諸葛孔明、蜀を滅ぼす

 

 焼け野が原に雑草が芽吹けば、たちまちにしてはびこり、旬日を過ぎぬ間に寸土も余さず覆い尽くす。その逞しさに人々は感嘆し、時に不撓不屈の人間を見れば、これを指して「雑草のようだ。」と褒めるのである。
 その逞しさは、良しとしておこう。勿論、嘉するべきでもある。だが、ここで一つ尋ねたい。その雑草達は、それからどうなるのか?

 そもそも雑草とゆうものは、大地に深く根を張ることがない。根を張る為の活力を節約し、その分葉や茎を成長させるのだから、蔓延ることの早さも当然である。
 しかし、もしも強い植物がしっかりと根付いてしまったらどうなるだろうか?
 根の浅い雑草は土壌の深い所から養分を取ることができない。彼等は相変わらず表面近くの養分のみを互いに奪い合うに過ぎないのだ。これでは深く根を張った植物に勝てるわけが無く、次第次第に駆逐されて行く。
 こうして一年もすれば、もはや最初に生えた雑草達は跡形もなくなり、五年過ぎ十年を経れば灌木が顔を出し、百年の後には、大地にしっかりと根を下ろした大木が屹然とそそり立つ。

 焼け跡に芽吹いた雑草は、たちまちにして蔓延るが、漸次駆逐されて行く。それは彼等が根本をしっかりと固めないせいである。
 だからこそ、儒教ではその大本を治める。
 大学に曰く、「天下を平定したければ、まず国を治めよ。国を治めたければ、まず家を整えよ。家を整えたければ、まず身を修めよ。」と。

 さて、世の中には成功者は多い。彼等にこの言葉を聞かせれば、頷く者もいるが、その迂遠さを嘲る者もいる。
「成功する為には、機を見るに敏、判断に誤り無く、時に臨みて果断に行う。その能力が全てであり、修身だの道徳だのお呼びではない。」と。
嗚呼、彼等の能力は、確かに認めよう。しかし、大本を治めないのでは、彼等の成功も雑草と同じ。例え一時の強勢が人目を驚かせようとも、たちまちにして没落してしまうに違いない。

 昔日、蜀の諸葛孔明は、聡明にして果断。国を治めて過ち無く、よく人心を掴んだ。ここにおいて蜀の国は富み栄え、その兵は強く、区々たる蜀を以て、大国の魏まで脅かすに至った。しかし、孔明亡き後、愚昧なる後主が残り、蜀は大風の前の灯のように、魏によってあっさりと滅ぼされてしまった。これは孔明が家を整えず、後継者を育てなかった咎である。

 ある人は言う。
「勝敗は時の運。確かに失敗はしたけれども、結果だけを見て人を非難してはいけない。孔明が、あるいは勝ちに乗じて魏を滅ぼせば、蜀は安泰だったのだ。
魏は大国であり、賢人猛将はキラ星のように揃っていた。それでいて互角の戦いをしたのだし、あわよくば、魏を滅ぼすこともできた。僅かに力及ばなかったとはいえ、人に優れた能力で、誠心主君に仕え、命尽きる時まで努力を惜しまなかったではないか。非難するには当たらない。」

 とんでも無い。その言い分は根本的に間違っている。
 例えば、運良く魏を滅ぼせたとしよう。いや、百歩譲って呉まで滅ぼし、蜀が天下を平定したとしても、それが何になったとゆうのだ?どちらにしても孔明亡き後は愚昧なる後主が統治するのだ。例え中国全土を支配していたとしても、蜀は必ず滅んでしまった。
 試みに見よ、始皇帝亡き後二世皇帝が残された秦と、文帝亡き後煬帝が残った随と。例え中国全土を支配して強勢を誇っても、二世皇帝や煬帝が統治したのだ。秦や随が滅びなかったとしたら、そのほうが奇跡である。蜀のみどうしてそうではないと言うのか?

 蜀の後主は、後に虜囚となって魏で暮らしたが、その生活を楽しんだとゆう。これでは蜀を守る為に命を的に戦った兵士達が浮かばれない。それは確かに唾棄するべきだが、しかし、少なくとも寡欲だとは言える。これは帝王として大切な徳の一つである。それに、彼はお人好しと呼ばれるほどの善人だった。暴君にはなるまい。その長じたる所を延ばし、補弼に良く人を選び、事に於いて善導すれば、後主が暗愚とは言っても、蜀を滅ぼすには至らなかっただろう。
 しかし、孔明は次の世代を顧みず、ただひたすら魏と戦った。そして、彼が都を留守にしている間に、後主は奸悪なる側近達に籠絡されてしまった。蜀が滅ぶ運命は、この時に決まったのだ。
宰相として後を任されながら後顧の憂いを顧みず、その故に国を滅ぼした。蜀を滅ぼしたのが諸葛孔明ではないとするならば、一体誰のせいだと言うのか?
 国家百年の計を見るならば、孔明は家を整えなければならなかった。にもかかわらず、これを無視して一足飛びに国を治め、次いで天下の平定を狙った。これこそ蜀が滅亡した原因であり、大本を治めなかった罪である。

 そもそも、家を整えるためには身を修めなければならない。人格の劣った人間が、子供や後継者をどうして教育できるだろうか?孔明は高邁なる人格の持ち主で、「身を修めた」と言えよう。だから、彼が本気になったなら、後継者を育てることも、後主を善導することも、不可能ではなかっただろう。言ってみるならば、彼はまず身を修め、継いで家を整えなければならないところを、一足飛びに国を治めたので、失敗したのである。
 彼の終生の努力は、全くの徒労だった。例え成功したとしても、何の役にも立たなかったに違いないのだから。順序通りに家を整えたなら、例え半分しか励まなくとも、蜀は百年の安泰を得ただろう。彼の誠心と渇力を思えば、胸を痛めずにはいられない。嗚呼、聖人の嘉言、背くべからず。

 西晋の成帝の三年。クーデターを起こした蘇崚が首都を陥とし、成帝は逃げ出した。この苦難の逃亡生活の最中にあって、劉超は、成帝に「孝経」と「論語」を講義していたと言う。
 人は皆、その泥縄と言うにも甚だしい迂遠さを笑う。しかし、これこそが儒学者の真面目。もともと儒教とは、そうゆう学問なのだ。