皇后冊立
 
貞観十一年(637)。もとの荊州都督武士獲(ほんとうは、獣偏ではなく、尋)の娘は、十四才。太宗皇帝は、彼女が美人だと聞いて、後宮へ入れ、才人とした。 

  

 初め、左武衞将軍武連県公の武安の李君羨が玄武門の宿衞になった時、屡々昼間に金星が見えた。太史が占って、言った。
「女主が栄える。」
 民間でも、秘記が、次のように伝えていた。
「唐三世の後、女武王が天下を代わって占有する。」
 太宗は、これを憎んだ。
 やがて、諸武臣が集まって宮中で宴会が開かれた。宴たけなわの時、上は各々へ幼名を言わせた。すると君羨は、自ら『五娘』と言った。上は愕然としたが、笑って言った。
「何と女々しい。爾は勇猛壮健なのに!」
 また、君羨の官名にも封邑にも「武」の字がついていたので、深くこれを憎み、後に華州刺史として下向させた。
 ここに、員道信とゆう布衣がいた。彼は「粒を絶てるし仏法に通暁している」と吹聴し、君羨は深くこれを敬信した。(「絶粒」の意味がよく判らない。)彼等は屡々人が居ないところで話し込んだ。
 御史は、「君羨が妖人とつきあっているのは、不軌を謀っているのだ。」と上奏した。
 二十二年、六月壬辰。君羨は有罪として誅され、その家は没収された。
 上が密かに太史令李淳風へ聞いた。
「秘記が伝えることは、信じられるのか?」
 対して言った。
「臣が仰いでは天象を観、伏して暦数を察したところ、その人は既に陛下の宮中にあり、親属となっております。いまから三十年経たないうちに天下の王となり、唐の子孫を殆ど殺し尽くすでしょう。その兆しは既に起こっております。」
 上は言った。
「疑わしい者を殺し尽くしたらどうか?」
「天命です。人の力ではどうしようもありません。王者は死にません。いたずらに無辜の民を大勢殺すだけでしょう。それに、今から三十年後ならば、その人は既に老境に入っておりましょうから、あるいは慈悲の心が芽生えて禍が少なくて済むかも知れません。今、もしも彼を殺せたならば、天は更に別の溌剌とした者を生み、陛下の子孫は却って皆殺しにされるかも知れませんぞ。」
 上は、殺戮を止めた。 

  

 二十三年六月、太宗皇帝崩御。高宗が立った。
 永徽三年(652年)七月、丁巳。陳王忠を皇太子に立て、天下へ恩赦を下す。
 忠の母親の劉氏は微賤だった。王皇后には子供が居なかったので、柳爽が皇后へ恩を売ろうと、忠を太子に立てるよう皇后へ勧めた。又、柳爽は、外では長孫無忌等へ風諭して、上へ請願させた。上は、これに従った。
 乙丑、于志寧へ太子少師を、張行成へ少傅を、高季輔へ少保を兼任させる。 

  

 まだ高宗が皇太子でもなかった頃、王皇后には子供がいなかった。蕭淑妃が上から寵愛されたので、王皇后はこれを妬いていた。
 高宗が皇太子となって太宗のもとへ入侍すると、才人の武氏を見て、夢中になった。
 太宗が崩御すると、武氏は他の側室達と共に感業寺にて尼となった。忌日、上が寺を詣でて焼香した折、武氏を見かけた。武氏は泣き、上も又泣いた。
 王后はこれを聞いて、密かに武氏を還俗させ、これを後宮へ入れるよう上へ勧めた。それは、淑妃の寵愛を裂く為である。
 武氏は智巧があり謀略が多い女性。宮へ入ると、腰を低くして皇后へ仕えたので、后はこれを愛し、屡々上の前で彼女を褒めた。
 武氏はすぐに寵愛を受けて昭儀となった。その分、后も淑妃も寵愛が衰えてしまったので、彼女達は共に武氏をそしったが、上は聞かなかった。
 五年三月庚申、武徳年間の功臣屈突通等十三人へ官位を加賜した。武昭儀が、父親へ追賜したがったが、名目がなかったので、功臣達への褒賞にかこつけ、武士護もこれに預からせたのだ。
 六月、中書令柳爽は、王皇后の寵愛が衰えたのを見て内心不安になり、政事からの解任を請願した。癸亥、吏部尚書を辞職する。 

  

 王皇后、蕭淑妃と武昭儀は互いに讒訴しあったが、上は皇后や淑妃の言葉を信じず、昭儀だけを信じた。
 皇后は、自分の想いを我慢して左右に善くしてやることが出来ず、母の魏国夫人柳氏や舅の中書令柳爽が六宮へやって来ても、礼遇しなかった。武昭儀は、皇后が不遜に対している相手を伺って、彼等へは必ず親身にしてやり、賜下品などはこれへ分けてやった。こうして皇后や淑妃の動向は、昭儀へ必ず知れ渡り、昭儀はこれを上へ聞かせた。
 皇后の寵愛は衰えたけれども、上はまだ廃立までは考えていなかった。そんなとき、昭儀が女子を出産した。皇后がやって来て、これを可愛がり、あやした。彼女が退出すると、昭儀は密かに我が子を絞め殺し、これを布で覆った。上がやってくると、昭儀は上辺は笑いながら布を取ったが、娘は既に死んでいる。昭儀は驚いて泣いた。左右に問うと、左右は皆言った。
「さっき皇后がやってきました。」
 上は激怒して言った。
「皇后が娘を殺した!」
 昭儀は泣いてその罪を数え上げた。皇后は身の潔白を証明できない。この事件で、上は廃立を考えるようになった。
 しかし皇后の廃立は重大問題なので、上は大臣が従わないことを畏れた。そこで上は昭儀と共に太尉長孫無忌の第を訪れた。大いに酒を飲んで楽しんだ後、その席上で無忌の寵姫の三人の子を皆、朝散大夫に任命し、更に金寶や錦を載せた車十台を無忌へ賜った。その上で上は、皇后に子がない事をさりげなく言い、無忌に風諭した。しかし、無忌は話題を変え、上の意に従わなかった。上と昭儀は、不機嫌なまま還った。
 昭儀は又、母の楊氏を無忌の第へ訪問させ屡々請願したが、無忌は遂に許さなかった。
 礼部尚書許敬宗もまた何度も無忌に勧めたが、無忌は顔色を変えて叱りつけた。 

  

 六年六月、王后とその母の魏国夫人柳氏が呪術を行っていると、武昭儀が誣告した。后母の柳氏の入宮を禁じるよう敕が降りる。。
 七月、戊寅。吏部尚書柳爽を遂州刺史へ左遷する。爽が扶風まで行った時、岐州長史の于承素が上へ阿って、爽が禁中での会話を外部へ洩らしたと上奏した。そこで更に降格されて栄州刺史となった。
 唐は、隋の制度を踏襲し、後宮の貴妃、淑妃、徳妃、賢妃は皆一品としていた。上は特に宸妃を設置して武昭儀をこれに充てようと欲したが、韓爰、来済が前例がないと諫めたので、沙汰やみとなった。
 中書舎人饒陽の李義府は長孫無忌から嫌われて壁州司馬へ左遷された。だが、敕が門下へ到着する前に義府は密かにこれを知り、中書舎人幽州の王徳倹へ計略を問うた。すると徳倹は言った。
「上は武昭儀を皇后に立てたがっている。だが、猶予して決断できないのは、宰臣の異議を恐れているからだ。君がこれを立てることができれば、禍を転じて福に出来るぞ。」
 義府は得心した。
 この日、徳倹に代わって直宿し、閣を叩いて上表した。
「皇后王氏を廃立して武昭儀を立て、多くの民を安堵させてください。」
 昭儀は密かに使者を派遣して、 これを勉めさせ、一足飛びに中書侍郎に抜擢した。
 ここに於いて、衞尉卿許敬宗、御史大夫崔義玄、中丞袁公瑜等が密かに武昭儀の腹心となった。 

  

 長安令裴行倹は、武昭儀を皇后に立てようとしていると聞き、国家の禍は必ずここから始まると思い、長孫無忌、猪遂良等と私的に対策を練った。袁公瑜がこれを聞き、昭儀の母の楊氏へ伝えた。八月、行倹は西州都督府長史へ左遷される。
 行倹は行基の子息である。
 九月戊辰、許敬宗を礼部尚書とする。
 上はある日退朝すると長孫無忌、李勣、于志寧、猪遂良を内殿へ入れた。
 遂良は言った。
「卿の召集は、中宮のことだ。上の意は決している。これに逆らうのなら、死を覚悟しなければ。太尉は元舅で司空は功臣、陛下へ、元舅や司空を殺したとゆう汚名を取らせてはいけない。だが遂良は草茅出身で汗馬の労もないのに、こんな高い地位へ至ったし、先帝からは後事を託された。ここで死を以て諫争しなければ、あの世で陛下に会わせる顔がない!」
 李勣は、病気と称して入らなかった。
 無忌等が内殿へ至ると、上は無忌を顧みて言った。
「皇后には子がなく、武昭儀には子がある。今、昭儀を皇后へ立てたいが、どうだ?」
 すると、遂良が言った。
「皇后は名門の出で、先帝が陛下の為に娶ってくださった女性です。先帝が崩御なさる時、陛下の手を執って臣へ言われました。『朕の佳き児と佳き嫁を、今、卿へ託す。』これは陛下も聞かれましたことで、今でも臣の耳に残っております。皇后には、いまだ過ちを聞きません。どうして軽々しく廃立できましょうか!臣は道理を曲げて陛下に従い、先帝の遺命へ逆らうような真似は、敢えて行いません!」
 上は不機嫌になって退出させた。
 翌日、再び言った。すると遂良は、
「陛下がどうしても皇后を変えたいのでしたら、どうか天下の令族からお選びになってください。なんで武氏でなければならないのですか。武氏がかつて先帝に仕えておりましたことは、衆人が知っております。天下の耳目をどうして覆えましょう。万代の後、陛下は何と言われましょうか!どうか三思なさってください!臣は今、陛下に逆らいました。この罪は死刑に値します。」
 そして笏を置き、殿階にて頭巾を解き、叩頭流血して言った。
「陛下へ笏をお返しします。どうか田里へ帰してください。」
 上は激怒して引き出すよう命じた。すると、昭儀が御簾の中から大声で言った。
「どうしてこのリョウ(異民族の名。逐良はリョウ人だった。)を撲殺しないのですか!」
 無忌が言った。
「遂良は先朝から顧命を受けた臣です。罪があっても刑を加えてはなりません。」
 于志寧は、何も言わなかった。
 韓爰が上奏の暇を見て涕泣して極諫したが、上は納れなかった。翌日、また諫めた。見るに耐えないほど悲しそうだったが、上は引き出すよう命じた。爰は、また上疏して諫めた。
「匹夫匹婦でさえ、なお伴侶を大切にします。ましてや天子ですぞ!皇后は御国の母。善悪はこれに由ります。ですから莫(「女/莫」)母は黄帝を補佐し、妲己は殷王を傾覆しました。詩にも言います。『かくかくたる宗周は、ホウジがこれを滅ぼした。』と。前古を見る時でさえ、いつも嘆息するのです。ましてや今日聖代を塵黷するのですぞ。行動が規範とならなければ、子孫は何を観ればよいのですか!どうか陛下、詳細に考え、後世の人々から笑われますな!臣を塩漬けにしても御国の為になるのなら、それこそ臣下としての本分です。昔、呉王が伍子胥の言葉を聞かなかったばかりに、姑蘇は麋鹿の遊び場となりました。臣は海内の失望を恐れます。闕庭に棘荊が生い茂り、宗廟が祀られなくなるのも、先のことではありませんぞ!」
 来済も上表して諫めた。
「王が后を立てるのは、上は乾坤に則るものです。必ず名家から選び、深窓に容れてこそ、四海の望に沿い、神祇の意向にかなうのです。周の文王は船を造ってタイジを迎えましたので、カンスイの教化へ連なり、百姓は恩恵を受けました。孝成は欲望の赴くまま婢を皇后としましたので皇統は絶え社稷は途絶えました。有周の勃興はこのようで、大漢の禍もまたかくの如しです。どうか陛下、後詳察ください。」
 上は、皆、納れなかった。
 他日、李勣が入見したので、上は問うた。
「朕は武昭儀を皇后に立てたいのだが、遂良は絶対に駄目だと固執している。遂良は顧命の大臣だ。やはりやめたほうがよいのかな?」
 対して言った。
「これは陛下の家庭のことです。何で他の人に聞く必要がありましょうか!」
 上は遂に決意した。
 許敬宗が、朝廷にて宣言した。
「田舎翁でも、十斛の麦が増収したら女房を変えたがるのだ。ましてや天子が皇后を廃立するのに、何で諸人が妄りに異議を唱えるのか!」
 昭儀は、左右に伝達させた。
 庚午、遂良は澤州刺史へ貶された。
 十月己酉。詔を下して称す。
「王皇后、蕭淑妃は毒殺を謀ったので、廃して庶人とする。母及び兄弟も、共に除名して嶺南へ流す。」
 許敬宗が奏上した。
「もとの特進贈司空王仁裕の告身はまだ残っています。これですと、逆乱の子孫に、そのおかげを蒙る者が出てきます。これを除削するようお願いします。」
 これに従う。
(先祖が官位を持っていたら、子孫は並の人より高い官位が給付される。これを告身と言う。司空は正一品。三品以上は曾孫まで、その特権が与えられる。)
 乙卯、百官が上表して中宮を立てるよう請うた。そこで、詔を下して言う。
「武氏の家門は勲庸著しく、名門である。その娘は才人に選ばれて後庭に入った。その誉れは重く徳は光る。朕は昔世継ぎとして先帝の慈愛を蒙り、常に侍従して朝夕先帝の側を離れなかった。宮壺の内ではいつも身を謹み、宮女の中では目を伏せていた。先帝はこれをちゃんとご覧になって、事毎に賞嘆され、遂に武氏を朕へ賜ったのだ。これは、政君の故事(漢の宣帝甘露三年参照)と等しい。武氏を皇后に立てるべきである。」
 丁巳、天下へ赦を下す。
 この日、皇后は上表して称した。
「陛下は以前、妾を宸妃にしようとなさいましたが、韓爰と来済が面と向かって非難して、庭にて争いました。これは非常に難しいことです。国を思う深い想いでなくて何でしょうか。どうか褒賞を加えてください。」
 上は、これを爰等へ示した。爰等は深く憂懼し、屡々官位を去ることを請願したが、上は許さなかった。
 十一月、卯朔、皇后武氏へ璽綬冊を授けるよう、軒へ臨んで司空李勣へ命じた。この日、百官は粛義門にて皇后へ挨拶した。
 もとの皇后王氏ともとの淑妃蕭氏は、別院へ幽閉した。上はいつもこれを気にしており、ある時、その様子を見に行った。すると、部屋は厳密に密閉されており、壁の穴から食事を通すだけだった。それを見て、上はたまらなくなって、呼んだ。
「皇后、淑妃、息災か?」
 王氏は泣いて言った。
「妾らは罪を得て婢となった身です。何でそんな尊称を呼ばれますの!」
 又、言う。
「至尊がもしも昔をお忘れになられないなら、妾等に再びお日様を拝ませてください。、どうかこの院を回心院と改名してくださいませ。」
 上は言った。
「朕は既に処置を考えている。」
 武后はこれを聞いて激怒して、人を派遣して王氏と蕭氏を百回づつ杖で打たせ、手足を切り取らせた。そして彼女達を捕まえて酒瓶の中へぶち込んで、言った。
「二人とも、骨まで酔いなさい!」
 数日して二人とも死んだので、死体を斬った。
 王氏が始めて宣敕を聞いた時、再拝して言った。
「大家の萬歳を祈願いたします!昭儀の恩を承りました。私は殺されても仕方がありませんのに。」
 だが、淑妃は罵って言った。
「阿武の妖猾は、ここまで至ったか!来世では、我は猫に、阿武は鼠に転生しますように。その喉を噛みちぎってやる!」
 これ以来、宮中では猫を飼わなくなった。
 ついで、王氏の姓を蟒氏に、蕭氏を梟氏へ改姓した。
 武后はしばしば王、蕭が祟りを為すのを見た。髪はザンバラで血が滴り、まるで死んだ時のような有様だったという。後、蓬莱宮へ転居したが、それでも祟りを見た。だから、武后は洛陽に住むことが多く、終身長安へ帰らなかった。
 己巳、許敬宗が上奏した。
「永徽に改元してから、国の本が生まれる前に、彗星がたなびいて日月より輝きました。しかし今、元妃が子を産み、正胤が降臨したのです。その証拠に日輪は二重になって輝きを増しております。枝と幹を逆に植え、天庭に誤った位が久しく続き、裳衣が倒襲され違方に位を震わせて、どうして良いものでしょうか!親子の間には他人が言い難いものがあります。あるいは逆鱗に触れて死を賜るかも知れません。しかし、臣の膏血を絞って鼎を染めることになりましょうとも、もとより望むところでございます。」
 上は召し出して、詳しく尋ねた。すると敬宗は答えた。
「皇太子は国の本でございます。本がまだ正しくありませんので、万国が気にならずにはいられません。それに、東宮に住まれているのは、微賤な出自。今、国家に既に正嫡が生まれたのを知り、きっと不安なはずです。位を盗んで不安を持てば、宗廟の福ではありません。どうか陛下、じっくりとお考えください。」
 上は言った。
「忠は、すでに自ら皇太子の辞退を言い出している。」
「ご辞退すれば、皇太子殿下は太伯になれるのです。どうか速やかに従ってください。」
 顕慶元年(丙辰、656年)正月、辛未。皇太子忠を梁王とし、梁州刺史にした。皇后の子息、代王弘を皇太子に立てる。生後四年である。
 忠が廃立されると、官属は皆罪を懼れて逃げ隠れ、敢えて挨拶する者が居ない。ただ、右庶子李安仁独り忠のもとへ伺い、涕泣拝辞して去った。安仁は、綱の孫である。
 天下へ赦し、改元する。
 二月、辛亥。武士護を司徒として、周国公を賜下した。
 ちなみに梁王忠は、のちに房州刺史となる。成長するたびに命の不安を感じ、あるいは婦人の服を着て刺客に備えたり、屡々自分で吉凶を占ったりしていた。ある者が、それを告発した。
 顕慶五年(660)七月、乙巳、忠は廃されて庶民となり、黔州へ移され、承乾の故宅へ幽閉された。
 麟徳元年(664)十二月戊子、忠へ配所で死を賜る。その詳細については、後述する。 

  

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