突厥   頡利可汗その二      滅亡    
 
 武徳九年(626)六月、玄武門の変が起こる。同月、突厥が隴州へ来寇した。辛未、渭州へ来寇した。右衞大将軍柴紹を派遣して迎撃させた。 
 七月、己丑、柴紹が秦州にて突厥を破った。特勒一人を斬り、士卒の首千余級を挙げた。
 八月、丙辰、突厥が使者を派遣して講和してきた。ところが、同月、突厥は再び大挙して押し寄せた。その経緯は以下の通り、
 初め、稽胡の酋長劉企(本当は止ではなく、山)成が衆を率いて梁師都へ降伏してきたが、師都は讒言を信じて、これを殺した。この事件によって、師都を疑い懼れた酋長達が大勢唐へ来降した。師都は、勢力がますます弱体化したので、突厥へ入朝して画策し、唐への入寇を勧めた。こうして頡利、突利の二可汗が連合して十余万の兵を率いてケイ州へ来寇したのである。彼等は武功まで進軍した。京師では、戒厳令が布かれた。
 己卯、突厥が高陵まで進寇した。
 辛巳、ケイ陽にて、ケイ州道行軍総管尉遅敬徳が突厥と戦い、大いに破った。突厥の俟斤の阿史徳烏没啜を捕らえ、千余級の首を斬る。
 癸未、頡利可汗が渭水の便橋の北まで進軍した。そこで腹心の執失思力を唐の朝廷へ派遣し、皇帝へ謁見させて虚実を窺わせた。思力は盛んに言い立てた。
「頡利と突利の二可汗が百万の兵を率いて、今にもやって来ますぞ。」
 すると、上は詰って言った。
「吾と汝の可汗とは和親を結び、贈与した金帛は数えきれぬほどだ。汝の可汗は自ら盟約に背き、兵を率いて深く入った。吾へ対して恥を知らぬのか!汝等は戎狄とは言え、人の心は持っておろう。なんで大恩を全て忘れ、自ら強盛を誇るのか!吾はまず、お前から斬ってやる!」
 思力は懼れ、命乞いをした。蕭禹と封徳彝は、礼に従って返してやるよう請うたが、上は言った。
「このまま返してやれば、虜は、我が自分達を畏れていると思って、益々つけ上がるぞ。」
 そこで、思力を捕らえて、門下省へ軟禁した。
 上は、高士廉や房玄齢など六騎を従えて玄武門から出て、渭水のほとりへ駆けつけると、川を挟んで頡利と語り、盟約に背いたことを責めた。突厥達は大いに驚き、皆、馬を降りて上を拝礼した。すると、諸軍が続々とやって来て、旌旗が野に満ちた。
 頡利は執失思力が帰ってこないのと、上が自身で駆けつけたことと、敵が大軍なのとを見て、懼れた顔をした。上は諸軍を指揮して布陣させ、自身は一人留まって、頡利と語った。蕭禹は、上が余り軽々しく敵と対峙するので固く諫めたが、上は言った。
「我には成算がある。卿の知るところではない。突厥が敢えて国を傾けてまで来寇し、まっすぐ都まで進軍したのは、朕が即位したばかりなので、抵抗できないだろうと踏んでのことだ。もしも我が弱味を見せ、城門を閉じて拒守すれば、虜は必ず好き勝手に暴れ回って掠奪の限りを尽くし、制圧することができなくなる。だから朕は軽騎で一人飛び出して軽快さを見せつけ、また、堂々たる大軍を見せて必戦の姿勢を取って虜の意表をつき、奴らのもくろみを潰してやるのだ。虜は、我が領土深く入り込んだのだから、内心必ず懼れている。だから、これと戦えば勝てるし、和平すれば確固たるものとなる。突厥を制服するのはこの一挙にあり。卿は黙ってみておれ!」
 この日、頡利がやって来て和平を請うたので、詔してこれを許した。上は、即日宮殿へ帰った。
 乙酉、また城西へ御幸し、便橋の上にて白馬を斬って頡利と盟約を結んだ。突厥は、兵を退いた。
 蕭禹が、上へ尋ねた。
「突厥と和平する前、諸将は戦闘を請いましたが、陛下は許しませんでした。臣等は陛下の心が判りませんでしたが、虜は自ら退却しました。いったいどうゆう訳なのでしょうか?」
 上は言った。
「我の観たところ、突厥軍は大軍ではあったが、整然とはしていなかった。君臣の思いは、ただ財貨が欲しかっただけだ。彼等が講和したとき、可汗一人渭水の西へ居り、高官達は皆、我の元へ謁見に来た。もしも我が奴等を酔わせて縛り上げ、これを先途に襲撃したら、枯れ木を引き倒すようなものだ。また、幽州にて長孫無忌と李靖に伏兵を命じて待ち受け、虜が逃げ帰ったところを攻撃させて、大軍が追撃すれば、掌を返すように潰滅できる。それなのに戦わなかったのは、我は即位して未だ日が浅く、国家は安定していないし百姓も未だ富んでいないので、静かに慰撫するべき時だと判断したのだ。一度虜と戦えば、軍費も莫大だ。虜は完敗したら怨みを深く持つだろうし、我等を懼れて軍備も修めるだろう。そうすると、ますます戦争は続く。だから、甲を巻き矛を収め、金帛を与えたのだ。奴等は望みのものさえ手に入れれば自然と退却するのが道理だし、心情は驕慢になり、防備もおろそかになる。その後に満を持して敵の隙を衝けば、一挙に虜を絶滅できる。『これを奪おうと思ったら、まず与えよ。』とは、この事だ。判ったかな?」
 禹は再拝して言った。
「とても、私の及ぶところではありません。」
 九月、突厥の頡利が馬三千匹、羊一万口を献上したが、上は受けなかった。(この年の八月に即位して以降、「上」とゆうのは太宗皇帝を指す。)ただ、中国の民間から掠奪したものと、温彦博だけは返すよう、詔を下した。 

 貞観元年(丁亥、627年)五月、苑君璋が衆を率いて来降した。その経緯は、次の通り。
 君璋は、突厥を引き入れて馬邑を陥し、高満政を殺して、恒安まで退却してここを保った。だが、その手勢は皆、中国人だった。彼等は大半が君璋を棄てて来降した。君璋は懼れ、彼もまた降伏し、北辺を守ることで罪を贖いたいと請願した。上皇がこれを許すと、君璋は確約を欲しがったので、上皇は雁門の住民元普を使者として、金券を賜下した。
 だが、頡利可汗が、君璋のもとへ使者を派遣して彼を招いた。君璋が迷ってしまって決断できないでいると、恒安の住民郭子威が君璋へ説いた。
「恒安は険阻な地形で、城は堅固です。また、突厥は今、強盛。ここは状況を観望するべきですぞ。他人へ手をついて仕えるには早すぎます。」
 君璋は、元普を捕らえて突厥へ送り、再びこれと手を結んだ。そして、屡々突厥と共に入寇していた。
 だが、ここに至って頡利の政治が乱れたのを見、彼が恃むに足りないと見限って、遂に手勢を率いて来降した。
 上は、君璋を隰州都督、丙(「草/丙」)国公とした。 

 突厥は、もともと淳厚な風俗で、政令は簡略なものだった。ところが、頡利可汗が華人の趙徳言を得てこれに委任すると、徳言は威福を独占し、旧俗を次々と変えていった。政令は煩雑となり、国人は不満を持ち始めた。
 また、頡利は諸胡を好んで信任し、突厥を疎んじた。胡人は貪婪で反覆も多く、毎年戦争が続いた。その上天候も不順で、大雪が降って深さ数尺も積もり雑畜が沢山死んだこともあったし、連年飢饉が続いて民は皆、飢えと凍えに苦しんだ。それなのに頡利は、国用の不足から、諸部へ重税を課した。こうした訳で、内外が離怨し、諸部の造反が相継いで、国力は次第に弱まっていった。
 唐では、大勢の人間が突厥の討伐を口にしたので、上は蕭禹と長孫無忌へ問うた。
「頡利の君臣は昏虐だから、必ず滅ぶ。今、これを討とうと思うが、盟約を結んだばかりだ。しかし、討たなければ機会を失ってしまうだろう。どうすればよいか?」
 禹は攻撃するよう請うたが、無忌は言った。
「虜が国境を侵したわけでもないのに、信義を棄てて民をこき使うのでは、王者の軍とは言えません。」
 上は、攻撃を止めた。 

 突厥が強盛になった頃、敕勒の諸部は分散し、薛延陀、迴乞(「糸/乞」)、都播、骨利幹、多濫葛、同羅、僕固、抜野古、思結、渾、斛薛、結、阿跌、契必(「草/必」)、白習(「雨/習」)等十五の部族に別れた。皆、磧北に住み、その風俗は大体突厥と同じだった。この中では、薛延陀が最強だった。
 西突厥の曷薩那可汗が強盛になると、敕勒の諸部は、皆、これへ臣従した。しかし、曷薩那は彼等から貪欲に徴税したので、諸部は皆、怨んだ。すると曷薩那は、彼等の渠帥百余人を誅殺した。遂に敕勒は共に一斉に蜂起した。 彼等は貪于山北に住む契必の哥楞を推戴して易勿眞莫賀可汗とし、燕末山北に住む薛延陀の乙失鉢を也咥小可汗とした。だが、やがて射匱可汗の兵力が強くなると、薛延陀、契必の二部は共に可汗の称号を取り去り、これに臣従した。
 回乞等六部は鬱督軍山へ住み、東方の始畢可汗の属国となる。統葉護可汗の勢力が衰えると、乙失鉢の孫の夷男が配下の部落七万を率いて頡利可汗へ臣従した。だが、頡利の政治が乱れると、薛延陀と回乞、抜野古等は、部落を率いてこれに背いた。頡利は、兄の子の欲谷設へ十万騎を与えて、彼等を討伐させた。回乞の酋長菩薩は五千騎を率い、これと馬鼠(「髟/鼠」)山にて戦い、大勝利を収めた。欲谷設は逃げだし、菩薩はこれを天山まで追撃した。大勢の騎兵を捕虜にし、これ以来、回乞の兵力は大いに増大した。
 薛延陀もまた、突厥の四つの設を破ったが、頡利はこれを制圧できなかった。
 頡利はますます衰退し、国人は離散していった。そこへ大雪が降った。この雪は平地を数尺も覆い、多くの羊や馬が死に大勢の民が餓死した。頡利は、これに乗じて唐軍が攻めてくることを恐れ、兵を朔州との国境付近へ置き、狩猟を名目にして軍備を布いた。
 鴻臚卿鄭元壽を使者として突厥へ派遣したが、彼は帰ってくると上言した。
「戎狄の盛衰は、羊馬の飼育にかかる気候次第です。今、突厥の民は飢え、家畜は痩せています。これこそ、滅亡の兆しです。まあ、三年と持ちますまい。」
 上は、納得した。多くの群臣達が、この機会に突厥を討つよう勧めたが、上は言った。
「盟約を結んだばかりの相手を討伐する。これは信義に悖る。相手の災いにつけ込むのは、不仁だ。相手の危機に乗じて勝利を取るのは武ではない。たとえ、彼の部下が全員叛逆して、彼が家畜を全て失ってしまっても、朕はこれを攻撃するまい。討伐するのは、奴等が悪事を働いた時だ。」
 西突厥の統葉護可汗が眞珠統俟斤と高平王道立を派遣して、萬釘寶細金帯と馬五千匹を献上し、公主を迎えに来た。頡利は中国との和親を望まなかったので、屡々派兵して入寇した。また、統葉護へ使者を派遣し、言った。
「汝が唐の公主を迎えたくても、我が領内は通過させないぞ。」
 統葉護はこれを患い、通婚は、未だ成立しなかった。 

 話は遡るが、突厥の突利可汗が牙帳を幽州の北へ建てた。そこは突厥の領土では東へ偏り過ぎていたので、西方の奚や習(「雨/習」)に住む数十部が突厥に背いて中華へ来降した。頡利可汗は、衆人を失ったことで、突利可汗を責めた。
 薛延陀、回乞等が欲谷設を破ると、頡利は突利を派遣して攻撃させたが、突利は敗北し軽騎にて逃げ帰った。頡利は怒り、これを十余日間拘禁し、打った。これによって突利は怨み、密かに頡利へ叛こうと欲した。
 貞観二年、頡利は、何度も突利から徴兵したが、突利はこれを与えず、唐へ入朝を表請した。
 上は侍臣へ言った。
「昔日の突厥は強盛で、百万の弓を揃えて中夏を凌いだものだったが、驕慢と放埒で民を失ってしまった。今、自ら入朝を求めているが、困窮したのでなければ、どうしてこのようなことをするだろうか!朕はこれを聞いて、かつは喜び、かつは懼れた。それはどうしてか?突厥が衰退すれば、辺境が安泰となる。だから喜んだのだ。しかし、朕が道を失えば、後には朕が突厥のような羽目に陥る。それを思えば、どうして懼れずいられるだろうか!卿等は、苦諫を惜しまずに、朕を不断に輔けるのだぞ。」
 頡利は、兵を発して突利を攻撃した。
 丁亥、突利は唐へ使者を派遣して、救援を求めた。そこで、上は大臣に謀った。
「朕と突厥は兄弟となった。急いで助けなければならない。だが、頡利とも盟約がある。どうすればよいかな?」
 すると、兵部尚書の杜如晦が言った。
「戎狄には信義がありません。いずれは奴等は盟約を破ります。今、奴等が乱れているのにつけ込んでこれを取らなければ、後に悔いても及びませんぞ。それ、乱を取り、亡を侮るのは古の道であります。」
 丙申、契丹の酋長が部落を率いて来降した。頡利は使者を派遣し、梁師都と契丹を交換するよう請うた。すると、上は使者へ言った。
「契丹と突厥は、異民族だ。今、彼等が彼等から帰順してきたのに、なんでこれを引っ張って行くのか!師都は中国の人間で、我が土地を盗み、我が民へ暴虐を振るう。突厥が後ろ盾となって庇うのなら、我が討伐軍を起こした時に救援に来るがよい。彼は、釜の中の魚に過ぎん。何で我のものではないというのか!持ってもいないものと降伏した民とを、どうして交換できるものか。」 

 九月、己未。突厥が辺境へ来寇した。朝臣達の中には、古い長城を修復する為に民を徴発するよう請う者もいたが、上は言った。
「突厥の災いは、いつものことだ。頡利は、将来を懼れて徳を修めるような真似をせず、暴虐はいよいよ甚だしく、骨肉で争っている。奴等は朝夕にも滅亡するぞ。朕は、公等へ沙漠の大掃除を命じるつもりだ。何で民を苦しめてまで障塞を作る必要が有ろうか!」 

 西突厥の統葉護可汗が、伯父から殺された。伯父は自立した。これが莫賀咄利俟毘可汗である。だが、国人は服従せず、弩矢畢部は泥孰莫賀設を可汗に推したが、孰は辞退した。
 統葉護の子の咥力特勒が莫賀咄の禍を避けて康居へ逃げていたので、泥孰はこれを迎え入れて擁立した。これが乙毘鉢羅肆葉護可汗である。これは莫賀咄と戦い、内乱状態が続いた。そこで乙毘鉢は唐へ通婚を申し込んだが、上は許さず、言った。
「汝の国は戦乱の最中で君臣の地位はまだ定まっていない。なんで通婚など言い出せるのだ!」
 そして各部族を諭して戦争を止めさせた。
 この事件によって西突厥に臣従していた西域諸国や敕勒達は、皆、西突厥に背いた。 

 突厥の北辺に住む諸姓達に、頡利可汗へ逆らう者が増えた。彼等は薛延陀へ帰順し、共にその俟斤の夷男を可汗へ推戴したが、夷男はその器ではないと辞退した。
 丁度この頃、上は頡利可汗を攻略しようと思っていたので、遊撃将軍喬師望を使者として派遣した。彼は間道を通って上の書を届け、夷男を眞珠毘伽可汗とし、鼓纛を賜下した。夷男は大いに喜び、唐へ使者を派遣して入貢し、大漠の鬱督軍山の下に牙張を建てた。その支配領域は、東は靺鞨へ至り、西は西突厥へ至り、南は沙磧へ接し、北は倶倫水へ至った。廻乞、抜野古、阿趺、同羅、僕骨、習(雨/習)の緒部が、皆、これに臣従した。 

 三年。薛延陀の毘伽可汗が、弟の統特勒を派遣して入貢した。上は宝刀と宝鞭を賜下し、言った。
「キョウの部族で大罪を犯した者がいれば斬り、小罪を犯した者がいれば鞭打て。」
 夷男は、とても喜んだ。
 突厥の頡利可汗は大いに懼れ、始めて唐へ使者を派遣して臣と称し、公主との通婚を求めて婿としての礼を執った。
 代州都督張公謹が、突厥を攻撃するべきだと上言した。その大略に言う、
「頡利は貪欲暴虐で、忠良を誅殺し、姦佞を保護しています。これが第一。薛延陀等の諸部落が、皆、造反しています。これが第二。突利、拓設、欲谷設は頡利から罪を得て、居場所が無く唐へ帰順したがっています。これが第三。塞北は霜と旱で馬草や食糧が欠乏しています。これが第四。頡利は同類を疎外して胡人を重用していますが、胡人は裏切りを性としています。大軍が臨んだら、必ず内乱が起こります。これが第五。隋末の動乱のため、北へ入った華人は大勢います。彼等はあちこちに集落を作り、山険を保據しています。大軍が塞を出れば、彼等は呼応します。これが六です。」
 頡利可汗は過去、和親を請うたくせに梁師都を援護したことがあった。丁亥、上は兵部尚書李靖を行軍総管として、頡利討伐を命じた。張公謹を副官とする。
 九月、丙午、突厥の俟斤九人が三千騎を率いて来降した。
 戊午、抜野古、僕骨、同羅、奚の酋長が部族を率いて来降した。 

 十一月、辛丑。突厥が河西へ来寇した。粛州刺史公孫武達と甘州刺史成仁重がこれと戦って、撃破。千余口を捕虜とする。 

  庚申、行并州都督李世勣を通漢道行軍総管、兵部尚書李靖を定襄道行軍総管、華州刺史柴紹を金河道行軍総管、霊州大都督薛萬徹を暢武道行軍総管とした。軍勢は、合計十余万。皆、李靖の指揮下へ入り、それぞれ別道から突厥へ入った。
 乙丑、任城王道宗が霊州にて突厥を攻撃し、破った。
 十二月、戊辰、突利可汗が入朝した。上は侍臣へ言った。
「昔、太上皇帝は百姓の苦労を思って、突厥へ対して臣と称したが、朕はいつもこの事実に胸を痛めていた。今、単于が首を下げてきた。これでいくらかは、前の恥をそそげたな。」
 庚寅、突厥の郁射設が領民を率いて来降した。 

 四年、春、正月、李靖が驍騎三千を率いて白邑から悪陽嶺へ進軍した。定襄を夜襲し、これを破る。
 突厥の頡利可汗は、李靖の進軍がこんなに早いとは思わなかったので、大いに驚いて言った。
「唐が国を傾ける程の大軍を出したのでなければ、靖が孤軍でここまで進軍する筈がない!」
 彼等の部下も一日に数回驚愕する有様。遂に、牙帳を磧口へ移した。
 李靖は間諜を派遣して、頡利の腹心達へ離間工作を掛けた。すると、頡利と親密だった康蘇密が、隋の蕭后と煬帝の孫の政道を連れて来降した。乙亥、彼等は京師へ到着する。
 少し前の話になるが、ある降伏した胡人が言った。
「蕭后へ密かに書状を渡した中国人が居る。」
 蕭后が京師へやって来ると、中書舎人の楊文灌(本当は王偏)が真相を究明しようと請願した。すると、上は言った。
「天下がまだ定まらず突厥が強盛だった頃には、無知な愚民はそうゆう事をしたかも知れない。だが、今は既に天下は安定した。過去の罪など、問うまでもないぞ!」
 李世勣は雲中を出て、白道にて突厥と戦い、大いにこれを破った。 

 頡利可汗は敗北した後、鐵山へ逃げ込んだが、手勢は尚も数万を擁していた。彼は執失思力を入見させて謝罪し、属国となって自ら入朝すると請願した。そこで上は、鴻臚卿唐倹等を派遣してこれを慰撫し、李靖へは兵を率いて頡利を迎えるよう詔した。
 頡利は、上辺は言葉を謙っていたが、内心はまだ諦めておらず、草が生い茂り馬が肥えるのを待って漠北へ亡命しようと欲していた。李靖は兵を率いて白道にて李世勣と合流し、共に謀った。
「頡利は敗北したけれども、その手勢はまだ多い。もしも奴等が磧北へ逃げ込み、あそこで勢力を持つ九つの氏族を従えたならばどうなる。道は険しく遠い。追及は困難だ。今、詔使が奴等の牙帳へ行っているので、虜は必ず油断している。もしも精騎一万に二十日分の兵糧を持たせてこれを襲撃すれば、戦わずに擒にできるぞ。」
 そして、これを張公謹へ告げた。すると、公謹は言った。
「詔書が既に降伏を赦しているし、使者が奴等の元にいるのです。なんで攻撃できますか!」
 靖は言った。
「これは韓信が斉を破った計略だ。唐倹など、惜しむほどの男か!」
 遂に、兵を指揮して夜半に出発した。李世勣がこれに継ぐ。
 甲辰、陰山にて突厥の千余帳に遭遇したので、これを全て捕虜にして従軍させた。対して頡利は、朝廷から使者が来たので大喜びして安心しきっていた。靖は、武邑の蘇定方へ二百騎を与えて前鋒として、霧に乗じて行軍した。牙帳から七里の所で、虜は敵襲に気がついた。頡利は千里の馬に乗って真っ先に逃げる。靖の本隊が進軍して来ると、虜軍は遂に潰滅した。
 唐倹は、単身脱出した。靖は一万余の首を斬り、男女十余万を捕虜とし、家畜数十万を捕獲した。隋の義成公主を殺し、その子の畳羅施を擒にした。
 頡利は萬余人を率いて磧を渡ろうとしたが、李世勣が磧口に陣を布いたので、逃げ込めなかった。麾下の大酋長達は皆、手勢を率いて降伏した。李世勣は五万余を捕虜にして帰った。
この戦役で、陰山の北から大漠へ至る土地から突厥を斥け、唐の領土としたことを上聞した。
 甲寅、突厥へ勝利したので、天下へ赦を下した。
 三月、戊辰、突厥の夾畢特勒阿史那思摩を右武候大将軍とした。
 四夷の君長が闕を詣でて、上へ天可汗と称するよう請願した。上は言った。
「我は大唐の天子なのに、この上可汗のことまで行うのか!」
 群臣及び四夷は皆、万歳と称した。これ以後、西北の君長へ賜る璽書へは、皆、天可汗と称するようになった。
 庚午、突厥の思結俟斤が部族四万を率いて来降した。
 丙子、突利可汗を右衙大将軍、北平郡王とした。
 昔、始畢可汗は啓民の母の弟の蘇尼失を沙鉢羅設とし、五万の民を与えて霊州の西北へ住ませた。やがて頡利の政治が乱れたが、蘇尼失だけは忠実にこれへ仕えた。突利が唐へ逃げ込むと、頡利は彼を小可汗へ立てた。
 今回敗走した頡利可汗は彼の元へ逃げ込み、共に吐谷渾へ亡命しようと考えた。大同道行軍総管任城王道宗が、兵を率いてこれへ迫り、蘇尼失へ頡利を捕らえて引き渡すよう要請した。頡利は夜半、数騎にて逃げ出して荒谷へ隠れた。蘇尼失は懼れ、追撃して捕らえた。
 庚辰、行軍副総管張寶相が軍を率いて沙鉢羅の営へ迫り、頡利を捕らえて京師へ送った。蘇尼失は部落を率いて来降し、漠南は遂に空白地となった。 

 突厥の頡利可汗が長安へ到着した。
 夏、四月、戊戌、上は順天楼にて文物を盛大に並べ、頡利を引き出すと、彼の罪状を数え上げた。
「汝は父兄の業を受け継ぎながら淫乱暴虐の挙げ句に国を滅ぼしてしまった。これが罪の一である。我と何度も盟約を結びながら、その度に背いた。これが第二。強盛を恃んで戦争を好み、人骨を雑草のように野にばらまいた。これが第三。我が田畑を蹂躙し我が子女を掠めた。これが第四。我は汝の罪を赦し汝の社稷を存続させてやったのに、ぐずついて来朝しなかった。これが第五。だが、便橋以来、大規模な来寇をしなかった。だから、命だけは助けてやろう。」
 頡利は哭いて感謝し、退出した。太僕の館に泊まらせ、厚く持てなすよう詔が降りる。
 上皇は頡利が擒になったと聞いて、嘆じて言った。
「漢の高祖でさえ白登の困窮へ報復できなかったのに、我が子は突厥を滅ぼした。我は好い跡取りを持った。もう、何の心配もないぞ!」
 上皇は、上と貴臣十余人及び諸王や妃を召し出して凌煙閣にて宴会を開いた。酒がたけなわになると、上皇は自ら琵琶を弾いた。上は立って舞い、公卿は代わる代わる立ち上がって寿ぎを為し、夜まで続いた。
 突厥が滅亡すると、その部落は、ある者は北方の薛延陀へ付き、あるものは西域へ逃げたが、唐へ降伏する者もなお十万口はいた。群臣へ彼等の処遇を検討するよう詔が降りると、朝士の多くは言った。
「北狄は、古来から中国の患いでしたが、今、幸いにして滅亡しました。彼等は全て河南の?、豫近辺へ移住させ、種落へ分けて州県へバラバラに住ませて耕織を教えましょう。胡虜を農民に変え、塞北の地を長く空虚にするのです。」
 だが、中書侍郎顔師古は提案した。
「突厥や鐵勒は、上古から臣下にできない民でした。今、陛下は既にこれを臣下にいたしました。これを皆河北へ置き、酋長を分立させてその各々の部落を治めさせましょう。そうすれば、永く患いはなくなります。」
 礼部侍郎李百薬が提案した。
「突厥は一つの国とはいえ、その種類は細分され、各々酋長に率いられています。今、彼等は離散したのですから、各々もとの部署のみの君長として、互いに臣従させないようにしましょう。たとえ阿史那氏を立てるにしても、彼にもとの部族のみしか支配させません。国が分裂すれば弱くなり、制圧し安くなります。ドングリの背比べになれば呑滅しあうことが難しく、各々の国が保全され、中国と拮抗する勢力にはなり得ません。そして、定襄へ都護府を設置して、各酋長はその節度を受けさせましょう。これこそ辺域を安泰にする長久の策です。」
 夏州都督竇静は提案した。
「戎狄の性は、禽獣のようなもの。刑法で威圧することも、仁義で教えることもできません。ましてや、彼等は国が滅ぼされた怨みを忘れませんので、これを中国へ置いても損失こそあれ、何の利益もありません。彼等は、一旦変事が起これば、我等が領土を犯します。ですから我等は、彼等滅亡の余族へ望外の恩を施しましょう。彼等へ王侯の称号を与え、宗室の娘を下嫁させ、その土地を分けて各部落を自立させるのです。可汗の権力を弱め勢力を分散させれば、統制が容易です。彼等をいつまでも藩臣と称させ、辺塞を長く保つことができましょう。」
 温彦博が提案した。
「彼等をコン、豫近辺へ移住させても、彼等の習性は我等と異なっていますので、撫育する事になりません。どうか、漢の建武帝の故事に準じてください。建武帝は、降伏した匈奴を塞外へ置き、その部落を保全し、彼等の土俗をそのままにして、空虚の土地を満たし、中国の藩塀としました。これこそ善たる策です。」
 魏徴が提案した。
「突厥は代々寇盗を行い、百姓の仇敵です。今、幸いにして滅亡しました。しかし、彼等が降伏してきたので、陛下が彼等を殺しつくすに忍びないのでしたら、彼等をもとの土地へ帰してやるべきです。中国へ留めてはなりません。それ、戎狄の人間は、人面獣心で、弱ければ降伏するのに強くなったら造反する、これは彼等の習性です。今、降伏した民は十万近くおります。数年経てば倍増し、必ずや心腹の病となります。悔いてはなりません。晋の初めに諸胡は民と中国に雑居しました。郭欽や江統等は皆、彼等を塞外へ追い出して乱の萌芽を摘み取るように武帝へ勧めましたが、武帝は従いませんでした。後、二十余年、伊、洛の地域は遂に毛皮の衣を来て歩くような場所になったのです。これは前事の明鏡です!」
 彦博が言った。
「王者の万物へ対するや、天を覆い地に載せ、残すところ無し、と申します。今、突厥は窮まって我等へ帰順したもの、何でこれを棄てて宜しいでしょうか!孔子も言われました。『教えの違いがあるだけで、人種に違いなど無い。』と。もしも、これを死亡から救い生業を授け、礼楽を教えれば、数年の内に悉く我等の民になります。その酋長を選び宿衞へ入れれば威厳に畏れ恩徳に懐きましょう。なんで後々の憂いがありましょうか!」
 上は遂に彦博の策を用い、降伏した突厥を東は幽州から西は霊州へ至る土地へ住ませた。突利等のもとの統括地は順、祐、化、長の四州に分割して都督府を設置した。又、頡利の土地は六州に分割し、左に定襄都督府を置き、右に雲中都督府を置き、民を統括させた。 五月、辛未、突利を順州都督として、部落を統率させた。上は、彼を戒めて言った。
「汝の祖父啓民は身を挺して隋へ逃れ、隋はこれを大可汗に立て、北の荒野を与えた。それなのに、汝の父の始畢は却って隋の患いとなったのだ。これが天道へ容れられず、今日の汝は乱によってここまで衰退した。我が汝を可汗へ立てないのは、啓民の前事に懲りているからだ。今、汝を都督に命じる。汝は宜しく中国の法を守り、侵略をしてはならない。そうすれば、中国が久しく安泰になるだけではなく、また汝達の宗族も永く全うできるのだ。」
 壬申、阿史那蘇尼失を懐化郡王とした。頡利が亡ぶと諸部落の酋長は皆、頡利を捨てて来降した。ただ思摩のみがこれに従い、遂に頡利と共に擒になった。上はその忠義を嘉し、右武候大将軍に任命し、次いで北開州都督として頡利のもとの部落達を統率させた。
 丁丑、右武衞大将軍史大奈を豊州都督とし、その他の降伏した酋長達も皆将軍中郎将として朝廷へ列席させた。五品以上の者が百余人となり、ほとんど朝士の半ばを占めた。この為、一万家近くが長安へ入居した。
 頡利可汗は、長安ではずっと鬱々としていた。家人と共に泣き崩れることも屡々で、容貌もやつれきってしまった。上はこれを見て憐れんだ。そこで上は、頡利可汗をカク州刺史にしてやろうとした。カク州には麋や鹿が多く、狩猟には打ってつけの土地である。だが、頡利は行きたがらず、これを辞退した。
 六年、十月癸未。頡利を右衞大将軍に任命した。
 八年、春、正月。癸未、突厥の頡利可汗が卒した。国人へ、彼等の風俗へ則って火葬するよう命じた。 

元へ戻る