高開道
 
 河間の賊帥格謙が、十万の大軍で豆子鹵に據り、燕王と自称した。大業十二年(616年)十二月、王世充が煬帝の命令を受けて討伐に出向き、これを斬った。
 格謙が滅ぶと、部下の高開道が残党百人余りと共に海上へ逃げた。滄州などで略奪を繰り返すうち、次第に兵力も増えたので、北へ向かった。臨渝から懐遠まで、全て撃破する。更に兵を率いて北平を包囲した。しかし、隋の右武衞大将軍李景が北平を守っており、一年余りも落ちなかった。
 遼西太守トウ嵩が兵を率いて駆けつけ、李景を救出した。李景は手勢を率いて柳城へ移ったが、後、幽州へ帰ろうとして、その途中、盗賊達に殺された。
 高開道は、空き家になった北平を占拠した。次いで、漁陽郡を進攻して落とす。この時、彼は軍馬数千匹、兵卒一万を擁していた。ここにおいて燕王と自称し、始興と改元する。
 懐戎県令が斎を設けたので、大勢の民が集まった。すると、沙門の高曇晟が僧五千人を擁し、集まった民衆を扇動して造反した。県令と鎮将を殺し、大乗皇帝と自称して、尼の静宣を邪輸皇后に立て、法輪と改元する。そして、高開道へ使者を派遣して招き、斉王とした。
 高開道は、五千人の手勢を率いて彼の元へ駆けつけて帰順したが、数ヶ月後、高曇晟を殺して、その民を全て奪った。
 三月、唐の営州総管トウ嵩が、高開道を攻撃して、破った。 

 武徳三年(620年)十月、竇建徳が幽州を包囲したので、李藝は高開道へ急を告げた。開道が二千騎を率いて救援に来たので、竇建徳は退却した。高開道は、李藝のつてで、長安へ使者を派遣して唐へ来降した。戊申、開道を蔚州総管とし、李氏の姓を賜下し、北平郡王に封じた。
 開道の頬に、鏃が刺さっていた。医者を召し出したところ、医者は言った。
「鏃は深く刺さっており、摘出できません。」
 開道は怒り、その医者を斬った。別の医者を召したところ、彼は言った。
「これを出すと、とても痛いですぞ。」
 開道はこれも斬り、更に別の医者を召した。彼は言った。
「取り出せます。」
 そして、骨を穿ち、くさびをその間に置いた。骨は一寸余りも裂けたが、遂に、鏃は摘出された。開道は、妓女へ演奏させ、膳を勧めた。 

 四年十一月。幽州が大飢饉だった。高開道は民の救済の為、粟を配給した。李藝が老弱を開道のもとへ派遣して食べ物を求めさせると、開道は彼等を皆、手厚く遇した。
 李藝は喜んだ。ここにおいて李藝は三千人の民を徴発し、車数百乗と驢馬千余匹と共に開道のもとへ派遣して、粟を求めた。すると開道は、これらを全て抑留し、李藝へ絶縁状を叩きつけて、再び燕王を称した。
 開道は、まず北は突厥と、南は劉黒闥と同盟を結んだ。そして兵を率いて易州を攻撃したが勝てなかったので、大いに略奪して去った。また、その将謝稜を李藝の元へ派遣して、降伏と偽って援軍を請うた。藝がこれに応じて出兵する。藝軍が懐戎まで来ると、稜はこれを撃破した。
 開道は突厥と連合して屡々入寇した。恒、定、幽、易州が被害を被った。
 五年、三月。高開道が易州へ来寇した。刺史の慕容孝幹を殺す。
 六年、正月、唐が劉黒闥を滅ぼした。
 三月、癸未、高開道が文安、魯城を掠めた。驃騎将軍平善政がこれを攻撃して破った。
 五月、癸卯、高開道が奚の騎兵を率いて幽州へ来寇した。長史の王先(「言/先」)が、これを撃破する。
 劉黒闥が造反した時、突地稽は兵を率いて唐を助け、その部落を幽州の昌平城へ移住させた。高開道が突厥を率いて幽州へ来寇すると、突地稽は兵を率いてこれを撃破した。
  七月、高開道が赤岸鎮及び霊寿、九門、行唐の三県を掠めて去った。
  同月辛巳、高開道麾下の弘陽と統漢の二鎮が、来降した。
  八月、高開道が奚を率いて幽州へ侵略したが、州兵がこれを撃退した。
  九月、壬寅。高開道が突厥二万騎を率いて幽州へ来寇した。 

  七年、二月、己未。高開道の将張金樹が、開道を殺して来降した。その経緯は、以下の通り。
 開道は、天下が平定されたのを見て降伏したかったのだが、何度も反覆している事を思い、突厥の後ろ盾を恃んで遂に降伏しなかった。だが、彼の将卒は皆山東の人間で、郷里を想い、心が離れていった。
 開道は、勇敢の士数百人を選んでこれを仮子と称して常に直閣内に置き、金樹に指揮させていた。劉黒闥の将だった張君立が開道の所へ亡命してくると、彼は開道を謀ろうと、密かに金樹と手を結んだ。
 金樹は、仲間数人を閣内へ入れて仮子達と遊ばせたが、夕方頃、密かに弓の弦を切らせた。刀や槊は、ベットの下に隠させて、宵闇に紛れて持ち出させた。その後、金樹は一党を率いて大声で喚きながら開道の閣を攻撃した。仮子は拒もうとしたが、弓は弦が断たれていたし、刀や槊は見あたらないので、争って降伏してきた。更に君立が外で篝火を挙げて呼応したので、内外は恐慌を来した。
 開道は逃げられないことを知り、武装して堂上へ座り、妻妾と音楽を奏でて酒を飲んだ。衆人は、彼の武勇を憚って、敢えて近づかない。夜が明ける頃、開道は縊れた。妻妾や諸子も自殺する。
 金樹は兵を整列させ、仮子を全員捕まえて、斬った。ついでに君立も殺す。五百余人が殺された。そうして唐へ使者を派遣して、来降する。その地を為(「女/為」)州とすると詔が降りた。
 壬戌、金樹を北燕州総管とした。 

  

  

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