胡太后の幽閉
 
婦女の仁 

 魏の岐州刺史の趙王謐は、暴虐な人間だった。理由もなく六人斬り殺したりしたので、城内の人間は恐々としていた。
 天監十四年(515年)、遂に民は暴動を起こした。暴徒達は大声で叫びながら城門へ迫る。趙王謐は、楼へ登り階段を切り落として、守備を固めた。
 胡太后は、游撃将軍王靖を派遣して、住民を説得させた。すると、民は城門を開けて謝罪した。この一件で、趙王は刺史を罷免となり、洛陽へ送り返された。
 ところが、趙王の妃は胡太后のいとこだった。洛陽へ戻った趙王は、大司農卿となった。 

 江陽王継の子息の乂は、胡太后の妹を娶っていた。
 九月、元乂は通直散騎侍郎となり、妻は新平郎君となる。 

 十五年、八月。胡国珍が驃騎大将軍、開府儀同三司、ヨウ州刺史となった。だが、胡国珍は年老いていたので、太后は地方へ出向させたがらず、ただ栄耀を示しただけで実行しなかった。 

  

崔光 

 十五年。孝明帝が幼いので、胡太后は祭事を自分が代行しようと思った。これを禮官に審議させると、不可とゆう回答だった。そこで、太后は侍中の崔光へ尋ねた。すると、崔光は漢の登(「登/里」)太后の故事を引き合いに出したので、太后は大いに悦び、遂に祭事を行った。 

 胡太后は、屡々親戚や勲臣貴臣のもとへ訪問した。八月、崔光が言った。
「『諸侯同志は病気見舞いや弔問以外の時に諸臣の家を訪問したら、これを謔という。』と、『禮』にあります。王后夫人に関しては何も言っておりませんが、臣下の家へ行くのが義に背くことは明白でございます。
 漢の上官皇后が昌邑王を廃立しようと考えた時、彼女の祖父の霍光が宰輔となっておりました。しかし、このような時でさえもなお、皇后は御簾を通してしか臣下と接せず、男女の区別を明示しました。それが今、宗族や勲臣貴臣は吉慶がある度に太后の臨幸を求め、これが風習化してしまう有様です。
 どうか、遊幸を控えられてくださいませ。」 

  

  

劉騰 

 宦官の劉騰は、字を読むこともできなかったが、姦謀に長けており、人の心を読むのが巧かった。胡太后は、かつて受けた恩を忘れず、侍中・右光禄大夫に抜擢し、政治に参与させた。劉騰へ賄賂を渡すと、どんな官職でも望みのままだと評判になった。
 さて、定州刺史河間王深(本当は、王偏)の貪欲さは評判だった。胡太后は、彼を罷免して、詔を下した。 そして、河間王の家籍を庶民へ落とした。
 深は、都へ戻ると劉騰へありったけの財宝を贈ったので、劉騰は、彼のことを胡太后へとりなした。こうして、河間王は秦州刺史に返り咲くことができた。
 九月、劉騰が重病になった。胡太后は、彼を元気づけようと、衛将軍、儀同三司とした。 

  

清河王懌 

 魏の太傅、侍中の清河王懌は、堂々たる美丈夫。胡太后は、彼と通じた。しかしながら、清河王には才覚があり、政治を補正することが多く、文学を好んで腰が低かったので、太后の男妾となりながらも、人々から重んじられていた。
 侍中・領軍将軍の元乂は、彼の指揮下にいた。彼は禁兵を総括し、太后の寵を恃んで傲慢恣意、勝手気儘のし放題だった。だが、それが行きすぎる度に、清河王が法を以て掣肘したので、元乂は彼を怨んでいた。
 さて、劉騰の権勢は、相変わらず内外を傾けていた。吏部は劉騰へおもねろうと、彼の弟を郡太守へ推薦した。だが、彼にそんな才覚はなかったので、清河王はこれを握りつぶした。これによって、劉騰も清河王を怨んだ。
 ここに、龍驤府長史の宋維とゆう男が居た。彼は宋弁の息子で、清河王の推薦によって通直郎となったが、軽薄な人間だった。そこで、元乂は出世を餌に、宋維に告発させた。
「韓文殊親子が、清河王を擁してクーデターを計画しております。」
 だが、この件は糾明されて、事実無根と判明し、清河王は釈放された。代わりに、宋維が、誣告罪で獄へ落とされた。すると、元乂は胡太后へ言った。
「今、宋維を誅殺すると、後々本当に謀反が起こっても、誰も告発しなくなります。」
 そこで、宋維は昌平郡主へ左遷されたに留まった。
 元乂は、いずれ清河王が自分を害するのではないかと畏れ、劉騰と密謀した挙げ句、主食中黄門(皇帝の給仕)の胡定を抱き込んだ。胡定は、孝明帝へ告発した。
「清河王は、陛下を毒殺しようと、臣を買収いたしました。」
 この時、孝明帝はまだ十一才。幼帝はこれをすっかり信じ込んでしまった。
 普通元年(520年)、七月。胡太后が嘉福殿に居た時、元乂は孝明帝を奉じて顕陽殿へ出て行き、劉騰は永巷門を閉じて太后を幽閉してしまった。
 清河王が入殿しようとすると、元乂は含章殿の後方で怒鳴りつけ、入殿を許さなかった。 清河王は言った。
「お前は造反する気か!」
「造反ではない!造反する者を捕らえるのだ!」
 そして宗士達へ清河王を捕らえさせ、含章東省へ監禁した。
 劉騰は詔と称して公卿を集め、清河王の造反を告発した。衆人は元乂の権勢を畏れて敢えて反発しなかったが、ただ僕射の新泰公游肇だけが抗議して、署名を肯べらなかった。
 元乂と劉騰は、公卿の署名を持って孝明帝へ上奏すると、たちまち裁可され、その夜のうちに清河王は誅殺された。
 ここにおいて、胡太后の詔がでっちあげられた。
「妾は最近、健康を害しました。よって、政権を陛下へ返還いたします。」
 そして、胡太后は北宮宣光殿へ幽閉された。宮門は昼となく夜となく閉ざされっ放し。外界からは完全に隔絶されてしまった。文書については劉騰が全て切り盛りし、孝明帝は目を通すことさえできなかった。
 胡太后は服も食膳も奪われ、飢えと寒さに苦しんだ。
「虎を養って噬まれる。妾の事ね。」
 又、中常侍の賈粲を常に孝明帝の側に侍らせ、その挙動を密かに報告させた。
 孝明帝は、元乂を叔父と呼んだ。元乂は、遂に高陽王ヨウと共に政治を執るようになったが、実質は彼と劉騰とで裏表一体となって政治を専断していた。元乂が朝廷、劉騰が後宮をとりまとめ、刑賞も政治も大小となく彼等二人が決裁する。彼等の威勢は内外を震わせ、百僚は声をひそめた。
 清河王が死んだと聞いて、朝野共に意気消沈してしまった。游肇は、憤死した。 

  

中山王の起兵 

 相州刺史の中山王煕は、元英の子息である。給事黄門侍郎の元略と司徒祭酒の元簒は、共に彼の弟だったが、彼等兄弟は、皆、清河王と仲が善かった。
 清河王が死んだと聞いて、中山王は業で起兵し、元乂と劉騰を誅殺するよう上表した。元簒は即座に業へ逃げ込んだ。
 挙兵から十日後、長史の柳元章が城民を率いて中山王の居城へ入城し、彼の左右を殺して中山王と元簒を幽閉した。
 八月、元乂は尚書左丞の廬同を派遣し、業の街で中山王と彼の子弟を斬った。
 中山王は文学を好み、威厳があり、大勢の名士が彼の元へ集まっていた。彼は、死ぬ間際、知人達へ手紙を書いた。
「我等兄弟は、共に太后の知遇を蒙り、兄は大州を任され、弟は側に侍った。大恩ある太后は、我等にとっては慈母に等しい。今、太后は北宮へ幽閉され、清河王は横死し、幼年の主上が独り前殿に居る。かくの如く、君親が薄氷の上に置かれている。よって、兵民を率いて天下へ大義を建てようと欲したのだ。ただ、我が知力が浅短で、遂には囚われの身となってしまった。上は朝廷に慚じ、下は知人に愧じるばかり。しかし、もともと大義の為に決起したのだ。首を砕かれようとも、それはもとより覚悟の上。ああ、百君子よ、各々道義を尊び、国の為身の為、名節を遂げられよ!」
 聞いた者は、皆、彼を憐れんだ。
 中山王の首が洛陽へ届けられても、彼の知人達は誰も会いに行かなかった。ただ、前の驍騎将軍?整だけが、その屍を貰い受け、埋葬した。
 廬同は、元乂の意向におもねり、中山王の一味を徹底的に糾明した。済陰内史の楊立(「日/立」)は、鎖に縛られて業へ護送されたが、百日に亘って尋問を受けた後、釈放された。
 元乂は、廬同を黄門侍郎に抜擢した。
 元略は、知人の司馬始賓と共に逃亡した。彼等は荻を縛って筏を造り、孟津を渡り、西河太守?雙のもとへ逃げ込んだ。?雙は、しばらく彼等を匿った。
 だが、元略の追捕は、ますます厳しくなる。元略は恐れ、梁へ亡命しようと考え、国境まで送ってくれるように頼んだ。
 ?雙は言った。
「誰もが死ぬのですよ。自分を認めてくれた相手の為に死ぬのなら本望ではありませんか。どうか思い煩わないで下さい。」
 だが、元略は求めて止まない。とうとう、?雙は養子の?昌を従者にして、彼を送り出した。こうして元略は、揚子江を渡って梁へ亡命し、武帝は彼を中山王に封じた。
 ?雙は、?整の一族である。
 元乂は、?整が手引きして元略を亡命させたと誣告し、子弟もろとも投獄した。だが、御史の王基が彼の為に弁明し、ようやく釈放された。 

  

暴虎馮河 

 胡太后の幽閉劇には、右衛将軍奚康生も関与していた。彼は、撫軍大将軍、河南尹となった。彼の子息の奚難当は侍中、左衛将軍侯剛の娘を娶っていた。そして侯剛の子息は、元乂の妹と結婚していた。そうゆう訳で、元乂は、この二人を閨閥と見て、深く結託した。三人で禁中に寝泊まりすることも多かったので、元乂は奚難当へ千牛刀を与えて護衛の役をさせたりもした。
 ところが、奚康生は粗暴で傲慢な性格だったので、元乂は次第に彼を疎んじるようになった。その顔色を見て、奚康生も不安を抱き始めた。
 二年、正月。孝明帝と胡太后は、西林園に群臣を集めて宴会を開いた。その席で、奚奚康生は剣舞を舞った。踊っている最中、胡太后と目が合う度に、奚康生は手を挙げ足を踏み目を怒らせ、今にも人を殺しそうな風情を見せた。胡太后は、彼の真意を理解したが、敢えて黙っていた。
 日が暮れると、胡太后は孝明帝の手を執り宣光殿に泊まろうとした。すると、侯剛が言った。
「至尊は朝廷の仕事があり、朝は早いのです。陛下の居宮はすぐ近く。なんで宣光殿に泊まる必要がありましょうか!」
 すると、奚康生が言った。
「至尊は太后陛下のご子息にあらせられます。陛下と共に泊まられて、何の支障がありましょうか!」
 群臣達は、皆、黙りこくっていた。
 胡太后は孝明帝の肩を抱いて下堂して去って行く。奚康生は大声で万歳を唱えた。
 孝明帝が共に入閣しようとすると、側近達が右往左往した。すると奚康生が、奚難当の千牛刀を奪って直後の元思輔を斬り殺したので、事が定まった。こうして、孝明帝は宣光殿へ昇った。左右の侍臣は、皆、西階の下に立った。
 奚康生は、酒の酔いに任せて、意気揚々と引き上げようとしたが、元乂の為に捕らわれ、門下に鎖で繋がれた。
 光禄勲の賈粲が、胡太后へ言った。
「侍官達が不安がっています。陛下自ら言葉を掛けて安心させて下さい。」
 胡太后はこれを信じ、殿を降りた。すると、賈粲は即座に孝明帝を担ぎ上げて顕陽殿へ向かって駆けだした。太后は、再び宣光殿に幽閉された。
 晩になって、元乂は尚書等十余人を連れて奚康生へ事件を尋問した。結果、彼等は奚康生へ斬刑、奚難当へ絞刑を求刑した。しかし、元乂は奚難当については流罪とした。
 奚難当が涙を零して父へ別れを告げると、奚康生は言った。
「我は謀反人として死んで行くのではない。お前は何を悲しむのだ。」
 奚難当は、侯剛の婿だったから、死刑を免れたのだ。しかし、元乂は密かに廬同を派遣して、彼を殺した。
 同月、劉騰が司空となった。劉騰と元乂の専横は、更に極まった。彼等は、賄賂の額だけで、人事を決定した。だから、舟車の利や山沢の饒がある所は、貪欲な人間から食い物にされてしまったし、六鎮の民は酷薄に搾り取られた。 

  

劉騰、卒す。 

 四年、三月。劉騰が卒した。彼の為に喪に服した宦官は四十余人。野辺送りをした者は百余人。朝廷の貴臣達も挙って送葬したので、その人並みで道は塞がり野は埋まった。 

 四月、懐荒鎮で造反が起こり、沃野鎮では破六韓抜陵が決起した。(詳細は、「六賃の乱」に記載) 

 十月。崔光が卒した。
 彼が危篤になった時、孝明帝は自ら看病し、彼の子息の崔勵を斉州刺史とした。又、彼の為に音楽を撤廃し、遊びも止めた。崔光が卒した時には、孝明帝は慟哭し、常膳を減らした。
 崔光は穏和な性格で、未だかつて怒ったことがなかった。崔光には旧徳があったので、于忠や元乂が専断していた時も、彼のことは敬って遠ざけていた。しかしながら、裴・郭・清河の誅殺を止めることができなかった。人々は、彼のことを張禹や胡廣に喩えた。 

  

元乂失脚 

 劉騰が死んでから、胡太后や孝明帝の様子がそれまでほど克明には判らなくなった。しかし、元乂は増長しきっていて、時には遊びに行ったまま帰らないこともあった。側近達は諫めたが、元乂は聞かない。胡太后は、この油断を鋭く察知した。
 五年、秋。太后は孝明帝や群臣の前で言った。
「今、私はわが子に会うことさえままなりません。何で絶えられましょう!この上は、出家して、祟山閑居寺に籠ります。」
 そして、髪を切ろうとした。孝明帝と群臣は涕泣土下座してこれを止めたが、太后はますます猛り狂った。
 そんな事があった後、孝明帝は嘉福殿に泊まって、太后と共に元乂を廃する為の陰謀を巡らせた。そして孝明帝は、何食わぬ顔で毎日を過ごすようになった。太后は、ますます怒り狂ったふりをして、事毎に出家すると吹聴して回った。皆は、これを元乂へ告げる。又、太后自ら、出家したいと涕泣して元乂へ頼み込んだ。元乂は、すっかり騙され、太后を出家させるよう、孝明帝へ勧めた。こうして、太后は屡々顕陽殿へ出向くようになった。
 ところで、元乂は元法僧を徐州刺史に抜擢したが、元法僧は造反した。太后は屡々その話をし、元乂はそのたびに深く慚愧した。
 丞相の高陽王ヨウは、位こそ元乂よりも高かったが、心中、深く彼を憚り恐れていた。 六年、胡太后と孝明帝が洛水にて遊んだ時、高陽王は二宮を自分の屋敷へ招待した。三人は、人払いして、元乂排斥の計略を練り上げた。
 ここにおいて、胡太后は元乂へ言った。
「元郎が、もしも朝廷への忠義心を持つならば、反心が無いことを示す為に領軍を辞職し、他の官位で輔政するのが筋道ではありませんか!」
 元乂は甚だ懼れ、自ら領軍将軍の辞任を申し出た。そこで、元乂は驃騎大将軍、開府儀同三司、尚書令、侍中、領左右となった。
 こうして元乂は兵権をなくしたが、なおも内外に絶大の勢力を持っていた。しかし、これ以上排斥する理由もなかった。だから、胡太后は躊躇していたのだが、侍中の穆紹は、速やかに彼を除くよう勧めた。
 この頃、孝明帝は潘嬪を寵愛していた。そこで、宦官の張景嵩が潘嬪へ言った。
「元乂は、貴女を殺そうとしています。」

 潘嬪は、孝明帝へ泣いて訴えた。
「元乂は、妾を殺そうとしているだけではなく、陛下まで手がけようとしております。」
 孝明帝はこれを信じ込み、元乂が自宅へ帰っている隙に、彼の侍中職を解任した。
 翌朝、元乂が入宮しようとしたら、門番がこれを拒んだ。
 辛卯、胡太后は再び朝廷へ臨んで摂政となった。劉騰の官爵を追削し、元乂を庶民へ落とす。
 清河国の郎中令韓子煕が、清河王懌の冤罪を上表し、元乂等の誅殺を請願した。
「昔、趙高が秦を専断して関中は鼎沸し、今は元乂が魏を専断して国中に動乱を巻き起こしました。この大逆は宋維が巻き起こし、劉騰が押し広げたのです。どうか彼等を梟首して、一族を殲滅し、その罪状を明白にして下さい。」
 そこで、胡太后は劉騰の墓を暴き、その骨を砕いて撒き散らした。又、彼の家財は全て没収し、養子達も皆殺しにした。
 この一件で、韓子煕は中書舎人となった。ちなみに韓子煕は、韓麒麟の孫である。
 話はさかのぼるが、宋維の父の宋弁は、常に言っていた。
「宋維は、陰険なくせにうかつだ。きっと、我家を潰してしまうぞ。」
 李祟、郭祚、游肇等も言った。
「伯緒(宋維の字)は凶暴で迂闊。最期には宋氏を潰すだろう。もしも、自身が誅殺されなければめっけものだ。」
 宋維は、元乂に媚びへつらって洛州刺史まで出世していたが、ここに至って除名され、次いで自殺を命じられた。 

  

賊党誅殺 

 元乂の領軍職は解任されたが、彼の党類はまだ隠然たる勢力を誇っていたので、太后は手を緩めなかった。
 まず、元乂の後任の領軍将軍には侯剛を起用して、彼らを安堵させた。しかし、すぐに解任し、代わりに冀州刺史、加儀同三司とした。だが、侯剛が冀州へ到着する前に、征虜将軍に格下げとした。侯剛は、自宅にて死んだ。
 又、胡太后は賈粲も殺したかったが、元乂の仲間が不安から動揺することもおそれた。そこで、とりあえず済州刺史にしてから、殺した。彼の家は庶民へ落とした。
 ただ、元乂本人は、妹の夫なので、処分を躊躇していた。
 話はさかのぼるが、給事黄門侍郎の元順は剛直な人間だったので、元乂の機嫌を損ね、斉州刺史として地方へとばされていた。胡太后は、彼を中央へ呼び戻し、侍中とした。こうして、元順は胡太后の傍らへ侍るようになった。
 ある時、元乂の妻が胡太后と同席していたので、元順は彼女を指さして言った。
「陛下は妹に気兼ねして元乂の罪状を糾明せずに放置なさっておられますが、天下の民の冤罪や鬱屈を晴らしてやろうとは思われないのですか!」
 胡太后は黙りこくった。
 元順は、任城王澄の子息である。
 ある日、胡太后はくつろいだ有様で群臣へ言った。
「昔、劉騰と元乂は、『何が起こっても、絶対に死刑にはしない』とゆう鉄券を寄越せと妾へ迫りましたが、妾はそれだけは与えませんでした。」
 すると、韓子煕が言った。
「事が生殺に関われば、鉄券などに何の意味がありましょうか!それに、陛下はその時お与えになられなかったのでしたら、どうして今日、奴目を殺さないのですか!」
 太后は憮然とした。
 それから幾日も経たない内に、密告する者がいた。
「元乂は、弟の元瓜と共に六鎮の降伏者たちを扇動して、定州にて造反する陰謀を企てております。その折り、魯陽の諸蛮が伊闕で暴れ回って呼応する手はずです。」
 その文書を入手しても、胡太后はまだ殺すに忍びなかった。しかし、群臣はせっついてやまず、孝明帝まで口添えしたので、とうとう胡太后も決断した。
 元乂と元瓜に、自宅にて自殺を命じる。元乂には、驃騎大将軍、儀同三司、尚書令を贈った。江陽王継は自宅にて病死した。前の幽州刺史廬同も、元乂の一味として除名した。 

 胡太后は、着飾って外出するのが好きだった。ある時、胡太后が外出していると、元順は面と向かって諫めた。
「夫に先立たれた夫人は未亡人と称して、首飾りをはずし黒や白など無色の服を着るのが『礼』の教えです。陛下は天下の母として君臨なさっておられますし、お年も既に不惑(四十歳)を越えておられますのに、そのように仰々しく着飾っておられます。これでは後世へしめしがつきませんぞ!」
 胡太后は慚愧して皇宮へ帰り、元順を呼び出して言った。
「人前でわざわざ辱める事がありますか!」
 すると、元順は言った。
「陛下は天下の万民からから嘲笑されることを畏れずに、臣の一言を恥じられるのですか!」