魏、燕を伐つ  後燕大乱

 

 慕容麟、中山入城

 魏軍は、兵糧が欠乏した。そこで魏王珪は、業を包囲している拓跋儀の軍を鉅鹿へ移動させ、租税として集めた穀物を楊城へ集積させた。
 慕容詳は、歩兵六千人を出撃させて、魏の諸営を襲撃したが、魏王珪はこれを撃破した。首級五千を挙げ、七百人を捕虜としたが、この捕虜は逃がしてやった。
 燕の庫辱官驥が中山城へ入城し、慕容詳と戦った。慕容詳は庫辱官驥を殺し、その一族を皆殺しとした。又、中山尹の苻謨と、その一族を皆殺しとした。
中山城には定まった主が居らず、これに魏軍が乗じることを民は懼れ、皆が団結して戦った。
 魏王珪は、中山城の包囲を解いた。彼は河間を占領し、租税として穀物を徴収した。又、拓跋儀を驃騎大将軍へ任命する。
 慕容詳は、魏軍を撃退した功績を標榜し、皇帝を名乗った。建始と改元して百官を設置する。新平公の可足渾談を車騎大将軍、尚書令へ任命した。又、拓跋觚を殺し、民へ決死の心を持たせ、団結させた。
 七月、慕容詳は可足渾談を殺した。
 慕容詳は酒を嗜み、淫乱豪奢で、士民を憐れまず、勝手気儘に刑罰を下した。誅殺した王侯貴族は五百人を越え、群臣は愛想を尽かした。中山城は食糧が尽きてきたが、慕容詳は、民が城外へ採取へ行くことを禁じたので、餓死する人間が相継いだ。とうとう、民は城を挙げて慕容麟を迎え入れようと謀った。
 慕容詳が輔国将軍の張驤へ五千余の兵を与え、常山にて租税を徴収させた。その時、慕容麟は丁零から出て張驤の軍と共に密かに中山城へ入城して、慕容詳を捕らえ、斬った。
 慕容麟は皇帝を名乗り、人々へ野草取りを許可した。飽食した人々は、魏と戦うことを求めたが、慕容麟は却下した。
 この時、魏王珪は魯口に居た。彼は長孫肥へ七千騎を与えて中山城を襲撃させた。慕容麟は出撃したが、敗績して戻った。

 中山城、陥落

 八月、魏王珪は、常山郡の九門県へ移動した。この頃、魏軍に疫病が流行った。人も家畜も次々と死に、将士も皆、帰国したくなった。
 健康な者は全体の半分以下の有様。魏王珪は言った。
「今回の遠征は天命だ。つべこべ言うな!大体、四海の民は全て吾が領民とできるのだ。何人死んだとて、気にするな!」
 群臣は、何も言わなかった。魏王珪は、拓跋遵へ中山城を襲撃させた。拓跋遵は、外城を襲撃して戻ってきた。

 中山城の飢餓は甚だしかった。そこで、慕容麟は二万余騎を率いて新市へ移動した。
 甲子の日暮れ時、魏王珪はこれを攻撃した。すると、太史令が言った。
「不吉です。昔、紂は甲子の日に滅びました。ですからこの日を『疾日』と言い、兵家はこの日を忌むのです。」
すると、魏王珪は言った。
「紂が甲子の日に滅んだのなら、周の武王が甲子の日に興ったのではないか?」
 太史令は返答に窮した。
 十月、退却する慕容麟軍は、觚水に行く手を阻まれた。魏王珪は慕容麟と義台で戦って、大勝利を収めた。燕兵の首級九千を挙げる。慕容麟は、妻子と共に、わずか数十騎で業へ逃げ戻った。
 甲申、魏軍はとうとう中山城を陥した。燕の公卿、尚書、将吏、士卒など、降伏する者は二万余人。張驤や李沈のように魏から寝返っていた者達は逃げだそうとしたが、魏王はこれ赦した。
 魏は、燕の璽綬や国書の他、府庫の珍宝数万を得た。珍宝は、将士達への褒賞に使われた。
 殺された拓跋觚は、秦愍王と諡された。彼を殺した慕容詳へ対しては、その墓を暴いて死体を斬った。又、実際に手を下した高覇と程同は、五族を全員誅殺した。
 更に、衛王拓跋儀へ三万騎の兵力を与え、業を攻撃させた。

 南燕成立

 十二月、慕容麟は業へ逃げ込むと、慕容徳へ言った。
「魏は既に中山城を陥した。このまま、勝ちに乗じて業を攻撃するでしょう。業には多くの兵糧が蓄えられていますが、兵卒の心が浮き足立っている今では、守りきる事はできません。ここは滑台へ移動し、河を防衛戦にして魏を防ぎ、敵の隙を見て動けば、河北を回復することもできます。」
 この時、魯陽王慕容和が滑台を鎮守していた。慕容和は慕容垂の甥である。彼も又、使者を派遣して、慕容徳を迎え入れることを告げたので、慕容徳はこれに従った。
 二年、正月。慕容徳は業から四万世帯を率いて滑台へ移住した。魏の拓跋儀が業を占領し、倉庫の物品を押収した。そして慕容徳を河まで追撃したが、追いつかなかった。
 慕容麟は慕容徳へ尊号を献上した。慕容徳は、兄(慕容垂)の故事に倣って、燕王と称し、百官を設置した。慕容麟を司空・領尚書令、慕容法を中軍将軍、慕輿跋を尚書左僕射、丁通を右僕射とした。(南燕の成立)
 だが、慕容麟が造反を企んだので、慕容徳はこれを殺した。

 廣川太守の賀頼廬は豪健な性格だった。彼は、冀州刺史王輔の下へ就くことを恥じ、これを襲撃して殺した。更に、兵を進めて、陽平・頓丘の諸郡を荒らし回り、南下して河を渡り、南燕へ逃げ込んだ。
 慕容徳は、賀頼廬をへい州刺史に任命し、廣寧王へ封じた。

 魏軍、帰国する。

 魏王珪は、中山から南へ向かった。高邑にて、王永の息子の王憲を見つけ、大喜びした。
「王景略(王猛)の孫ではないか!」
 そうして、本州中正へ抜擢した。
 業へ到着すると、行台を設置した。龍驤将軍の日南公和跋を尚書とし、左丞の賈彝と共に五千人の兵卒を与えて業を鎮守させた。
 魏王珪は、業から中山へ帰り、そろそろ本拠地の北へ帰ろうとした。そこで、万人の兵卒へ、道を造らせた。望都から恒嶺へトンネルを穿って直線で代まで通じる五百余里。
 魏王珪は、自分が去った後、山東で造反が起こることを恐れ、中山にも行台を置いて拓跋儀にこれを鎮守させた。又、拓跋遵を尚書左僕射に任命し、渤海を鎮守させた。
 右将軍尹国は冀州にて租税を徴収していたが、魏王珪が北へ帰ると聞いて、信都襲撃を計画した。しかし、安南将軍長孫祟が、尹国を捕らえ、これを斬った。

 魏王珪は、中山を出発する時、山東の民十余万人を、代へ強制移住させた。
 博陵、渤海、章武では盗賊が暴れ回ったが、拓跋遵はこれを掃討した。
 魏王珪は、繁畤宮へ戻った。ここで、連行した民へ田畑と牛を給付した。
 白登山にて、魏王珪は狩猟を楽しんだ。すると、子連れの熊を見つけたので、冠軍将軍の于栗へ言った。
「卿の勇名は轟いている。あの熊と格闘して捕まえられるか?」
 すると、于栗は答えた。
「獣は賤しく、人は貴い。もしも格闘して負ければ、一壮士を犬死にさせるだけでは済みませんぞ!」
 そして、魏王の前へ駆けつけると、熊を全て射殺した。魏王は、これに感謝した。
 やがて、魏王は拓跋儀を召還し、彼の代わりに拓跋遵に中山鎮守を命じた。
 六月、拓跋珪は、皇帝を名乗った。

 段速骨の乱

 正月、燕の啓倫が龍城へやって来て、中山陥落を報告した。それを聞いて、慕容寶は遠征を中止した。
 慕容農が慕容寶へ言った。
「今は遷都したばかり。まだ、南征の時期ではありません。まず庫莫渓を襲撃し、その牛馬を奪って軍資とし、更に虚実をつまびらかにした後、明年を期して遠征を協議するべきでございます。」
 慕容寶は、これに従った。
 そこで、彼等は北へ向かって進んだが、堯洛水を渡ったところで、南燕の慕容徳が派遣した使者が、彼等へ追いついた。
「渉圭は西上しました。今、中国に兵はおりません。」
 慕容寶は大喜びで、即日引き返した。
 龍城へ帰った慕容寶は、諸軍を召集して、屯営で生活させ、解散させなかった。このまま、魏の主力が帰った中原へ攻め込み、これを奪還する為である。文武の将士は、皆、家族ぐるみで駕へ従った。
 慕容農と、慕容盛は、切に諫めた。
「兵卒は疲れ切っており、魏兵は戦勝で意気揚々としております。まだ戦うべき時ではありません。どうか、しばらく兵卒へ休養を取らせ、敵の隙を窺ってください。」
 慕容寶はこれに従おうとしたが、慕輿騰が言った。
「『百姓と共に功績を建てることはできるが、共に計略を練ることは難しい(商鞅)』と申します。今、既に我が軍は結集しております。どうかご決断を下して、この機に乗じて攻撃なさって下さい。多くの意見を広く採用なさるのでは、大計を阻むことになり、宜しくありません。」
 そこで、慕容寶は遠征を決意して、言った。
「吾が計略は決まった。敢えて諫める者は斬る!」
作者、曰。中山城を出る時、慕容隆は何と言ったのだろうか?今、その計略を無視して、兵力も養わずに遠征を決行した。)

 二月、慕容盛へ留守を命じ、慕容寶は屯営へ移った。
 己卯、燕軍は龍城を出発した。慕輿騰を前軍、慕容農を中軍とし、後軍は慕容寶である。
 壬午、慕容寶は乙連へ到着した。この時、兵卒達には厭戦気分が広まっていたので、それを利用して、長上(官職名)の段速骨と宋赤眉が造反した。
 段速骨等は、もともと慕容隆の麾下にいたので、彼等は慕容隆の息子の高陽王祟を盟主とした。そして、慕容宙、段詛及び宗室の諸王を殺した。ただ、河間王の慕容煕のみは、もともと慕容祟と仲が善かったので、助けられた。
 慕容寶は、十余騎と共に、慕容農の陣営へ逃げ込めた。慕容農が出迎えようとすると、左右の臣下がその腰を抱きかかえた。
「今は乱が起こったばかり。兵卒の心が静まるまで、しばらくお待ち下さい。軽々しく出て行かれてはなりません。」
 だが、慕容農は彼等を切り捨てて、慕容寶を出迎え、前軍の慕輿騰へも使者を飛ばした。
 癸未、慕容寶、慕容農は兵を率いて大営へ向かい、段速骨を討伐した。だが、慕容農の兵卒達にも厭戦気分は広まっており、彼等は武器を棄てて逃げ出した。
 慕輿騰の営も壊滅し、慕容寶・慕容農は、龍城へ逃げ帰った。造反を聞いた慕容盛が兵を率いて出迎えたので、彼等は何とか逃げ延びることができた。

 燕の尚書蘭汗は、段速骨と共謀しており、兵を率いて龍城の東へ屯営した。
 城内には、兵卒が少なかったが、慕容盛は近城の民を龍城内へ移動させた。こうして、丁夫万余人を得、城壁へ乗って防御した。
 三月、段速骨等は城攻の姿勢を見せた。慕容農は、負けるのではないかと恐れた。そこへ蘭汗が誘いを掛けたので、彼は自分だけは助かろうと、夜半、密かに城外へ出た。
 翌朝、段速骨は攻撃を開始した。龍城の反撃も激しく、速骨の兵卒が百数人殺された。そこで、速骨は慕容農を連れ出して、城内の兵卒へ見せつけた。
 慕容農はもともと忠節の威名があり、城内の兵卒も、彼が居るから心強かったのだ。それが、城下へ姿を現した。城兵達は驚愕し、その志気は一気に萎え、続々と城を棄てて逃げ出した。速骨は龍城へ入城すると、兵卒達の略奪暴行を赦したので、城内は血の海となった。慕容寶、慕容盛、慕輿騰、餘祟、張眞、李旱、趙恩等は、軽騎で南へ逃げた。
 段速骨は、慕容農を幽閉した。
 ところで、長上の阿交羅が、段速骨の参謀だったが、慕容祟が幼少だった為、彼は慕容農を主君として立てたかった。慕容祟の懐刀の醸譲と出力建は、これを聞いて阿交羅と慕容農を殺した。段速骨は、醸譲と出力建を殺した。慕容農の元の部下宇文抜は、遼西へ逃げた。
 庚子、蘭汗が段速骨を襲撃して、一族もろとも殺し尽くした。そして慕容祟を廃すると、太子の慕容策を奉じ、慕容寶を迎え入れようと使者を派遣した。
 慕容寶は帰ろうとしたが、慕容盛は言った。
「蘭汗の行動が忠義か偽りか、未だ判別できません。今、単騎で赴かれますと、万一蘭汗に異心があった時、悔いても及びません。それよりも、まずは南進して范陽王の許へ行き、これと合流して冀州を占領するべきでございます。そうすれば、もしも勝てなくても南方の軍を収容できますので、それから龍城へ向かっても遅くはありますまい。」
 慕容寶はこれに従った。

 南燕、自立

 慕容寶は間道を通り、業を行き過ぎた。この時、業の人々はここへ留まるように乞うたが、慕容寶は却下した。やがて、黎陽へ到着すると、中黄門令の趙思を派遣して北地王鐘へ告げた。
「この二月、陛下は、丞相(慕容徳)の上表を得て南征を決行した。だが、その途上、長上が造反し、拠点を失ってここへ来た。さて、王よ。陛下を出迎えるよう、丞相へ告げよ!」
 慕容鐘は、慕容徳の弟であり、慕容徳へ帝号を称するよう焚き付けた張本人だった。だから、これを聞いて慕容鐘はムカッ腹を立て、趙思を捕らえた。
 慕容鐘が、この事を南燕王徳へ告げると、慕容徳は群下へ言った。
「卿等は社稷の大計として、吾へ摂政を勧めた。吾は継承権が遠いとはいえ、主君なしでは民が立たぬ事を思い、衆心を一つに纏める為に群議に従い帝位へ即いたのである。だが、今、真の皇帝が帰ってこられた。吾は陛下を迎え入れ、僭越の罪を謝罪してその麾下へ赴くつもりだ。諸卿はどうおもうか?」
 すると、黄門侍郎の張華が言った。
「今、天下は大乱。英雄でなければ民を救うことはできません。嗣帝は暗愚惰弱。とても国を保てますまい。もしも陛下が匹夫の節義を重んじて、天から授かった功業を自ら棄てられましたならば、その首を保つことさえ難しいと愚考いたします。ましてや、社稷を守ることがどうしてできましょうか!」
 慕輿護が言った。
「嗣帝は時宜を知らず、国都を捨て去ってしまいました。自ら敗亡の道を選んだ以上、多難な時節を乗り越えられないことは、一目瞭然でございます。昔、出奔した父親の入城を拒んだ息子がおりました(衛輒の故事)が、春秋では、これを是認しております。息子が父親を拒むのでさえ是認されるのに、ましてや父が子を拒むのです(慕容徳は慕容寶の叔父に当たる)!
 今、趙思の言葉を判じますに、嗣帝は我等を待っている筈。虚実を隠して、討伐軍を派遣されますよう、お願い申し上げます。」
 慕容徳は流涕して、護を派遣した。
 護は壮士数百人を率い、趙思へ先導させて、慕容寶の許へ向かった。表向きは出迎えだが、実はこれを討伐に向かったのだ。
 片や慕容寶は、趙思を派遣した後、樵から話を聞いて、慕容徳が皇帝を潜称していることを知った。そこで懼れて、北へ逃げた。護が到着した時には、既にその姿はなく、結局、趙思を捕虜としただけで帰ってきた。
 趙思は典故に精通していたので、慕容徳はこれを召し抱えようと思ったが、趙思は言った。
「犬や馬さえ、主人を恋しがるものでございます。思は刑臣(宦官が謙譲して言う言葉。古来は宮刑を受けた者が宦官になったことに由来している。)ではありますが、どうか主人の許へ返して下さい。」
 だが、慕容徳は固く請うた。とうとう、趙思は怒って言った。
「晋と鄭の助力が在ればこそ、周王室は東遷できたのですぞ!臣下とは、かくあるべきもの。ましてや殿下は、叔父という至親にあり、位は上公ではありませんか!それならば当然、全ての臣下へ先立って帝室を補弼するべきですぞ。それが何と、本根が傾いたのをこれ幸いと、趙王倫(西晋時代、造反を起こした。「西晋の乱」参照。)の物真似をなさる。思の不才では楚を復興した申包胥のような事はできないが、王莽に仕えるより死を選んだ龍(「龍/共」)君賓を慕ってみせよう!」
 慕容徳は、趙思を斬った。

 皇帝弑逆

 慕容寶は、慕輿騰と慕容盛を派遣して、冀州の兵をかき集めさせた。ところで、慕輿騰はもともと横暴な人間で、民の怨嗟の的となっていた。そこで、慕容盛は慕輿騰を斬り殺した。その後、慕容盛は鉅鹿・長楽と豪傑達を説得して回ったので、多くの民が慕容寶のために決起した。
 さて、龍城を占拠した蘭汗は、燕の宗廟を祀った。それを聞いた慕容寶は、これこそ恭順の現れと判断し、龍城へ帰りたくなった。そして、冀州へ逗留することを嫌がり、とうとう北へ進んだ。
 建安まで進んだ所で、彼等は張曹の家へ泊まった。張曹はもともと侠気に富んだ男で、慕容寶の為に民衆をかき集めようと考え、しばらく逗留するよう願った。又、慕容盛も、蘭汗の本心を探る為、もう少し逗留するよう慕容寶へ勧めた。そこで慕容寶は、蘭汗の本心を見極めようと、まず冗従僕射の李旱を先発させ、自身は石城へ留まった。
 すると、蘭汗は左将軍の蘇超を出迎えによこした。
 蘇超は、蘭汗の忠誠を滔々と伸べる。又、蘭汗はもともと慕容垂の舅で、慕容盛の妃の父だった。慕容寶は蘭汗を信じ込み、とうとう、李旱が帰ってくるのも待たずに出発した。慕容盛は流涕して固く諫めたが、慕容寶は聞かなかった。この時、慕容盛を後へ留めたので、慕容盛は将軍の張眞と共に隠れながら進んだ。
 丁亥、慕容寶は、龍城から四十里の所まで到着し、城内の民は大いに喜んだ。その有様を見て、蘭汗は恐惶し、謝罪に出ようと思ったが、兄弟が皆、これを諫めて止めさせた。そこで、蘭汗は、弟の加難へ五百騎を与えて出迎えに行かせた。又、兄の堤を派遣して、城門を閉じさせ、人の出入りを禁止した。城中の人々は、変事が起こることを察知したが、どうすることもできなかった。
  加難は、慕容寶と出会うと拝謁し、彼に従って進んだ。餘祟は、慕容寶へこっそりと言った。
「加難の顔色を見ますに、何か企んでおります。どうかここへ留まって下さい。」
 だが、慕容寶は従わなかった。
 数里程進んで、加難は、まず餘祟を捕らえた。餘祟は加難を大いに罵った。
「お前の一族は、皇室の親近として国寵を蒙って栄えてきたのではないか!たとえ一族全滅しても、その御恩へ報いるにはまだ足らないぞ!それが今、却って簒逆を行う。お前のような悪人など、明日にでも滅んでしまうぞ!この広大な天地に身の置き所さえなくなってな!ただ、俺のこの手でお前らを殺せないのが悔しいわ!」
 加難は、餘祟を殺した。
 蘭汗は、慕容寶を、龍城の外邸へ入れてから弑逆し、霊帝と諡した。又、献哀太子慕容策及び王公卿士百余人も殺した。
 此処に於いて蘭汗は「大都督、大単于、昌黎王」と自称し、青龍と改元した。堤を太尉、加難を車騎将軍に任命する。又、河間王煕を遼東公に封じた。これは、周が殷の一族を宋へ封じた故事へ倣ったのである。
 これを聞いて慕容盛は哀悼に駆けつけようとしたが、張眞が、これを止めた。すると、慕容盛は言った。
「我は今、切羽詰まって蘭汗のもとへ帰るのだ。あいつは馬鹿だから、娘婿とゆうことを考えると、我を殺せない筈だ。命さえあれば、旬月の間に、我の基盤を固めてやる。」
 遂に、蘭汗へ謁見した。蘭汗の妻の乙氏と、慕容盛妃が蘭汗へ泣いて頼み、又、慕容盛妃は諸兄弟へ土下座して回った。蘭汗は娘を憐れみ、慕容盛を侍中、左光禄大夫に取り立て、以前同様親しくつきあった。

 乱の終焉

 堤と加難は、慕容盛を殺すよう、屡々蘭汗へ請願したが、蘭汗は従わなかった。
 堤は、もともと驕慢荒淫な無頼漢。蘭汗へ対しても、無礼な振る舞いが多かった。そこで慕容盛は、蘭汗へあれこれと吹き込み、汗兄弟は次第に猜疑しあうようになった。
 燕の太原王奇は、慕容楷の外孫である。蘭汗は、これも殺さずに、征南将軍に登庸した。 慕容盛は、慕容奇に起兵させようと、密かに逃げ出させた。慕容奇は建安にて起兵したが、その兵力はたちまち数千に膨れ上がった。蘭汗は、蘭堤にこれの討伐を命じた。
 すると、慕容盛が蘭汗へ言った。
「善駒(慕容奇の幼名)は小僧っ子。独断でこんな大それたことをやれる筈がありません。きっと内応者がいます!太尉はもともと驕慢な人間ですから、信じられません。奴に大軍を委ねるのは危険ですぞ。」
 蘭汗も同意し、蘭堤の出兵を中止し、撫軍将軍の仇尼慕へ慕容奇討伐を命じた。
 この年、龍城では、初夏から秋になるまで雨が降らなかった。蘭汗は燕の諸廟に日参し、慕容寶の神像へ頭を下げて祈った。
「我々への怨みがあるのなら、それは全て蘭加難の身の上へ振り降ろして下さい。」
 これを聞いて、加難も堤も激怒したが、その反面、誅殺されることも怖れた。
 七月、乙巳。加難と堤は決起して、仇尼慕軍を襲撃した、これを敗った。
 蘭汗は大いに懼れ、太子の穆へ兵を与えて討伐に派遣した。
 蘭穆は蘭汗へ言った。
「慕容盛は、我等を仇と狙っております。慕容奇とも結託しているに違い在りません。奴は心腹の病。養ってはいけません。奴を殺しましょう。」
 蘭汗も慕容盛を殺そうと思ったが、その前に対談して様子を窺おうと思った。ところが、慕容盛の妃はこれを知って盛へ告げたので、彼は病気と称して家を出なかった。そのうちに、蘭汗も、慕容盛を殺す気がなくなってしまった。
 李旱、衛双、劉忠、張豪、張眞等は、皆、慕容盛から厚く遇されていたが、蘭穆は彼等を全て引き抜いて自分の腹心とした。ところが、李旱、衛双は慕容盛のもとへ出入りすることもできたので、彼等は密かに慕容盛と謀略を巡らせた。
 丁未、蘭穆が堤、加難等を撃破した。
 庚戌、戦勝の宴会が行われ、蘭汗も蘭穆も酔いしれた。それを知った慕容盛は、垣根を乗り越えて東宮へ忍び込み、李旱と共に蘭穆を殺した。
 この時、軍は未だ解散されておらず、兵卒達は皆、蘭穆の舎へ集まっていた。彼等は、慕容盛が乗り出したと聞くや、先を争ってその麾下へ入り、蘭汗を攻撃して、これを殺した。
 蘭汗の子息の蘭和と蘭揚は、それぞれ令支と白狼に陣取っていたが、慕容盛は李旱と張眞を差し向けて、共に誅殺した。蘭堤と蘭加難は逃げ隠れていたが、見つけだして斬った。
 こうして内外はぴったりと治まり、士女全てが慶びあった。
 これを聞いて、宇文抜が、壮士数百人を率いて遼西から駆けつけてきた。慕容盛は、宇文抜を大宗正に任命した。
 辛亥、一連の事件を太廟へ報告し、大赦を下した。建平と改元する。
 慕容盛は、謙遜して尊号を称せず、長楽王のままで政治を執った。その代わり、諸王を全て公へ降格した。慕容寶の諡を恵閔皇帝と改めた。廟号は烈宗。
 東陽公根を尚書左僕射とし、衛倫・魯恭・王膝等を尚書とした。以下、侍中は悦眞、中書監は陽哲、中領軍は張通。自余の官職は、各々旧位へ復させた。

 慕容盛、即位

 さて、起兵した慕容奇へは、当初、中華の民も鮮卑族も、喜んで駆けつけて来た。蘭汗は、甥の蘭全を討伐隊として差し向けたが、慕容奇はこれを迎撃して全滅させ、馬一匹も逃さなかった。
 彼が乙連まで進軍した頃、慕容盛が蘭汗を誅殺した。その慕容盛は、兵を収めるよう慕容奇へ命じた。だが、慕容奇は参謀の厳生や王龍の勧めに従い、この命令を却下。そのまま十万の軍勢で横溝まで進軍した。ここは、龍城から十里しか離れていない。
 慕容盛は出撃してこれを大いに破り、慕容奇を捕らえて凱旋した。そして、党類百余人を斬り、慕容奇は自殺させた。これによって、慕容恪の血統は根絶やしとなった。
 この戦勝の後、群臣は、帝号を称するよう固く請うたが、慕容盛は許さなかった。
 八月、河間公の慕容煕を侍中、車騎将軍、中領軍、司隷校尉に任命し、慕容元を衛将軍に任命する。慕容元は、慕容寶の息子である。又、劉忠を左将軍、張豪を後将軍に任命し、この二人に慕容の姓を与えた。
 以下、李旱は中常侍、輔国将軍。衛双は前将軍。張順は鎮西将軍、昌黎尹。張眞は右将軍。彼等は皆、公爵に封じられた。
 乙亥、歩兵校尉の馬勒等が造反したが、鎮圧された。この事件に関連して、高陽公祟と、その弟の東平公澄に自殺させた。
 乙未、東陽公根を尚書令とした。張通は左僕射、衛倫は右僕射。又、慕容豪を幽州刺史として、肥如を鎮守させた。
 十月、群臣の要請を容れ、遂に慕容盛は帝位へ即いた。
 十二月、慕容豪、張通、張順が謀反の罪で誅殺された。

 南燕の台頭

 話は遡るが、前秦の苻登の弟苻廣が、三千の兵を率いて南燕王慕容徳の麾下へ入った。慕容徳は、これを冠軍将軍に任命し、乞活堡へ住ませた。
 三年、火星が東井へ入った。すると、これは秦が復活する前兆であると言い出す人間が現れた。苻廣もその気になって秦王を自称し、南燕の北地王慕容鐘を攻撃し、破った。
 この時、南燕は孤弱で、十城の領土も持っておらず、兵卒も一万といなかった。それで、慕容鐘が敗北した後、慕容徳の配下から苻廣のもとへ逃げ出すものが続出した。そこで、慕容徳は滑台の守備を魯陽王慕容和へ委ね、自ら兵を率いて苻廣討伐に出かけ、これを斬った。
 ところで、慕容寶が黎陽へ到着した時、慕容和の長史の李弁は、これを迎え入れるよう勧めたが、慕容和は従わなかった。李弁は後の祟りを怖れ、東晋と内通すると、その軍を管城へ引き入れて、慕容徳が出陣している留守に造反しようと考えた。しかし、この時慕容徳は兵を動かさなかった。李弁はますます不安になった。そのような折、慕容徳は苻廣討伐に出陣したのだ。
 李弁は、再び慕容和へ造反を勧めたが、慕容和は従わなかった。そこで、李弁は慕容和を殺し、滑台を以て魏へ降伏した。この時、魏の行台尚書和跋が業を治めていたが、彼は軽騎を率いて業から赴いた。
 だが、李弁はやがて後悔し、魏軍が到着しても城門を閉じたまま入れなかった。そこで、和跋は尚書郎の登暉を派遣して、李弁を説得した。李弁は説得され、城門を開いて魏軍を迎え入れた。和跋は、慕容徳の宮人や宝物を略奪した。
 慕容徳は兵を派遣して和跋を攻撃したが、和跋はこれを撃退した。更に、慕容徳麾下の将軍桂陽王鎮を破り、千余人の兵卒を捕虜とした。これによって、陳郡や穎川の民衆は次々と魏へ帰属した。
 ところが、南燕の右将軍慕容雲が李弁を斬り、将士の家族二万人を率いて滑台から慕容徳の許へ駆けつけた。慕容徳は滑台を攻撃しようとしたが、韓範が言った。
「かつては我々が魏を迎え撃っていましたが、今では逆に、我々が遠征軍となってしまいました。人心が危懼したままでは戦争はできません。どこかに拠点を作らなければ。そこで基盤を固めてから、進奪するのです。」
 張華が言った。
「彭城はかつて、楚(項羽)の都でした。これを攻撃して拠点としましょう。」
 だが、慕容鐘等は皆、滑台攻撃を勧めた。
 尚書の潘聡は言った。
「滑台は四通八達の地。北に魏、南に晋、西に秦と国境を接し、一日たりとも心を安らげることができません。彭城は土地が広大で人が少なく、険阻な地形もありません。その上晋の旧鎮ですから、攻め取ろうとしても容易には行きますまい。又、江・淮地方へ行けば、夏秋は水が多うございます。舟戦は呉の得意技で、我々の苦手とするところ。これら全て、本拠地として適切ではありません。占領するのなら、青州でございます。
 青州は肥沃な土地が二千里も広がり、精兵は十余万。左には豊堯なる海があり、右には山河の険があります。曹嶷が築いた廣固城は堅固な要塞で、帝王の都にもふさわしゅうございます。三斉には英雄豪傑も多く、明主を得れば、悠久の功績を建てることもできましょう。ここを治める辟閭渾は、もと燕の臣下。まず、能弁の士を派遣して説得し、大軍を以て迫れば、もしも服従しなくとも、塵を拾うように易々と征服できましょう。まずはこの地を占領し、兵卒を養いつつ、敵の隙を見て動く。そうすれば、陛下にとって、関中・河内のような拠点となるでしょう。」
 だが、慕容徳はなおも猶予して決断できなかった。
 沙門の竺郎は、占いの名手と評判だったので、使者を派遣してこれに問うた。すると、竺郎は答えた。
「この三策のうち、潘尚書の建議こそ、興邦の言葉です。それに、今年の初め、彗星が奎・ろうから起こり、虚・危を掃きました。彗星は、古きものを一掃し、新しきものが起こる象。奎・ろうは魯、虚・危は斉を指します。ここはまず、こん州を占拠し、琅邪を巡撫して秋までに斉へ北上する。それが天道に叶った進路でございます。」
 使者が、どれ位の期間栄えるか尋ねたところ、竺郎は筮竹を使って占った。
「子息の代まで栄えましょう。」
 使者の復命を受け、慕容徳は兵を率いて南へ向かった。すると、こん州の北辺の諸郡県は、次々と降伏してきた。慕容徳は守宰を置いてこれを統治させ、兵卒の略奪を厳禁した。百姓は大いに喜び、牛や酒の献上品が相継いだ。
 七月、慕容徳は辟閭渾へ使者を送り、降伏を呼びかけたが、辟閭渾は従わなかった。そこで、慕容鐘へ二万の兵を与えてこれを攻撃させた。
 慕容徳軍は更に進み、琅邪に據った。徐州・こん州の民で帰附する者は十余万にも登った。
 慕容徳は、それから北へ進んだ。南海王法をこん州刺史に任命し、梁父を鎮守させた。
 進んで呂城を攻撃すると、守将の任安は城を棄てて逃げた。慕容徳は潘聡を徐州刺史に任命し、呂城を鎮守させた。
 さて、蘭汗の乱の時、燕の吏部尚書の封孚は辟閭渾のもとへ逃げ込み、辟閭渾は彼を渤海太守としていた。慕容徳軍が進攻するに及んで、封孚が降伏してきた。慕容徳は大喜びで言った。
「孤は、青州を得たことよりも、卿を得たことの方が嬉しい。」
 そして、機密を委ねた。
 慕容鐘は、青州の諸郡に檄文を飛ばし、禍福を説いた。
 辟閭渾は八千余家と共に廣固へ入ってこれを守った。そして、司馬の崔誕には薄荀を、平原太守の張豁には柳泉を守らせたが、二人とも檄文を受けて慕容徳へ降伏した。
 辟閭渾は懼れ、妻子と共に魏を目指して逃げた。慕容徳はこれを追撃させ、呂城にて追いついて、斬った。
 辟閭渾の息子の辟閭道秀は、自ら慕容徳の許へ出頭した。
「どうか、父君と同じ場所で殺して下さい。」
 それを聞いて、慕容徳は言った。
「父親は不忠だが、息子は孝を知っているではないか。」
 そして、特に彼を赦した。
 辟閭渾の参軍の張英は、辟閭渾の為に檄文を作成していたが、その文中には不遜な言葉が多かった。慕容徳は彼を捕らえて詰ったが、張英は自若として静かに言った。
「韓信のもとにかい通がいたように、辟閭渾のもとにも能臣がいたのです。通は劉邦と遭ったから生き延びましたが、私は陛下の許で殺される。古人と比べて、運が悪かったのですね。」
 慕容徳は張英を殺した。
 こうして辟閭渾の領土を平定した慕容徳は、廣固に都を定めた。
 四年、慕容徳は、廣固にて帝位へ即いた。大赦を下し、建平と改元する。名を備徳と改めた。
 燕主の慕容偉を幽皇帝と追諡する。慕容鐘を司徒、慕輿抜を司空、孚を左僕射、慕輿護を右僕射とする。