東魏の高氏
 
高一族   

 大同元年(535年)高歓の世子の高澄が、高歓の妾の鄭氏と密通した。
 高歓が稽胡討伐から帰ってくると、婢の一人がこれをチクッた。すると、二人の婢が証人となった。高歓は高澄を杖で百叩きとして幽閉し、鄭氏とも縁を切った。
 もともと、高歓は魏の敬宗の皇后爾朱氏と通じており、彼女との間に男児を儲け、ユウと名付けた。高歓は爾朱氏を寵愛しており、ユウを世子としたがっていたのだ。
 高澄は司馬子如に助けを求めた。そこで司馬子如は高歓のもとへ出かけ、知らぬ顔で鄭氏へ挨拶をしたいと言い出した。高歓がありのままに告げると、司馬子如は親子の情を説き、鄭氏の弟の殊勲を述べ、更に告げた。
「女子など、取るに足らぬもの。ましてや婢の言葉など、なんで信じられましょうか!」
 そして、高澄へ面会して言った。
「堂々たる男児が、何を畏れて冤罪を被るのか!」
 その傍らで婢達を呼びだして脅しつけ、証言を撤回させた。そして、高歓へ言った。
「果たして、あれは虚偽でした。」
 高歓は大いに悦んで、高澄や鄭氏と復縁した。司馬子如へも感謝して、黄金百三十斤を与えた。 

 十一月、東魏で、闔門に火災が発生した。
 話は遡るが、この門が落成した時、高隆之はこれを遠くから望み見て、匠へ言った。
「西南の門だけが一寸程高いな。」
 測量してみたら、その通りだった。だが、太府卿の任忻集は自分の能力に天狗になっており、改築を承知しなかった。以来、高隆之は彼へ遺恨を持った。
 今回、火災が起こると高隆之は高歓へ讒言した。
「任忻集は西魏へ内通しております。今回の火災も、奴の仕業です。」
 高歓は、任忻集を斬った。 

 東魏は高歓の子息の高洋を驃騎大将軍、開府儀同三司とし、太源公へ封じた。
 高洋は、実は明哲な人間だったが、外見はボーッとしており、兄弟や衆人から笑われていた。しかし、高歓だけは彼の才覚を見抜き、長史の薛叔へ言った。
「この子の見識は、俺以上だ。」(詳細は、「高氏簒奪」へ記載。) 

  

高澄デビュー   

 二年、正月。東魏は、高歓へ九錫を加えたが、高歓が固辞したので沙汰止みとなった。
 高歓の世子の高澄は、十五才になり、大行台、ヘイ州刺史となった。しかし、当人は、業へ入って朝政へ参与することを望んでいた。そこで父親へ頼んだが、高歓は許さなかった。だが、丞相主簿の孫ケンも請願したので、遂にこれを許した。こうして、高澄は尚書令、加領軍、京畿大都督となった。
 高澄の器量や学識は、魏朝ではつとに有名だったが、それでも「まだ若すぎる」とゆうのが通り相場だった。しかし、いざ彼が就任すると、用法は厳峻で事には凝滞がなかったので、中外は震駭し、粛然となった。
 高澄は、ヘイ州別駕の崔邁を左丞、吏部郎として、親任した。 

  

懐刀   

 司馬子如と高季式が、孫ケンを招いて酒を飲んだ。ところが、孫ケンは飲み過ぎて死んでしまった。その葬式に、高歓は自ら臨んだ。司馬子如は叩頭して罪を請うたが、高歓は言った。
「卿は、我が右腕を折ったのだぞ!それならば、別の者を推挙するべきではないか!」
 そこで司馬子如は中書郎の魏収を推挙した。高歓は、これを主簿にした。魏収は、魏子建の子息である。
 だが、魏収は孫ケンほど高歓の意に叶わなかったので、他日、高歓は高季式へ推挙させた。すると、高季式は陳元康を推挙した。陳元康は、大行台都官郎となった。
 この時期は、軍国多事だったが、陳元康は、どんな質問にも答えられた。ある時、高歓は馬上で九十余條の号令を掛けたが、陳元康は全てを暗記していた。
 陳元康は、功曹の趙彦深と共に機密を扱ったので、人々は陳、趙と言った。どちらかといえば、陳元康の方が勢力があったが、それでも彼は柔謹だったので、高歓は彼を親任し、言った。
「このような人間は、実に得難い。まさしく、天の賜だ。」
 趙彦深は、名前を隠と言うが、字の方が有名である。 

  

叛心    

 三年、六月。高歓は汾陽の天池で遊び、奇石を見つけた。そこで、密かに「六王三川」と記して、行台郎中の陽休之へ尋ねた。すると、陽休之は言った。
「『六』は大王の字です(高歓の字は賀六渾)。『王』とは、『天下の王になる』とゆう意味です。河・洛・伊が三川ですし、ケイ・渭・洛も又、三川です。ですから、大王は天命を受けられました。やがては関・洛をその手に入れられるでしょう。」
 高歓は言った。
「世間の人々は、我が造反すると、いつも言っているのだ。ましてやそんな言葉が流布したらどうなるか!めったなことを言ってはならぬぞ!」
 陽休之は、陽固の子息である。
 行台郎中の杜弼が、高歓へ受禅を勧めたが、高歓は杜弼を杖で打ち据えた。 

  

高澄の行革   

 四年、高澄が摂吏部尚書となった。
 さて、北魏では、崔亮が年功序列の制度を確立していた(詳細は、「爾朱栄台頭」に記載)。高澄は、摂吏部尚書となると、この制度を廃止し、賢人を抜擢するようにした。又、尚書郎へ人材を選抜するように命じたので、有能な人間が地位を得るようになった。
 高澄は、名望や才覚がありながら、今まで薦擢されていなかった者を悉く自分の門下へ集め、共に宴会を開いたり、講論したり、詩を賦したりした。時の士・大夫達は、これを讃えた。 

 八年、四月。高歓が、業の朝廷へ出向き、人事へ介入した。
 司徒の孫騰が、連座で免職となった。
 乙酉、彭城王韶が録尚書事、廣陽王湛が太尉、尚書右僕射の高隆之が司徒となった。
 話は遡るが、太尉の尉景は、もともと高歓と共に爾朱栄のもとへ帰順した人間だった。又、彼の妻は高歓の姉だったこともあり、自ら国家の元勲で高歓の親戚であることを恃み、貪欲で無法な行為も多かった。それが目に余ったので、とうとう役人が彼を弾劾し、投獄された。
 すると高歓が、何度も皇帝のもとへ出向き、泣いて慈悲を請うたので、どうにか死刑だけは免れた。ただ、太尉から驃騎大将軍・開府儀同三司へ降格となった。
 辛卯、庫狄干を太傅とし、領軍将軍婁昭を大司馬とし、封祖裔を尚書右僕射とする。
 六月、高歓は晋陽へ帰った。 

 十年、三月。東魏の静帝は、高澄を大将軍・領中書監とし、元弼を録尚書事、司馬子如を尚書令、高洋を左僕射とした。
 丞相の高歓は、晋陽へ居住することが多かった。そこで高歓は、党類の孫騰・司馬子如・高岳・高隆之等へ朝政を委ねていたのだ。
 業では、この四人を四貴と言い、その権勢は中外を震わせた。そして、いつしか彼等も、驕慢貪欲な事を放埒に行うようになってしまった。そこで、高歓は彼等の権勢を損奪しようと考え、今回の人事となったのである。
 高澄が大将軍・領中書監となってからは、門下省の機事の大半が中書省の管理下へ移され、文武官の賞罰は全て高澄が行うようになった。
 孫騰が、高澄へ対して礼を尽くさなかったので、高澄は左右を叱りつけ、孫騰をつまみ出させた。
 高洋は、高隆之の事を”叔父”と呼んだ。すると、高澄はこれを怒り、高洋を罵った。
 高歓は、群公へ言った。
「子息も成長した。公は、逆らわない方が良いぞ。」
 以来、公卿達は高澄を懼れるようになった。
 庫狄干は、高歓の妹を娶っていたが、定州から上京した折、高澄の屋敷の門外で三日間立続け、ようやく高澄と会見する事ができた。
 高澄は、静帝の左右を自分の腹心で固めようと考え、中兵参軍の崔李舒を中書侍郎へ抜擢した。 

  

綱紀粛正   

 正光年間以降、北魏の政治や刑罰は緩みきってしまい、高官は賄賂を貪るようになってしまった。
 大同十年、高歓は司州中従事宋遊道を御史中尉としたが、高澄は、吏部郎の崔進を御史中尉として、宋遊道は尚書左丞とするよう、固く請うた。
 高澄は、崔進と宋遊道へ言った。
「卿のうち一人が南台(御史台)、一人が北省(尚書省)にいれば、天下は粛然となるだろう。」
 崔進は、畢義雲等を御史としたが、人々から賞賛された。畢義雲は、畢衆敬の曾孫である。 

 尚書令の司馬子如は、高歓の古なじみであり、官職も高いので心底増長し、太師の咸陽王担と共に賄賂を貪り取っていた。崔進は、前後して彼ら二人とヘイ州刺史可朱渾道元を筆を極めて弾劾した。宋遊道もまた、司馬子如、咸陽王及び太保孫騰、司徒高隆之、司空侯景、尚書元羨等を弾劾した。
 高澄は、司馬子如を投獄した。すると、僅か一日で、司馬子如の髪は真っ白になってしまった。彼は、恐れ入って白状した。
「私が夏州にて、王(高歓)の麾下へ入った時、王から一乗の露車と、生け贄の牛を賜りました。牛はもう死にましたが、その角は未だに持っております。私が持っているそれ以外のものは全て、不義に得たものばかりでございます。」
 高歓が、高澄へ書状を書いた。
「司馬令は、我の古なじみだ。寛大に処置してやってくれ。」
 そこで高澄が自ら出向いて鎖を解いてやると、司馬子如は怯えて言った。
「私は死刑になるのですか?」
 八月、司馬子如の官職が剥奪された。
 九月、済陰王暉業が太尉となった。咸陽王は、太師を罷免されたし、元羨等は皆、免官となった。その他、死刑になった者も大勢いた。
 この後、高歓が司馬子如と会ったところ、司馬子如は哀れなほどに憔悴しきっていた。高歓は自ら彼のシラミを取ってやり、酒百瓶と羊五百頭、米五百石を賜った。
 高澄は、諸々の貴人の前で、言葉を極めて崔進を褒めそやかし、彼等の戒めとした。高歓は、業の貴人達へ書状を与えた。
「崔進が憲台に居る。咸陽王も司馬子如も、我にとっては庶民の頃からのつき合いだった。その尊貴といい親しみといい、彼等以上の者はいない。それでさえも、二人同時に罪へ落とされてしまい、我は救うことができなかった。諸君はこれを思って身を慎め!」 

 宋遊道は、尚書の違失を数百条も奏上し、尚書省中の豪吏王儒の一党を全て罷免するよう訴えた。令・僕以下の者は、皆、兢々とした。 

 高隆之が、宋遊道に不臣の言葉があったと誣いて、死罪を要請した。すると、給事黄門侍郎の楊音が言った。
「犬は吠えるものです。今、吠えすぎたからと言って殺してしまえば、これから吠える犬がいなくなってしまうでしょう。」
 遂に、宋遊道は除名された。そこで、高澄が、宋遊道へ言った。
「卿は、我に従ってヘイ州へ来い。そうでなければ、経略が卿を殺すぞ。」
 宋遊道は高澄に従って晋陽へ行き、大行台吏部となった。 

  

 東魏は、喪乱の後、戸籍がめちゃめちゃになり、賦税が不公平になった。
 十月、孫騰と高隆之が諸州へ大使を派遣して洗い直させ、戸籍のない民六十余万人を見つけ出し、流民は本籍地へ返還した。
 十一月、高隆之は録尚書事に、婁昭が司徒になった。
 この年、東魏の散騎侍郎魏収が、国史を修めた。 

陰謀    

 十一年、正月。東魏の儀同爾朱文暢と、丞相司馬任冑、都督鄭仲禮等が、高歓を殺して爾朱文暢を奉じようと計画したが、事前に漏洩し、全員殺された。
 爾朱文暢は、爾朱栄の子息である。 

  

阿諛追従 

 三月、高歓が業へ入朝した。百官は、紫陽にて迎える。
 高歓は、崔進の手を執って、彼の労をねぎらった。
「今までも、朝廷に法官はあった。しかしながら、権豪を弾劾することがなかったのだ。中尉は、ただ御国だけを想い、豪強を避けなかった。そして遂に、朝廷の風紀は粛正されたのだ。」
 そして、崔進へ良馬を賜った。
 しかしながら、崔進の懐中には巧詐があった。
 話は遡るが、魏の高陽王斌には庶妹がおり、名前を玉儀と言った。彼女は、家中では厄介者扱いされており、孫騰のもとへ貰われていったが、彼もやがて彼女を棄てた。高澄は、たまたま道で彼女に出会い、喜んで彼女を収め、こよなく寵愛するようになった。
 やがて、玉儀は琅邪公主に封じられた。この時、高澄は、崔季舒へ言った。
「崔進は必ず諫争するだろうが、俺にも思案がある。」
 そして崔進が諮事した時、高澄は素知らぬ顔をしていた。諮事の三日目、崔進は懐へ入れていた刺(名前を書く為の木札)を前へ落としてしまった。それを見て、高澄は尋ねた。
「それは何に使うのかな?」
 すると、崔進は慄然として言った。
「まだ公主へ会っていないのです。」
 高澄は大いに悦んで、崔進の肱を掴み、私室へ連れて行って公主へ会わせた。
 その話を聞いて、崔季舒は人へ言った。
「崔進の奴は、常々我が奸佞だと怒っており、大将軍の前では『叔父上は殺さなければならない。』と言っていたそうだが、自分のやり方は、その上を行っているではないか。」 

  

高歓卒す。    

 太清元年(547年)正月。高歓が卒した。
 高歓は、心の内を顔に出さず、いつも儼然としていたので、誰もその心中を測り知れなかった。それでいて、ここ一番の時には神のように変化する。軍隊を統制する時には、法令は厳粛で、犯すべからざるものがあった。人を抜擢する時には才覚だけを基準とし、情実を交えない。虚名があっても、実力のない者は登庸しなかった。平静は倹素を尊び、刀剣や鞍を金や玉で飾ったりしなかった。若い頃は大酒のみだったが、責任ある地位に就いてからは、三爵を越えることがなかった。士を好み、勲旧の臣下は最期まで擁護し、敵国の捕虜へ対しては、自分の主君へ忠誠を尽くした人間ならば大抵無罪とした。だから、大勢の文武官が、彼の為に力を尽くしたのである。
 子息の高澄は、喪を秘して発表しなかったが、ただ、行台左丞の陳元康だけへは、これを知らせた。 

 高歓が卒すると、侯景は即座に造反した(詳細は、「侯景の乱」へ記載)。すると、諸将は皆、言った。
「侯景は、崔進への反感から造反したのだ。」
 高澄はやむを得ず、崔進を殺して侯景へ謝ろうとした。すると、陳元康が言った。
「まだ、四海は平定していませんが、綱紀は粛正されました。外辺の数将へおもねって無辜の臣下を枉殺するなど、刑典を汚す行為です。上は天神に背き、下は何を以て庶民を安らげますのか!晁錯の前事がございます(前漢の「呉楚七国の乱」の故事)。どうか慎重にお考えください。」
 そこで、高澄は思い留まった。司空の韓軌を、侯景討伐に派遣する。
 西魏は、侯景を太傅、河南道行台、上谷公へ任命した。 

 四月、高澄は業で入朝した。東魏の静帝が彼の為に宴会を開くと、高澄は立って舞った。学識ある人間は、これを見て、高澄がろくな死に方をしないと判断した。
(胡三省曰く)春秋左氏伝の一節に、周の景王の喪の時、太子と王后が宴会を開いて楽しんだので、晋の叔向は王が禄でもない死に方をすると予言した。
 五月、東魏の朝廷で人事異動があった。新たな役職は、次の通り。
 開府儀同三司庫狄干が太師。孫騰が太傅。賀抜仁が太保。高隆之が録尚書事。韓軌が司徒。尉景が大司馬。可朱渾道元が司空。高洋が尚書令・領中書監。慕容紹宗が尚書左僕射。
 同月、尉景は卒した。 

 七月、東魏の静帝は、高歓の喪を発し、自ら喪服を着た。この時の葬礼は、全て漢代の霍光の故事に依り、相国・斉王の称号を与えて九錫の殊礼を備えた。
 高澄へは、使持節、大丞相、都督中外諸軍、録尚書事、大行台、渤海王の称号を与えたが、高澄は辞退した。
 さて、高歓こと北斉の献武王は、章水の西へ葬られた。成安鼓山の石窟仏寺の傍らへ、密かに穴を穿った。そして棺を納めて穴を塞ぐと、工事に従事した匠質を、全員殺してしまった。
 やがて、北斉が滅亡した後、この時殺された匠の子が、石を暴いて埋葬金を盗んで逃げた。 

  

亡国の主   

 東魏の静帝は、押し出しが立派で、力は並外れ。石の獅子を抱えて垣根を飛び越えることができた。弓を放てば百発百中。しかも文学を好み、性格は物静か。人々は、孝文帝の風格があると評していたので、大将軍高澄は、これを忌避していた。
 当初、高歓は主君を放逐して人々から後ろ指刺されていたので、静帝へは恭順に接しており、政治のことは大小となく必ず伝聞し、時に裁断も仰いでいた。又、宴会のたびに、伏して寿いでいた。だから、配下の者も静帝へ対して恭順だったのだ。
 高澄が大将軍として政務を執ると、その態度は傲慢になった。崔季舒へ静帝の動向を調べさせ、大小となく把握させた。
 ある時、静帝が業東で狩猟をした。静帝が、飛ぶように馬を走らせていると、監衛都督鳥那羅受工伐が後方から叫んだ。
「陛下、馬を走らせなさいますな。大将軍がお怒りですぞ!」
 又、ある宴会では、高澄が大杯になみなみと酒を注いで静帝へ差し出した。
「陛下、臣の酒を受けなさい。」
 この時ばかりは、静帝と雖も、怒りを抑えきれなかった。
「昔から、滅びなかった国はない。朕はこんな辱めを受けてまで生きていたくはないぞ!」
 聞いて、高澄を怒った。
「朕?朕?狗脚朕!」
 そして、崔李舒へ、静帝を三発拳固を食らわせた。
 翌日、さすがに高澄は、崔李舒へ静帝をねぎらわせた。静帝もまた謝り、崔李舒へ絹百匹を賜下した。
(「朕?朕?狗脚朕!」何かの駄洒落でしょう。発音が判らないと意味が掴めません。ただ、日本の古典「太平記」の中で、増長した武士が、上皇を愚弄するシーンがあります。「なに?院?院か?犬か?犬ならば射てくれよう。」そう言って、上皇の乗った輿へ矢を射掛けるのですが、このシーンもその類のものかと思います。)
 静帝は憂辱に堪えず、謝霊運の詩を詠んだ。
「韓が滅んで子房(張良)が奮い、秦が帝になりて仲連は恥じる。我はもと、江海の人。忠義が君子を動かす。」
 散騎常侍の荀済は静帝の本心を知り、祠部郎中の元瑾、長秋卿劉思逸、華山王大器、淮南王宣洪、済北王徽羅と共に、高澄の誅殺を謀った。大器は、鷙の子息である。
 彼等は、宮中へ土山を造ると偽って、北城へ向かって地下道を造った。千秋門まで掘ったところ、門番が地下から音が響いてくるのに気がつき、高澄へ告げた。高澄は兵を率いて宮殿へ入り、静帝を見ると拝礼もしないで座り、言った。
「陛下はなぜ造反された?臣親子の功績で、社稷が存続したのだ。なにも陛下へ背いておらん!これはきっと、左右の妃嬪の仕業に違いない。」
 そして、胡夫人と李嬪を殺そうとした。すると、静帝は毅然として言った。
「古より、臣下が主君へ造反するとは聞くが、主君が臣下へ造反するとは聞かない。王の方が造反を企んだのだ。それでどうして我を責めるのか!我が王を殺せば社稷は安泰だし、殺さなければすぐにでも滅亡する。我は、我が身さえ惜しんでいる閑がない。ましてや妃嬪など!どうしても孤を弑逆すると言うのなら、緩急は王の意のままではないか!」
 高澄は椅子から降りて土下座し、大泣きに泣いて静帝へ謝罪した。ここにおいて痛飲し、夜遅くに退出する。
 三日後、高澄は、静帝を含章堂へ幽閉した。荀済等は、市で釜ゆでとなった。
 この荀済とゆう男は、もともと江東出身。博学で文章が巧かった。梁の武帝は、まだ庶民だった頃から、彼とつき合いがあった。荀済は、武帝の大志を知っていた。しかし、当の武帝はなかなか動こうとしなかったので、彼はよく人へ言っていた。
「起兵したなら、盾を頭の上にかざしながら、墨をすって檄文をつくるものを。」
 武帝が即位すると、ある人が彼を推薦した。すると、武帝は言った。
「才能があっても、戦乱を好む人間は登庸できない。」
 後、、荀済は、武帝が仏教へ狂信しすぎている事や、塔寺が奢侈になり費用がかかりすぎることを上書して諫めた。武帝は激怒して、荀済を百官の目の前で斬首すると息巻いた。朱異が、これを荀済へ密かに告げた為、彼は東魏へ亡命したのである。
 高澄が中書監となると、荀済を侍読に抜擢したがったが、高歓は言った。
「我は荀済を愛している。彼の一生を全うさせてやりたいから、敢えて彼を用いないのだ。もしも荀済を宮中へ入れたら、彼は必ず我が身を誤る。」
 だが、高澄が固く請うたので、遂にこれを許した。
 荀済が捕まった時、侍中の楊遵彦が、彼へ尋ねた。
「もう老齢なのに、何が不満でこんな事をしたのだ?」
 すると、荀済は言った。
「壮気があったたけだ!」
 裁判の時、荀済は言った。
「老いさらばえたのに、まだ功名を立てていなかった。だから天子を擁して権臣を誅したかったのだ。」
 高澄は死刑だけは赦したかったので、自ら尋ねた。
「荀公。何を望んで造反したのだ?」
「詔を奉じて高澄を誅殺するのだ。それのどこが造反か!」
 役人は、荀済が老齢なので、鹿車(鹿一頭が乗せられるだけの小さい車)に乗せて東市へ運び、そこで焼き殺した。
 高澄は、諮議の温子昇が元瑾の陰謀を知っていたのではないかと疑い、彼へ高歓の碑を造らせた。これは落成したが、温子昇は獄中で餓死した。彼の屍は道端へ棄てて、彼の家族は全て官の奴婢とした。
 太尉長史の宋遊道が、温子昇の死体を回収して葬った。すると高澄は、宋遊道へ言った。
「最近、我は司馬子如や孫騰等と朝士の論評をしたことがある。その時、卿へ対しては、朋党を造らないのが欠点だと評したものだが、卿は実は故旧を重んじ節義を尚ぶ人だと判った。天下の人々は、今回の行いで卿がどんな目に会うか恐々としているが、これは我のことを知らないだけだ。」 

 九月、高澄は晋陽へ帰った。 

 二年、正月。侯景軍は鎮圧され、侯景は梁へ亡命した(詳細は、「侯景の乱」へ記載)。 

  

  

高澄胎動 

 この頃、民間では粗悪な銭が出回っていた。高澄はこれを患ったが、民間での私鋳は禁止せず、その代わりに市門へ看板を立てさせようと考えた。その文面は、「五銖よりも軽い銭は、市内へ入れてはいけない。」である。
 しかし、この方策を朝議へ掛けたところ、「今年は穀物が不足しておりますので、来年まで待ってください。」との返答だったので、沙汰止みとなった。 

 三年、四月。高澄が相国となり、斉王へ封じられ、殊礼(贊拝不名、入朝不趨、剣履上殿)を加えられた。
 高澄は業へ出向き、入朝して固辞したが、許されなかった。
 そこで高澄は幕僚を集めて会議を開いた。すると、皆は受けるべきだと勧めたが、陳元康だけは、これを止めた。高澄はこれを憎み、彼の権限を大幅に減らした。