突厥   頡利可汗その一      隆盛    
 
武徳二年(619)、始畢可汗は、部下を率いて黄河を渡り、夏州へ出た。
 梁師都も兵を出してこれに合流し、その中の五百騎を劉武周へ授け、句注から太原へ入寇しようと考えた。
 しかし、二月、始畢可汗が卒してしまった。
 始畢可汗の子息の什鉢必はまだ幼かったので、弟の俟利弗設を立てる。これが、處羅可汗である。處羅可汗は什鉢必を尼歩設として、東端へ住ませた。そこは、幽州の北である。
 話は前後するが、唐の高祖は突厥へ幣を奉ろうと、右武候将軍高静を使者として派遣した。だが、これが豊州まで来た時、始畢可汗の崩御を知ったので、奉幣を中止し、幣は、その場の官庫へ納めるよう敕が降りた。
 突厥はこれを聞いて怒り、入寇しようとした。そこで豊州総管張長遜が、高静を使者として幣を届けたので、突厥は引き返した。
 三月、梁師都は霊州へ来寇したが、唐の長史楊則が、これを撃退した。
 辛卯、劉武周が并州へ来寇した。
 六月、突厥は唐へ使者を派遣し、始畢可汗の崩御を伝えた。李淵は長楽門で哀を挙げ、朝政を三日、廃した。百官は館へ行って、使者を弔問した。また、内史舎人鄭徳延を使者として處羅可汗のもとへ派遣し、帛三万段を賜下した。 

 七月、西突厥の統葉護可汗と、高昌王麹拍雅が、各々使者を派遣して入貢した。
 話は前後するが、西突厥は、葛婆那可汗が隋に抑留されて以来、国人達は葛婆那可汗の叔父を立てていた。これが射匱可汗である。彼は、達頭可汗の孫に当たり、可汗に立ってからは領土を広げた。その支配領域は、東は金山から、西は海へまで至った。
 匱可汗が死ぬと、子息の統葉護可汗が立った。統葉護可汗 は勇気と謀略を兼ね備えており、北方の鉄勒を併呑した。数十万の兵を擁し、烏孫の故地に據り、西域諸国は皆、彼へ臣従した。 

 西突厥の葛婆那可汗と北突厥は、互いに怨みを持っていた。葛婆那可汗は長安にいたので、北突厥は李淵のもとへ使者を派遣して、これを殺すよう請うた。
 李淵は許さなかったが、群臣達は、皆、言った。
「一人を保って一国を失う。後日、必ず患いとなりますぞ!」
 李世民は言った。
「切羽詰まって飛び込んできた人を殺すのは、不義です。」
 李淵はずいぶん悩んだが、結局、葛婆那可汗を捕らえて来た突厥の使者へ引き渡し、処分させた。 

 三年、二月。突厥の處羅可汗が楊政道を迎え、隋王に立てた。處羅可汗は、北に住んでいた中国の士民を悉く彼へ与えたので、その民は一万を越えた。百官を設置し、制度は全て隋の制度に依った。定襄へ住む。 

 五月、秦王世民が劉武周を討伐した時、突厥の處羅可汗は、弟の歩利設へ二千騎を与えて、唐を助けさせた。そして武周は滅亡したが、この月、處羅が晋陽へやって来た。総管の李仲文は、これを制止することができなかった。
 又、處羅可汗は、「仲文を助けるのだ。」とゆう名目で、倫特勒へ数百人の部下を与えてここへ留めた。石嶺以北にも、兵を留めてこれを守らせ、去って行った。
 この頃、王世充が唐の攻撃にあって滅亡寸前になっていたので、突厥と通婚を求めた。詳細は、「王世充」へ記載する。 

 九月、突厥の莫賀咄設が涼州へ来寇した。総管の楊恭仁がこれを攻撃し、敗北した。莫賀咄設は、男女数千人を掠めて去った。 

 突厥の倫特勒が并州にいるので、大きな民患となった。
 十二月、并州総管劉世譲は、策を設けてこれを捕らえた。上は、これを聞いて甚だ喜んだ。
 張道源は竇建徳に従って河南にいたが、密かに長安へ使者を派遣し、出兵して名州を攻撃し山東を震駭させるよう請うた。丙午、世譲を行軍総管として、土門から兵を率いて出陣し、名州へ向かうよう、詔が降りた。 

 四年、三月。突厥の頡利可汗は、父兄の勢力を継承し、強大な士馬を領有していたので、それをもとにして中国を侵略しようとの野望を持っていた。その妻は、隋の義成公主で、公主の従弟の善経は戦乱を避けて突厥へ逃げていた。
 善経は、王世充の使者王文素と共に、頡利へ説いた。
「昔、啓民は兄弟から迫られて、体一つで隋へ亡命したのですが、文皇帝の助力でこの土地を領有し、子孫へ伝えることができました。今、唐の天子は文皇帝の子孫ではありません。可汗は楊政道を奉じてこれを討伐し、文皇帝の御恩へ報いられるべきです。」
 頡利は、同意した。
 上は、中国が未だ平定していなかったので、突厥へ対しては厚く遇していたが、頡利の要望は際限が無く、言辞は驕慢だった。
 甲戌、突厥が汾陰へ来寇した。
 壬午、突厥が石州へ来寇したが、刺史の王集が撃退した。
 四月、己亥、突厥の頡利可汗が雁門へ来寇したが、代州総管李大恩がこれを撃退した。
 己卯、李大恩は苑君を攻撃して、破った。 

 同月、戊申、突厥が州へ来寇した。
 始め、處羅可汗と劉武周が表裏一体となって并州へ来寇していた。上は、太常卿鄭元壽(「王/壽」)を派遣して禍福を述べて諭させたが、處羅は聞かなかった。それからすぐに處羅は発病して死んだので、突厥の人々は元壽が毒殺したかと疑い、国内へ抑留した。
 そこで上は、漢陽公壊(本当は王偏)を派遣して頡利へ金帛を賄賂として贈った。頡利は、壊へ拝礼させようとしたが、壊は従わなかったので、これも抑留した。また、左驍衞大将軍長孫順徳も抑留した。上は怒って、突厥の使者を抑留した。
 壊は、孝恭の弟である。 

 突厥が辺域へ入寇した。長平靖王叔良が五将を指揮して迎撃したが、叔良が流れ矢に当たり、軍は退却した。
 六月、叔良は途上で卒した。 

 八月、癸卯、突厥が代州へ来寇した。総管李大恩は、行軍総管王孝基を派遣して拒戦させたが、全滅してしまった。突厥達は、進軍して淳(ほんとうは山偏)県を包囲した。
 乙巳、王孝基は突厥から逃げ帰った。李大恩は、兵力が少なかったので、籠城した。突厥は敢えて迫らず、一ヶ月余りで退却した。
 九月、突厥が、并州へ来寇した。そこで左屯衞大将軍竇j等へ迎撃させた。
 戊午、突厥は原州へ来寇した。行軍総管尉遅敬徳を派遣して、撃退させた。
 甲申、霊州総管楊師道が突厥を攻撃して、これを破った。師道は、恭仁の弟である。 

 五年、三月、上は突厥へ使者を派遣し、頡利可汗へ賄賂を贈り、結婚を許諾した。頡利は漢陽公壊、鄭元壽、長孫順徳羅を唐へ返還した。
 庚子、再び修好の使者を派遣する。上は、特勒熱寒、阿史那徳らへも使者を派遣した。
 并州総管劉世譲が雁門に屯営した。頡利は高開道、苑君と連合してこれを攻撃したが、一ヶ月余りで撤退した。 

 四月、丁卯、代州総管定襄王李大恩が突厥に殺された。その経緯は、以下の通り。
 大恩は、突厥が飢饉なので、馬邑を奪えると上奏していた。そこで、殿内少監の独孤晟へ、兵を率いて大恩と共に苑君璋を攻撃するよう詔が降りた。二月に馬邑にて合流する手筈だったが、独孤晟は期限に間に合わなかった。大恩は孤軍で前進するわけにも行かずに、新城へ屯営していた。すると頡利可汗は、数万の騎兵を派遣し、劉黒闥と共に大恩を包囲した。
 上は、右驍衞大将軍李高遷を救援に派遣したが、彼が到着する前に、大恩軍は兵糧が底を尽きて、夜半、逃げ出した。突厥はこれを攻撃した。大恩軍は潰滅し、大恩は戦死したのである。
 上は、これを惜しんだ。独孤晟は罪に当たったが、死一等を減じられて遠流となった。
  五月、突厥が忻州へ来寇したが、李高遷が撃破した。 

  八月、乙卯、突厥の頡利可汗が辺域へ入寇した。左武衞将軍段徳操と雲州総管李子和を派遣して、拒戦させた。
 子和は、もともとの姓は郭だったが、劉黒闥討伐で功績を建てたので、李姓を賜った。
 丙辰、頡利は十五万騎で雁門へ入った。己未、并州へ来寇し、別働隊を原州へ来寇させる。
 庚子、太子は幽州道から出陣し、秦王世民は秦州道から出陣してこれを防ぐよう命じた。李子和は雲中へ赴いて可汗を襲撃し、段徳操は夏州へ赴いて敵の帰路を断った。
 辛酉、上は群臣へ言った。
「突厥は入寇しては、講和を求めている。講和と戦争と、どちらが有利だろうか?」
 すると、太常卿の鄭元壽が言った。
「突厥は犬や羊のような兵卒達を恃んで、中国を軽視しています。もしも戦わずに和平を結べば、彼等は我等を弱いと侮り、来年も又来寇するでしょう。臣は、まず一撃を与えるべきと愚考いたします。既に勝った後に和平すれば、恩威共に顕著であります。」
 上は、これに従った。
 己巳、并州大総管襄邑王神符が汾東で突厥を撃破した。汾州刺史蕭豈(「豈/頁」)も突厥を破り、五千余級を斬首した。 

 丙子、突厥が廉州へ来寇した。戊寅、大震関を落とす。上は、鄭元壽を頡利のもとへ派遣した。
 この時、突厥の精騎は数十万。介休から晋州へ至るまで数百里の間、騎兵達は山谷を埋め尽くしていた。元壽は頡利へ会うと、約束違反を責め立てた。二人は共に弁詰しあったが、頡利の廉恥心は中華の民とは基準が全然違っていた。そこで、元壽は頡利へ言った。
「唐と突厥は、風俗が違います。突厥が唐の土地を得たところで、住むことはできません。今、吾が民を略奪して突厥へ連れて行ったとて、可汗にとって何の役に立つのですか?それよりも、軍を帰して和親を修好したならば、略奪をしなくても、座したまま金幣が受け取れるのです。これは皆、可汗の財産になりますよ。同胞達の積年の歓楽を棄てて子孫まで無窮の怨みを結ぶのと、どちらがよいでしょうか!」
 頡利は喜んで軍を返した。
 元壽は、義寧以来、突厥へ使者として五回往来し、死ぬような目にあったことは数え切れなかった。
 九月、癸巳、交州刺史権士通、弘州総管宇文音(「音/欠」)、霊州総管楊師道が三観山にて突厥を攻撃し、破った。
 乙未、太子が軍を編成した。
 丙申、宇文音が祟崗鎮にて突厥と戦い、大勝利を収めた。千余級を斬首する。
 壬寅、定州総管雙士洛が恒山の南で突厥を攻撃した。丙午、領軍将軍安興貴が甘州にて突厥を攻撃した。どちらも敵を破る。 

 六年、正月。唐が劉黒闥を滅ぼした。 

 五月、丙申、梁師都の将辛僚(本当は獣偏)児が突厥を率いて林州へ来寇した。 

 五月、戊戌、苑君璋の将高満政が代州へ来寇したが、驃騎将軍林寶言が撃退した。
 六月、戊午、高満政が馬邑を以て来降した。
 話は前後するが、前の并州総管劉世譲が廣州総管となって任地へ向かおうとした時、上は辺境の防備について尋ねた。すると、世譲は言った。
「突厥が屡々来寇するようになったのは、馬邑が中継基地として機能しているからです。ですから、勇将を選んで淳城を守らせるのです。そして金帛を多量に蓄え、多大な報酬で馬邑から降伏する者を募るかたわら、しばしば騎兵を出して馬邑の田畑を蹂躙して、やつらの生業を破ります。こうしておけば、一年も経たないうちに奴らは食糧がなくなり、必ず降伏します。」
 上は、その計に得心し、言った。
「公以外、誰が勇将だろうか!」
 即座に世譲へ享城の守備を命じた。彼が赴任すると、馬邑は困窮した。この時、馬邑の住民の大半は、突厥に属するのを嫌がった。そこで上はふたたび使者を派遣して苑君璋を招諭した。高満政は、苑君璋へ、突厥を皆殺しにして唐へ降伏するよう説いたが、君璋は従わなかった。
 満政は、皆の望みに従って君璋へ夜襲を掛けたが、君璋はこれを察知して突厥へ亡命した。満政は、君璋の子息と突厥の守備兵二百人を殺して降伏した。
 丁卯、苑君璋と突厥の吐屯設が馬邑へ来寇した。高満政がこれと戦い、破った。満政を朔州総管として、栄国公へ封じた。
 秋、七月、丙子、苑君璋が突厥を率いて馬邑へ来寇した。
 右武候大将軍李高遷と高満政が、これを阻んで蝋(ほんとうは肉月)河にて戦い、撃破する。 

 七月、癸未、突厥が原州へ来寇した。
 乙酉、朔州へ来寇した。李高遷は敗北した。行軍総管尉遅敬徳が兵を率いて救援した。
 己亥、太子へ兵を与えて北辺へ派遣した。秦王世民は并州へ屯営させて、突厥へ備えさせる。
 八月、丙辰、突厥が真州と馬邑へ来寇した。己未、原州へ来寇した。辛未、原州の善和鎮が落ちる。癸酉、今度は渭州へ来寇した。
 九月、庚寅、突厥が幽州へ来寇した。 

 突厥は、弘農公劉世譲のせいで戦況が不利になったことを怨んでいた。そこで、臣下の曹般施(ほんとうは、小里偏)を唐へ派遣し、世譲が可汗と内通して造反を企んでいると告げさせたところ、上はこれを信じ込んだ。
 冬、十月、丙午、世譲を殺して、その家を潰す。 

 話は遡るが、上は馬邑を守る為、右武候大将軍李高遷を派遣して朔州総管高満政を助けさせた。苑君璋が突厥を萬余騎率いて城下へ来たが、満政はこれを撃破した。
 頡利可汗は怒り、大軍を繰り出して馬邑を攻めた。高遷は懼れ、手勢二千を率いて関を斬って夜逃げしたが、虜の追撃を受けて、ほぼ半数を失った。
 頡利は自ら衆を率いて城を攻撃した。満政は兵を出して防戦し、時には一日に十余合も戦った。上は行軍総管劉世譲を救援に向かわせたが、世譲は松子嶺へ至ると敢えて進まず、淳へ戻って、ここを確保した。
 やがて頡利が使者を派遣して通婚を求めると、上は言った。
「馬邑の包囲を解いたなら、通婚を考えよう。」
 そこで頡利は包囲を解こうとしたが、義成公主が固く攻撃を請うた。
 頡利は、高開道が城攻めの道具の作成が巧いと聞き、開道を召しだして、益々激しく馬邑を攻撃した。そして頡利は満政の元へ使者を派遣して降伏を勧告したが、満政はこれを罵った。
 やがて、馬邑の食糧が尽き始めたが、援軍は来ない。満政は囲みを破って朔州へ逃げようと思った。だが、右虞候杜士遠は、虜の勢力があまりに強かったので、逃げ出せないことを懼れた。壬戌、士遠は満政を殺して突厥へ降伏した。苑君璋は、城中の豪傑や、満政の共謀者三十余人を殺した。
 上は、満政の子息の玄積を上国柱として、爵位を襲爵させた。
 丁卯、突厥は再び和親を請うて、馬邑を唐へ返した。そこで上は、将軍秦武通を朔州総管とした。 

 突厥が屡々辺患となるので、并州大総管府長史竇静が、食糧運輸を省く為に太原に屯田を設置するよう請願した。これを議論させたところ、民を苦労させるだけだとして許さなかった。だが、静は切に論じて止まない。そこで、敕して静を入朝させ、裴寂、蕭禹、封徳彝等と、上の前で討論させた。静は、抗の子息である。
 十一月、秦王世民もまた、并州の国境へ屯田を増設するよう請願したので、これに従った。 

 十二月、己巳、突厥が定州へ来寇したが、州兵が撃退した。
 七年、三月、丁酉。突厥が原州へ来寇した。
 五月、辛未、突厥が朔州へ来寇する。
 六月、突厥が代州の武周城へ来寇したが、州兵が撃破した。
 秋、七月、己巳。苑君璋が突厥を率いて朔州へ来寇したので、総管の秦武通が撃退した。
 戊寅、突厥が原州へ来寇した。寧州刺史鹿大師を救援に派遣する。また、楊師道を大木根山へ派遣する。
 庚辰、突厥が隴州へ来寇した。護軍尉遅敬徳へ迎撃させる。
 癸未、突厥が陰盤へ来寇した。
 己丑、突厥の吐利設と苑君璋が、并州へ来寇した。
 同月、苑君璋が突厥を率いて朔州へ来寇した。
 八月、戊辰、突厥が原州へ来寇した。
 同月、突厥が大挙して押し寄せ、長安にて戒厳令が布かれたが、李世民が撃退した。詳細は「李世民」の「皇子時代」へ記載する。 

 癸卯、突厥が綏州へ来寇した。都督劉大倶がこれを破り、特勒三人を捕らえる。
 冬、十月、己巳、突厥が甘州へ来寇する。 

 八年、正月、突厥と吐谷渾が各々交易を求めてきた。これを許す詔が降りる。 

 四月、西突厥の統葉護可汗が使者を派遣して通婚を求めた。
 上は、裴矩へ言った。
「西突厥は、とても遠い。緊急の時に助け合うことはできないが、通婚を求めてきた。どうしようか?」
 対して答えた。
「今、北狄は盛強です。ですから今日、国家の為に計略を立てますと、やはり、遠くと交わり近くを攻めるべきです。臣は、この通婚を許し、頡利への牽制とするべきかと愚考いたします。数年経てば、中国も国力が充実し、北夷へ対抗できるでしょう。そうなってから、徐々に後を考えれば宜しいでしょう。」
 上は、これに従った。
 高平王道立をその国へ派遣した。統葉護は大いに悦ぶ。道立は、上の従子である。 

 同月甲寅、涼州胡の睦伽陀が突厥を率いて都督府を襲撃し、子城へ入った。長史の劉君傑がこれを撃破した。 

 六月丙子、燕郡王李藝が華亭県へ屯営し、弾箏峡へ及んだ。水部郎中姜行本が石嶺道を断って、突厥へ備える。
 丙戌、頡利可汗が霊州へ来寇した。
 丁亥、右衞大将軍張瑾を行軍総管として、これを防がせる。中書侍郎温彦博を長史とする。
 話は前後するが、上は突厥へ与える書へは敵国としての礼を使っていた。
 秋、七月甲辰、上は侍臣へ言った。
「突厥は貪婪で厭きることがない。朕は、まさに征伐しようと思う。今以後は、書を為さず、詔敕の形を取れ。」
 己酉、突厥の頡利可汗が相州へ来寇した。
 丙辰、代州都督藺 が新城で突厥と戦って、戦況不利だった。そこで、行軍総管張瑾を石嶺へ屯営させ、李高遷を大石へ赴かせて、これを防がせた。
 丁巳、秦王へ蒲州へ屯営して突厥へ備えるよう命じた。
 八月、壬戌、突厥が石嶺を越えて并州へ来寇した。癸亥、霊州へ来寇する。丁卯、路(「水/路」)、沁、韓三州へ来寇する。
 安州大都督李靖へ路(「水/路」)州道から出陣し、行軍総管任壊(本当は王偏)へは太行へ屯営して突厥を防ぐよう詔が降りた。
 頡利可汗は十余萬の兵を率いて朔州で大略奪を行った。
 壬申、并州道行軍総管張瑾が突厥と太谷にて戦い、全滅した。瑾は体一つで李靖の元へ逃げ込んだ。行軍長史温彦博は虜に捕らわれた。虜は、彦博が機密に近い職に就いていたので、唐国家の兵糧の虚実を問うた。彦博が答えなかったので、虜は、これを陰山へ移した。
 庚辰、突厥が霊武へ来寇した。
 甲申、霊州都督任城王道宗が、これを撃破する。
 丙戌、突厥が綏州へ来寇した。
 丁亥、頡利可汗が使者を派遣して、講和を請い、退却した。
 九月、癸巳、突厥の没賀咄設が并州の一県を落とした。丙申、代州都督藺 が、これを撃破した。 

 七月、睦伽陀が武興を攻撃した。八月、左武候大将軍安修仁が、且渠川にて睦伽陀を撃破した。 

 九月、丙午、右領軍将軍王君廓が幽州にて突厥を破り、二千余人を捕斬した。
 突厥が、藺州へ来寇する。
 十月、戊寅、突厥が善(「善/里」)州へ来寇した。霍公柴紹を救援に派遣する。
 十一月、戊戌、突厥が彭州へ来寇した。
 九年、二月丁亥、突厥が原州へ来寇した。折威将軍揚毛を派遣する。
 三月、辛亥、突厥が霊州へ来寇した。
 癸丑、南海公欧陽胤が勅使として突厥へ居たが、手勢五十人を率いて可汗の牙帳を襲撃しようとした。だが、その計画は事前に洩れて、突厥に捕らえられた。
 丁巳、突厥が涼州へ来寇した。都督の長楽王幼良が、これを撃退する。
 夏、四月、丁卯。突厥が朔州へ来寇した。癸酉、ケイ州へ来寇した。
 戊寅、安州大都督李靖が、突厥の頡利可汗と、霊州の夾(「石/夾」)石にて戦った。この戦いは、明け方から夕方まで続き、突厥は退却した。
 癸未、突厥が西倉州へ来寇した。
 五月、戊戌、突厥が秦州へ来寇した。同月、蘭州へ来寇した。 

 六月、玄武門の変が起こる。 

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