孝愍帝
 
晋公護 

 永定元年(557年)、晋公護が後ろ盾となって、北周が建国された。
 五月、周の儀同三司斉軌が御正中大夫薛善へ言った。
「軍事も政治も、天子から出なければいけない。権門が幅を利かせるなど、なんたることか!」
 薛善は、これを晋公へ密告した。晋公は、斉軌を殺し、薛善を中外府司馬とした。 

 北周の孝愍帝は、剛毅果断な性格で晋公護の専横を憎んでいた。
 ここで話は、孝愍帝がまだ周王だった頃へ遡る。
 司会の李植は、太祖の時から相府司録として政治へ参掌していた。軍司馬の孫恒も又、長い間軍権を握っていた。晋公護が政権を執ると、彼等は粛清されることを畏れ、宮伯の乙弗鳳や賀抜提と共に、晋公のことを、孝愍帝へ讒言した。
 李植と孫恒は言った。
「護は、趙貴を誅殺して以来、権勢がますます盛んになっており、謀臣や宿将達は、争うように彼の屋敷へ通い、政治は大小となく皆、護が決めております。臣はこれを見ますに、奴の簒奪は時間の問題。どうか陛下、早く手を打ってください。」
 孝愍帝は心中同意した。
 乙弗鳳と賀抜提は言った。
「明哲な先王陛下でさえ、なお、李植や孫恒へ朝政を委ねられていたのです。今、この二人が加担してくれるのなら、何で失敗しましょうか!それに、晋公は、自分を周公へ喩えていますが、その周公は七年間、政権を代行しました。陛下は、七年間も待たれますのか。」
 孝愍帝は、ますますその気になった。彼は、屡々武士を後園へ引き入れて、執縛の練習をさせた。
 李植等は、宮伯の張光洛も仲間へ引き込んだが、張光洛は、これを晋公護へ密告した。
 晋公護は、李植を梁州刺史、孫恒を潼州刺史として地方へ出し、一党をバラバラにした。
 後、孝愍帝は李植等を思い出して朝廷へ呼び戻したがったが、晋公護は泣いて諫めた。
「天下に兄弟ほど親しい相手はおりません。もしも兄弟でさえも疑うのならば、一体、他の誰が信じられましょうか。太租は高齢になってから、臣へ後事を託されたのです。臣は、臣下として一族として、陛下の股肱となることだけを望んでいるのです。もしも、それで陛下が万機を親覧し、その威厳が四海へ加わるのなら、臣は喜んで死んでみせましょう。しかし、臣がいなくなった後、姦人達が勝手気儘に動き、陛下をなみして社稷を転覆させるのではないかと、恐れるのです。そのようになったら、臣は何の面目あって、あの世の太租へ会えましょうか。それに、臣は既に天子の兄であり、宰相の地位も持っております。これ以上、何を求めましょうか!どうか陛下、讒臣の言葉を信じて骨肉を棄てるようなことはなさらないでください。」
 孝愍帝は、彼等の召集を思い留まったが、しかし心中ではなおも晋公を疑っていた。
 乙弗鳳等はますます懼れ、陰謀は益々深くなる。彼等は、群公を集めての宴会を開き、その席で晋公を捕らえて殺そうとしたが、張光洛が又してもこれを密告した。
 晋公は、柱国の賀蘭祥と領軍の尉遅綱を呼んで、対策を練った。すると彼等は、晋公へ廃立を勧めた。
 この時、尉遅綱は禁兵を総括していた。彼は禁兵を率いて宮殿へ入り、乙弗鳳等を捕らえて晋公の第へ送った。
 晋公は、賀蘭祥を孝愍帝の元へ派遣して遜位を迫り、旧第へ幽閉した。そして公卿を召して会議を開いた。
「孝愍帝を廃立して略陽公とし、岐州刺史の寧都公毎を立てよう。」
 すると、皆は言った。
「これは公の家事です。仰せのままに従いましょう!」
 そこで、まずは乙弗鳳を斬り、孫恒も殺した。
 この時、李植の父親の柱国大将軍李遠は、弘農を鎮守していた。晋公は、李遠と李植を朝廷へ呼び返したが、李遠は変事が起こったと疑い、しばらく考えたが、やがて言った。
「大丈夫は、忠義の鬼となろうとも、叛臣とはならぬものだ!」
 遂に、この徴集へ応じて、長安へ戻った。
 晋公は、彼の功績と威名を重んじていたので、なんとか彼を助けたかった。そこで、彼を呼びだして、言った。
「公の子息が、陰謀を巡らせたのです。ただ私を殺すだけでなく、宗社まで傾けてしまう。叛臣賊子は、皆が同じように憎むもの。公は早く手を打ってください。」
 そして、李植を李遠のもとへ引き渡した。
 李遠は、もとより李植を愛していた。李植も、口先で無実を述べ、陰謀など事実無根だと訴えた。李遠はこれを信じ、息子と晋公を対決させようと、彼を連れて朝廷までやって来た。
 晋公は、李植を誅殺したと公表していたが、その李植が李遠に連れられて朝廷へやって来たとの報告を受け、激怒した。
「陽平公は、我を信じないのか!」
 そして、彼等を召し入れると、李遠の前で略陽公と李植を詰問した。李植は返答に窮し、略陽公へ言った。
「このはかりごとは、社稷を安泰にし至尊の御為になると思って行ったこと。それが、このような次第になりました。今更何を言えましょうか!」
 李遠は、これを聞くとベットへ身を投じて言った。
「お前のやったことは、万死に値するぞ!」
 ここに於いて、晋公は李植を殺し、李遠に自殺させた。李植の弟の李叔詣、李叔謙、李叔護も殺したが、その他はまだ幼いので赦してやった。
 話は遡るが、李遠の弟の開府儀同三司李穆は、李植が家を保てる人間ではないと看破して、跡継ぎを変えるよう勧めていたが、李遠は受け入れなかった。処刑されるときに、李遠は泣いて李穆へ言った。
「お前の言うことを聞かなかったばかりに、この有様だ!」
 李穆も、本来なら連座される所だったが、先の言葉があったので、死一等を減じられ、官位剥奪の上庶民へ落とされるだけで済んだ。彼の子弟もまた、免官となった。
 李植の弟の浙州刺史李基は、義帰公主を娶っていた。彼女は、宇文泰の娘である。彼も又連座される所だったが、李穆が、自分の二人の息子を差し出して、李基の命乞いをした。晋公は、彼等を全員赦してやった。
 後、一月ほどして、晋公は略陽公を殺した。后の元氏は尼にさせる。
 癸亥、寧都公が長安へ到着し、天王の位へ即いた。大赦を下す。 

(訳者、注。) 

 宇文覚が即いたのは、皇帝位ではなく、天王位です。だから、資治通鑑では、「孝愍帝」や「周帝」ではなく、「周王」と呼称してありました。この「孝愍帝」は、後世になって追尊された諡でしょう。
 ただ、永定元年の天王即位で、実質的には北周が建国されており、宇文覚も初代皇帝扱いされているので、翻訳の記述では、「孝愍帝」に統一しました。 

 二年、正月。晋公護が太師となった。
 孝愍帝は田を耕す儀式を行い、独孤氏を皇后に立てた。(上述の理由で、正確には王后です。)
 四月、太師の護をヨウ州牧とした。
 同月、周の王后独孤氏が卒した。
 五月、侯莫陳祟を大宗伯とした。 

  

孝愍帝 

 三年、太師の護は、大政を奉還した。ここにおいて初めて、北周の孝愍帝が親政を行った。しかし、軍事権だけは護が握っていた。
 都督州軍事の官職名を、総管と改称する。 

 吐谷渾が北周の辺域を荒らし回った。大司馬の賀蘭祥が、これを撃つ。
 賀蘭祥は吐谷渾を撃破し、二城を抜いて占領した。この地を兆州とする。 

 六月、北周で長雨が続いた。孝愍帝は、封書で極諫するよう群臣へ詔した。
 左光禄大夫猗氏楽遜は、四事を上言する。
「この頃、守や令の交代期間が早く、その短い期間に成果を挙げるよう命じますので、彼等は力づくで民をこき使うようになってしまいました。今、関東では暴虐な主君のおかげで、民は塗炭の苦しみに喘いでおります。この時にもし、我等が寛大な政治をせず、それが境外まで聞こえましたなら、あの疲れ切った民でさえ我が国へ逃げ込もうとはしなくなりますぞ!」
「かつて、魏の都の洛陽は大いに繁栄し、貴族達は競って贅沢に走りました。おかげで禍や乱が続発して、遂に、魏は滅んだのです。今、我が国でも贅沢が興り、職人達は技巧を凝らした仕事に精を出すようになりました。このままでは、政治や風俗をそこなうことになると考えます。」
 等々。 

 八月、御正中大夫崔猷が建議した。
「聖人の変革は、時勢に合わせて行うものです。今、天子は王と称しておられますが、これでは天下への威厳に欠けるところがあります。どうか、秦、漢の制度を遵守し、皇帝と称して年号を建ててください。」
 そこで、周王は皇帝を名乗った。文王を、文皇帝と追尊し、武成と改元する。 

  

 

 かつて北周が蜀を平定した時(553年)、太祖(宇文泰)は、蜀があまりに肥沃で険阻な土地だったため、宿将へ任せたがらず、諸子へ言った。
「誰か蜀を治めたい者はいるか?」
 すると、誰も応じなかったが、ただ、末っ子の安成公憲だけが名乗りを挙げた。しかし、彼は未だ幼すぎた為、太祖は許さなかった。
 この年、八月。憲は益州総管となった。時に、十六歳。彼は民を慈しみ、政治に気を配ったので、蜀の人々は彼へ懐いた。 

 九月、大将軍天水公廣を梁州総管とした。 

  

孝愍帝崩御  

 孝愍帝は明敏で知識もあったので、晋公護は、彼を憚っていた。
 天嘉元年(560年)、四月。晋公は、孝愍帝へ毒を盛るよう、膳部中大夫李安へ命じた。孝愍帝は、食した時にそれと覚った。
 庚子、孝愍帝は遺言を口述した。
「朕の子供は、まだ幼く国家の重任に耐えられない。弟の魯公は寛大仁恕で器も大きい。それは、国内でも評判である。この国を強大にできるのは、彼を置いて他に居るまい。」
 辛丑、孝愍帝は崩御した。享年二十七。廟号は世宗。
 魯公は、幼い頃から大器で才能もあり、特に世宗から愛されており、朝廷の大事には大抵参加していた。性格は深謀遠慮があり、沈着。尋ねられなければ口を開かない。世宗は、いつも感嘆していた。
「孔子は無口だが、言えば必ず的を得ていた。」
 壬寅、魯王が即位した。これが武帝である。 

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