孝文帝の南伐
 
 劉永(「永/日」) 

 建元元年(479年)、蕭道成が宋を簒奪して斉を建国すると、魏は、亡命していた宋皇室の劉永を奉じて斉を攻撃した。劉永へ対しては、魏の属国となる前提で、江南政権の踏襲を許可していた。
 これに対して、斉は、驍騎将軍の王洪範を柔然へ派遣して、対魏の軍事同盟を結ぼうとした。王洪範は、蜀から吐谷渾経由で柔然へ到着した。柔然は、十万騎を率いて魏へ攻め込み、塞上へ至って引き返した。
(ちなみに、王洪範は483年、斉へ帰還した。その間、三万余里を踏破した。) 

 二年、魏軍は、次々と斉の城を落とし、寿陽まで進んだ。まさに戦おうとした時、劉永は周りの将士を拝し、ハラハラと涙を零して言った。
「共に力を尽くし、讐恥を雪いでくれ!」 

 魏の本隊は、二十万と号して豫州を攻撃していた。これに対して斉の豫州刺史垣祟祖は、外城を堅固にし、肥水を堰き止めて守備を固めた。皆は言った。
「昔、仏貍が入寇した時、南平王は今の我等の倍の兵力を持ちながら、外城では守り難いと判断し、内城で守りました。ましてや肥水を堰き止めても、役に立ちません。」
 だが、垣祟祖は言った。
「もしも外城を放棄すれば、虜は必ずこれに據り、楼櫓を造り長囲を築くに違いない。そうなれば、我等は座して捕らわれてしまう。策は我が胸にある。もう、これ以上何も言うな。」
 そして、堰の北へ小城を造って、その周りに濠を深く掘り、数千人で守らせた。
「虜がこの小城を見れば、一挙に落とせると侮って、総攻撃を掛けるに違いない。その時、堰を切って落とすのだ。」
 果たして、魏人は蟻附して小城を攻撃した。そこで堰を決壊させると、堰き止められていた水が怒濤のように押し寄せ、魏軍を一気に飲み込んだ。数千の人馬が溺死して、魏軍は敗退した。 

 三月、豪雨を理由に劉永は退却を申請し、魏の朝廷はこれを許した。

  

淮北の造反  

 宋の明帝の時、魏は淮北を奪った。だが、淮北四州の民は、魏の統治下にあるのが不満で、いつも江南へ帰順することを思っていた。そこで、斉の高帝(蕭道成)は、間者を派遣して内応者を募っていた。
 二年、四月。徐州の住民桓標之と、コン州の住民徐猛子が蜂起して群盗となり、部下をかき集めて五固を占拠した。そして、司馬朗之を盟主に推戴した。
 魏は淮陽王尉元と平南将軍薛虎子を派遣して、これを討伐させた。
  桓標之等は、険阻な地形に據って、抵抗を続けた。斉は、李安民を救援に差し向けたが、間に合わず、三年の四月、彼等は魏軍に滅ぼされた。魏軍は三万余口を略奪して平城へ帰った。
 七月、尉元と薛虎子は、五固を落とし、司馬朗之を斬った。こうして、東南諸州は全て平定された。この功績で、薛虎子は彭城鎮将となり、徐州刺史に任命された。 

 この頃、州鎮の守兵は、住民から絹を徴発することが認められていた。すると、薛虎子は上表した。
「我が国が江東平定を欲しているのなら、まず彭城へ穀物を蓄えることが肝要です。今、在鎮の兵卒達は、数万人に及びます。彼等へ与えられる絹は一人宛十二匹ですが、これを他の物に替える手段がありません。ただ絹だけ持っていても、兵卒達は飢寒を免れず、これでは、公私共に損失するだけです。
 徐州には良田十万余頃があり、水陸共に肥沃な土地。清・ベンの水を利用すれば、充分灌漑できます。もし、兵卒達の絹を売って牛を買えば、一万頭は入手できます。これで屯田を行えば、一年で食糧は満ち足ります。半数の兵卒で耕し、残りの半数で守る。そうやっても守備は充分ですし、その収穫は、絹の十倍はあります。そうやって数年経てば、官庫に兵糧は山積みされます。それでこそ、敵を呑む勢力が得られるのです。」
 魏の朝廷は、これを裁可した。
 薛虎子の政治は恩恵があり、民も兵も彼に懐いた。
 後、沛郡太守の邵安と下丕太守の張拳が収賄で薛虎子から罰せられようとしたので、彼等は先手を打って上書した。
「薛虎子は江南と内通しています。」
 だが、孝文帝は言った。
「虎子はそんなことはしない。」
 そして真相を究明させると、果たして冤罪だった。邵安と張拳は自殺させられ、彼等の子息は鞭打ち二百の刑となった。 

  

殷霊誕と車僧朗 

 七月、斉の高帝が、後軍参軍の車僧朗を使者として、魏へ派遣した。
 孝文帝は尋ねた。
「斉が宋を補佐するようになって、まだ日が浅い。それなのに、どうして皇帝を名乗ったのか?」
 すると、車僧朗は答えた。
「虞は、夏を登庸してこれに譲り、魏は晋を登庸してこれに譲りました。時宜がそうさせたのでございます。」 

 ところで、宋の昇明年間に、殷霊誕と苟昭先が、魏へ使者として派遣されていた。彼等は魏に滞在している時に、斉の簒奪を聞いた。この時、殷霊誕は言った。
「魏と宋は通好を結んでいました。これは、憂患を共にするとゆうことでございます。今、宋が滅びましたのに、斉は挙兵しない。これでは何の為の和親ですか!」
 やがて劉永が斉へ入寇した時、殷霊誕は劉永の司馬になることを請願したが、孝文帝は許さなかった。
 九月、魏は南郊で軍事演習を行い、その後群臣達を集めて大宴会が開かれた。この時、車僧朗を殷霊誕の下座に就けたので、車僧朗は座に就くことを肯らず、言った。
「殷霊誕が宋の使者だったのは昔の話。今では斉の庶民です。どうか陛下、正しい礼に従って処遇して下さい。」
 これを聞いて殷霊誕は言い返し、ついに二人で罵りあった。
 劉永は、宋から降伏して来た解奉君へ賄賂を贈って、車僧朗を暗殺させた。魏人は解奉君を捕らえて誅殺し、車僧朗を手厚く葬り、殷霊誕を南朝へ突っ返した。
 世祖が即位するに及んで、殷霊誕の言葉がその耳に具に入った。世祖は殷霊誕を獄死させた。 

  

斉・魏の外交 

 永明十年(492年)、魏は員外散騎常侍の宋弁を使者として斉へ派遣した。彼が帰国すると、孝文帝は尋ねた。
「斉の国情はどうだった?」
 すると、宋弁は答えた。
「蕭氏父子は、天下へ何の功績もないのに、国を簒奪しました。順守しようがありませんので、苛い政令で民を抑えつけておりますし、重い賦役は頻繁に起こっています。朝廷には股肱の臣下が居らず、野には民の愁怨が満ちております。彼の一代で滅びなかったら幸いと申すもの。子孫へ余慶を遺すなど、とてもできますまい。」 

 同年十二月、斉から、司徒参軍の蕭深と范雲が使者としてやって来た。孝文帝は彼等を丁重にもてなして、自ら語り明かした。そして、群臣へ言った。
「江南には立派な臣下が多いな。」
 すると、侍臣の李元凱が言った。
「江南には立派な臣下が多いので、毎年主君を替えます。江北にはそんな臣下はいないので、百年経っても同じ主筋を奉っております。」
 孝文帝は甚だ恥じ入った。 

  

御前会議 

 建武元年、(494年)。宋では、蕭鸞が、時の皇帝(後に「海陵王」と称せられる)を廃し、自ら帝位へ即いた。これが明帝である。彼は、海陵王の祖父の従兄弟に当たる。
 そこで、孝文帝は大挙して南伐しようと考えた。すると、ヨウ州刺史の曹虎が、魏へ使者を派遣し、降伏を申し出た。
 十二月、孝文帝は親政を目論み、戒厳令を発した。そして、洛陽へ移住した代の民へ対し、租税を復活させると詔を下した。すると、相州刺史高閭が上表した。
「洛陽は建設したばかりです。それに、曹虎は人質を出したわけでもありません。軽挙は宜しくありません。」
 だが、孝文帝は従わなかった。
 曹虎からの使者は、遂にやってこなかった。そこで、孝文帝は公卿達へ南伐を挙行するか否か尋ねたところ、挙行すべし、中止すべし、さまざまだった。
 孝文帝は言った。
「諸策紛々として、どうすれば善いか判らない。よし、主戦論と中止論の各々で模範討論をしてみよう。任城、鎮軍、お前達は中止論を展開せよ。主戦論は朕が行う。諸卿は、これを聞き、どちらに従うか決めればよい。」
 すると、皆はこれに賛成した。そこで、まず鎮軍将軍李沖が言った。
「我等は、遷都したばかりで、民は休息を欲しています。それに敵方の内応者もありませんし、ここは軽挙を慎むべきです。」
 すると、孝文帝は言った。
「曹虎の降伏は、確かに信用できないが、偽りと決まったわけでもない。今回、朕が親征する。それで、もしも奴の降伏が偽りならば、淮甸地方の巡撫に切り替え、民の苦疾を尋ねればよいではないか。それも又、十分に意義のある事だ。それより、もしも奴の降伏が真実なのに朕が出征しなければ、時期を失うばかりではなく、帰順したいと思う心を踏みにじる事になり、これから帰順者が二の足を踏むだろう。そうすると、朕の大略に支障を来す。」
 すると、任城王澄が言った。
「曹虎は人質も出していませんし、あれ以来使者もよこしません。その虚偽は明白です。今、代の民はわが国に占領されたばかりで、本心は斉へ戻りたがっているのです。それを我々は、無理やり洛陽まで強制移住させました。洛陽へ移住した彼等には縁者もなく、蓄えもない人々です。それに冬も近く、そろそろ農繁期。いわゆる、『大勢の移民が、一斉に家を建てる』時と、『田を耕して種を播く』時が重なっています。このような民へ更に出征を強いるなど、『皆は王の為に喜んで出陣した』武王の軍隊とは雲泥の違いです。
 今、軽挙して戦功が建たなければ、天威を挫くだけ。得策ではありません。」
 司空の穆亮は挙行するべきだと言い、公卿もそれに同意した。すると、任城王は穆亮へ言った。
「御身達は、外で軍を見た時、兵卒達の挙動に憂いが満ちているのを見ただろう。そして、いつもは南伐へ反対していたではないか。それが、陛下を目の前にした途端、これか!口と腹が別々で、欺佞に流れる。それが大臣の義か!国士の礼か!万一国が危うくなったら、それは御身らのせいだ。」
 李沖が言った。
「任城王こそ、社稷の忠臣です。」
 すると、孝文帝は言った。
「朕に従う者は奸佞で、朕に従わないものは皆忠臣か!だいたい、小忠は大忠の邪魔にしかならん!」
 任城王は言った。
「臣は愚闇で小忠しか身につけていません。ですが、これは誠を尽くして国の為にに謀る事を基盤としています。大忠とは、何を拠所にしているのでしょうか!」
 だが、孝文帝は従わなかった。
 辛亥、洛陽を出発した。北海王詳を尚書僕射とし、李沖には従来の役職に僕射を兼務させて、この二人を洛陽に残して留守を任せた。
 戊辰、孝文帝は懸瓠へ到着した。ここで詔を出し、寿陽・鍾離・馬頭で略奪・抑留していた斉人達を、すべて解放させ、斉へ返してやった。
 曹虎は、果たして降伏しなかった。
 孝文帝は、南陽を攻撃するよう盧淵へ命じた。だが、軍中に兵糧が不足していたので、盧淵は、まず赭陽を攻撃して葉倉の穀物を奪うよう献策し、孝文帝はこれを許可した。そこで盧淵は、征南大将軍城陽王鸞、安南将軍李佐、荊州刺史葦珍と共に赭陽を攻撃した。
 北襄城太守成公期は、城門を閉じて守った。 

  

孝文帝の寿陽攻撃 

 二年、正月。斉は王廣之に司州を都督させ、蕭坦之に徐州を都督させ、沈文季に豫州を都督させて魏軍を防いだ。
 魏軍では、略奪禁止の詔が出た。 

 丁酉、斉は中外に戒厳令を布いた。陳顕達を使持節・都督西北討諸軍事として派遣し、新亭・白下の気勢を挙げた。
 已亥、孝文帝は淮河を渡った。
 二月、魏軍は寿陽へ到着した。その大軍は、号して三十万。鉄騎は遠くからも眺望できた。
 甲辰、孝文帝は八公山へ登って詩を賦した。この時、雨に降り込められた。孝文帝は、途中で病気の兵卒に遭うと、自らこれを撫慰した。
 さて、寿陽にて、孝文帝は城中へ呼びかけた。すると、豊城公遙昌は、崔慶遠を使者として派遣した。崔慶遠が、今回の来寇の名分を問い質すと、孝文帝は答えた。
「もちろん、ある!お前達の咎を暴露してやろうか?それとも言わぬが花か?」
「どうぞ、腹蔵無くご指摘下さい。」
「では、質す。斉主はなぜ廃立した?」
「昏君を廃し、名君を立てるのは、古来より当然のこと。何を非難なさいます?」
「武帝(蕭道成)の子孫達は、今、どこにいる?」
「七王は、悪人でした。それで、かつての管叔や蔡叔と同じように誅殺されたのです。残る二十余王は、或いは朝廷に、或いは地方官として職務に就いております。」
「卿の主人が、もしも忠義を忘れなければ、血筋の近い者を立てた筈。周公が成王を補佐したようにな。なんでそうしなかった。」
「成王は、亜聖とも言うべき、高徳の主君でした。ですから、周公はこれの宰相となったのです。今、武帝の子孫には、成王のような方は一人もおりませんでした。それに、霍光は、武帝の近親者を棄てて、宣帝を立てました。それは、ただ賢人を選んだのです。」
「霍光が、自分で帝位に就いたと言うのか?」
「彼は皇族ではありませんでした。我が主は宣帝にも比するお方。何で霍光などと比べられましょうか!それとも、紂王を討って微子を立てなかった武王のことを、天下を貪ったと謗るのですか。」
 孝文帝は豪快に笑った。
「朕は、罪を質しに来たのだ。だが、卿の言葉を聞くと、赦すべきだと思ってしまうな。」
「『可を見てたら進み、難を知ったら退く』これが聖人の軍隊です。」
「卿は、我との和親を望んでいるか?」
「二国が和親交歓することは、民の幸い。逆に戦争が起これば、民は塗炭の苦しみを味わいます。和親か否か、どうか聖君がご裁断下さい。」
 孝文帝は崔慶遠へ、酒肴や衣服を賜下した。
 結局、孝文帝は寿陽を攻撃せずに東へ戻り、戊申、淮へ到着した。民は安堵し、交通も復帰した。丙辰、鍾離へ到着する。(鍾離と寿陽は、三百三十余里離れている。) 

   

義陽攻撃 

 二年、正月の乙未。拓跋衍が鍾離を攻撃する。徐州刺史蕭恵休が城壁に上がって拒戦した。そして、敵の隙を見て出撃し、敵を撃破した。
 斉の明帝は、崔恵景と裴叔業へ、鍾離救援を命じた。 

 劉永(「永/日」)と王粛は義陽を攻撃した。斉の司州刺史蕭誕がこれを拒む。王粛は、屡々蕭誕の軍を破り、斉兵万余人を降伏させた。この手柄で、彼は豫州刺史に任命された。
 さて、劉永は偏狭で気分屋。兵卒には横暴に接したが、誰も敢えて口を出さなかった。すると、法曹行参軍の陽固が苦諫した。劉永は怒り、斬り殺そうとしたが、それよりも前線へ追い出す方を選んだ。先陣を命じられた陽固は、こと戦陣に臨んでは勇敢に戦う人間だったので、劉永は始めて陽固を認めた。
 劉永、王粛は二十万の大軍で、柵を築いて義陽を包囲し、力攻めに攻めていた。城内では、盾を頭にかざさなければ歩けない有様だった。
 王廣之が兵を率いて義陽救援に向かったが、魏の強さに畏れ、城から百余里離れたところで留まった。だが、城中は益々急を告げていたので、黄門侍郎の蕭衍等が先発を名乗り出た。そこで王廣之は麾下の精鋭を与えて、先発させた。
 蕭衍は、夜間、間道を走って、賢首山へ出た。ここは、魏軍の陣から数里離れている。この軍が不意に出現したので、その兵力を測りかね、魏軍は攻撃をとまどった。
 明け方になって、城中の兵卒は援軍を見つけた。蕭誕は、すかさず討って出て、魏の柵を焼き討ちした。折からの風に煽られて火が燃え広がると、蕭衍軍も突撃した。魏軍は支えきれず、包囲を解いて逃げた。
 已未、蕭誕等はこれを追撃して、撃破した。 

     

魏を討って趙を助ける  

 話は遡るが、義陽の危機を聞いた明帝は、都督青・冀二州諸軍事の張沖に、魏本国を攻撃するよう命じた。そうやって、魏軍を二分しようと考えたのだ。
 張沖は、軍主の桑係祖に、魏の建陵・駅馬・厚丘の三城を攻撃させた。また、軍主の杜僧護には、虎抗・馮時・即丘の三城を攻撃させた。彼等は、この城を悉く抜いた。
 青・冀二州刺史の王洪範は、軍主の崔延に、魏の紀城を襲撃させ、これに據った。 

  

馮誕卒す 

 孝文帝は、江水まで行こうと、鍾離を出発した。この時、司徒の馮誕は、病の為に従軍できなかった。孝文帝は泣いて別れを告げた。
 五十里ほど進んだ所で、馮誕の訃報が届いた。この時、崔恵景軍は、孝文帝からわずか百里の所にいた。孝文帝は、数千人を率いて鍾離へ戻ってきて、馮誕の屍に取りすがって泣いた。明け方まで声も涙も止まらなかったという。
 翌日、江への行軍の中止を宣言し、馮誕を葬った。
 馮誕は、孝文帝と同年で、帝妹の楽安長公主を娶っていた。学術はなかったが、淳篤な人柄で寵用されていた。
 丁卯、孝文帝は使者を江へ派遣して、明帝の罪状を数え上げた。 

  

魏軍撤退 

 魏は、長い間鍾離を攻撃したが、勝てず、大勢の兵卒を失った。
 三月、孝文帝は邵陽へ行き、洲の上に城を築いた。又、水路を遮断する為、二城を築いた。蕭坦之は軍主の裴叔業に二城を攻撃させ、これを抜いた。 

 孝文帝は、城を築いて淮南を抑え、占領地の民を治める拠点にしようと考え、相州刺史の高閭へ現状を述べさせた。すると、高閭は上表した。
「兵法では、『敵の兵力の十倍あればこれを包囲し、五倍ならば攻撃する。』とあります。今回の出兵は、降伏して来た曹虎を受け取るためのもので、兵力は、そう多くありません。これでは成功は難しいでしょう。それなのに、今、淮南に城を築いてここを占領しようとなさっておられます。
 昔、世祖は数十万の大軍で瓜歩へ望み、敵方の多くの軍を降伏させましたが、于台の小城を攻撃して勝てず、結局、この時の遠征では寸土の領土さえ得られませんでした。この時、有能な人間が居なかったのではありません。寿陽・廣陵とゆう大鎮を平定できなかったので、小を守ることができなかったのです。
 そもそも、水を枯らそうとしたら、まず水源を塞がなければなりませんし、木を伐るときには、まずその本を断ちます。敵の本原が健在なのに、末流を攻撃しても、成果がどうして挙がりましょうか。
 寿陽・于台・淮陰は、淮南の本原です。この三鎮の一つも落とせず、孤城を守ろうとしても、できないことは明白です。外からは敵の大鎮が迫り、長淮の流れがここを本国から隔離しています。少数の兵を置いても守備には不足ですし、大軍を残せば兵糧をどうやって確保いたしましょう?本隊の大軍が帰国すれば、占領の為に残された兵卒達は孤立して怖じ気づきます。まして、夏になって川の水量が増えれば、救援軍の派遣も困難です。敵方から見るならば、出撃したばかりの軍で、長いこと従軍している相手を討つことになり、我々は疲弊しきった軍で気力充実した敵を防ぐことになります。そうなれば、我等が残していった軍は、必ず敵に捕らえられます。忠義と勇力を奮っても、何の役に立ちましょうか!
 それに、故郷を想い本国を恋い慕うのは人間の常情。昔、彭城の役では、大鎮に勝ち、城の守りも固まったにもかかわらず、我等の占領に不服で決起しようとした民は数万を越え、ここに五固の役が勃発しました(建元年間)。この時、淮北には角城があり、淮陽から十八里しか離れてませんでしたが、鎮圧するのに長い間の包囲戦が必要でした。
 今の状況は、これよりも数倍困難です。天の時はなお熱く、雨は降り続き。どうか陛下、世祖の故事を念頭に置かれ、ここは全軍で撤退して下さい。そして、洛陽の経営に全力を注ぎ、国力を蓄え、徳政を布くことをお考え下さい。中国が一つに纏まれば、遠人も自ずから服従してくるでしょう。」
 尚書令陸叡も上表した。
「長江は浩蕩として、奴等の巨防です。又、南土の気候はじめじめとして蒸し暑く、我が国民では病気になる人間が続出します。それに、我が国は遷都したばかり。今は政治を一新しなければならない時期ですし、造成と兵役を同時に興すのは、聖王と雖も難しい事です。今、屈強の兵卒が外征に従事していますし、老弱の夫は内にて土木に勤しみ、それらの費用は、毎日千金を要しています。疲れ切った兵卒で堅城を攻撃しても、どうして戦果が挙がりましょうか!
 陛下が去年の冬に挙兵しましたのは、江・漢にて武功を輝かせようとのお考えだった筈。今、春から夏を迎えようとしております。撤兵の時期でございます。どうか、早々に洛陽へ引き上げ、根本を固めるべきでございます。内を固めて憂いをなくし、民力を休め、その後に出陣を命じれば、必ず敵を征服できます。」
 孝文帝はこの意見を納めた。 

 魏軍が邵陽へ城を築いたので、崔恵景はこれを患った。
 張欣泰は言った。
「奴等は撤退するつもりです。城を築いたのは、軍備を張るように見せつけて我等を恐れさせ、追撃をさせまいとの考えでしょう。今、もし和平の使者を出せば、敵は必ず乗ってきます。」
 崔恵景はこれに従い、張欣泰を使者として派遣した。孝文帝はこれを呑み、兵を退いた。
 退却する魏軍が淮河を渡り始め、五将を後に残すだけとなった時、斉軍が軍艦を出して攻撃を仕掛けた。孝文帝は言った。
「我が軍を救出する者はおらぬか。見事やり通したら、直閣将軍に抜擢するぞ。」
 軍主の渓康生が応募した。彼は筏に柴をくくりつけ、火を付けて斉の舟を焼き払った。更に、煙に紛れて進撃し、白兵戦を挑み、斉軍は敗走した。
 孝文帝は、約束通り、渓康生を直閣将軍に抜擢した。
 孝文帝は、前将軍楊播へ三千五百の兵を与えて殿とした。この時、春の増水で斉軍が大挙して押し寄せ、戦艦で川を塞ぐ有様だった。だが、楊播が南岸に陣を布いてこれを防いだので、魏軍は渡河することができた。
 斉軍は四集して楊播軍を包囲する。楊播は円陣を布いて防戦し、自ら奮闘して大勢の敵兵を殺した。だが、敵は多く、二夜を過ぎると、兵糧がなくなった。斉軍は包囲を解かない。孝文帝は北岸から見ていたが、川の水が溢れ返るばかりで救援軍も派遣できなかった。 だが、やがて水も次第に退いて来た。そこで、楊播は精鋭三百機騎を率いて斉の軍艦へ向かって叫んだ。
「これから河を渡る。防げるものならやってみろ!」
 遂に、兵卒を率いて河を渡った。楊播は、楊椿の兄である。
 魏軍が撤退した後、邵陽洲の上に一万の兵が残った。彼等は五百頭の馬を求め、帰国を邪魔しないよう求めた。崔恵景がこれを攻撃しようとすると、張欣泰は言った。
「帰軍の前途を遮断することは、兵法の禁じ手。奴等は死地にいますので、軽く見ることはできません。それに、奴等を敗っても大した手柄ではありませんし、敗北したら今までの功績が台無しです。ここは奴らの要求を呑んで帰してやるのが上策です。」
 崔恵景は、これに従った。
 後、蕭坦之は明帝へ言った。
「邵陽洲に、賊兵万人が孤立していましたが、崔恵景と張欣泰は、これを逃がしてやりました。」
 それで、彼等へは恩賞が与えられなかった。
 甲申、戒厳令は解かれた。
 始め、孝文帝は、「揚子江の水を馬に飲ませる」と息巻いていたので、明帝は懼れ、廣陵太守の蕭穎冑へ、全住民を城内へ入れるよう命じた。しかし、蕭穎冑は民がパニックを起こすことを懼れ、又、魏軍がまだ遠くにいたので、この命令を実行しなかった。果たして、魏軍はここまで進軍できなかった。 

  

盧永(「永/日」) 

 魏が入寇した時、盧永は、魏国からの使者として建康に留まっていた。斉人は魏を恨み、蒸した豆を飼い葉桶に入れて盧永へ与えた。盧永は懼れきってこれを食べたが、その時彼は、涙と汗が交々流れていた。これに対して、謁者の張思寧はこれを突っぱね、結局、館の下で死んだ。
 後、盧永が帰国すると、孝文帝は彼を詰った。
「人はいつかは死ぬものだ。なんで牛や馬の真似までして我が国を辱しめるのか!たとえ、蘇武には遠く及ばないにしても、せめて張思寧と比べて恥ずかしくないか!」
 そして、盧永の身分を庶民へ落とした。 

  

拓跋英の南鄭攻撃 

 孝文帝が鍾離に逗留していた時、仇池鎮都大将の拓跋英が、州兵を率いて漢中の劉藻を攻撃する事を請願し、孝文帝はこれを許した。
 対して、斉の梁州刺史蕭懿は、麾下の将尹紹祖と梁李群へ二万の兵を与えて派遣し、険阻な地形に據って五つの柵を作らせた。
 拓跋英は言った。
「奴等は統一を欠いている。我等が精鋭で奴等の一営を攻撃しても、他の営は救援に来ない。そして、一営を抜けば、他の四営は逃げる。」
 そこで、精鋭を率いて一営へ集中攻撃を加えて、これを抜いた。果たして、他の四営は潰走した。この敗戦で斉軍は、梁李群が生け捕りとなり、三千人が斬り殺され、七百人が捕虜となった。
 魏軍は勝ちに乗じて南鄭まで進軍した。蕭懿は、麾下の姜修に攻撃させたが、拓跋英はこれを迎撃し、敵兵を悉く捕らえた。
 だが、そこで魏軍が引き上げようとした時、斉の別働隊と遭遇した。魏軍は疲れ切っており、兵卒達は驚愕して逃げ出そうとした。だが、拓跋英は自若とした態度でことさらにゆっくりと馬を進めた。そして、高みに登って敵陣を見降ろし、西東を差し招いて、陣を整えた。これを見た斉軍は、伏兵があるかと恐れて退却したので、拓跋英は追撃して撃破。とうとう、南鄭を包囲した。
 魏軍は、兵卒の略奪を禁じたので、民は喜んで彼等に懐き、遠近からは兵糧の差し入れが相継いだ。
 蕭懿は籠城した。
 この時、軍主の范契先が三千の兵を率いて城外にいた。彼は南鄭救援の為引き返したが、拓跋英に襲撃され、全滅した。
 魏軍の南鄭包囲は数十日にも及び、城内は兢々となった。この時、録事参軍のユ域が空っぽの倉庫数十を仰々しく封印して言った。
「あそこに詰まっている粟で、二年間は支えられる。ただ、守りを固めるのだ!」
 これによって人々の心は落ち着いた。
 やがて、孝文帝から召還命令が出た。拓跋英は、まず老弱の兵卒から退却させ、自らは精鋭を率いて殿となった。そして、南鄭へ使者を派遣すると、蕭懿へ別れの挨拶をした。蕭懿は、この退却を罠と疑い、拓跋英が去って一日しても城門を開けなかった。
 二日目になって、ようやく蕭懿は追撃した。すると、拓跋英は下馬し、抗戦の構えを見せた。そうなると、斉の兵卒は、敢えて近寄ろうとしない。こうして四日間、魏軍はジリジリと後退し、遂に蕭懿軍は引き返した。 ところで、蕭懿は使者を派遣して仇池の諸テイを手懐け、拓跋英の糧道を絶つことに成功した。そして、諸テイの軍は、拓跋英軍を襲撃した。拓跋英は頬に矢を受けたながらも奮戦し、遂に、魏軍は全軍仇池へ撤退できた。そして、造反した諸テイの掃討が行われ、これを平定した。
 拓跋英は南安王貞の息子、蕭懿は蕭衍の兄である。 

  

城陽王鸞の赭陽攻撃 

 ここで、話は赭陽を攻撃している城陽王鸞へ移る。
 魏軍の諸将の心は統一されておらず、戦果はなかなか挙がらなかった。包囲して百余日になり、たいした戦いもなかったが、武装しているだけで魏の諸将は疲れ切っていた。李佐一人だけ昼夜を分かたず攻撃したが、大勢の士卒を死傷させただけだった。
 明帝は、太子右衛率の垣歴生を救援に派遣した。これで斉の兵力の方が多くなったので、魏の諸将は撤退を望んだ。ここでも、李佐だけが二千騎を聞いて迎撃したが、敗北した。 盧淵等が退却すると、垣歴生は追撃し、大勝利を収めた。垣歴生は、垣栄祖の従兄弟である。
 南陽太守房伯玉等も、薛眞度を敗った。
 城陽王鸞は、瑕丘で、孝文帝と合流した。
 孝文帝は彼等の敗戦を詰った。
 五月、拓跋鸞は、襄県王へ降格となり、廬淵、李佐、葦珍は官籍を剥奪されて庶民となった。ただ、薛眞度だけは、従兄弟の薛安都の功績に免じて降格はなかったが、他の物は皆左遷された。
 孝文帝は言った。
「進めば、その功績を明らかとし、退けば、その罪を顕わす。」