後秦、後涼を滅ぼす。

 

呂光、崩御

 晋の安帝の隆安三年(399年)、十二月。後涼王呂光は、病気が重態となったので、太子の呂紹を立てて天王とし、自らは「太上皇帝」と称した。太原公呂纂を太尉とし、常山公呂弘を司徒とする。
 呂光は、呂紹へ言った。
「今、国家は多難。三隣(禿髪、乞伏、段業)は全て我が国の隙を窺っておる。我が死んだら、簒へ六軍を統治させ、弘へ朝政を委ねよ。お前はただ、腰を低くして、我を張らず、二兄を珍重したならば、何とかなるだろう。しかし、もしも彼等を猜忌したならば、我が国の滅亡はすぐにでもやってくるぞ!」
 又、簒と弘へ言った。
「永業(呂紹の字)には、乱世の主君としての才覚はない。ただ、嫡出の序列によって元首となるに過ぎない。それに、今、強敵がこの国を狙い、人々の心は反復常無い。しかし、お前達兄弟が力を合わせたならば、必ずこの難局は乗り越えられる。そうして、我が血統は万世へ流れるだろう。だが、お前達が戦い合ったなら、禍は踵を旋さずに降りかかって来るぞ!」
 すると、簒も弘も泣いて言った。
「そんな事は致しません!」
 すると、呂光は、特に簒の手を執って戒めた。
「お前は粗暴な質だから、心配なのだ。どうか、永業をよくよく補佐せよ。讒言になど、決して惑わされるな!」
 その日、呂光は卒した。享年、六十三。

 

呂紹即位。

 呂紹は、呂光の逝去を隠し、喪を発しなかったが、呂纂は力づくで乗り込んで、慟哭の儀式を行うと、哀しみをつくして退出した。
 呂紹は懼れ、呂纂へ言った。
「兄上は功績も高く、しかも年長。この位を継ぐべきです。」
 すると、呂纂は言った。
「陛下は国の嫡子ですぞ!臣がなんで、そのような奸悪を行いましょうか!」
 呂紹は固く譲ったが、呂纂は許さなかった。
 驃騎将軍の呂超が、呂紹へ言った。
「呂纂が将軍となってから既に長く、その威光は内外を震わせております。喪に臨んでも哀しみませんし、歩き方や目線まで尊大です。奴目は、必ず異志を持っています。早めに処分なさって下さい。」
 すると、呂紹は言った。
「先帝の言葉は、今でも耳に残っている。何でこれを棄てられようか!それに、我のような若輩が、国家の大任を背負うのだ。二兄を頼まなければ、この国を守ることなどできない。その兄が私を図ると言うのなら、笑って死んで見せよう。私には、そんな気はない。卿も、そんなことは二度と口にするな!」
 やがて、呂纂が、湛露堂で、呂紹へ謁見した。この時、呂超は刀を執って傍らへ侍り、呂纂を捕らえるよう目で合図したが、呂紹は許さなかった。なお、呂超は呂光の甥である。

 

呂纂、簒奪

 呂弘は、尚書の姜紀を密かに呂纂のもとへ派遣して、伝えた。
「主上は闇弱で、多難な時節を乗り越えられません。それに引き替え、兄上の威厳も恩徳も国中の者が知っております。どうか小節にこだわらず、社稷の為に行動して下さい。」
 そこで、呂纂は壮士数百人を揃え、夜半、北城を乗り越えると、廣夏門を攻撃した。呂弘は東苑の兵卒を率いて、洪範門を打ち崩す。
 融明観を守っていたのは、左衛将軍の斉従。彼は賊徒へ誰何した。
「誰だ?」
 衆人は言った。
「太原公だ。」
「先帝が崩御され、新君が即位なさった。太原公は道理を無視して、夜半、禁城へ乱入する。造反する気か!」
 斉従は、刀を抜くと、呂纂へ斬りかかってその額を傷つけたが、呂纂の側近達が、たちまち彼を捕らえた。
 呂纂は言った。
「義士だ。殺してはいかん!」
 呂紹は、虎賁中郎将の呂開へ禁兵を指揮させ、端門にて防戦させた。呂超は、兵卒二千を率いて駆けつけた。しかし、兵卒達はもともと呂纂を憚っていたので、皆、戦わずして逃げ出し、軍は潰れた。
 呂纂は青角門から入城し、謙光殿へ昇った。呂紹は紫閣へ登って自殺した。呂超は廣武へ逃げた。
 呂弘の軍団は強力だったので、呂纂はこれを憚り、呂弘へ王位を譲った。すると、呂弘は言った。
「私が弟の分際で大統を受け継いだら、衆人が承服いたしません。先帝の遺言に逆らって廃立を行いましたことだけでも、死ぬまで慚愧に耐えないのですぞ!ましてや、今、兄上を凌ぐなど、それは私の本志ではありません!」
 そこで、呂纂は呂弘を表に出して衆人へ告知させた。
「先帝の臨終の時、詔を受け取っていたのだ。」
 すると、群臣は皆、言った。
「いやしくも、社稷に主がいる限り、どうして逆らいましょうか!」
 こうして、呂纂は天王の位に即いた。大赦を下し、「咸寧」と改元する。呂光へは、懿武皇帝と諡する。廟号は太祖。呂紹へは、隠王と諡する。呂弘を「大都督、督中外諸軍事、大司馬、車騎大将軍、司隷校尉、禄尚書事」に任命し、番禾郡公に改封した。
 呂纂は、斉従へ言った。
「卿は我を傷つけた。やり過ぎではないか!」
 すると、斉従は涙を零して言った。
「隠王は、先帝の立てられた主君です。陛下は確かに、天命に応じ、人心に従って即居なさいましたが、私はそれに気がつかず、陛下を殺すことだけを考えておりました。やり過ぎたわけではありません。」
 呂纂は、その忠誠を賞し、これを篤く遇した。
 廣武を鎮守するのは、征東将軍の呂方。呂纂の叔父である。呂纂は、彼のもとへ使者を派遣して、伝えた。
「呂超は実に忠臣。その義、その勇、嘉するべきである。ただ、国家の大礼や権変の宜しきを知らなかったに過ぎない。私は、彼の才覚を活用し、この艱難の時節を乗り越える一助とするつもりだ。この思いを、彼に伝えてはくれまいか。」
 すると、呂超は、上疏して陳謝した。そこで、呂纂は、その爵位を元へ戻した。

 

呂弘の乱

 大司馬の呂弘は、大きな功績を建てたので、呂纂はこれを忌避し、呂弘も、兄を疑っていた。
 四年、三月。呂弘は東苑の兵を率いて造反した。呂纂は、麾下の将焦弁に迎撃させ、呂弘の軍は壊滅し、呂弘は逃亡した。呂纂は、兵卒の略奪を許し、東苑の婦女は、全て兵卒への賞品となった。そして、その中には、呂弘の妻子も含まれていた。
 呂弘は笑って言った。
「今回の戦争はどうだった?」
 すると、侍中の房咎が言った。
「天が、涼へ禍を下し、憂患は極めて深うございます。先帝は崩御し、隠王は廃立され、今又、大司馬が造反する。京師は血に染まり、兄弟で刃を交えました。呂弘が自滅したとはいえ、陛下の温情に欠けるところはございませんでしたか?この災厄を招いたことを、身を屈して百姓へ謝罪するべきでございます。それなのに、兵の略奪を許し、士女を辱めさせました。この動乱は弘が起こしたもの。百姓に何の罪がありましょうか!且つ、弘の妻は、陛下の弟嫁、娘は陛下の姪でございます。それが、無頼の小人の婢妾に落ちぶれるとゆう辱めを受けるなど、天地神明、痛ましくて見ていられませんぞ!」
 そうして、声を限りに慟哭した。呂纂は容貌を改めるとこれに陳謝した。そして、弘の妻子を東宮へ移し、これを篤く遇した。
 呂弘は、禿髪利鹿孤のもとへ亡命しようと考えた。その途中、廣武を通過したので、彼は呂方へ会いに行った。呂方は、呂弘を見ると、慟哭して言った。
「ようやく国が治まったというのに、お前はなんて事をしでかしたのだ!」
 そして、呂弘を捕らえると、牢獄へぶち込んだ。これを知った呂纂は、力士を派遣して、呂弘を処刑した。

 呂纂は、楊氏を皇后に立て、彼女の父親の桓を尚書左僕射、涼都尹に任命した。

 

呂超の造反

 呂纂は、酒と狩猟に耽溺していた。
 ある時、太常の楊穎が諫めて言った。
「陛下は、天命を受けられたのです。正しい行いで、これを守らなければなりません。今、我が国土は日々に削り取られております。陛下は、先祖の偉業を復興させる為に兢々となさらればなりませんのに、毎日遊び回るばかり。臣は密かにこれを危ぶんでいるのです。」
 呂纂は、遜謝したが、行いは改めなかった。

 番禾太守の呂超が、鮮卑の思盤を独断で攻撃した。思盤は、弟の乞珍を派遣して、呂纂へ訴えた。そこで、呂纂は、呂超と思盤へ入朝するよう命じた。呂超は懼れ、姑藏へ到着すると、殿中監の杜尚と深く結託した。
 呂纂は、呂超を見ると、これを責めて言った。
「卿は、兄弟の親しきを恃み、敢えて我を欺いた。卿を斬り、天下にけじめを付けてやる!」
 呂超は頓首して謝罪した。
 もともと、呂纂は、呂超を脅しつけようと思っただけで、本当に殺すつもりではなかった。それで、呂超が謝罪すると、呂超、思盤及び群臣達と、内殿にて宴会を開いた。
 この宴会で、呂超の兄の中領将軍隆が、呂纂へやたらと酒を勧めた。呂纂はしたたかに酔っぱらい、歩輓車(牛馬ではなく、人間が挽く車)に乗って、呂超等を率いて禁中を遊んだ。
 昆華堂の東閣にて、車が動かなくなった。そこで、呂纂は竇川と駱騰へ車を押させたが、この時、彼等は剣を壁に立てかけておいた。すると、呂超がその剣を執り、呂纂へ斬りかかった。呂纂は車を飛び降りて呂超を捕らえたが、呂超は、彼の胸を刺した。竇川と駱騰は呂超と戦ったが、呂超は二人共殺した。
 変事を聞いた楊皇后は、呂超討伐を禁兵へ命じた。しかし、杜尚がこれを止めた為、兵卒達は皆、武器を投げ捨てて戦わなかった。将軍の魏益多が入って、呂纂の首を取った。
 楊后は言った。
「人が死んだのに、その屍へ、なんて残酷な扱いをするのですか!」
 すると、魏益多は罵った。
「纂は、先帝の遺命に逆らい、太子を殺して自立した、荒淫暴虐な男だ!番禾太守の呂超が、人心に従ってこれを廃除し、宗廟を安らげたのだ!何と目出度いことか!」
 呂纂の叔父の巴西公佗と、弟の隴西公緯は、北城に居た。ある者が緯へ言った。
「公は先帝の弟。その身分で大義を唱えて叛徒を討つべきです。南城には姜紀・焦弁が居り、東苑には楊桓・田誠が居ります。皆、我等が仲間。何で敗れましょうか!」
 そこで、呂緯は呂佗と共に呂超を攻撃しようと考えた。だが、呂佗の妻が、夫へ言った。
「緯も超も、あなたにとっては甥ではありませんか。どうして超を棄てて緯を助け、自ら禍を招くのですか!」
 そこで、呂佗は呂緯へ言った。
「呂超の挙兵は既に終わり、奴等は武器庫を占領して精鋭兵を手に入れた。これと戦うのは難しい。それに、私はもう、年老いた。何の助けにもならんよ。」
 呂超の弟の呂貌は、呂緯から可愛がられていた。そこで、呂貌は呂緯へ言った。
「纂は、兄弟を殺した賊徒です。我が兄の隆と超が、人々の心に従ってこれを討ったのは、明公を立てる為ですよ。明公は、先帝の長男ですから、社稷の主となるべきですし、それに異存のある人間など居るものですか。何をお疑いなさるのです!」
 呂緯はこれを信じ、隆・超と盟約を結んで、単身入城した。そこで、呂超は、これを捕らえて殺した。
 呂超は、天王位を呂隆へ譲った。呂隆が難色を示したので、呂超は言った。
「今は、龍に乗って天に昇っているようなもの。なんで中途で降りられようか!」
 呂隆は、遂に天王位へ即いた。大赦を下し、「神鼎」と改元する。母の衛氏を尊んで太后とし、妻の楊氏を后とする。呂超を「都督中外諸軍事、輔国大将軍、禄尚書事」に任命し、安定公へ封じる。呂纂へは霊帝と諡した。

 呂纂の皇后の楊氏は、宮殿から出て行った。この時、呂超は珍宝を持ち出されることを恐れ、荷物を改めさせた。すると、楊氏は言った。
「お前達兄弟には、道理もなく、人を殺しまくっている。私とて、いつ殺されるか判らないのに、宝物を持ち出してどうなるとゆうの!」
 呂超が、玉璽の在処を尋ねると、楊氏は言った。
「もう、壊しました。」
 楊氏はとても麗しい女性だったので、呂超は彼女を手に入れたくなり、父親の右僕射楊桓へ言った。
「もしも楊后が自殺したなら、禍は卿の一族に及ぶぞ。」
 楊桓はこれを娘に告げた。すると、彼女は言った。
「大人は、娘を売って、富貴を求めたのよ。一度だけでも甚だしいのに、もう一度行うつもりなの!」
 遂に、楊后は自殺した。穆后と諡される。楊桓は河西王利鹿孤の許へ逃げ、利鹿孤は彼を左司馬とした。

 

後秦進攻

 五月、涼王隆は、威名を立てようとして豪族や人望の篤い人間を大勢殺した。人々は恐々として、国中に不穏な空気が流れた。
 魏安県の焦朗という男が、後秦の隴西公碩徳のもとへ使者を派遣して言った。
「呂氏は武皇(呂光)が死んでから、兄弟で攻め合い、政綱は立たず、暴虐は茶飯事。百姓は飢え、半分以上が命を落としました。今、この簒奪に乗じて攻め込めば、掌を返すように、涼を占領できます。この機会を逃してはなりません。」
 碩徳はこれを姚興へ伝えた。姚興は六万の軍勢で涼討伐軍を起こし、乞伏乾帰も七千騎を率いて従軍した。
 七月、碩徳率いる後秦軍が姑藏まで進軍した。呂隆は、輔国大将軍呂超、龍驤将軍呂貌等を派遣したが、碩徳は、これを蹴散らした。呂貌を捕らえ、俘斬した敵兵は一万を越えた。
 呂隆は、籠城して、固守した。呂佗は、東苑の民二万五千を率いて、秦へ降伏した。西涼公ロ、河西王利鹿孤、沮沐蒙遜等は、それぞれ使者を派遣して、後秦へ入貢した。

 話は遡るが、涼の姜紀は、利鹿孤のもとへ逃げ出していた。廣武公の辱檀が彼と兵略を論じてみて、その才を奇とし、甚だ愛重した。座るときには席を連ね、出る時には同じ車に同乗し、談論する度に、夜から昼まで話が続く有様だった。
 そこで、利鹿孤が辱檀へ言った。
「姜紀は、確かに才覚がある。しかし、その挙動を見ると、我が国に長居するとは思えない。それならば、殺してしまった方が良いぞ。もしも姜紀が後秦へ行けば、後々の患いとなってしまう。」
 すると、辱檀は言った。
「臣は、布衣の交わりで姜紀と接しているのです。姜紀は、私を裏切りません。」
 八月、姜紀は数十騎を率いて後秦軍へ逃げ込み、碩徳へ説いた。
「呂隆軍は孤立無援。明公が大軍で臨む以上、必ずや降伏しましょう。ですが、奴のことです。文書で上辺だけ降伏しても、服従は致しますまい。ですから、私に三千の兵力をお貸しいただけませんか。王松忽と共に逗留すれば、焦朗、華純等が呼応してくれます。それで敵の隙を窺えば、呂隆を滅ぼすなど、訳はありません。
 もしもそうしなければ、禿髪がこれを併呑するでしょう。禿髪の兵は強く、国は富んでいます。その上姑藏まで領有すれば、威勢はますます盛んとなり、蒙遜も李ロも対抗できずに、その傘下へ帰順することとなります。そうなれば、この国の大敵ができてしまいますぞ。」
 そこで、碩徳は、姜紀を武威太守とするよう上表し、二千の兵を与えて晏然に據らせた。
 後秦王姚興は、楊桓が賢人であると聞きつけ、これを求めた。利鹿孤は、彼を姚興へ差し出した。

 碩徳の姑藏包囲は数ヶ月に及んだ。城中の人々のうち、東方出身の人間は、造反を考え始めた。魏益多は、これらの人間を煽動し、後涼王隆と呂超を殺そうと考えた。だが、この計画は暴露され、魏益多はじめ、三百人余りが処刑された。
 碩徳は周囲の投降者へ対して統治者を置き、兵糧を徴収する等、持久戦の構えを執った。
 後涼の群臣は、後秦との講和を請うたが、呂隆は許さなかった。すると、呂超が言った。
「今、城内の資財は枯渇しており、上下に不満が鬱積しております。張良・陳平と雖も、手の打ちようがありますまい。どうか陛下、ここは身を屈められて下さい。ただ、言葉を卑しくするだけでも、それで敵を追い返せます!敵が帰ったならば、徳政を修め、民を休め、再び国力を復興させることもできますぞ!」
 呂隆はこれに従い、九月、後秦へ使者を派遣して、降伏を請うた。
 碩徳は、呂隆を「鎮西大将軍、涼州刺史、建康公」とするよう上表した。又、呂隆の子弟や慕容筑・楊穎といった文武の旧臣五十余家を人質として長安へ連れて行った。
 碩徳の軍隊は、軍令が厳整としており、秋毫の略奪も行わず、先賢を祭り名士を礼遇したので、西土の人々は大いに悦んだ。

 

南涼の進攻

 十二月、呂超は姜紀を攻撃して勝てなかった。そこで、焦朗を攻撃した。焦朗は、甥の嵩を人質として利鹿孤のもとへ派遣して、迎えに来てくれるよう求めた。そこで、利鹿孤は辱檀をこれへ赴かせた。
 だが、辱檀が到着した時には、既に呂超軍は退却しており、焦朗は城門を閉じて、辱檀軍の入城を拒んだ。辱檀は怒り、これを攻撃しようとしたが、倶延は言った。
「人々が、故郷を守るのは、当然の想いです。又、焦朗は孤立しており、兵糧も少ない。今回は持ちこたえましたが、いずれは降伏してきます。今、無理して攻撃すれば、大勢の兵卒を殺すことになりますし、それで勝てなければ、奴等はもう、我々には降伏してこなくなります。それでは、他の国を太らせることになるではありませんか。今回は、善言で諭し、我等への好意を厚くさせておきましょう。」
 そこで、辱檀は、焦朗と盟約を結んだ。そして、そのまま姑藏へ向かって進軍し、胡抗まで進んだ。
 辱檀は、やがて呂超が攻撃してくると察知し、火を蓄えて待ち受けた。果たして、夜半、呂超は、中塁将軍王集に二千の兵を与えて、辱檀の陣を攻撃させた。しかし、辱檀は、兵卒を動かさなかった。
 王集が塁の中へ侵入すると、辱檀は内外に火をつけさせた。四方はたちまち、まるで昼間のように照らし出された。そうしておいて、辱檀の兵は総攻撃を掛け、王集及び甲首三百余級を挙げた。
 呂隆は懼れ、偽って修好しようと持ちかけ、苑内で盟約を結ぶことを請うた。そこで、辱檀は、倶延を派遣した。倶延は伏兵を考慮し、苑の姫がきを破って入った。すると、呂超の伏兵が一度に攻撃したので、倶延は馬を失い、走って逃げた。浚江将軍の郭祖が力戦したので、倶延はどうにか逃げ延びた。
 辱檀は怒り、後涼の昌松太守孟緯を攻撃した。呂隆は五百騎の救援隊を派遣したが、彼等は辱檀軍の強さに懼れ、逃げ帰った。
 元興元年(402年)、正月。辱檀は、城を落とし、孟緯を捕らえると、降伏が遅かったことを責めた。すると、孟緯は言った。
「私は、呂氏の恩を受け、この地方の統治を任されておりました。それが、明公の大軍を見ただけで忽ち降伏したのでは、却って罪を糾弾されてしまいましょう。」
 それを聞いて、辱檀は孟緯を赦し、礼遇した。昌松の二千余戸を強制連行して帰国し、孟緯は左司馬に任命した。しかし、孟緯はこれを辞退して言った。
「いずれ呂氏は滅亡し、聖朝は必ず河右を奪取するでしょう。知恵者どころか愚か者まで、皆、これを知っております。ただ、私は城を任せられながら、守り通すことができませんでした。その上、一人だけ出世するのでは、私の心が安まりません。それより、もしも明公が情けを掛けて下さるのでしたら、私を帰国させて下さい。姑藏にて討ち死にすれば、私の一生も全うできます。」
 辱檀は、その義心に感じ入り、孟緯を帰国させた。

 

後涼の凋落

 姑藏で飢饉が起こり、米一斗が銭五千にまで高騰した。人々は互いに共食いし、十余万人が餓死した。昼間は城門を閉じるので、樵達も外へは出られない。胡虜の奴隷となる為に城外へ出たいと請願する民が、毎日数百人も出た。呂隆は、彼等が人心を阻喪させると考え、憎しみの余り彼等を悉く処刑し、その屍で通路を塞いだ。
 沮沐蒙遜が、兵を率いて姑藏を攻撃した。呂隆は、利鹿孤へ使者を派遣し、救援を求めた。そこで、利鹿孤は辱檀へ一万の兵を与えて派遣した。だが、この援軍が到着する前に、呂隆は蒙遜軍を撃退した。蒙遜は、呂隆と盟約を結ぶと、万余斗の穀物を贈り、帰国した。
 辱檀は、昌松まで来て、蒙遜の退却を知った。そこで、涼澤段塚の民五百余戸を引き立てて、帰国した。
 南涼の中散騎常侍張融が、利鹿孤へ言った。
「魏安に據った焦朗兄弟は、密かに姚氏と通じており、屡々反復を繰り返しております。今、これを奪取しなければ、後々はびこってしまいますぞ。」
 そこで、利鹿孤は辱檀を派遣して、これを討伐した。
 焦朗は、自身を縛り上げて降伏してきた。辱檀はこれを西平へ送り、その民は楽都へ移住させた。
 十月、南涼王辱檀が、姑藏を攻撃した。

 

後涼の滅亡

 二年、七月。辱檀と蒙遜が、互いに出兵して呂隆を攻撃し、呂隆はこれを患っていた。 これを知った後秦の謀臣が、姚興へ言った。
「呂隆は、先祖の領土を受け継ぎ、河外にて自立しております。今、飢饉に苦しんでこそいますが、なんとか持ちこたえるでしょう。それでもし、将来豊作になれば、いずれは我々の患いとなります。涼州は他の土地から隔絶され、地味は豊堯。この危機に付け込んで奪取するべきです。」
 そこで、姚興は後涼へ使者を派遣し、呂超へ入朝を求めた。
 呂隆は、国の滅亡を悟り、後秦へ降伏しようと、迎えの使者を派遣するよう請うた。姚興は尚書左僕射の斉難、鎮西将軍姚詰、左賢王乞伏乾帰等へ四万の兵を与え、河西まで呂隆を迎えに行かせた。
 南涼王辱檀は、昌松・魏安の二城に籠もり、この軍をやり過ごした。
 八月、後秦の斉難等が姑藏へ到着した。呂隆は、道まで出迎えた。
 この時、呂隆は、蒙遜を攻撃するよう斉難へ勧めた。蒙遜は、藏莫孩に迎撃させ、後秦軍の前軍を撃破した。そこで、斉難は、蒙遜と盟約を結んだ。蒙遜は、弟の拏を派遣して、後秦へ入貢した。
 斉難は、司馬の王尚を涼州刺史に任命し、三千の兵を与えて、姑藏を鎮守させた。又、将軍の閻松を倉松太守、郭将を番禾太守に任命した。呂隆の宗族や僚属、後涼の民万戸を長安へ連行した。
 姚興は、呂隆を散騎常侍、呂超を安定太守とし、その他の官吏達も、それぞれ才覚に従って官職を与えた。

 話は遡るが、郭暦は、常々予言していた。
「呂に取って代わるのは王だ。」
 それで、彼は起兵する時、まず王詳を推戴し、次いで王乞基を推戴したのである。結局、王尚が統治することとなった。
 ところで、郭暦は、乞伏乾帰と共に後秦へ帰順していたが、やがて、「秦は晋に滅ぼされる。」と言い、東晋へ亡命しようとした。だが、後秦の兵卒がこれを追いかけ、殺した。