高肇専横   佞臣相争う
 
咸陽王失脚 

 魏の咸陽王禧は、上相となったが、政務に親しまず、驕慢豪奢で貪欲淫乱、法に触れることも平気で行ったので、宣武帝は彼を憎んだ。
 咸陽王禧は、自分が外を歩く時に武装兵を侍らせたいと考え、領軍将軍于烈のもとへ奴隷を派遣し、羽林虎賁から兵卒を回すよう要請した。すると、于烈は言った。
「天子がまだ幼く、天下のことは全て宰輔が切り盛りしています。しかし、領軍はただ宿衛を守ることだけがその職務なのです。詔が降りない限り、理を無視して私事に従うわけにはゆきません。」
 奴隷はがっかりして、その旨を咸陽王へ復命した。すると、咸陽王は再び于烈のもとへ使者を派遣して言った。
「我は天子の叔父で、身分は元輔。それが求めるのだから、詔とどこが違うか!」
 于烈は色をなして言い返した。
「私も、王が貴い事は知っている。だが、奴隷を寄越して天子の衛兵を奪うとゆう法がどこにあるか!喩え咸陽王の頭を奪うことができたとしても、天子の衛兵を奪うことなどできないぞ!」
 咸陽王は怒り、于烈を恒州刺史とした。于烈は地方へ出ることを好まず、固辞したけれども許されない。遂に、彼は病気と称して出仕しなくなった。
 于烈の子息の左中郎将于忠は、常に宣武帝の傍らに侍っていた。そこで于烈は、于忠を通して宣武帝へ言った。
「諸王の専横放埒は、将来何を生み出すか測りかねます。早めに彼等を排斥して、権綱をご自分で掌握なさって下さい。」
 北海王詳も、密かに咸陽王の悪行を宣武帝へ告げ、かつ、彭城王(「/思」) が人望を得ているので、長い間輔政に置くのは良くないと忠告した。宣武帝は、同意した。
 中興元年(501年)、正月。宗廟の春の祀りの為、王公が廟の東坊へ勢揃いしていた。その夜半、宣武帝は、于忠を于烈のもとへ派遣して、言った。
「明日の早朝、断固として行う。」
 翌明朝、于烈は宣武帝のもとへやって来た。宣武帝は、直閣の兵卒六十余人を于烈に指揮させ、咸陽王、彭城王、北海王の三人を自分の所へ衛送させた。
 咸陽王が光極殿へ来ると、宣武帝は言った。
「恪(宣武帝の本名)は年少の身の上で、即位させていただきました。病弱なこともあって、諸叔父に後見していただき、そのおかげを以て、どうにか三年が経ちました。今までご苦労を賭けましたが、これからは百揆を自ら執り行おうと思います。ですから叔父上は、これからは府司へ還り、ゆっくりと余生をお楽しみ下さい。」
 又、彭城王へ言った。
「叔父上は、北は中山を鎮守し、南は寿陽を奪取し、八面六臂のご活躍。骨休みする暇とて無かったことでしょう。恪の不甲斐なさのせいで、長い間先帝の遺敕に背き続けて参りました。しかし、今からは、叔父上に高蹈の想いを遂げていただこうと考えております。」
 すると、彭城王は感謝して言った。
「陛下が孝恭にも先帝の詔を遵守していただけますなら、陛下には聡明の美を成し遂げることができますし、臣は日頃の志を完遂できます。この有り難い仰せに、悲喜こもごもでございます。」
 庚戌、彭城王を第へ帰らせた。咸陽王は、太保としてその位を高くしたが、実権を奪った。北海王は大将軍、録尚書事となった。于烈は領軍に復帰したのみならず、車騎大将軍が加えられた。以後、禁中に常勤し、軍国の大事には全て参与するようになる。
 丁巳、宣武帝は大極前殿に群臣を集め、これからは親政を行うことを宣言した。
 この時、宣武帝は十六才。自分で全ての決裁はできないので、政務を左右へ委ねた。ここにおいて、倖臣の茹皓、王仲興、寇猛、趙修、趙邑、そして外戚の高肇等が権力を握り、魏の政治は次第に衰退して行く。
 なかんずく、趙修は親幸され、旬月のうちに光禄卿まで出世した。彼の官位が上がる度に、宣武帝自ら彼の邸宅へ出向いて宴会を開き、王公百官も、これに出席した。 

  

咸陽王の乱 

 宣武帝が親政を始めてから、嬖倖達が権力を握り、王公も彼等へ媚びへつらうようになった。それを見て、咸陽王禧は、不安になってきた。
 斉帥の劉小苟は、屡々、咸陽王禧へ言った。
「陛下は、卿を誅殺したいと、左右へ洩らしておりますぞ。」
 禧は益々恐れた。
 四月、咸陽王禧は、王妃の兄の給事黄門侍郎李伯尚、テイ王楊集始、楊霊裕、乞伏馬居等と謀反を企てた。このような時に宣武帝が北亡(「亡/里」)へ猟に出たので、彼等は城西の小宅へ集まった。
 咸陽王禧は言った。
「挙兵して宣武帝を襲撃する。そして、長男の通を河内へ潜入させ、これに呼応して挙兵させよう。」
 すると、乞伏馬居が、咸陽王禧へ言った。
「これから洛陽へ入り込み、決起して城門を閉じれば、陛下は必ず北へ逃げます。そこで、殿下は黄河の橋を切り落とし、河南の天子となれば宜しい。」
 もともと衆人の考えはまちまちだったし、咸陽王禧も決意が固くなかった。夜明け近くなっても未だ豊作が決定しなかったので、とうとう、この事を漏洩しないと誓約して、解散した。だが、楊集始は、小宅を出ると北亡へ駆けつけて、宣武帝へ密告した。
 一方、宣武帝の一行の中では、苻承祖と薛魏孫が、咸陽王禧と内通していた。
 この日、宣武帝が寺で寝ていると、薛魏孫は宣武帝を暗殺しようとした。しかし、苻承祖は言った。
「止めろ。天子を殺した者は、病になると聞くぞ。」
 それを聞いて、薛魏孫は中止した。だが、宣武帝は、不穏な空気を察知した。と、そこへ楊集始も到着した。
 この時、宣武帝の左右は、皆、獲物を求めて四方に散っており、周りには僅かの人間しか居らず、宣武帝は慌てふためいてしまった。すると、于忠が言った。
「臣の父が京城を守っております。きっと備えをしているでしょう。」
 そこで、宣武帝は于忠へ洛陽の様子を見に行かせたが、果たして于烈は兵卒を分配して厳重に警備していた。于忠はそのまま宣武帝のもとへ帰り、于烈の言葉を伝えた。
「臣は年老いておりますが、まだまだ役に立ちます。あのような軽薄な連中など、怖れるに足りません。陛下は心安らかにゆっくりと帰られ、高みの見物としゃれ込んで下さい。」
 これを聞いて、宣武帝は大いに悦んだ。
 咸陽王禧は、陰謀が暴露したことも知らず、姫妾や左右と洪池の別荘にいた。子息の通は、既に河内へ潜入して、兵を揃え囚人を解放していた。
 于烈は、直閣の叔孫侯に虎賁三百人を与えて、咸陽王捕縛に向かわせた。これを聞いた咸陽王禧は洪池から東南へ逃げたが、ついてきた僮僕は、わずか数人しかいなかった。
 咸陽王は洛水を越えて逃げたが、遂に捕まって、華林都亭へ引き出された。宣武帝は、彼が造反したことを面と向かって詰り、私第で自殺させた。
 一味は十余人が検挙され、皆、子孫もろとも誅殺、家財や奴隷は没収された。これらは全て高肇や趙修へ賜下された。
 河内太守陸eは、咸陽王禧が敗北したと聞くや、通の首を斬って送ってきた。だが、これは咸陽王禧の成敗の結果を見て送ってきたに過ぎない。朝廷は、咸陽王禧が健在のうちに通を捕らえなかったのは、内通していた疑いがある、と判断し、投獄した。陸eは、獄中で死んだ。
 さて、今回、咸陽王禧は理由もなしに造反したのである。これ以来、宣武帝は、ますます宗室を疎忌するようになった。 

  

北海王台頭 

 七月、王粛が死んだ。侍中、司空を追賜する。
 九月、于氏を皇后に立てた。皇后は、于烈の姪である。于氏は、祖父の于栗単以来代々貴盛を極め、一人の皇后、四人の贈公、三人の領軍、二人の尚書令、三人の開国公を輩出した。
 十一月、驃騎大将軍穆亮を司空、北海王詳を太傅、領司徒とした。
 もともと、北海王詳は司徒になりたかった。だから、彭城王の事を讒言して失脚させたのである。しかし、それが成功すると、人々から後ろ指刺されることが怖く、しばらくは大将軍となっていた。今、ほとぼりが醒めた頃合いを見計らって司徒となったのである。
 北海王の権勢は大したもの。将作大匠の王遇は北海王に媚びへつらい、彼が求める物は、全て官庫から持ち出して給付した。司徒長史の于忠が、北海王の目の前で王遇を責め立てた。
「殿下は、この国の周公だ。陛下の行いを正さなければならない立場にあるのだぞ。それなのにお前は、殿下の権勢に阿諛追従し、官庫の物を私物化させるとは、何たることだ!」
 王遇は深く反省し、北海王も又陳謝した。
 宣武帝は、咸陽王禧討伐の時の功績を想い、于忠へ報いようと考えた。北海王の勧めもあって、于忠は魏郡公に封じられ、散騎常侍兼武衛将軍となった。北海王は、正しくて憚らない于忠の事を常々疎ましがっていたので、皇帝の近習から外す為に出世させたのである。 

 翌、天鑑元年(502年)、南朝では蕭衍が簒奪を行った。ここに斉は滅亡し、梁が建国された。 

  

善政 

 永元二年(500年)、甄深が塩の専売を廃止して、民の負担を省くよう上奏した。すると、彭城王が反対した。「そんな事をしても、その利益は富豪が独占してしまう。いたずらに歳入が減るだけで、民への恩恵にはならない。」と論じたのだ。
 結局、宣武帝は甄深の発案に従って、専売を廃止した。しかし、実践してみると、その利益は全て富豪や地方の権力者達が独占してしまった。
 天監二年(503年)、七月。塩の解禁を廃止し、再び専売制とした。 

 洛陽へ遷都してからは、北の土地が益々荒れ果てた。そして、飢饉などが起こって民は困窮してしまった。
 宣武帝は、尚書左僕射の源懐に侍中を兼務させ、皇帝の使者として北辺の六鎮及び恒、燕、朔の三州を巡回させた。貧民へ救援物資を与える事と、地方官の行状を調査し賞罰を与える事が主な目的だった。この二つの行動については、源懐に独断権が与えられており、皇帝へは事後報告をすれば良しとされていた。
 さて、沃野鎮の将は于祚。彼は皇后の伯父で、源懐とは姻戚だった。この頃、皇后の父親の于勁が全盛を極めており、于祚も賄賂を結構受け取っていた。
 源懐が沃野鎮へ来たと聞くと、于祚は鎮の外へ出て、道の左に立って迎えた。だが、源懐は一言も喋らず、即座に彼を劾奏して罷免してしまった。
 懐朔鎮の将は元尼須。彼は源懐と旧交があったが、賄賂に汚い人間だった。源懐が来ると、酒宴を設けて言った。
「私の寿命は、卿の口に掛かっています。どうか穏便にやってください!」
 すると、源懐は答えた。
「今日の私は、ただ、昔馴染みと酒を飲むだけ。ここは裁判沙汰をする場所ではありません。そのような話は、明日、公庭に出てから伺いましょう。」
 元尼須は涙を零したが、為す術もなく、遂に罪に落ちた。
 また、源懐は上奏した。
「辺鎮には事件も少ない割に、設置された官職が多すぎます。たとえば沃野には八百人からの官吏がおりますが、四割方は削減できます。」
 宣武帝はこれに従った。 

  

趙修失脚 

 散騎常侍の趙修は、下賤の境遇から一気に出世した成り上がり者。宣武帝の寵愛を恃んで驕慢になり、王公をも凌駕したので、皆から憎まれていた。宣武帝は、趙修の為に屋敷を造ってやったが、それは諸王の屋敷に負けない造りだった。
 趙修の父親が死んだので、葬儀の為に帰省を申し出た。すると、宣武帝はその費用を全て官費でまかなった。ところが、趙修が留守にしている間、左右の臣下達は、彼の罪悪を次々と宣武帝へ暴露した。だから、趙修が帰って来てから後は、それまでの寵愛が衰えていた。
 趙修の寵が衰えたのを見て、高肇は趙修を罪に落とそうと画策した。侍中・領御史中尉の甄深、黄門郎の李憑、延尉卿の王顕等は、もともと趙修に媚びへつらっていた連中だったので、連座に引っかかることを恐れ、争うように高肇に協力して趙修を攻め立てた。
 宣武帝は、尚書の元紹に糾明を命じた。彼の奸悪が暴露されると、詔が降りた。
「趙修は、死一等を減じ、百叩きの上、一兵卒として敦煌へ流す。」
 だが、甄深や王顕は、趙修を殺そうと考え、鞭打ちの係に手加減をせず打ち殺すよう命じた。しかし、趙修は太っていて体力があったので、三百回鞭打たれても死ななかった。そこで、護送の途中、縛り上げて鞍の上に載せて馬を疾走させた。趙修は、八十里程走った所で息絶えた。
 これを聞いた宣武帝は元紹を詰ったが、元紹は言った。
「趙修は奸佞の極みで、国に深い害毒を流しました。ですから、この機会に誅殺しなければ陛下が萬世の謗りを受ける考えたのでございます。」
 宣武帝は、その言葉を正しいと考え、元紹を罰しなかった。
 翌日、甄深と李憑は、趙修の一味と見なされて免官となった。趙修の連座で誅殺された左右の臣は二十余人にも及んだ。 

  

北海王失脚 

 北海王詳は、驕奢で女好き。しかも貪って飽くことを知らない。広い邸宅を建てる為に他人の家を強奪し、佞臣達と結託して好き勝手にやっていたので、中外の怨嗟の的だった。しかしながら、宣武帝から見れば尊親なので彼を礼遇し、軍国の大事には全て参与させていた。
 ところで、宣武帝が挙兵して咸陽王、彭城王、北海王を連行した時、高太妃は大いに懼れ、泣きじゃくっていた。そして、死なずに済んだ時、北海王へこう言った。
「これからは、貴富なんかは望みません。ただ、母子して恙なく暮らしたい。お前も、野心など棄てて、行い澄まして生きるのですよ。」
 だが、北海王が政治を執ると、彼女はその時の想いをコロッと忘れ、北海王の貪虐を助長した。
 冠軍将軍の茹皓は、巧みに取り入って宣武帝の寵を受けた。彼はいつも帝の側にいて奏上の全てに関わって賄賂を貪ったので、皆が彼を憚った。北海王も又、彼と結託した。
 茹皓は尚書令高肇の従兄弟を娶っており、茹皓の妻の姉を妃にした安定王燮は、北海王の叔父だった。北海王は、安定王燮の妃と密通したので、茹皓とはますます昵懇の中になった。
 直閣将軍劉冑は、もともと北海王の引き立てで出世した人間。殿中将軍常李賢は馬を養うのが巧く、陳掃静は櫛を使うのが巧く、彼等は皆、宣武帝から寵用されていた。そして、この三人は茹皓と表裏補いあって、権勢を確固たるものにしていた。
 高肇は高麗出身だったので、皆から軽く見られていた。宣武帝は、既に六輔を排斥し、咸陽王禧を誅殺したので、政治は専ら高肇に委ねていた。
 高肇には朝廷に親族が少ない。そこで、彼は徒党を組もうと躍起になった。彼に諂う者は旬月のうちに出世したが、靡かない者は大罪に落とされた。
 高肇は、諸王を特に忌んでいた。北海王は、諸王の中でも最も位が高かったので、これを失脚させて政治を独占しようと考え、宣武帝へ讒言した。
「北海王詳と、茹皓、劉冑、常李賢、陳掃静が謀反を企んでいます。」
 三年、四月。夜半、宣武帝は中尉の崔亮を禁中へ呼び寄せて、詳が貪婪淫乱奢侈放縦であると弾劾させた。この告発文は、茹皓等四人が権勢を振るって賄賂を貪っている事にまで言及していた。そして、茹皓等を南台へ軟禁し、虎賁百人を派遣して北海王の邸宅を包囲させた。又、北海王が驚いて逃げ出すことも慮り、左右の郭翼を派遣して、中尉の弾劾状を彼へ示した。すると、北海王は言った。
「中尉の弾劾など、大した内容ではない。造反したとでっち上げられていなければ、何とでもなる。人が我にくれた物を、我はただ受け取っただけではないか。」
 こうして、彼は出頭した。
 翌朝、役人は茹皓等の罪を告発し、全員死刑となった。
 北海王へ対しては、高陽王ヨウ等五人の王を集めて、その罪状を協議させた。その間、北海王は母妻の他数人の婢等と共に、華林園に監禁された。
 五月、北海王の死罪を宥め、庶民へ落とす旨、詔が降りた。
 始め、北海王は宋王劉永(永/日)の娘を娶っていたが、余り相手にしていなかった。北海王が監禁されて、高太妃は始めて高妃の事を知り、大怒して言った。
「お前には妻も妾も沢山居るのに、あの高麗の婢なんかに手を出したから、こんな羽目に陥ったのですよ!」
 そして、百余回も杖でぶった。北海王はその傷口が化膿して、旬日余り立ち上がることもできなかった。
 高太妃は、劉妃のことも数十回杖打った。
「婦人は嫉妬するのが当たり前なのに、なんで貴女は妬かなかったのですか!」
 劉妃は、笑って罰を受け、遂に一言も言い返さなかった。
 北海王の奴隷達数名が彼を救出しようと連判状を作り、婢へ託して密かに北海王へ届けた。だが、これが役人に見つかって奏上された為、北海王はショック死してしまった。
 高肇は、羽林虎賁の兵卒達に諸王の邸宅を包囲させ、彼等を幽閉状態とするよう提案した。彭城王は切諫したが、宣武帝は聞かなかった。
 彭城王は、もともと隠遁を望んでおり、世俗の栄達に背を向けて家に籠もっていた。しかし、これ以来山水の楽しみもなくなり、訪ねてくる友人も居なくなったので、鬱々として楽しまなかった。 

  

(訳者、曰く) 

 宣武帝は、暗君なのだろうか?
 失敗したとはいえ、塩の専売廃止は民の生活を思っての事だし、賄賂を貪る地方間の処罰にしても、皇帝自身が後押ししなければできないことだ。その他、たまには民へ配慮した詔を出したりもした。
 しかしながら、腐りきった側近達が、寄ってたかって国政を食い物にした。宣武帝の即位中、朝廷の風紀は大いに乱れ、遂には高氏が絶大な権力を握るに至った。
 結局の所、即位するのが早すぎたのだ。わずか十六才の少年が、どれ程の能力を持つだろうか。近習の勢力が増大するのは当然のことである。だいたい、孝文帝の崩御が早すぎたのだ(享年三十三)。彼が、あと十年長生きしたら、魏の歴史はどのように変わったのだろうか。