載。 

  

  

(補足) 

義煕七年、(411年)姚興は、賢才を探して推挙するよう、群臣へ命じた。すると、右僕射梁喜が言った。
「このような詔は何度も出ておりますが、結局、これという人材は発掘されませんでした。今の世の中には、大した人間は居ないのでしょう。」
 すると、姚興は言った。
「古来から帝王となった人間は、昔の人間を甦らせて政治を執ったわけではない。その時の人間の中から、優秀な人材を選んだのだ。卿は不明の者が推挙されていると言うが、その事実で、四海全ての人間を無能だと落としめすのか。」
 群臣は、全て感服した。(姚興の言葉は正しい。しかし、群臣が無能な人間を推挙していたという事実はどうなったのか?これこそ、いわゆる、「虚名を好んで実用にならない」というものである。) 

  

 上のエピソードは、本文の中に編年で挿入すると、物語の流れを削ぐが、斬り捨てるには惜しい。そこで、補足としてここに記載した。