孝文帝の行政改革
 
馮太后再び 

 元徽四年(476年)六月、既に太上皇帝となっていた献文帝が崩御した。
 同月、魏は、征西大将軍の安楽王長楽を太尉、尚書左僕射とした。司徒は、宜都王目辰。南部尚書の李斤(「言/斤」)は司空となった。馮皇太后は、太皇太后となって朝朝を執った。
 馮煕が侍中・中書監に叙任された。しかし、彼はこれを固辞した。自分が外戚だったので、内任を避けたのである。そこで、馮煕は都督洛州刺史に任命された。
 皇太后は、聡明で政治に暁通していた。質素な服を着て、凶事が起こった時は膳を減らして自ら戒めた。だが、猜疑心が強くて残忍、そして権謀術数に走ることが多かった。
 孝文帝は孝行者だったので、彼女の意志によく従い、事あるごとに皇太后の決裁を仰いだ。これに対して皇太后は、往々にして独断で事を決め、皇帝へ報告しなかった。
 彼女に寵用された宦官達は、絶大な権力を振るった。張裕は尚書左僕射まで出世し、新平王の爵位も貰った。王居は征南将軍・高平王、その他、杞嶷を始め侍中、吏部尚書、刺史になった宦官や、公、侯の爵位を貰った宦官は大勢居た。又、太卜令の王叡は皇太后から寵愛され、侍中、吏部尚書、太原公となった。秘書令の李沖は、もともと才覚によって昇進したのだが、皇太后の私寵により、沢山の宝物を賜った。
 ただ、皇太后は人望のある人間も大切に扱った。東陽王丕や、游明根などは特に厚遇され、王叡等が褒賞されるたびに東陽王丕等もそのおこぼれに預かった。皇太后が、自分の不私を宣伝する為である。ちなみに東陽王丕は、烈帝の玄孫、李沖は李寶の子息である。
 ところで、皇太后と臣下との私通は、やはり醜聞である。皇太后はそれを自覚していたので、他人の口を異常に畏れた。だから、群下が少しでも疑忌したことを言うと、すぐに殺した。そして、寵愛している人間でも、小過があるとすぐに鞭打ち、時には百を超えることがあった。だが、それをいつまでも根に持つことはなく、懲罰が終われば、従前通りに寵遇したし、時には富貴にしてやることもあった。だから、左右は罰を蒙っても皇太后から離れようとはしなかった。 

  

李斤失脚 

 十一月、太尉の安楽王長楽が定州刺史となり、司空の李斤が徐州刺史となった。
 昇明元年(477年)、東陽王丕が司徒となった。
 話は遡るが、李斤は、かつて献文帝のもとで倉部尚書となっており、その頃、盧奴令の范標を信用していた。すると、弟の左将軍李英が言った。
「范標は、人の顔色を窺っては媚びへつらい、他人の金をばらまいて、自分の私恩を張っております。甘い言葉を喋りますが、日頃の行いを見ると、奸悪。早く縁を切らなければ後に悔いても及びません。」
 だが、李斤は従わず、范標を腹心として、いろいろなことを相談した。
 さて、献文帝の頃は、尚書の趙黒も寵用されていた。ところが、李斤が縁者を州刺史とした時、趙黒がこれを告発したので、以来、李斤は趙黒を怨んだ。そして、趙黒が官物を私したことを告発した為、趙黒は門士へ降格されてしまった。趙黒は、悔しさの余り食も進まず夜も寝られず、窶れきってしまう程、李斤を怨んだ。程なく、趙黒は尚書左僕射に返り咲いた。
 やがて、献文帝が崩御すると、趙黒は、李斤が専横を極めていると皇太后へ讒言した。そこで、李斤は徐州刺史となったのである。
 ところで、かつて、李斤の告発によって、李敷が誅殺されてしまったので、皇太后は未だに李斤を怨んでいた(詳細は、「北魏の献武帝」に記載)。これを知った范標は、李斤が謀反を企んでいる、と、皇太后へ密告した。そこで、皇太后は李斤を平城へ連行して詰問した。だが、李斤が否認したので、皇太后は范標に証言させた。李斤は、范標へ言った。
「汝が誣告したのなら、我が何を言っても無駄か。だが、今まで厚恩を受けながら、よくもこんな真似ができたものだな!」
 すると、范標は言った。
「私は確かに公の恩を受けたが、公も又、李敷の恩を受けていたではないか。その公は、李敷へあんな仕打ちをしたのだ。私だって、公へこれくらいできるさ!」
 李斤は慨然として嘆いた。
「栄の言葉を用いなかったばっかりに、今更悔いても及ばぬか!」
 趙黒の腹中には、既に弾劾文ができあがっていた。
 十月、李斤と彼の二人の子息が誅殺された。これ以来、趙黒は、ようやく寝食が平常に戻った。 

  

諸々の 

 十一月、魏の懐州で、伊祁苟とゆう男が、堯の末裔と称して、(堯は祁氏だった)民衆を集め、重山へ立て籠もったが、洛州刺史馮煕が、これを討伐した。
 馮太后が、闔城の住民全員を誅殺しようとすると、ヨウ州刺史の張白沢が言った。
「逆賊の首魁達は、既に梟首しました。城中に忠良仁信の士が一人も居ないはずはありません。どうして黒白を問わずに一切誅殺できましょうか!」
 そこで、馮太后は、暴挙を思いとどまった。 

 馮太后は、青州刺史の南郡王李恵を忌避していた。
 二年、彼女は李恵が造反を謀んでいると誣いて、彼とその妻や子弟を全員誅殺した。
 皇太后が猜疑して一族誅殺した相手は十余家にも及ぶ。南郡王李恵は、赴任した先々で善政を布いていたので、魏の人々は、これを冤罪と言い立て、彼が誅殺されたことを惜しんだ。 

 南朝では、蕭道成が宋から禅譲を受け、斉を建国した。建元と改元する。
 建元元年(479年)、九月。安楽王長楽が造反を謀て、誅殺された。
 この年、魏は斉を攻撃し、それは翌年まで続いた。 

  

 二人の重鎮 

 同月、魏の隴西宣王の源賀が卒した。  

 この年、中書監の高允へ、律令を制定するよう詔が下った。高允は既に老いていたが、その知識は衰えていなかった。
 高允の家は貧しかったので、楽団十人を五日に一度彼の家へ派遣して楽しませた。毎朝食膳が配給され、月の始めと中日には牛肉と酒が届けられた。又、毎月威服や綿絹が給付された。朝廷へ出仕すると几杖が準備され、政治について細々と尋ねられた。
 高允は、太武帝から孝文帝までの五帝へ仕え、五十余年に亘って三省へ出入りした。優秀な人間を見つけるとすぐに推挙したので、古なじみを無視しないよう忠告する者が居たが、高允は言った。
「賢人を使うのに、新も旧もない!有用な人間を抑えつけてはならんのだ!」
 彼は永明五年(487年)に卒した。享年九十八。 

  

法秀の乱 

 二月、沙門の法秀が、妖術で大衆を惑わし、孝文帝が諸国を巡回している隙に、平城で造反しようと謀てた。だが、苟頽がこれを察知し、禁兵を率いて拿捕した。
 孝文帝が平城へ帰ってくると、この事件が報告された。
 ところで、捕らわれた法秀は鉄鎖で縛られていたが、それが自然にほどけてしまっていた。そこで、魏の官吏達は、頸骨を突き刺すよう命じた。
「もしも奴に神通力があるのなら、刃は頸骨に入らないだろう。」
 こうして処刑は実施され、法秀は三日目に死んだ。
 この事件に際し、道人を皆殺しとするよう発案する者が居たが、馮太后が許さず、沙汰止みとなった。
 この事件を究明して行くと、蘭台御史の張求を始め、百余人の官吏が加担していることが判明した。彼等について、皆は言った。
「法に照らし合わせれば、彼等は全員、一族誅殺に当たります。」
 だが、尚書令の王叡が言った。
「首謀者のみを厳罰に処し、他の人間は罪を宥めましょう。」
 そこで、詔が下った。
「五族誅殺に当たるものは三族誅殺に、三族誅殺に当たるものは一門誅殺に、一門誅殺に当たるものは本人のみを誅殺せよ。」
 これによって、千人余りが誅殺を免れた。
 六月、王叡が病死した。彼が病に伏した時、馮太后は、自ら何度も見舞いに出かけた。卒するに及んで、太宰を追賜された。彼の為に哀詩を作成した文人は、百人を越えた。
 孝文帝は、王叡の子息の王襲を尚書令とした。 

  

地方官の賞罰 

 魏の秦州刺史于洛侯は、残酷な性格で、刑を行う時には、まず腕を断ち、次いで舌を抜き、最期に四肢バラバラに切断した。これには州を挙げて驚愕し、住民の王元寿等が一斉に造反した。この事件が弾奏されたので、孝武帝は、秦州へ使者を派遣し、于洛侯の罪を宣言して、これを斬った。 

 斉州刺史の韓麒麟は、寛大な政治を心がけていた。すると、従事の劉普慶が言った。
「公は、杖節を預かっておりますのに、誅斬したことがありません。これではどうやって威厳を保ちますのか!」
 すると、韓麒麟は言った。
「刑罰は、悪業を止める為のもので、仁人はやむを得ずにこれを用いるのだ。今、民は法を犯していないのに、何で誅殺するのか?もし、人を斬らなければ威厳が立たないと言うのなら、まず卿が自薦してみるか!」
 劉普慶は、慚懼して退出した。 

  

風俗 

 永明元年(483年)、魏で同姓の結婚が禁止された。 

 閏月、孝文帝の後宮の林氏が男児を産んだ。名は恂。大赦が降りる。文明太后は、恂は皇太子になるべきだと考え、林氏へ死を賜り、自ら恂を撫育した。 

 三年、正月。魏で詔が降りた。
「図讖は、三代(堯や舜の頃)の頃に作られたもので、既に経国の典ではなくなっており、今では妖邪に憑かれる弊害ばかりが起こっている。よって、図讖・祕緯の類は一切焼き捨てよ。秘蔵するものは厳罰に処す!」
 また、諸々の巫覡や巷のト筮など、経典に記載されていないものは全て厳禁した。
 同月、馮太后が皇誥十八編を作り、群臣を集めて大宴会を開いた時、これを配布した。 

 四年、孝武帝は正月の朝会で、初めて中華の皇帝の正装をした。 

 七年、正月。孝文帝は、南郊で祀ったが、この年、始めて大駕を備えた。大駕とは、公卿や太僕御、大将軍などを引き連れることである。 

  

俸禄 

 魏の旧来の制度では、各戸ごとの調は、帛二匹、絮二斤、絲一斤、穀物二十斛だった。その他、帛一匹二丈を州庫へ入れ、調外の費用に充てていた。調とゆうのは、各地方地方で捻出する租税である。
 永明二年、詔が降りた。
「官を置いたら、禄を与えるものだ。だが、中原で動乱が起こってから、この制度は中絶していた。朕は旧典に依って、俸禄を開始する。その為に、戸ごとに帛三匹と穀物二斛九斗を増調して、官司の禄とする。又、調外は帛二匹を増すこととする。禄が行き渡った後は、一匹以上の賄賂を受けた者は死刑とする。」
 この禄は、十月に開始され、季ごと(三ヶ月を一季となす。)に与えられた。それまでは、収賄は二十匹で死刑だったが、一匹の収賄での死刑も厳密に適用された。又、各地へ使者を派遣して、守宰の貪婪を厳しく糾明させた。
 秦、益二州刺史の李洪之は、外戚を以て出世した男だったが、この法令が施行されると、まっさきに処刑された。その他、収賄で処刑された守宰は四十余人にも及んだ。これ以来、官吏の収賄は影を潜めた。ただ、それ以外の官吏の罪については、寛大に処理され、疑わしい罪について、死刑から流刑へ減免された官吏は、毎年千人以上も居た。
 しばらくすると、淮南王佗が、旧来のように禄をなくすよう請願したので、馮太后は群臣を集めて会議を開いた。すると、中書監の高閭が言った。
「飢えや寒さで切羽詰まると、慈母でさえ我が子を守ることができません。今、禄が与えられるようになったので、清廉な人間は我が身を守ることができるようになり、貪婪な人間の欲を押しとどめるようになりました。ここで禄の給付を止めると、貪婪な人間は姦心を放埒にしますし、清廉な人間は生きて行けなくなってしまいます。淮南の建議は、絶対間違っています。」
 詔が降りて、これに従った。 

  

均田法制定 

 魏が建国された頃は、豪族たちへ庇護を求める民が大勢居た。彼等を陰(「草/陰」)附と言う。陰附は、官役へ参加しなかったが、豪族は彼等から公賦の倍の金を搾り取っていた。
(訳者、曰 平安時代の荘園と同じ事ですね。戦国時代の楚でも、この弊害が大きく、屈原なんかは、領地や人民の国有化の為に行政改革を行って結局政争に敗れた・・・と記憶しています。韓非子なんかでも権力者の弊害の一つに数えていますので、為政者が気を緩めると、割と一般的に起こる社会現象・・・社会腐敗・・・のようです。宮崎市定先生は、三国時代の人口の総数が少なすぎることから、かなりの民が戸籍を逃れて地方豪族のもとへ逃げ込んだのではないかと推測していますので、二百年以上にも亘って中国全土に広がった悪弊=為政者の宿題だったのかもしれません。)
 給事中の李安世が、上言した。
「飢饉の年に民が流民となると、豪族たちが田畑を独占するのです。昔の井田法を復活させるのは困難なことですが、耕作地を均等に配分して彼らを自営農にしましょう。また、訴訟が起こされている田地は期限を区切り、昔のことで所有権がわかりにくいものは、ことごとく今の持ち主のものとします。そうやって、今後の詐妄を防ぎましょう。」
 孝武帝は、この提案を喜び、これ以来均田が議論されるようになった。
 十月、孝武帝の使者が、諸国を回ることが詔で発表された。彼らは、牧守へ天下の田を配給し、十五歳以上の男夫へは四十畝、婦人には二十畝を与えさせるのである。奴婢を持つ者へは、所有する奴婢を庶民と換算した土地を与え、牛を持つ者には、一頭ごとに三十畝の田を与えた。ただし、牛へ関しては、四頭を限度とした。又、一度耕作したら土地が痩せてしまい、二年間休ませないと穀物を作れないような土地は、上記の三倍の量を与えられた。
 人々は、規定の年になれば田を与えられ、老齢になったり死んだりすれば、その土地は没収される。奴婢や牛は、これを入手したら土地を受けることができ、手放したらその土地を返さなければならない。
 初めて田を受ける者へは、男には二十畝と桑五十株が与えられた。この桑田は、家業の為のものとして、死んでも返さなくてよろしい。諸々の官吏には、役職に従って配給される公田の追加があった。
 これらの田は全て国のものであるから売買は許されず、売る者がいれば、律令に従って罰が与えられた。 

  

三長制度 

 もともと、魏には郷党の法はなく、ただ、宗主を立てて、民を督護させていただけだった。それで、民間では租税や悪事等の隠匿が多かった。
 永明四年、内秘書令の李沖が上言した。
「古法を基準にして、法律を定めましょう。五隣毎に里長を立て、五里毎に党長を立て、郷人の中で強謹な者を選んでその職に就けるのです。隣長は一夫、里長は二夫、党長は三夫とし、三年間過失がなければ、一等昇級させます。
 八十以上の老人に関しては、その子息のうち一人は彼の介護をさせる為、全ての労役を免除しまょう。又、鰥婦や老人や重病人など自活できない程貧乏な人間に関しては、この郷人に扶養させるのです。」
 この提案に関して、百官を召集して議論させた。中書令の鄭義は全て不可としたが、太尉の東陽王丕が言った。
「この法案が施行されれば、公私共に利益があると愚考いたします。ただ、農繁期に始めますと、その煩雑さから民は怨むでしょう。ですから、今年の秋口から冬にかけて、全国へ使者を派遣して施行させるのが宜しいでしょう。」
 すると、李沖は言った。
「『民を使うことはできるが、その理由を事前に理解させることはできない。(論語、孔子の言葉)』と申します。もしも調の煩雑な時に施行しなければ、民はただ長を立てるだけで、労役が均等になったり賦税が減ったりとゆう実益を得ることができず、却って怨むでしょう。むしろ、税を徴収する前に施行するべきです。」
 群臣の大半は言った。
「今の税制は施行されてから長く(宋の明帝の泰始五年に施行されていた。)、社会に定着しています。ここで手を加えたら、動乱のもとになります。」
 だが、文明太后が言った。
「三長を立てると、税の徴収が厳密に行えます。権豪の隠田は摘発され、巧みに租税を逃れることもできなくなります。何で施行しないのですか!」
 こうして、三長の制度は施行され、民の戸籍を定めた。これに対して、民は当初は煩雑がって居たし、権豪は特に厭がった。だが、やがて成果が出てくると、皆はこの制度に安んじた。 

 この年、魏は全国を三十八州とした。そのうちの二十五州は河南にあり、十三州は河北にあった。 

  

国書 

 それまで、魏には編年体の国書があった。
 永明五年、秘書令の高裕と秘書丞の李彪が、国書を編纂して紀、伝、表、志を作成するよう上請し、孝文帝はこれに従った。
 高裕は高允の一族である。
 同年十二月。李彪と著作郎崔光に国書の改修が命じられた。崔光は、崔道固の義理の孫である。
 ある時、孝文帝は高裕へ尋ねた。
「盗賊を根絶やしにする方策があるか?」
 すると、高裕は言った。
「昔、宋均(漢の明帝に仕えた臣下)が徳を立てると、その領内から猛虎が逃げ出しましたし、卓茂(漢の平帝に仕えた臣下)の教化が行き渡ると、その領内は蝗でさえ避けて通ったと言われています。ましてや盗賊は人です。守宰にその人を得て国内に教化が行き渡れば、これを根絶やしにするなど容易いことです。」
 又、ある時、高裕は上疏した。
「現在の推挙法は、統治能力の優劣ではなく、ほとんど年功序列となっております。これは、才能のある人間を充分活用できるやり方ではありません。これからは、能力で抜擢するようにしましょう。勲功の臣下や旧臣へ対しては、年勤をそれなりに評価するべきではありますが、撫民の才が無い人間へ爵位を与えたり、領民を与えたりしてはいけません。いわゆる王者というものは、財産をこそ私しても、官位を私的に扱ったりはしないものです。(『王者不私人以官』これは、漢書佞幸伝の賛の台詞である。)」
 孝文帝は、これを善しとした。
 やがて、高裕は西コン州刺史となり、滑台を鎮守した。この頃、郡国には学校があったが、彼は県や党にも必要だと考え、県毎に講学を、党毎に小学を立てた。
(訳者、曰)
 この国書は、何なのだろうか?やはり、青史を模倣したものだろう。
 一般に、青史は次の王朝が編纂すると言われているが、この頃はそのような不文律はなかった。この頃の紀伝体の歴史書は、「史記」「漢書」「後漢書」「三国志」のみである。そして四作とも、個人的な著作で、国家ぐるみの作成ではなかったと記憶している。この四作のうち、もっとも新しい「後漢書」は、宋代の作品で、この後に続く「晋書」は唐代に皇帝の命令で編纂され、以後、前の王朝の歴史書が国家事業として編纂される伝統が確立した。
 以前翻訳していた時はうっかりしていたが、崔浩は同世代の歴史書を作成ていた訳だ。これならば、たとえ北魏の人間でなくても死刑になったのが当然かも知れない。
 この作品は、多分二十四史には入っていないだろうが、それを編纂する時の参考にはなっただろう。 

  

常平倉の設置 

 六年、孝文帝は、安民の術を群臣へ尋ねた。すると、秘書丞の李彪が上封した。
「豪貴の家の奢侈は、目に余ります。邸宅や車や服装を、法律で規制いたしましょう。
 又、国家の荒廃は、後継者の資質次第で、後継者の資質は教育にあります。かつて、高宗文成皇帝が群臣へ言いました。『朕が学問を始めた頃、まだ幼く、学問に専念する気になれなかった。即位して万機を統べる立場になると、忙しくてその暇がない。だが、今になって思い返してみると、これがどうして、ただ予だけの咎だろうか。我が師傅もまた、怠慢だったのだ。』すると、尚書の李斤が冠を脱いで謝罪したのです。これはごく最近のできごと。鑑としなければなりません。どうか昔、師傅の官を立てた故事に準じて太子を訓導してください。(この頃、恂の失徳が既に著しかった。だから李彪はこれを上封したのだ。)
 又、漢代は常平倉を設置し、穀物の供給を安定させました。去年、京師は凶作で、その民を豊作の地方へ移住させましたが、こんな後手後手の政策では国力が損耗するばかりです。もしも、あらかじめ穀倉をもうけておれば、どうして老人や幼子を千里の先まで駆り立てる必要があったでしょうか!どうか、各州郡に、常調のうち九分の二を備蓄させ、京師には歳出の余りを備蓄して下さい。そして専門の官吏を置き、豊作の年は倉へ穀物を備蓄させ、飢饉の際は民へ与えるのです。このような備えさえあれば、数年のうちに凶作の年でも害が生まれなくなるでしょう。
 又、親子とゆうものは、別人ではありますが、他人ではありません。別人ですから、その罪は互いにあい及ばない。それは、主君の恩恵でございます。ですが、いざ肉親が罪に堕ちた時、その心が痛むのは自然の理。無情の人であれば、父が牢獄へ落ちようが、息子が罪を懼れて逃げだそうが、恥じる心もなくシャアシャアと宴遊逸楽するでしょうけれども、骨肉の恩を思った時、どうしてそれが当然でしょうか!愚考いたしますに、父兄が罪を犯しました時は、その子弟には肉袒して闕を詣でさせ、罪を請わせましょう。子弟が罪を犯した時は、父兄には官職の辞任を申請させましょう。彼等が必要な時は、これを遺留すればよいのです。大切なのは、このようにさせて人々へ恥を知ることを教えることなのです。」
 孝文帝は、これに従った。以来、旱害や水害が起こっても、民は困窮しなくなった。 

  

馮太后崩御 

 八年、九月。馮太后が崩御した。
 孝文帝は哀しみの余り水も喉に通らない有様。それが五日も続いた。その衰弱は、礼に照らし合わせても過剰だった。そこで、中部曹の楊椿が諫めた。
「陛下は祖宗の業を担い、万国の重みに臨んで居られるのです。どうして匹夫の節で体を壊して良いものでしょうか!それに、聖人の教えは人を損なわないように決められたものです。孝経で『三日にして食べる』と書いてあるのは、三日間くらいならば、物を食べなくても体を損なうことがないので、どんなに哀しくとも自分を傷つけないように教えているのです。陛下が歴代の聖人を凌ごうと思われても、それでは宗廟はどうなるでしょうか!」
 孝文帝はその言葉に感悟して、無理して粥を啜った。
訳者、曰 胡三省は、この部分の注釈で、次のように評している。
「『歴代の聖人を凌ごうと思われても(原文:陛下欲自賢於万代)』の言葉は、孝文帝の真意を衝いている。」と。
 しかし、名誉欲でやったことだろうか?少し、解釈に悪意がある様な気がする。) 

  

(訳者、曰) 

 このくだり、最初は馮太后が政治を執っていますが、後半あたりから、孝文帝独自の政策が打ち出されています。
 北魏の孝文帝。中国史でも有名な明君の一人です。特に、国政改革は高く評価されていますね。均田法、常平倉等など。そして風俗の中華化。その事績をこうやってかき集めてみると、北魏社会が大きく変わった有様が目に浮かぶようです。もちろん、良い方へ。こうして北魏は国力が増大し、強国となっていった・・・・のでしょうか?
 孝文帝が在位期間は471〜499年。ところが、北魏の東西分裂は、534年の事です。その時には既に、皇帝の権力はなくなっていましたので、孝文帝没後三十年のうち北魏はほとんど滅亡した事になります。どんなに制度が完備されていても、結局は人間が国を滅ぼすのですね。
 ただ、均田法ほかの社会制度は生き残ります。唐へ引き継がれ、大和朝廷が模倣して公地公民を行ったことは有名ですね。ですから、均田法始めとする社会改革の件は非常に懐かしく、特に力を込めて訳したつもりですが・・・そのような時に自分の力量不足が痛いほど判ります。読解力もですが、当時の社会背景へ対する理解が必要ですよね。誰か実力のある方、それも、小説家や翻訳家よりも中国史専攻の学者先生が率先して翻訳して下さると有り難いです。