朝鮮   4.高麗滅亡
 
 乾封元年(666)高麗の泉蓋蘇文が卒した。長男の男生が代わって莫離支となり、初めて国政を執る。諸城を巡回し、弟の男建と男産を留めて後事を委ねた。
 ある者が二弟へ言った。
「男生は二弟の権威が自分に迫るのを憎み、これを除こうとしています。先手を打つべきです。」
 二弟は最初は信じなかった。
 又、ある者が男生へ言った。
「二弟は兄が帰ってきたら権を奪われるのではないかと恐れ、兄を拒んで納れるまいと欲しています。」
 男生は親しい者を密かに平壌へ派遣して様子を伺わせた。二弟はこれを捕らえて疑われていることを知り、王命で男生を召した。男生は懼れ、敢えて帰らない。男建は自ら莫離支となって兵を発しこれを討った。男生は別城へ逃げてこれを保ち、その子の献誠を闕へ派遣して救援を求めた。
 六月、壬寅、右驍衞大将軍契必何力を遼東道安撫大使として、兵を率いてこれを救援させる。献誠を右武衞将軍として、道案内とした。又、右金吾衞将軍龍(「广/龍」)同善、営州都督高侃を行軍総管として、同じく高麗を討つ。
 九月、龍同善が高麗軍を大いに破った。この戦いで、泉男生は衆を率いて同善と合流していた。男生を特進、遼東大都督、兼平壌道安撫大使として玄莵郡公へ封じた。
 十二月己酉。李勣を遼東道行軍大総管とし、司列少常伯の安陸の赤(「赤/里」)處俊を副官として、高麗を撃たせた。
 龍同善、契必何力は共に従来通り遼東道行軍副総管兼安撫大使のままである。その水陸諸軍総管並びに運糧使竇義積、獨孤卿雲、郭待封等は、共に勣の指揮下へ入る。河北諸州の租賦は全て遼東へ運んで軍用とした。待封は孝恪の子息である。
 さて、京兆の杜懐恭は、李勣の婿である。今回の戦役で、李勣は懐恭へ勲功を立てさせようと、同行を求めたが、懐恭は貧乏だからと断った。そこで勣が財産を与えると、今度は馬がないと断った。勣が馬も与えると、もはや口実が無くなったので、懐恭は岐陽山中へ逃げ込み、人づてに言った。
「公は、我を法へ触れさせるつもりか!」
 勣はこれを聞くと、涙を零して言った。
「杜郎は疏放な人間だ。あるいはそうなるかもしれない。」
 とど、諦めた。 

 二年九月辛未、李勣が高麗の新城を抜き、契必何力へ守らせた。
 李勣は、遼水を渡った時、諸将へ言った。
「新城は高麗西辺の要害だ。まずこれを取らなければ、他の城は容易には取れないぞ。」
 遂にこれを攻めた。すると、城人の師夫仇等が城主を縛り、城門を開いて降伏した。李勣が兵を率いて進撃すると、十六の城が皆、下った。
 龍同善、高侃はなお新城に居た。泉男建が派兵してその陣営を襲撃したが、左武衞将軍薛仁貴がこれを撃破した。
 侃は金城まで進軍して高麗と戦った。戦況不利で逃げると、高麗軍は勝ちに乗じて追撃した。すると、仁貴が兵を率いて横合いから攻撃し、大いにこれを破る。五万余級を斬首した。
 更に南蘇、木底、蒼巖の三城を抜き、泉男生と合流した。
 郭待封は水軍を率いて別道から平壌へ赴いた。勣は別将馮師本へ武器兵糧を与えて派遣し、これを助けた。だが、師本の船は難破し、期限に間に合わなかった。待封の軍中は飢えた。そこでその実状を報告書にして勣へ渡そうとしたが、その使者が捕らえられたら軍中の実状が的に筒抜けになってしまうので、暗号の詩を作って勣へ渡すことにした。詩を受け取った勣は怒って言った。
「戦争は急を告げているのに、詩なんかつくっているのか!斬ってしまえ!」
 だが、行軍管記通事舎人の元萬頃がその暗号を解き明かしたので、勣は更に武器兵糧を送った。
 萬頃は檄高麗文を作ったが、その中に次の一節があった。
「敵は鴨緑津の険を守ることも知らないような戦下手だ。」
 これを読んで泉男建は言った。
「ご忠告、謹んで承った!」
 そして、兵を移して鴨緑津を占拠したので、唐軍は川を渡れなくなった。
 上はこれを聞いて、萬頃を嶺南へ流した。
 赤處俊が高麗城下にて、まだ陣立てもしないうちに高麗軍の襲撃を受けた。軍中は大騒動となる。この時、處俊は胡床にて食事を摂ろうとしていたが、精鋭を率いてこれを撃退した。将士は、その胆略に敬服した。
 総章元年(668)正月壬子、右相劉仁軌を遼東道副大総管とする。 

 金山にて高麗を破った薛仁貴は、勝ちに乗じて、三千人を率いて扶餘城を攻撃しようとした。諸将は兵力が少なすぎるのでこれを止めたが、仁貴は言った。
「兵は数ではない。用い方次第だ。」
 遂に前鋒となって進軍し、高麗と戦ってこれを大いに破り万余人を殺獲した。二月壬午、李勣等は遂に扶餘城を抜いた。すると、扶餘城川中の四十余城が風に靡くように降伏を請うた。
 侍御史の洛陽の賈言忠が使者として遼東へ行き、帰ってくると、上は軍事を問うた。すると、言忠は答えた。
「高麗は必ず平定されます。」
 上は言った。
「卿はどうしてそう言い切れるのだ?」
「隋の煬帝が東征して勝てなかったのは、人心が怨離していたせいです。先帝が東征して勝てなかったのは、高麗に隙がなかったからです。今、高麗は微弱で権臣が専断しています。蓋蘇文は死に、男建兄弟は内で互いに攻撃しあい、男生は翻心して我が国へ帰順し、道案内まで買って出ています。彼の性根など、これで知れたもの。陛下は明聖、国家は富強、そして将士は力を尽くし、これを以て高麗の乱へ乗じるのです。その勢いは必勝。再挙など待つまでもありません。その上、高麗は連年の飢饉で妖異は屡々降り、人心は危駭しています。その滅亡は目前です。」
「遼東の諸将では、誰が賢者かな?」
「薛仁貴の勇は参軍に冠たるもの。龍同善は善く戦うとは言えませんが、軍を厳整に維持します。高侃は勤勉節約で、忠にして謀略があります。契必何力は沈毅で決断力があり、艱難があっても部下を統率してのけます。しかし、夙夜用心して身を忘れてまで国を憂える点では、誰も李勣に及びません。」
 上は、その言葉に深く得心した。
 泉男建が扶餘城救援のため、再び五万人を派兵した。これは、薛賀水にて李勣等と遭遇した。李勣は合戦して大いにこれを破り、三万人を殺獲する。そのまま大行城へ進軍し、これを抜いた。
 その後、他道から進軍していた諸軍も全て勣と合流して、鴨緑柵まで進軍した。高麗は兵を発して拒戦したが、勣等は奮撃して大勝利を収めた。二百余里追撃して辱夷城を抜く。すると、諸城へ逃げ込んでいた者が相継いで降伏してきた。
 契必何力が先頭に立って平壌城下へ進軍した。勣の軍が後続となる。
 平壌を包囲すること一ヶ月余り。高麗王藏は、泉男産へ首領九十八人を率いさせて派遣した。彼等は白旗を持って勣の陣営を詣で、降伏した。勣は、これを礼遇する。
 泉男建はなお門を閉じて拒守し、頻繁に兵を出して戦ったが、全て敗北した。
 男建は軍事を僧信誠へ委ねていたが、信誠は密かに勣のもとへ人を派遣し内応を請うた。
 五日後、信誠は門を開いた。勣は兵を突撃させた。九月、癸巳、士卒は城へ登って軍鼓を打ち鳴らし、城の四隅を焼き、平壌を抜いた。(「四月」は「四角」の誤りと言われています)。男建は自刃したが死ねずにいたところを捕らえた。
 こうして、高麗は悉く平定した。
 ちなみに卑列道行軍総管、右威衞将軍劉仁願は、高麗征伐時に逗留していて進軍しなかったとして罪に問われ、八月辛酉。姚州へ流された。 

 凱旋した李勣軍が京師へ近づくと、上は、入京に先だって高蔵を昭陵へ献じるよう命じた。そして軍容を整然とさせ、凱歌を挙げて京師へ入り、太廟へ献じた。
 十二月丁巳。上は含元殿にて捕虜を受け取る。
 高蔵は政治の実権がなかったので赦し、司平太常伯、員外同正とした。泉男産を司宰少卿、僧信誠を銀青光禄大夫、泉男生を右衞大将軍とした。李勣以下、それぞれ功績に応じて封賞する。泉男建は黔中へ、扶餘豊は嶺南へ流刑となった。
 高麗は百七十六城、六十九万余戸。これを五部に分け九都督府、四十二州、百県と為し、平壌に安東都護府を設置してこれを統御させた。功績のあった酋帥は都督、刺史、県令に抜擢し、華人と共に政治に参加させた。右威衞大将軍薛仁貴を検校安東都護として、二万の軍兵を与えて鎮撫させた。
 丁卯、上が南郊で祀り、高麗が平定したことを告げた。李勣を亜献とする。
 己巳、太廟に謁した。 

 高麗の民に離反する者が大勢いた。二年五月、敕が降りて、高麗の戸三万八千二百を江、淮の南や山南、京西諸州の人口の少ないところへ移住させた。ただ、貧しい者、弱い者は留めて、安東を守らせた。 

 咸亨元年(670)四月、高麗の酋長剣牟岑が造反した。高藏の外孫安舜を立てて主とする。左監門大将軍高侃を東州道行軍総管として、派兵してこれを討伐させる。
 安舜は剣牟岑を殺して新羅へ亡命した。 

 二年七月乙未朔。高侃が安市城にて高麗の残党を破った。
 十二月、高侃が白水山にて高麗の残党と戦い、これを破る。新羅が派兵して高麗を救援したが、侃はこれを迎撃して破った。 

 四年閏五月、燕山道総管、右領軍大将軍李謹行が瓠盧(「草/盧」)河の西にて、高麗の造反者を大いに破る。数千人を捕獲し、その他は皆新羅へ逃げた。
 この時、謹行は妻の劉氏を伐奴城へ留めていた。高麗は靺鞨を率いてこれを攻撃したが、劉氏は武装し、衆を率いて城を守った。しばらくして、虜は撤退した。上はその功を嘉し、燕国夫人に封じた。
 謹行は、靺鞨人突地稽の子息である。武力は群を抜いており、衆夷から憚られていた。 

 上元元年(674)正月壬午。左庶子、同中書門下三品劉仁軌を鶏林道大総管とし、衞尉卿李弼、右領軍大将軍李謹行を副官として、兵を発して新羅を討伐させた。
 この頃、新羅王法敏は既に高麗の叛衆を受け入れており、また、百済の旧領を占拠して臣下に守らせていた。上は大いに怒り、詔して法敏の官爵を削った。その弟の右驍衞員外大将軍、臨海郡公仁問が京師にいたので、これを新羅王に立てて帰国させた。 

 二年二月、劉仁軌が七重城にて新羅軍を大いに破った。又、靺鞨へ海路から新羅の南境を攻略させ、大勢の敵兵を斬獲した。
 仁軌は兵を率いて還った。
 李謹行を安東鎮撫大使として新羅の買肖城へ逗留させ、これを経略するよう詔が降りる。謹行は三戦して全勝した。
 新羅は使者を派遣して入貢し、かつ、謝罪する。上はこれを赦し、新羅王法敏の官爵を復旧する。金仁問は中途から還った。臨海郡公に改封される。 

 劉仁軌が兵を率いて熊津から還った時、扶餘隆を残してきたが、扶餘隆は新羅が迫ってくるのを畏れ、敢えて留まらずに、やがて朝廷へ戻った。
 儀鳳二年(677)二月、丁已工部尚書高藏を遼東州都督として朝鮮王に封じた。そして、遼東へ帰らせ、高麗の残党を集めさせた。滅亡以前に諸州に移住させられていた高麗人も、皆、藏と共に帰国させる。
 又、司農卿扶餘隆は熊津都督として帯方王に封じた。百済の残党を集めて故郷へ帰らせ、安東都護府を新城へ移して彼等を統治した。この頃、百済は荒れ果てていたので、隆は高麗との国境付近へ居を構えるよう命じた。
 藏は遼東へ到着すると造反を謀り、密かに靺鞨と通じた。そこで朝廷は、彼を召還した。藏は工(「工/里」)州で死んだ。彼の民は河南や隴右の諸州へ散らしたが、貧しい者は安東城の近くへ留めた。高麗の旧城は新羅に奪われ、その他の人々は靺鞨や突厥へ逃げ込んだ。
 隆もまた、敢えて故郷へ戻らず、こうして高氏と扶餘氏は滅亡した。 

 三年、九月。上が新羅討伐軍を起こそうとした。この時、侍中の張文灌が病気になって自宅に伏せったので、上が輿に乗って見舞いに行くと、文灌は諫めた。
「今、吐蕃が寇を為しています。兵を発して西討するべきです。新羅は不順とはいえ、まだ国境を侵したわけではありません。もし東征も行いますと、公私共にその負担に耐えられないのではないかと懼れます。」
 そこで上は、東討を中止した。
 癸亥、文灌が卒した。 

 開輝元年(681)十一月丁亥、新羅王法敏が卒した。使者を派遣して、その子息の政明を立てさせた。

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