馮跋、後燕を滅ぼす。

 

慕容盛の死去

 後燕王慕容盛は、父の慕容宝が惰弱なやり方で失敗したと考え、刑罰は努めて厳しくした。又、聡明を自負していたが、それは猜忌へ繋がった。結局、群臣に何か不満があると、慕容盛はすぐに処刑するようになってしまった。だから、後燕では、宗族や勲旧の臣下さえ、毎日を汲々と暮らすようになった。
 晋の安帝の隆安五年(401年)、八月。左将軍の慕容国と、殿上将軍秦輿、段讃が、禁兵を率いて慕容盛を襲撃しようと計画した。しかし、この計画は発覚し、五百余人が誅殺された。
 五日後、前将軍段幾と、秦輿の子の秦興、段讃の子の段泰が、密かに禁中へ忍び込み、軍鼓を鳴らして叫び回った。
 変事を聞きつけた慕容盛は、左右を率いて戦ったので、賊軍は潰走した。段幾は傷を負い、空き部屋へ隠れた。すると、闇の中から一人の賊徒が飛び出してきて、慕容盛へ斬りかかった。慕容盛は傷ついたが、前殿へかけ登ると、禁衛を指揮した。そうして、事態が収まった後、卒した。

 中塁将軍慕容抜と、冗従僕射郭仲は、太后の丁氏へ言った。
「国家多難の時期です。年長の君を立てるべきでございます。」
 この頃、衆望は慕容盛の弟の慕容元に集まっていた。彼の官職は、司徒、尚書令、平原公である。しかし、丁氏は、河間公の慕容煕と密通していた。(慕容元、慕容煕は、共に慕容垂の息子。慕容盛の叔父にあたる。)結局、丁氏は皇太子の慕容定を廃立して、慕容煕を密かに迎え入れた。

 翌朝、群臣は入朝して始めて皇帝が暗殺されたことを知った。そこで、彼等は慕容煕を即位させるよう勧めた。慕容煕は、慕容元へ譲ったが、慕容元は辞退した。
 こうして、慕容煕は天王位に即いた。彼は、段幾等を捕らえ、その三族を誅殺した。
 翌日、大赦を下し、更に二日後、慕容元を自殺させた。
 閏月、慕容盛を葬った。諡は昭武皇帝、廟号は中宗。
 丁氏が埋葬に行っている留守の間に、中領軍の慕容提と、歩軍校尉張佛等が故の太子の慕容定を立てようと謀ったが、事が露見して誅殺された。慕容定も、自殺させる。
 大赦を下し、「光始」と改元する。

 

慕容煕の優雅な毎日

 元興元年(402年)、慕容煕は故の中山尹苻謨の二人の娘を後宮へ納れた。姉の名は戎娥、妹は訓英。姉を貴人に、妹を貴嬪にし、貴嬪をすこぶる寵愛した。
 丁氏は怨恚し、甥の信と共に、慕容煕を廃して慕容淵を立てようと謀った。十月、この謀略が漏洩し、慕容煕は、丁氏へ逼って自殺させた。皇后の礼で葬儀を行い、献幽皇后と諡する。十一月、淵と信を殺した。

 同月、慕容煕が北原で狩猟をしていると、石城令の高和が造反した。彼は司隷校尉の張顕を殺して宮殿で略奪した。そして、庫兵を掌握し、営署を脅して城門を閉ざさせた。
 しかし、慕容煕が戻ってくると、兵卒は皆寝返り、城門を開いて慕容煕を迎え入れた。
 造反人は皆、誅殺されたが、高和だけは逃げ出した。

 二年、五月。慕容煕は龍騰苑を造った。その大きさは十余里四方。その竣工には二万人を投入した。苑の内部には築山を造ったが、それは周囲五百歩、高さ17丈もあった。
 十二月、貴嬪を皇后に立てた。姉の貴人を昭儀とする。
 三年、四月。慕容煕は、龍騰苑の中に逍遙宮を造った。これは、数百の房が連なった豪壮な宮殿である。時は夏の真っ盛り。工事に駆り出された兵卒達は休むこともできず、過半数が過労で死んだ。
 七月、苻昭儀が病気になった。すると、龍城に住んでいる王栄とゆう男が、治療できると名乗りを挙げた。しかし、手当の甲斐もなく、苻昭儀は死んだ。慕容煕は、王栄を八つ裂きにして、その屍を焼き払った。
 十一月、慕容煕は、苻后を連れて、物見遊山に耽った。北は白鹿山に登り、東は青嶺を回り、南は滄海へ臨んで、都へ帰る。この巡業で、五千人以上の兵卒が、虎狼や寒さの為に命を落とした。

 

後燕の外征

 十二月、高句麗が後燕を侵略した。
 義煕元年、正月。慕容煕は高句麗を討伐した。まず、遼東を攻撃する。
 やがて城が落ちた。すると、慕容煕は将士へ命じた。
「入城してはいかん。混乱が収まるのを待って、朕と皇后が、輿を並べて入城するのだから。」
 これによって、城中は警備を厳重にする時間を得ることができた。
 結局、勝てずに帰った。

 十二月。慕容煕は契丹討伐の兵を挙げた。
 二年、正月。慕容煕は、徑北まで進軍した。そこで、契丹の大軍を見ると、急に怖じ気づいて帰ろうとしたが、苻后は聞かなかった。
 戌申、遂に輜重を棄て、軽騎で高句麗を襲撃した。
 燕軍は、三千余里の行軍で、兵卒も馬も疲れと寒さにやられ、次々と死んでいった。その状況で、高句麗の木底城を攻撃したが、勝てずに引き返した。この時、夕陽公慕容雲は、矢傷を負った。又、慕容煕の残虐が恐くもあったので、彼は官職を辞退して隠居した。

 五月、慕容寶の息子の博陵公虔と上党公昭が、嫌疑を掛けられ、自殺させられた。

 

苻后の死

 三年、二月。慕容煕は皇后の為に承華殿を造った。北門に多量の土を必要とした為、土くれの値段が、穀物と同等まで上昇した。そこで、宿軍典軍の杜静が、冠を背負って闕を詣で極諫した。すると、慕容煕は、杜静を斬り殺した。
 かつて、苻氏は夏の盛りに凍魚(煎じた魚を凍らせたもの)を食べたがった。慕容煕は、役人へ作るよう強要したが、作りようがなかった。慕容煕は、役人を斬り殺した。
 四月、苻皇后が卒した。慕容煕は慟哭の余り気絶した。
 彼女の埋葬は、父母の葬儀のようだった。慕容煕は衰弱し、粥を啜る有様だった。百官へ対しても宮内へ位牌を立てて哀哭するよう強要した。そして、密偵を放って、泣いていない者が居ると罰した。そこで、群臣は皆、辛子を口に含んで涙を零した。
 高陽王の妃の張氏は、慕容煕の兄嫁に当たる。美しく、気の利いた女性だった。慕容煕は、彼女を殉死させようと考え、罪をでっち上げて自殺させた。
 公卿以下兵民へ至るまで、皆、家族を率いて墓を造った。できた陵墓は周囲数里。これを見て、慕容煕は言った。
「見事なものだ。朕も、すぐにそこへ行くからな。」
 六月、苻后を埋葬した。喪車が大きく高かったので、門を通らない。そこで、北門を壊して外へ出した。

 

馮跋造反(付、慕容雲即位)

 話は前後するが、中衛将軍の馮跋と、その弟の侍御郎の素佛は、慕容煕から不興を買い、慕容煕は彼等を殺そうと思った。そこで、馮兄弟は、山沢へ逃げ込んだ。
 やがて、慕容煕が戦争や工事を頻繁に起こすようになると、民はその苛酷な労役に苦しむようになった。そこで、馮跋は弟の素佛と従兄弟の萬泥へ言った。
「我等は、自首したところで殺されるだけ。それなら、民の不満に乗じて造反しようではないか。成功すれば、公候になれるし、どうせ殺されるのなら、失敗してから死んだとて遅くはない。」
 そこで、三人して輿車に乗り、婦人のように装って、こっそり龍城へ戻った。それ以来、彼等は北部司馬孫護之の家へ隠れ住んだ。
 慕容煕が苻后の埋葬の為城を出ると、馮跋は、その機を逃さず、左衛将軍張興や苻進等の与党と共に造反した。
 馮跋は、もともと慕容雲と仲が善かった。そこで、慕容雲を盟主に推戴した。慕容雲が病を理由に辞退すると、馮跋は言った。
「河間は、淫暴で、人神共に怒っている。これは、天が慕容氏を滅ぼすのだ。公は、もともと名門高氏の出身。それがおめおめと他家の養子となり、しかも運まで手放すつもりか?」
 そして、彼を強引に連れ出した。
 乳陳(馮跋の弟)等が衆人を率いて弘光門を攻撃した。彼等が軍鼓を鳴らしながら進撃すると、禁衛の兵卒達は皆、逃げ散った。遂に彼等は宮殿へ乱入し、城門を閉ざして籠城した。

 中黄門の趙洛生が脱出して、変事を慕容煕へ告げた。
 慕容煕は言った。
「ドブ鼠めに何ができるか!朕が引き返して誅殺してやる。」
 そして、苻后の棺を南苑へ置くと、武装して龍城へ向かった。
 夜、慕容煕は龍城へ到着し、北門を攻撃したが勝てず、門外に宿営した。
 乙丑、慕容雲が天王位に即き、大赦を下して「正始」と改元した。
 慕容煕は、退却して龍騰苑へ入った。すると、尚方兵の猪頭が、城壁を乗り越えて慕容煕の許へ赴き、言った。
「軍営の兵卒達も賊徒へ同心し、賊軍が来るのを心待ちにしているのでございます。」
 慕容煕は驚いて逃げ出したが、左右の臣下達は、誰一人従わなかった。
 しばらくして、左右の臣は、慕容煕が帰らないのを訝しんで本営へ入ってみると、ただ衣冠があるだけで、その居場所も判らなかった。
 中領軍の慕容抜が、中常侍の郭仲へ言った。
「我等の勝利も間近いとゆうのに、陛下は理由もなく逃げ出した。何があったのだろうか?だが、ここでグズグズしているわけには行かない。我等の勝利は疑いないのだから。我等は城を落とすから、卿はここに留まって陛下を待っていてくれ。陛下が帰って来られたら、すぐにお連れするのだ。それまで、吾が城内を安撫する。事が定まってから陛下を入城させても遅くはあるまい。」
 そして、壮士二千人を率いて北門へ登った。将士は「陛下が来られたぞ」と叫び、城門の守備兵達は武器を投げ捨てて降伏したが、肝腎の慕容煕はやってこない。慕容抜の軍にも後続がなかったので、兵卒達は怪しみ、城から降りて苑へ逃げ帰った。こうして、慕容抜の軍は潰れ、慕容抜は、城内の人間に殺された。
 丙寅、慕容煕は林中に隠れているところを捕らえられ、慕容雲のもとへ送られた。慕容雲は彼の罪状を数え上げて殺した。同時に、慕容煕の諸子も全員処刑する。
 慕容雲は、旧姓の高氏へ戻った。
 幽州刺史の上庸公懿は、令支ごと魏へ降伏した。魏は、慕容懿を平州牧、昌黎公とした。慕容懿は、慕容評の孫である。

 八月、北燕王高雲は、馮跋を「都督中外諸軍事、開府儀同三司、録尚書事」に、馮萬泥を尚書令に、馮素佛を昌黎尹に、馮弘を征東大将軍に、孫護を尚書左僕射に、張興を輔国大将軍に任命した。馮弘は、馮跋の弟である。
 四年、正月。高雲は、妃を皇后に、嫡子を太子に立てた。
 七月。高雲は、慕容帰を遼東公に封じ、燕の御霊を祀らせた。

 

離班・桃仁の乱

 高雲は、自身は何もしていないのに天王位に即いたので、内心危惧していた。そこで、常に壮士を養い、彼等を腹心とし、爪牙としていた。
 又、高雲は、離班と桃仁を寵用していた。彼等は禁中を専断し、巨万の賜下品を得ており、その居住は高雲と比べても遜色なかった。しかし、彼等は貪欲で、なお飽かず、天王の下に甘んじていることを怨んでいた。
 五年、十月。高雲が東堂へ出向いた時、離班と桃仁が謁見した。彼等は上奏文を持っており、高雲の前でそれを開くと、中から懐剣が出てきた。離班は、その懐剣を素早く執って、高雲へ斬りかかった。高雲が身をかわすと、桃仁が傍らから押さえつけ、ついに、離班は高雲を弑逆した。
 この時、馮跋は洪光殿に登っており、変事を一部始終目撃していた。すると、帳下督の張泰と李桑が馮跋へ言った。
「あの屑共が、なんて大それたことを!公の為に、奴らを斬り殺してやります。」
 そして、剣を奮って下った。西門にて、李桑が離班を斬り、庭中にて張泰が桃仁を斬った。
 こうして下手人が死ぬと、衆人は、馮跋を盟主に推した。馮跋は弟の素佛へ譲ったが、素佛は聞かない。馮跋は、遂に天王位に即いた。
 大赦を下し、詔を下して民へ告げた。
「陳氏が姜に代わって国を治めたが、国号は『斉』のままだった。(春秋時代、「斉」で下克上が起こり、陳氏が国を簒奪したが、国号は斉のままだった。戦国時代の「斉」がこれであり、後世、「田斉」とも呼ばれている。)この故事に則り、国号は、今後も『燕』のままで変更しない。」(北燕の成立)
「太平」と改元し、高雲へは「恵懿皇帝」と諡する。
 馮跋は、母親の張氏を太后、妻を王后、子の永を太子とした。又、素佛を、車騎大将軍・録尚書事に、孫護を尚書令、張興を左僕射、弘を右僕射、萬泥を幽・平二州牧、乳陳をへい・青二州牧とした。
 素佛は、若い頃から豪侠放蕩な人間だった。その頃、尚書左丞の韓業へ、娘との結婚を求めたが、韓業は断った。今回、彼は宰輔となったが、過去のことを遺恨に持たず、韓業を厚く遇した。旧家をよく抜擢し、謙恭倹約で、身を以て部下を率いたので、百僚は彼を憚り、宰相の器だと褒めそやかした。(司馬温公は、「資治通鑑」を作成するに当たって、小国の宰相であっても、美点が在れば必ずそれを記載した。これは宰輔となるのが困難であることを示したかったのだ。)

 

馮跋の治政

 七年、七月。馮跋は、太子の永を大単于とし、四輔を置いた。
 同月、柔然可汗が、使者を派遣し、馮跋へ三千匹の馬を献上した。そして、馮跋の娘の楽浪公主を娶ることを求めたので、馮跋は群臣を集めて会議を開いた。
 素佛は言った。
「昔は、宗室の娘を六夷へ嫁がせたものです。ですから、妃嬪の娘を嫁がせるべきです。楽浪公主は、皇后の娘。異族へ下降させるのは、宜しくありません。」
 すると、馮跋は言った。
「朕は、異族が相手でも、信義を尊びたい。欺くようなことができようか!」
 そして、楽浪公主を、可汗の妻とした。
 馮跋は、政事に勤しみ、農桑を勧課し、労役を省き、賦税を薄くした。地方の長官や宰相からの使者へ対しては、必ず自身で謁見し、政治の要点を問うて、その能力を見た。これによって、燕の人々は悦んだ。 

一族の移住

 十年、五月。河間の住民猪匡が馮跋へ言った。
「陛下は遼・碣にて基盤を固められました。ですが、陛下の一族の大半はまだ長楽に住んでおります。彼等はきっと、陛下のもとへ馳せ参じることを望んでいるに違いありません。どうか、軍を派遣して、彼等を迎えて下さい。」
 すると、馮跋は言った。
「簡単に言うが、数千里も離れている。途中に異国もあることだ。どうやって迎えて来るというのかな?」
「章武は海に臨んでおります。遼西から船出すれば、そう難しくありません。」
 そこで、馮跋はこれを許可した。猪匡を遊撃将軍、中書侍郎に任命して、派遣する。
 匡と、馮跋の従兄弟の買は船出し、彼等の力で、賭(馮跋の従兄弟)が五千戸を率いて長楽から移住してきた。これによって、契丹・庫莫渓等が、皆、北燕に帰順した。
 馮跋の弟の丕は、戦乱を避けて高句麗へ疎開していた。馮跋はこれを召し出し、左僕射として、常山公に封じた。