高氏簒奪(東魏滅亡、及び北周建国)
 
千里の駒 

 大同元年(535年)。東魏は高歓の子息の高洋を驃騎大将軍、開府儀同三司とし、太源公へ封じた。
 高洋は、実は明哲な人間だったが、外見はボーッとしており、兄弟や衆人から笑われていた。しかし、高歓だけは彼の才覚を見抜き、長史の薛叔へ言った。
「この子の見識は、俺以上だ。」
 幼い頃、高歓は子息達を試そうと、絡まった糸を与えてほどかせた。すると、高洋だけは、刀を抜いてこれを斬り、言った。
「乱れたものは斬らねばならない!」
 又、子息達へ兵を与えて四方へ散らし、都督の彭楽へ武装騎兵を与えて偽装攻撃を掛けさせた。すると、兄の高澄等は怖がったけれども、高洋だけは部下を率いて戦いを挑んだ。彭楽は甲を脱いで事情を話したが、高洋は聞かず、彼を捕らえて高歓へ献上した。 

 ここに、楊音(「心/音」)とゆう人間が居た。彼の従兄弟の楊幼卿は、もともと岐州刺史だったが、憚らずに直言したので、孝武帝から殺されてしまった。この時、楊音の同列の郭秀は、彼の才覚を妬み、言った。
「高王は、卿を帝のもとへ送ろうとしている。」
 楊音は懼れ、変名して田横島へ逃げた。
 しばらくして、高歓はその事を知り、彼を召し出して、太原公の開府司馬とした。以後、楊音は高洋から親任されることとなる。
 やがて、楊音は大行台右丞となった。 

  

桎梏の外れる日  

 太清三年(549年)八月、東魏は長仁を皇太子に立てた。 

 太原公高洋は、高澄のすぐ下の弟だったので、常に高澄から警戒されていた。だから、高洋は深く韜晦し、出しゃばった口を利かず、常に自ら謙遜し、高澄と話をする時には、いつも従順だった。
 だから高澄は、高洋を軽く見ており、いつも言っていた。
「もしもこいつが出世できるなら、人相見は全員失業するな!」
 ある時、高澄は、高洋の夫人の李氏が愛玩していたアクセサリーを求めた。李氏が惜しがると、高洋は笑って言った。
「こんなもの、いくらでも代わりはある。兄上相手に物惜しみするな!」
 さすがに高澄は恥じ入って受け取らなかった。こうして、そのアクセサリーは高洋の手元へ残ったが、以後、高洋は、それを人前では身につけさせなくなった。
 高洋は、毎日、朝廷から戻ってくると閤を閉じて静座し、妻子と対する時でさえ、一日一言も喋らないのが常だった。 

 ある時、東魏が、梁の徐州刺史蘭欽の子息の蘭京を捕らえた。高澄は、彼を給仕役の奴隷とした。蘭欽は、金で贖おうとしたが、高澄は許さない。蘭京が自ら訴えると、高澄は杖で殴りつけた。
「もう一度言ったら、殺してやる!」
 とうとう蘭京は、仲間六人と陰謀を巡らせるようになった。
 高澄は、業では、北城東の柏堂に住んでいた。彼は琅邪公主と密通していたが、彼女の屋敷への往来途中は、常に侍衛者に守らせていた。
 辛卯、高澄は、陳元康、楊音、崔季舒等を集めて人払いをし、東魏からの禅譲について密謀を巡らせていた。するとその時、蘭京が夜食を持ってきた。高澄は蘭京を叱りつけ、諸人へ言った。
「夕べの夢で、こいつは俺を殴りやがった。明日にでも殺してやる。」
 これを聞いた蘭京は、盆の下に刀を隠し持って、更に夜食を勧めた。高澄は怒って言った。
「夜食など頼んでもおらんのに、なぜ持って来たか!」
 すると、蘭京は、刀を振るって言った。
「お前を殺す為だ!」
 高澄は足を傷つけられ、ベッドの下へ逃げ込んだが、賊は床を剥がして、高澄を弑逆した。
 楊音は狼狽して逃げ出し、靴が片っぽ脱げてしまったのにも気がつかなかった。崔季舒はトイレの中へ隠れた。陳元康は身を以て高澄を庇い、賊と戦ったが、斬りつけられて腸がこぼれ出てしまった。庫直の王絋は、刀を冒して賊を防いだ。
 この事件で、内外は震駭した。この時、高洋は城東の双堂に居たが、この事変を聞いても、顔色一つ変えなかった。そして自ら指揮を執って賊と戦い、賊徒達を皆殺しにして、その肉を切り取り、悠々と出てきて言った。
「奴が造反した、大将軍は傷を負ったが、大事には至らなかった。」
 昼行灯と思われていた高洋が、水際だった手腕を見せたので、内外は皆、驚いた。
 高洋は、喪を秘して発しなかった。
 陳元康は、自ら母へ手紙を書き、その夜、卒した。高洋は、彼を第内にて殯し、世間には、彼は使者に立ったと言い訳して、中書令へ進級させた。人情が動揺することを慮り、陳元康の死も隠したのである。
 王絋は、左右都督へ進級した。彼は、王基の子息である。 

 当時、高家の主力軍はヘイ州に居た。だから高官達は、高洋へ一刻も早く晋陽へ行くよう進め、高洋は、これを受諾した。
 夜半、大将軍督護唐邑を呼び出し、将士を四方へ散らすよう命じた。すると、唐邑は、即座に手配を終えてしまった。以来、高洋は彼を重用するようになる。
 癸巳、高洋は、立太子の大赦を行うよう、静帝へ風諭した。
 この頃になると、高澄の死去が、少しずつ漏れ始めていた。静帝は、密かに左右へ言った。
「今、大将軍が死んだのは、天意だ。やがて帝室の権威は再興するぞ!」
 高洋は、太尉高岳、太保高隆之、開府儀同三司司馬子如、侍中楊音を業へ残して留守を預けると、それ以外の高官達を引き連れて行った。
 甲午、高洋は、昭陽殿にて静帝へ謁見した。従える武装兵は八千人。階へ登った者は二百余人。皆、帯刀し、まるで敵と相対しているようだった。
 高洋は、伝令させた。
「臣家にて大事が起こりましたので、しばらく晋陽へ行って参ります。」
 そして、再拝して退出した。
 静帝は顔色を失い、目で見送った。
「朕は、あと幾日生きれるのだろうか。」
 晋陽の旧臣や宿将達は、もともと高洋を軽く見ていた。だが、彼は到着すると、文武官を集め、その目の前で立派ないでたちで見事な弁論を行ったので、皆は驚愕した。そして、高澄の政治で不便なものは、全て改めた。
 高隆之や司馬子如等は、崔進を憎んでいた。そこで、彼等は崔進や崔李舒の過去の悪事を全て告知し、鞭二百の上、辺境へ流した。 

  

簒奪前夜 

 大寶元年(550年)、太原公高洋が、丞相、都督中外諸軍、録尚書事、大行台、斉郡王となった。
 三月、高洋が斉王へ進爵した。
 ところで、高洋が幕府を開いた時、渤海出身の高徳政とゆう男を管記としていた。以来、高洋は高徳政と昵懇になり、彼の進言は、悉く受け入れた。
 金糸光禄大夫の徐之才と北平太守の宋景業は図讖に精通していた。丁度この年、太歳(木星)が午へ入ったので、彼等は革命が起こると考え、高徳政を通じて、高洋へ受禅を勧めた。
 高洋が母親の婁太妃へ尋ねると、太妃は言った。
「汝の父は龍のようで、兄は虎のようだったが、それでも天位を妄らに狙ったりしないで、終生、北面していたじゃないかえ!汝一人、堯・舜の事を行うなど、何様のつもりかえ!」
 高洋が、これを徐之才へ告げると、徐之才は言った。
「父上や兄上に及ばないからこそ、早く尊位へ升るべきなのです。」
 高洋は、像を鋳て占ってみたところ、巧くできた。そこで、開府儀同三司の段韶を肆州へ派遣し、肆州刺史の斛律金の意見を尋ねた。すると、斛律金は即座に高洋のもとへ駆けつけてきて、断固反対した。
「これは、きっと宋景業が唆したのでしょう。彼を殺さなければなりません!」
 高洋は、重鎮を集めると、太妃の前で会議を行った。すると、太妃は言った。
「我が児は、懦直な質。こんな事を考える人間ではありません。高徳政が騒動を好んで唆したのです。」
 高洋は、人心が纏まらないので、高徳政を業へ派遣して、公卿の意向を調べさせた。だが、彼がまだ帰らないうちに兵を擁して平都城へ入った。そこで諸勲貴を集めて会議を開いた。
 会議では誰も敢えて発言しない。すると、長史の杜弼は言った。
「関西(西魏)は、我等の仇敵です。もしも王が受禅したら、奴等は天子を挟んで義兵と称し、総攻撃に出て来ますぞ。そうなれば、王はどうなさいますか!」
 だが、徐之才が言った。
「今、王と天下を争っている者は、王と同じ事を望んでいる。王が断行したら、奴も追従して皇帝を名乗るだけだ。」
 杜弼は答えられなかった。
 高徳政は、業へ到着すると公卿達へ風諭して回ったが、応じる者はいない。司馬子如は、遼洋まで高洋を出迎えたが、「決行すべし」とは言わなかった。
 高洋は遂に晋陽へ帰ったが、これ以来怏々とした毎日を送った。 

 徐之才と宋景業は、様々な占トを述べて高洋を唆した。高徳政も、勧めてやまない。
 高洋が術士の李密へ占わせてみると、「大横」の卦が出た。
「漢の文帝の卦でございます。」
 又、宋景業へ筮させると、「乾が鼎へ行く象」となった。
「乾は、主君です。鼎は、五月の卦です。仲夏に受禅するべきでございます。」
 すると、ある者が言った。
「五月には入宮してはいけない。(陰陽家の説。正月、五月、九月は上官を忌む)これを犯したら、その位で終わってしまうぞ。」
「そう、天子の位で終わるのです!」
 高洋は大いに悦び、晋陽を出発した。 

 高徳政は、業での諸事を全て記録して、高洋へ渡した。高洋は、側近の陳山提へ、それを検分させた。又、楊音へ密書を与えた。
 同月、陳山提は業へ行った。楊音は太常卿や秘書監へ九錫、禅譲、勧進の諸文を作成させた。
 甲寅、東魏は、高洋の官位を相国へ勧めて百揆を総括させ、九錫を与えることを決定した。 

 高洋は業へ向かう。その一行が前亭まで来た時、高洋の乗馬が転倒した。高洋は気分を害し、平都城から先へは行きたがらなかった。そこで、高徳政と徐之才は苦請した。
「陳山提は、既に業へ到着しています。グズグズしていると、計画が漏洩してしまいますぞ。」
 そして、司馬子如と杜弼を先に行かせて、業の物情を調べさせた。
 司馬子如が業へ到着してみると、業の衆人達は大勢が決したことを知り、口をつぐんでいた。そこで、高洋も業へ行き、人夫を集めて城南へ祭壇を築かせた。すると、高隆之が尋ねた。
「これは何の為に築いているのですか?」
 高洋は顔色を変えて言った。
「余計なことを言うな!我等一族を皆殺しにさせるつもりか!」
 高隆之は、陳謝して退出した。 

  

禅譲 

 丙辰、司空潘楽、侍中張亮、黄門郎趙彦深等が、皇帝へ謁見を求め、静帝は昭陽殿にて対峙した。
 張亮は言った。
「五行の交代には、始まりがあれば終わりもあります。斉王の聖徳は欽明で、万民が仰ぎ見ております。どうか陛下、堯や舜の行動を手本となさってください。」
 静帝は、表情を固くして答えた。
「その事は、前から考えていた。慎んで、遜避しよう。」
 又、言う。
「お前達、その為の書を作成してくれ。」
 中書郎の崔劼と裴譲之が言った。
「既に作っております。」
 彼等から促されて、楊音が献上した。静帝は、それに署名して言った。
「朕は、どこに住むのかな?」
 楊音が答えた。
「北城へ別館を造っております。」
 静帝は、座を降りると東廊を歩きながら、范尉宗の御漢書賛を詠んだ。
「献帝は、生まれに時期を得ず、国主の座を追われ国は艱難にまみれ、漢室四百年の歴史は閉じた。そして、堯の息子が虞の賓客となったように、魏の賓客として一生を終えたのである。」(御漢書、献帝本紀の賛)
 所司が宮殿を出て別館へ移るよう請うと、静帝は言った。
「古人は、故主へ敬意を表したもの。朕も六宮には住みたいが、できるかな?」
 高隆之が言った。
「今日の天下は、まだ陛下のものでございます。六宮など、ぞうさありません。」
 静帝は、後宮へ入ると、妃嬪達へ別れを告げた。後宮の全員が、慟哭した。
 直長の趙道徳が、車を東閣へ廻した。静帝が登車しようとすると、趙道徳は、玉体を抱え上げた。これには、静帝も激怒した。
「朕は天を畏れ人へ謙っていた。下郎が、何でこんなことをするのか!」
 だが、趙道徳は帝を降ろさなかった。
 雲龍門を出ると、王公百僚が、拝礼していた。高隆之は、彼等に交じって号泣していた。
 こうして、静帝は北城へ入ると、使者へ璽綬を渡して、斉へ禅譲した。 

  

北斉建国 

 戊午、斉王は南郊にて、皇帝位へ即いた。大赦を下し、天保と改元する。
 魏では、敬宗以来、百官の俸禄が途絶えていたが、これ以来、ようやく支給が再開された。
 己未、東魏主を中山王へ封じ、不臣の礼の待遇を与えた。斉の献武王(高歓)を追尊して献武皇帝とした。廟号は、太祖。しかし、後に高祖と改めた。文襄王(高澄)を文襄皇帝とした。廟号は、世宗。王太后の婁氏は、皇太后となった。
 乙丑、魏朝の爵位をそれぞれ降格した。 

 六月、高岳、高隆之、高帰彦、高思宗、高長弼等、斉の宗室十人及び、功臣七人(庫狄干、斛律金、賀抜仁、韓軌、可朱渾道元、彭楽、潘相楽)を王へ封じた。又、十三人の弟達も、全員王へ封じられた。