孝文帝の治世  その二
 
苻承祖と楊氏 

 文明太后は、宦官の苻承祖を寵愛しており、侍中まで出世させた上、「絶対に死刑にしない」とゆう特権まで与えていた。
 永明九年、文明太后が死ぬと、苻承祖の収賄が暴露された。孝文帝は、詔を出していたので死刑だけは赦したが、官職剥奪の上、家にて禁錮させた。苻承祖は、一ヶ月余りで卒した。
 苻承祖の権勢が盛んだった頃は、一族や姻族が群がり寄って、甘い蜜を吸っていた。ところが、彼の叔母の楊氏だけは、そんなことをしなかった。彼女はいつも、苻承祖の母親へ言っていた。
「姉さんには一世の栄光がありますが、妾の無憂の楽しみには及びませんわよ。」
 姉から着物を貰っても、滅多に受け取らない。強いて与えられると、言った。
「私の夫は貧しいので、こんな立派な服を着ると却って落ち着きませんわ。」
 やむを得ず荷受け取った時は、これを埋めたり奴婢へ与えたりした。
 彼女はいつもヨレヨレの服を着て、自ら家事に精を出している。
 苻承祖が迎えの車を寄越しても、行こうとしない。無理矢理載せようとすると、泣きながら言った。
「お前達は、妾を殺すつもりですか!」
 そんなこんなで、苻氏の縁者達は、彼女のことを「癡姉」と呼んでいた。
 やがて、苻承祖が失脚すると、役人達は苻承祖の母親と、その妹の楊氏を捕まえて、殿庭へ引き出した。母親の方は死刑となったが、孝文帝は楊氏がヨレヨレの服を着ているのを見て、彼女だけは特に赦免した。 

  

李貴人の一族 

 孝文帝の実母は李貴人。昇明二年(478年)、馮太后が李恵の才覚を忌避して彼を誅殺した時(詳細は「孝文帝の行政改革」に記載)、彼女の弟達も、皆、誅殺された。
 李恵の従兄弟の李鳳は、安楽王長楽の主簿となっていたが、安楽王が造反を企てた事件で、連座して誅殺された。この時、李鳳の息子の李安祖等四人が逃げ出して隠れていたが、永明九年、恩赦が出たので、出頭した。
 孝文帝は、母方の縁者の生存者とゆうことで、彼等を侯爵に封じ、将軍を加えた。そして彼等と謁見して、言った。
「卿の先世は、二度、罪を獲た。王者が官職を設置するのは賢人を遇する為であり、外戚が出世するのは末世の世相である。卿等らは、特別な才能はない。すみやかに家へ帰れ。そして、今後は外戚でも無能な者はこのように遇することとする。」
 後、爵位を伯爵へ降格し、将軍号も剥奪した。
 人々は、孝文帝のことを、「馮太后にはあれだけ手厚かったのに、李太后には何と酷薄なことだ。」と批評した。太常の高閭もそのように上言したが、孝文帝は聞かなかった。
 後、世祖が外戚を厚遇するようになると、李安祖の弟の李興祖を中山太守とし、李恵には開府儀同三司、中山公が追賜された。 

先賢を祀る 

 永明十年、孝文帝は、平陽で堯を、廣寧で舜を、安邑で禹を、洛陽で周公を祀るよう詔を下した。これらは皆、牧守に事を執り行わせた。孔子の廟は、中書省に祀らせた。孔子へ文聖尼父と諡し、孝文帝自ら拝祭した。 

  

尉元 

 十年、八月。司徒の尉元が老齢を理由に引退を請願し、孝文帝はこれを赦した。尉元に玄冠と素衣を賜下する。
 やがて、尉元を三老とするよう詔を下した。皇帝自ら尉元を再拝し、着物を与え、忠告を乞うた。すると尉元は、孝友化民を勧めた。三老へは、上公に準じて禄を与えた。
 十月、安定王休を大司馬に、馮誕を司徒に任命した。馮誕は、馮煕の子息である。 

 十一年、孝文帝は洛陽遷都を決意した。(詳細は、「洛陽遷都」に記載。) 

 七月、魏では恂を皇太子に立てた。 

  

中華に憧れて 

 建武元年(494年)、五月、魏では端午と七夕の饗宴の廃止を決定した。これらと寒食の饗は、皆、夷の習俗である。 

 孝文帝は、旧風を変更しようと考えていた。そして、十一月、士民の胡服を禁止した。国人の大半は、これに不満だった。(国人とは、魏が北方で興った時からの譜代の臣下達である。)
 通直散騎常侍の劉芳と給事黄門侍郎の郭祚が、文学で孝文帝から親しまれた。やがて、彼等で政治について密議を凝らすことが多くなり、その分、大臣貴戚達が疎まれるようになった。大臣達は面白くない。そこで、給事黄門侍郎の陸凱が、孝文帝の命令を受けて、貴人達を個別に説得して回った。
「陛下は、ただ故事や昔の作法を知りたがっておられるだけだ。あいつらは、用済みになれば、自然と疎遠になってゆくさ。」
 これによって、皆の不満は、少しは収まった。 

  

孝文帝のエピソード 

 二年、孝文帝は、斉へ親征した。(詳細は、「魏、斉へ寇す」に記載) 

 帰国の途中、孝文帝は魯城へ立ち寄り、自ら孔子を祀った。そして、孔子を四人官に、顔回を二人官に任命し、孔子の宗子のうち一人を祟聖侯に封じた。
 やがて、孝文帝の一行は高傲へ到着した。ここで舟を準備させ、黄河を遡って洛陽へ帰ろうとしたので、謁者僕射の成淹が言った。
「河の流れが激しゅうございます。万乗の天子がそのような危険を冒してはなりません。」
 すると、孝文帝は言った。
「平城には、物資を輸送できる河がなかった。だから民が貧しかったのだ。今、洛陽へ遷都した。それは四方の流通を奮わせようと思ってのことだ。それなのに、民は黄河の流れの激しさに怖じ気づいている。だから、朕自らが先頭に立ち、百姓の心を開こうと思うのだ。」 

二年、八月。孝文帝は華林園や景陽山跡を遊覧した。黄門侍郎の郭祚が言った。
「山水は、仁者や智者の楽しむもの。修復なさってはいかがですか?」
 すると、孝文帝は言った。
「華林園や景陽山を築いた魏の明帝の豪奢な生活は、彼の失政だ。朕がどうしてそれを踏襲しようか!」 

 孝文帝は読書を好み、常に巻物を手放さず、馬上や輿の上でも講道を忘れなかった。 

  

高閭 

 九月、孝文帝は業へ行った。しばしば相州刺史高閭の屋敷を訪れ、彼の今までの功績を褒め称えて、思い恩賞を賜下した。ところで、高閭は幽州出身だったが、生まれ故郷の刺史になりたいと、再三請願した。孝文帝は、詔を下した。
「高閭は、懸車の年(隠居する年齢。漢の薛廣漢の故事に依る)となったが、未だに故郷へ錦を飾りたがっている。進む事のみを知って退く事を知らないその態度は、謙譲の徳を損なうものである。よって、彼の将号を降格して平北将軍とする。しかしながら、彼は朝廷の長老。その情願は叶えるべきであろう。よって、幽州刺史に任命する。今までの功労は功労、そして法は法。降格したことで法を守り、望みを叶えることで朝恩を示す。」
 高閭の後任として、高陽王擁(正しくは、手偏がない)を相州刺史に任命した。この時、孝文帝は高陽王を戒めた。
「牧となるのは、簡単な事だが同時に困難な事でもある。『その身が修まっていれば、命令しないでも皆は働いてくれる。』そう考えれば簡単なことだ。だが、『その身が修まらなければ、命令しても誰も動いてくれない。』そう考えるならば、何と困難ではないか。」 

  

 

 さて、今まで魏では銭が流通していなかった。孝文帝は、始めて銭を鋳造させた。「太和五銖」である。この年、相当量の銭が備蓄されたので、これを使用するよう詔が下った。 

  

強制改姓 

 三年、正月。孝文帝は詔を下した。
「北人は、『土』の事を『拓』と言い、『後』の事を『跋』と言う。我が皇室の先祖は黄帝、土徳である。それ故、自ら『拓跋氏』と名乗ったのだ。それ『土』とは、黄砂を示し、中央を意味する。すなわち、万物の元である。よって、これからは皇室の姓を『元』と改姓する。代で建国して以来の旧族や功臣で複字の姓を持つ者は改姓せよ。」
 こうして、臣下達は中国風の姓へ改姓した。跋跋氏は長孫氏、乙旃氏は叔孫氏、丘穆陵氏は穆氏、歩六孤氏は陸氏、賀頼氏は賀氏、独孤氏は劉氏、勿忸于氏は于氏といった具合である。今まで既に「于烈」だの、「穆祟」だのといった名前を出してきたが、これは簡便を期す為に、この時に改姓された姓に従って表記していたのである。ちなみに、北魏は、「拓跋魏」又は「元魏」とも呼ばれている。
(ここから先は、かなり複雑で、私の手に余ります。平凡社の「資治通鑑選」283頁から、詳しく翻訳されていますので、一読をお奨めいたします。そこいら辺りを要約すると、名門の家柄を選定したのです。孝文帝は、魏に貴族階級を制定したがったわけですね。これに対して何人もの臣下が反対し、家柄ではなく古人の能力によって人を抜擢するのが正しいと諫めますが、孝文帝は聞きません。これに対して、司馬光も、「孝文帝は当時の悪弊に犯された」と評しています。) 

  

皇太子恂 

 皇太子の恂は、学問が嫌いで傲慢な人間だった。河南の暑さを厭がり、北へ帰ることをいつも思っていた。孝文帝は、彼へ衣冠を贈ったが、恂は胡服ばかりを愛用している。中庶子の高道悦が屡々切諫したので、恂は彼を憎んだ。
 八月、孝文帝が嵩高へ御幸した留守中、恂は側近達と平城へ逃げだそうと計画し、ついでに禁中にて高道悦を斬り殺した。
 領軍の元儼が門を守ったので、皇太子の脱出は阻まれた。尚書の陸eは、この事件を早馬で孝文帝へ知らせた。孝文帝は驚愕し、箝口令を布くと共に、洛陽へ取って返した。
 甲寅、孝文帝は入宮すると、太子を引き出し、彼の罪状を数え上げて杖で百余回ぶっ叩いた。 十月、孝文帝は群臣を集めると、皇太子廃立を言い出した。太子太傅の穆亮と少保の李沖が冠を脱ぎ、頓首して謝罪したが、孝文帝は言った。
「卿等が謝罪するのは私的な感情。だが、我はこの国のことを議論しているのだ。『大義は親をも滅する』とは、古人も貴んだ心だ。今、恂は父に背いて逃叛し、代に跨據しようとした。これ程の大罪が天下にあるか!もしもこれを去らなければ、社稷が傾くぞ!」
 閏月、恂を廃して庶民とした。彼は河間の無鼻城に軟禁され、僅かに飢え凍えを免れるだけの服と食糧のみを与えられた。
 四年、正月。皇子の恪が皇太子となった。
 宴席で、孝文帝の話が太子恂へ言及すると、李沖が謝罪した。
「臣は忝なくも師傅とさせていただきましたのに、輔導することができませんでした。」
 すると、孝文帝は言った。
「朕でさえ教化できなかったのだ。師傅が謝る必要はない!」
 恂は、廃された後、後悔していた。だが、御史中尉の李彪が、恂が逆恨みして造反を謀っていると讒言したので、孝文帝は恂へ毒酒を贈った。三月のことである。
 恂の遺体は、粗末な棺桶で葬られた。 

  

父の罪は子に及ばず 

 この頃、流罪となった重罪人の逃亡が相継いだ。そこで孝文帝は、そのような時は逃亡した罪人の一族を、全て奴隷とするよう制定した。すると、光州刺史の崔挺が上言した。
「天下に善人は少なく、悪人は多いのです。もしも一人の悪人の姓で家族全員が罪を受けるとしたら、司馬牛は桓タイの為に罰せられ、柳下恵は盗跖の為に誅殺されます。なんと哀しいではありませんか!(桓タイは孔子を殺そうとした。盗跖は稀代の大盗賊。司馬牛、柳下恵は共に立派な人間で、それぞれ桓タイと盗跖の兄弟)」
 孝文帝はこれを嘉し、制を廃止した。 

 三年、穆泰が造反したが、任城王澄が平定した。(平凡社の「資治通鑑選」285頁〜287頁参照)孝文帝の種々の改革は、胡風の廃止や才能による人材登用だったが、これらへ対して、建国以来の旧臣達の不満が爆発したのである。 

  

彭城王(「/思」) 

 建武四年、八月。孝文帝が、大掛かりな軍事演習を行った。この時、彭城王が中軍大将軍を命じられたが、は辞退して言った。
「親族とそうでない人間を併用するのが古の道です。臣一人が何度も大役を務めるのでは、他の人間の出番がなくなってしまうでしょうに。昔、魏の陳思王(曹植)は、蜀や呉の討伐を願い出て許されませんでした。愚臣は請願しないのに命じられる。なんと、天と地ほどの隔たりではありませんか。」
 孝文帝は大笑いして言った。
「曹丕と曹植は、才名を以って、相忌んだ。我と汝は、道徳を以って相親しんでいるのだ。」 

  

李彪 

 中尉の李彪は、もともと下賎の生まれ。家は貧しく、朝廷には引き立ててくれる知人縁者など居なかった。彼が始めて平城へ上京した時、「李沖が士を好む」とゆう評判を聞き、誠心誠意彼に尽くした。李沖も又、李彪の才覚や学識を重んじ、極めて厚く礼遇し、孝文帝へも推薦したし、朝廷でも李彪の事を宣伝した。
 李彪が中尉になると、貴人でも手心を加えずに弾劾したので、孝文帝は彼を賢人と評価し、汲黯になぞらえた。すると李彪は、皇帝の親任を得たと考え、李沖との交友が疎遠になった。公の場で型どおりの挨拶をするだけで、敬愛の念などまるでない。李沖は密かにこれを含んでいた。
 建武四元年(497年)孝文帝が南伐するに及んで、李彪と李沖、そして任城王澄に留守を任せた。李彪は剛腹な性格で、妥協を知らず、屡々李沖と言い争った。その時は喧嘩腰だったが、彼は法官だったので誰も糾弾しようとせず、結局、李彪が専断する形となった。
 李沖は憤懣やるかたなく、李彪のそれまでの過失を全て列挙して上表弾劾した。
「傲慢で勝手気ままに振舞い、僭越は限りない。輿に坐ったまま禁裏や省へ入り、官物を私的に使用するなど、憚る所を知らない。」云々
 又、上表した。
「臣は李彪と知り合って二十年になります。彼は才覚優れ博学で、議論は剛正。まこと、抜萃公清の人柄だと思ったものです。しかし、彼の事をよく知ってくると、酷薄な人間だと判ってきました。それでも、益が多いので些細な欠点は目がつぶれると考えていました。ですが、大駕が南へ行かれて、彼が尚書を兼務しましてからは、彼と共に職務を執るようになり、始めて彼の専恣無忌が判ったのです。その言葉を聞きますと、まるで古の忠臣賢者のように思えますが、その行動を見ますと、天下きっての佞暴の賊徒です。臣と任城王は、あたかも暴兄へ奉仕する順弟のように、腰をかがめて接しましたが、奴は望む事があれば、理非を分かたずにやり遂げます。事実をもとに検証すれば、証拠はいくらでも出てまいります。もしも確証がありましたら、奴目を北の荒地へ追放し、政治を乱す姦臣を取り除いてください。万一証拠が無かった時は、臣を流罪とし、讒言をする輩への見せしめとなさってください。」
 李沖は自らこの上表をしたため、家族でさえもそんな事は知らなかった。
 孝文帝は上表文を読んで思いっきり嘆息した。
「朕が居ない間にこんな事になっていたとは!」
 又、言った。
「道固(李彪の字)は、やり過ぎた。そして僕射も、ここらが限界か。」
 黄門侍郎の宋は、もともと李沖と仲が悪く、李彪とは同郷のよしみがあったので、密かに彼を助けた。逆に、李彪を誹る人間も大勢居たが、孝文帝はこれを宥め、除名に留めた。
 李沖は雅やかで温厚な人間だったが、李彪が収容された時は、自ら彼の過失を数え上げ、目を怒らせて怒鳴り散らす有様だった。罵詈雑言の数々は、李沖自身の感情も高ぶらせ、興奮の余り寝込んでしまった。それでも、時折、腕を振り回して叫び声を挙げた。
「李彪、このクズめが!」
 医者も薬師も匙を投げ、旬余にして卒した。
 李沖の死去を聞いて、孝文帝は悲しみやまず、司空を追贈した。
 九月、斉の明帝むが崩御。孝文帝は詔を下した。
「服喪の国を討たないのが、礼である。」
 こうして、孝文帝は兵を引いた。
 永元元年(499年)孝文帝は洛陽に戻ってきた。李沖の塚を通過する時、これを望み見て、泣いた。留守官と語る時、李沖の話題が出る度に涙をこぼした。
 孝文帝は、任城王へ言った。
「朕が都を離れている間、民の風俗は旧来から変わっていったかな?」
「日々、中華風に改まって行っております。」
「朕が入城する時、車に乗っている婦人が居たが、帽子をかぶり、胡時代の服装をしていたぞ!(車に乗っている婦人と言うのは、貴臣の縁者を指す)何が『日々改まっております』だ!」
「胡服を着ているのは少数。中華風の服を着ているものが大部分です。」
「何だ、その言い草は!城中胡服にならなければ認めないのか!」
 任城王を始め留守官は、皆、冠を取って謝罪した。
 甲辰、魏で大赦が降りた。
 孝文帝が業へ御幸すると、業の郊外で李彪が迎え、謝罪した。すると、孝文帝は言った。
「朕は、卿を再び登用したいのだが、李僕射の事を思うと、そんな気にならぬのだ。」
 そして李彪を草々慰めて帰した。
 やがて、御史台令史の龍文観が言った。
「皇太子恂は、幽閉されてから深く反省し、自ら文書をしたためましたが、李彪が握りつぶしたのです。」
 そこで、李彪は捕らえられて、洛陽へ送られた。
 孝文帝は言った。
「いかに李彪でも、そんな事までする筈が無い。」
 やがて大赦が出て、李彪は釈放された。