趙・魏、中原を乱す。(石虎簒奪)

 

 懐帝の永嘉五年(311年)、劉昆(「王/昆」)が、石勒の母親を手に入れた。そこで、彼は石勒の養子の石虎と共に、母親の王氏を彼のもとへ送った。(詳細は、「石勒、河朔に寇す」に記載。)
 さて、石虎は十七才。傍若無人で残忍だったので、軍中の鼻つまみ者となった。 
 ある時、石勒は母に言った。
「あいつは凶暴無頼。しかし、養子を殺したとなれば人聞きが悪い。本人に自殺して貰うしかない。」
 すると、母親は言った。
「快牛に荷車を牽かせたら、荷車を壊してしまうものだよ。小さな事は忍びなさい!」
 その言葉通り、石虎は猛将として勇名を恣にし、やがて石勒から寵重されるようになった。

 成帝の感和五年(330年)、石勒は皇帝に即位し、息子の石弘を皇太子、石宏を大単于とした。石虎は大いに憤慨し、斉王の石遽(石虎の息子)へ言った。
「主上が襄国に落ち着いてから(312年)とゆうもの、外征は専らこの俺がやってきた。この二十年間、矢や石を浴びながら、南は劉岳を捕らえ、東は斉・魯を平らげ、西は秦・よう(曹嶷)を定め、十三州を奪った。趙をここまでしたのは俺だ。大単于には、俺がなるのが当然ではないか。それを、あんなひよっこへ与えおって。見て居れ、主上が晏駕したら、一族根絶やしにしてやる。」
 片や石弘は、文章が巧く儒教を貴ぶ人間だったので、石勒は徐光へ愚痴をこぼした。
「儒教など女々しくて、将軍の家には相応しくないぞ。」
 すると徐光は答えた。
「漢の皇祖は馬上で天下を取りましたが、文帝が儒教を貴んで盤石の礎を作ったのです。聖人が天下を統一した後には、必ず穏和な者がこれを継ぎ、残虐な風潮を改め、殺伐とした世の中を終わらせる。それが天の道でございます。」
 石勒は大いに喜んだ。そこで、徐光は言葉を続けた。
「皇太子は仁孝温恭なお人柄ですが、中山王(石虎)は戦に強く、偽りが多い人間です。陛下不諱(崩御)の後は、社稷が皇太子の者でなくなることを恐れます。どうか中山王の権力を奪い、皇太子殿下には早めに朝政へ参与なさせますよう。」
 石勒は心で頷きながらも、実践ができなかった。

 七年、四月。右僕射の程遐が石勒へ言った。
「中山王は、群臣の中でもずば抜けて勇悍で機知に富んでおります。その上彼は、陛下以外の全ての者を蔑視しております。加えて残忍な性格で、長いこと大軍を指揮しており、彼の威名は国の内外に鳴り響いております。彼の息子の石遽、石宣も長じており、今では立派な将軍です。
 彼等が不逞を起こさないのは、陛下なればこそ。年少の主君では、とても彼等を御しきれますまい。どうか早目に処分して、後の憂いを絶ち切って下さい。」
 すると、石勒は言った。
「天下は未だ多難である。だから、まだ若い大雅(石弘)には強力な補弼が必要なのだ。中山王は我等が一族。大功も建てた。そのような男には、伊尹・霍光のような大任を与えなければならない。それを何だ、卿の言い分は!卿は、帝舅の権力を与えられるかどうか心配なのだろうが、それは案じるな。朕は、卿も顧命に預からせるつもりだ。」
 程遐は涙を零した。
「臣はただ皇室の行く末を案じているのです。それなのに、陛下は私利にすり替えて拒まれた。そのようなことでは、誰も忠言を口にしなくなってしまいます!確かに、中山王は皇太后が養われましたが、陛下とは血が繋がっておりません。彼に功績はございますが、陛下が養子にまでなさって居られるのですから、恩賞としては十分ではありませんか。なのに、中山王の欲望には極みがない。そんな男が、どうして将来の役に立ちましょうか! もしも彼を処分しなければ、宗廟を保てません。」
 しかし、石勒は聞かなかった。
 程遐は退出すると、ありのままを徐光へ告げた。すると、徐光は言った。
「中山王は、いつでも、我等二人に切歯している。必ず国家に害を為すぞ。」
 そこで徐光は、機会を掴んで石勒へ言った。
「今、我が国は平安ですが、陛下の顔色が優れません。心配事でもございますか?」
「呉と蜀が、未だに平定されておらん。これでは、吾は後世の人々から『受命の王』と評価されないではないか。」
「昔、魏が漢の天下を奪った時、漢の後続の劉備が蜀に割拠しましたが、結局漢は再興できませんでした。今の晋とて同じ事です!今、李氏が蜀に割拠しておりますが、これも孫権程度の存在。陛下は長安と洛陽の二都を占有し、八州を平定なさいました。帝王の系譜は、陛下にあらずして誰の頭上にありましょうか!
 それに、陛下。陛下は心腹の病を抱えて居るのです。四肢の憂いなど、顧みて居る段ではございませんぞ!陛下の威光を背負ったからこそ、中山王は連戦連勝で来られました。にもかかわらず、世間の人々は、彼の英武を陛下に準じると評しておるのです。且つ、彼の性根は不仁。利益を見ては節義を忘れる男です。その中山王が、親子揃って権力を持ち、王室を闊歩しております。
 私は常々怏々としておりましたが、最近、東宮にて宴会があった時、中山王は皇太子殿下を軽んじた態度をとったと聞きます。このままでは、陛下万年の後(崩御の後)、宗廟を保てないことを恐れます。」
 石勒は黙り込んでしまった。
 やがて石勒は、征伐や死刑などの重大事以外は、全て皇太子へ奏上するよう命じた。そして、中常侍の厳震を、その採定に関与させた。
 これによって、厳震の権勢は宰相をも凌ぐようになった。そこで厳震は、中山王専用の門を封鎖した。石虎の不満は益々募った。

 八年、六月。石勒が病で寝込んだ。すると、中山王は禁中へ入り、詔を矯正して、群臣の入禁を禁じた。以来、石勒の病状は誰にも判らなくなった。
 又、石虎は詔を矯正して、秦王宏と彭城王堪を襄国へ召還した。(石勒は、宏を都督中外諸軍事に任命し、業を鎮守させていたのである。)しばらくして、石勒の病状が小康状態になった時、彼は秦王宏を見て、驚いた。
「今日の事態に備えて、秦王を業へ派遣していたのだ。誰かが召還したのか?それとも秦王が自身でやって来たのか?召還した者が居るのなら、誅してしまえ!」
 石虎は懼れて言った。
「秦王は、思慕の想いに耐えきれず、暫く戻ってこられただけです。今すぐ業へ戻しますから。」
 しかし、その実、秦王を抑留して業へは派遣しなかった。
 数日して石勒が再び尋ねると、石虎は言った。
「詔を受け、すぐに派遣しました。今頃は、道程の半ばでしょうか。」
 そんな折、廣阿に蝗害が起こった。石虎は、息子の冀州刺史石遽に三千騎の兵卒を与えて派遣した。蝗対策にかこつけて、変事の為の外応としたのである。
 七月。病が重くなった石勒は遺言を残した。
「大雅兄弟は、仲良く助け合え。司馬氏の滅亡は、お前達の戒めだ。中山王は、将来、他の人間から難癖を付けられぬよう、周公や霍光を手本とするがよい。」
 戊辰、石勒は崩御した。享年六十。
 中山王は、即座に皇太子の石弘を臨軒へ拐かすと、程遐と徐光を捕らえ、獄へ下した。そして石遽を宿衛へ導き入れた。この大軍が乱入すると、文武の官吏達は蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。
 石弘は大いに懼れ、自ら劣弱を述べ、石虎へ帝位を譲った。すると、石虎は言った。
「主君が崩御したら皇太子が立つ。それが礼です。」
 石弘は涕泣して固く譲ったが、石虎は怒鳴りつけた。
「重任に堪えきれないと言われても、天下には大義があります。つべこべ言われるな!」
 こうして、石弘が即位した。大赦が下されたが、程遐と徐光は殺された。
 その夜、石勒の遺体を深い山谷へ密かに葬った。その場所は、誰も知らない。
 己卯、仰々しく飾った儀式で、石勒の遺体を高平陵へ埋葬する振りをした。諡は明帝、廟号は高祖。(皇帝が、崩御後僅か十二日で埋葬されたのは、極めて異常。崩御後数ヶ月は安置して別れを惜しむのが礼である。)
 趙の将軍石聡と焦郡太守の彭彪が、各々東晋へ使者を派遣して降伏を申し出た。東晋朝廷は、督護の橋球を派遣したが、彼が到着する前に、石虎は石聡等を誅殺した。

 八月。趙王石弘は、中山王を丞相、魏王、大単于と為し、九錫を加え、魏郡を初めとする十三軍をその領土として与え、百揆を統べさせた。
 石虎は、自分の領内へ大赦を下し、妻の鄭氏を王后とした。
 又、石弘は、石遽を魏太子とし、使持節、侍中、都督中外諸軍事、大将軍、録尚書事を加えた。石虎の次男の石宣は、使持節、車騎将軍、冀州刺史と為し、河間王に封じた。
 その他、顕職に就いた者を列挙する。
 石遵は斉王に封じられた。石鑑は代王に封じられた。石苞は楽平王に封じられた。石斌は平原王から章武王へ移封された。
 凡そ、石勒の旧臣達は閑職へ追われ、石虎の子飼の者達は悉く朝廷の要職へ就いた。
 鎮軍将軍の?安は領左僕射に、尚書の郭殷は右僕射になった。
 又、太子宮を崇訓宮と改称し、太后の劉氏以下をここへ移住させた。そして、石勒の宮人、車馬、服及び装飾品などあらゆる物のうち、美しい物は全て丞相府へ運び込んでしまった。
 石虎の甚だしい専横の中、劉太后は彭城王の石堪に言った。
先帝が崩御なさってから、丞相の僭越はここまで酷くなりました。このままでは簒奪されてしまいます。王はどうなさるおつもりですか?」
「先帝の旧臣達は全て左遷され、軍権も丞相の一族に奪われてしまいました。このまま都にいては、手も足も出せません。臣は、これから兌(「亠/兌」)州へ逃げ、南陽王恢(石勒の末の息子)を盟主と戴き、廩丘へ據って起兵します。太后は、各地の牧、守、征、鎮へ対し、逆臣を討つよう詔を下してください。そうすれば、互角に戦えます。」
「事は急を要します!急ぎなさい。」
 九月、堪は質素な身なりで都を脱出し、軽騎で兌州を急襲したが、勝てず、焦城へ逃げ込んだ。
 丞相は、麾下の将軍郭太へ追撃を命じ、彼は城父にて石堪を捕らえた。石堪は襄国へ送られ、火炙りとなった。
 これによって、劉太后の陰謀は暴露した。丞相は、南陽王恢へ上京を命じた。又、劉太后の官爵を剥奪し、殺した。その代わり、石弘の生母の程氏を皇太后とした。
 ちなみに、石堪はもともと田氏の息子だったが、数々の戦功を建てたので、石勒は彼を養子にしたのだった。
 劉氏は、女性には惜しい程肝が据わり、知略があった。それで、石勒は常々彼女を軍議に参加させていた。石勒を佐けて多くの功業を建てさせた。呂后を思わせる女性だった。

 十月、漢中を押さえる河東王生と、洛陽を押さえる石郎が、丞相石虎討伐を唱えて挙兵した。河東王生は秦州刺史と自称し、東晋へ降伏の使者を派遣した。又、てい帥の蒲洪は、よう州刺史と自称し、涼の張駿に庇護を求めた。
 石虎は太子の石遽に襄国の留守を預けると、七万の兵卒を率いて石郎を攻撃した。石郎は、金庸にて迎撃したが、敗北して捕まった。石虎は石郎を斬り殺した。
 石生を掃討した石虎は、息子の梁王挺を前鋒大都督に任命して、長安へ向かった。これに対して河東王は、将軍の郭権を先発させた。郭権が率いるのは、鮮卑の渉瑁麾下兵卒二万人。そして、河東王自身は大軍を以て後続となり、蒲阪まで進軍した。
 郭権は、潼関にて石挺と戦い、これを大いに破った。この戦いで、石挺と、丞相左長史の劉隗が戦死した。石虎は縄池まで退却する。累々たる屍は、三百里にも亘って連なった。
 しかし、鮮卑は、密かに石虎と内通し、河東王を攻撃した。河東王は石挺の戦死を知らず、懼れて単騎長安へ逃げ帰った。郭権は敗残兵をかき集めて渭丙まで退いた。
 河東王は、遂に長安を棄て、鶏頭山へ隠れた。長安の守備は将軍の将英へ委ねたが、石虎はこれを攻撃し、将英を斬る。
 河東王の部下が寝返って、主人を殺して降伏した。郭権は、隴右へ逃げた。
 石虎は、諸将を併と隴へ分屯させると、将軍の麻秋に蒲洪攻撃を命じた。すると、蒲洪は配下の二万の軍を率いたまま、石虎へ降伏した。石虎はこれを迎え入れ、蒲洪を光烈将軍、護てい校尉に任命した。
 長安へ着くと、蒲洪は石虎へ言った。
「関中の豪傑と、てい・きょうを東方へ移住させましょう。ていの人間は、皆、我が部下です。私が彼等を率いれば、誰が背きましょうか!」
 石虎はこれに従い、秦・ようの民とてい・きょうの人間十万世帯を関東へ移住させた。そして、蒲洪を龍驤将軍・流民都督に任命し、枋頭へ居住させた。又、きょう帥の姚弋仲を奮武将軍、西きょう大都督に任命し、その部下の数万人を清河から摂頭へ移住させた。
 こうして、石虎は襄国へ帰り、大赦を下した。石弘は、石虎へ魏台の建設を命じた。それは漢を補佐した曹操の故事に倣ったのである。

 十二月、郭権は上圭に據って東晋へ降伏した。京兆、新平、扶風、馮翊、北地も、皆、これに応じた。

 九年、三月。石虎は郭傲と章武王斌を派遣して、郭権を攻撃させた。総勢四万にて、華陰に陣を取る。
 四月、上圭の豪族が郭権を殺して投降した。
 石虎は、秦州の三万世帯を青、へい州へ移住させた。
 長安の人陳良夫が黒きょうへ亡命し、北きょう王の薄句大と共に北地、馮翊を荒らし回った。章武王斌と楽安王滔がこれを撃破。薄句大は馬蘭山へ逃げた。だが、勝ちに乗じて深追いした郭傲は反撃にあって敗れ、兵の七割方を失った。石虎は使者を派遣して、郭傲を誅殺した。

 秦王宏が怨言を吐いたので、石虎はこれを幽閉した。

 十月、石弘は自ら璽綬を持って石虎のもとへ訪れ、禅譲を請うた。石虎は言った。
「帝王の大業は、天下の人々が決めること。なんで独断でそのようなことをなさるのか!」
 石弘は流涕して宮へ帰ると、太后の程氏へ言った。
「先帝の子孫は、皆殺しになってしまう。」
 この事件によって、尚書が上奏した。
「魏台を造ったのは、唐が虞へ禅譲した故事に則ったものでございます。」
 そこで、石虎は言った。
「石弘は暗愚な性で、父の喪に際して無礼だった。これは廃立するべきだ。禅譲などとんでも無い!」
 十一月、石虎は郭殷を宮へ派遣し、石弘を廃して海陽王とした。
 この時、石弘は自若として車へ乗り込み、群臣へ言った。
「庸昧な男は、帝位の重さに耐えきれないのだ。それ以上、何も言うことはない!」
 群臣に流涕しない者はおらず、宮人は慟哭した。
 石弘を見送った後、群臣は魏台へ詣で、石虎へ即位を勧めた。
 すると、石虎は言った。
「皇帝は、盛徳の者へ与えられる称号。よって、孤は敢えてこれに就かぬ。これからは、趙天王と称する。」
 石弘と程氏、秦王宏、南陽王恢を崇訓宮へ幽閉した後、皆殺しとした。石弘は、享年二十一だった。
 この時、西きょう大都督の姚弋仲は、病気と言い立てて祝賀に赴かなかった。石虎が何度も召還すると、ようやく上京したが、彼は顔つきを改めて石虎へ言った。
「大王は世紀の英雄、と、私はかねがね吹聴しておりました。それが、子息を託されたことを幸いに、簒奪に走るとは。一体、どうゆうお積もりですか?」
「吾がどうして私利に走ってこんな事を行おうか!ただ、海陽が年少で、このままでは国を保つことができないと思ったからこそ、河って王位へ即いたのだ。」
 石虎は、心中大いに不満だった。しかし、姚弋仲が誠実な思いで言ったことだと判っていたので、罰さなかった。
 新しい幕僚は、?安が侍中、太尉、守尚書令。郭殷が司空。韓晞が尚書左僕射。申鐘が侍中。郎豈が光禄大夫。王波が中書令。その他、大勢の文武官が昇進した。
 石虎は、信都へ御幸し、再び襄国へ戻った。讖文に「天子は東北から来る。」の一文があったので、これに則ったのである。

(訳者、曰)

 石虎は、病床の石勒を手にした。この時点で、大きく他をリードしたと言えよう。そして、石勒崩御と共に電光石火に事を起こした。これには程遐も徐光も意表をつかれただろう。彼が簒奪できたのは当然である。
 ただ、石勒が病床にあり石虎がこれを籠絡した時、石勒の一族が何をしていたのだろうか。これは実に腑に落ちない。
 彼等が石虎の簒奪を予測して何らかの手を打っていたら、石虎の天下は続いただろうか?
 襄国を支配下に収め、石弘を人質にした石虎は、確かに天下を奪ったと言える。しかし、その彼へ対する造反が、お粗末すぎるのだ。その全ては単発であり、あっけなく各個撃破されてしまった。彼等が巧く連携を執っていたら、こうはならなかっただろう。
 石虎はそこまで予測していたから簒奪に踏み切れたのだろうか?それとも最初に粛清した程遐と徐光が要となっていたので、連携が取れなくなったのだろうか?もしもそうなら、石虎は、敵を分断することまで考えてこの両名を粛清したのだろうか?
 歴史の表面に顕れた事件は、確かに筋道が通っている。しかし、水面下で何が起こっていたのか?この事件については、その記述が少なすぎて、全貌が実に掴みにくい。