北魏の献武帝
 
学問 

 泰始二年(466年)。魏で、始めて郡学が設置され、博士、助教、生員を置いた。中書令の高允と相州刺史李斤(「言/斤」)の請願に従ったのである。 

 三年、天宮寺に大像を作った。高さは四十三尺。使用した銅は十万斤、黄金は六百斤。 

  

親政開始 

 同年、李夫人が皇子を産んだ。名は宏。李夫人は李恵の娘で、献文帝の実母の姪にあたる。
 馮太后は、自ら宏を撫育した。
 この頃、馮太后は政権を献文帝へ返した。献文帝は治世に心を配り、賞罰を厳明にし、貪婪な人間を罰し清節な人間を抜擢したので、魏は大いに治まった。
 こうして、魏の牧守に清廉潔白な人間が多数輩出する時代が到来した。 

  

柔然来寇 

 六年、六月。柔然の部眞可汗が北魏へ来寇した。そこで献文帝は、群臣を集めて協議した。
 尚書右僕射の南平公目辰が言った。
「もしも親征を行えば、京師が危険です。ここは慎重に守りを固めるべきです。虜は我が国深く攻め込んでいますので、兵糧の補給ができません。やがて退却するに決まっています。その時追撃すれば、必ず勝てます。」
 すると、給事中の張白沢が言った。
「野蛮人共が身の程も知らずに軽々しく王土を犯した。もしも親征すれば、必ず撃破できます。なんで我が国土を、ワザワザ敵に蹂躙させなければならぬのか!それに、万乗の尊い身でありながら、我が身可愛さに籠城したのでは、四夷を威服できませんぞ!」
 献文帝は、これに従った。
 京兆王子推を西道から、任城王雲を東道から出動させ、汝陰王天賜を前鋒に、源賀を後続とした。又、鎮西将軍呂羅漢には、留守を任せた。
 諸将は、献文帝と女水で合流し、柔然と激突。これを大破した。勝ちに乗じて追撃し、五万の首級を挙げた。降伏した敵兵は一万余。捕獲した戎馬器械は数知れなかった。この先勝を記念して、女水を武川と改名する。 

  

賄賂 

 この頃、魏の百官には俸禄がなく、廉白自立することができる官僚は、殆どいなかった。(前述の、「魏の牧守に清廉潔白な人間が多数輩出する時代が到来した。」と矛盾するようだが、あの法令は地方でだけ行われて、朝廷では徹底していなかったと考えられる。)
 そこで、献文帝は詔した。
「羊一口や酒一斗を受け取った官吏は死刑とする。与えた者も罰する。告発した者は、被告の役職を与える。」
 すると、張白沢が言った。
「昔、周の頃は、下士でさえ、俸禄の代わりとして、民に自分の田畑を耕かさせました。今、朝廷の貴臣は、働いている代償を貰っておりません。それなのに、今、物を貰った者は罰し、告発した者へその職を与えるのでしたら、奸悪な者は首を長くし、忠臣は職務を怠るようになってしまいます。それで民を巧く治めようとしても、どうしてそんなことができましょうか!どうか旧来の律令へ戻し、廉吏へは俸禄を払うよう、お願いいたします。」
 献文帝は、発布したばかりの新法を撤去した。 

  

情夫は殺せ 

 もともと、南部尚書李敷と儀曹尚書李斤は仲が善かった。彼等は共に世祖や顕祖に寵任され、国家の機密にも参与していたが、やがて、李斤は相州刺史となった。
 ある時、李斤が賄賂を受けた事が告発された。李敷はその告発を隠したが、献文帝の耳に入ってしまった。そこで、献文帝は事件を究明したところ、死刑に相当した。
 ところで、李敷の弟の李奕は、馮太后の情夫だった。献文帝は、これを疎ましがっていた。そこで、ある役人が李斤へ風諭した。
「李敷の今までの罪状を告発すれば、死刑を宥められるぞ。」
 李斤は悩んで、婿の裴悠に相談した。
「我と李敷は、血のつながりから言えば遠縁だが、今まで手を取り合って生きてきたのだ。今、彼を告発するよう勧められたが、情において忍びない。だが、何度簪を見つめ帯を見つめても、怖くて自殺できない。その上、彼を告発する事も出来ぬ!どうすればよいのだろうか!」
 すると裴悠は言った。
「他人の為に死ぬなんて馬鹿らしい!李敷のせいで落ちぶれてしまって、深く怨んでいる一族があります。自分で告発できなければ、彼等にそっと知らせてやりなさい。」
 そこで、李斤は実践した。
 その罪状を聞いた献文帝は、大いに怒り、李敷兄弟を誅殺した。
 以来、馮太后は、献文帝へ怨みを含んだ。ちなみに、李敷は、李順(魏の太武帝に仕え、その智謀で寵愛されていたが、崔浩に告発されて誅殺された)の息子である。 

  

敕勒造反 

 北魏が柔然を攻撃すると、高車や敕勒が降伏して来た。
 七年、献文帝は、殿中尚書胡莫寒へ敕勒の治安を任せた。だが、胡莫寒は賄賂を貪る人間だったので、人々は怒り、胡莫寒と高平仮鎮将の渓陵を殺した。
 四月、敕勒の諸部落が挙って造反した。献文帝は、汝陰王天賜へ兵を与えて、討伐させた。先鋒は、給事中羅雲。胡莫寒は偽りの降伏で魏軍を油断させ、襲撃した。不意を衝かれた魏軍は敗北し、羅雲は殺され、天賜は体一つで逃げ延びた。 

  

太上皇帝誕生 

 献文帝は、聡明で老成、剛毅で決断力に富む人間だったが、老荘や仏教にかぶれていた。事あるごとに朝士や沙門と共に玄妙な理を論じ、世俗の富貴に興味を持たず、遺世の心を持っていた。ところで、献文帝の叔父の京兆王子推は、沈雅仁厚な人間で名声も高かった。そこで献文帝は、彼へ帝位を禅譲しようと考えた。そこで、諸軍を監督して漠南へ駐屯していた太尉の源賀を呼び戻し、彼が到着すると、公卿を集めて会議を開いた。
 この会議で、誰も敢えて発言しようとしなかった時、子推の弟の任城王雲が言った。
「陛下は泰平を来たしました。四海に臨覆なさって、上は宗廟に違えず、下は兆民を棄てません。それに、帝位を親子で伝えるようになってから、既に久しくなりっております。陛下がこの席を退位なされたければ、皇太子へ正統を譲るべきでございます。それ、天下は祖宗の天下です。もしも、陛下がこれを傍流へ伝えましすのは、先聖の意向に背きますし、姦乱を啓くことも恐ろしゅうございます。これは、禍福の端緒。慎まなければなりません。」
 すると、源賀が言った。
「今、陛下は皇叔へ帝位を禅譲されようとなさっていますが、これは昭穆を紊乱しております(宗廟では、甥を「昭」、叔父を「穆」とゆう)。後世、必ず逆祀と誹られましょう。どうか、任城王の言葉を深く思われてください。」
 東陽公丕が言った。
「皇太子は幼い頃から聖徳が顕れてはいますが、いかんせん、幼すぎます。陛下は春秋に富まれてますのに、どうして独善に走られますのか。天下のことを考えられなければ、宗廟はどうなりましょうか!億兆の民はどうなりましょうか!」
 尚書の陸バツ(「香/友」)が言った。
「もしも陛下が太子を棄てて諸王へ帝位を譲られるのでしたら、臣は殿庭にて首を刎ねます。そのような詔を、どうして奉れましょうか!」
 献文帝は激怒して顔色を変えた。そして、宦官の選部尚書趙黒へ問うたところ、趙黒は言った。
「臣は命を棄てでも、皇太子を奉戴いたします。他の事は知りません。」
 献文帝は黙りこくった。(胡三省、曰。顔色を変えたのは怒ったからで、黙り込んだのは心に頷くところがあったからだ。大臣の言葉に怒り、宦官の言葉に頷く。何をか言わんや!魏の風紀の乱れが見て取れるではないか。)
 この時、皇太子はまだ五才だった。彼が幼すぎたので、献文帝は子推へ帝位を伝えようと思ったのである。
 中書令高允が言った。
「臣は、敢えてクダクダ申しません。どうか陛下、宗廟の重きを思われ、周公が成王を抱いた故事を追念されてください。」
 そこで、献文帝は言った。
「皇太子を立てれば、諸卿がこれを輔けてくれる。何の不可があろうか!」
 又、言った。
「陸バツは直臣だ。必ず我が子の地位を保ってくれるだろう。」
 そして、陸バツを太保とし、源賀と共に皇帝の玉璽を奉じさせて皇太子へ伝えた。
 こうして、皇太子の宏が即位した。高祖、孝文帝である。 

 群臣が奏上した。
「昔、漢の皇祖が天下を統一しました時、その父を尊んで太上皇としましたが、その太上皇は、天下のことに全く関知しませんでした。今、皇帝は幼いので、なおしばらく、万機大政、陛下のお力を借りたく存じます。それゆえ、謹んで『太上皇帝』の尊号を献上致します。」
 献文帝は、これに従った。「太上皇帝」の尊号は、この時に生まれた。 

  

敕勒鎮圧 

 十月、造反した敕勒の鎮圧に、源賀を派遣した。すると、二千余落が降伏して来た。
 源賀は、余党を抱干・金城まで追撃し、大勝利を収めた。その戦果は、斬首八千余級、捕虜は男女合わせて一万余口。奪った家畜は、三万余頭。
 この功績で、源賀は都督三道諸軍に任命され、漠南に駐屯した。
 それまで魏軍は、毎冬軍を出動させ、三道から進軍して柔然に備え、春になったら戻るとゆうことを繰り返していた。そこで、源賀が言った。
「往来の疲労が大きすぎます。諸州から壮健な武者三万人を募り、三城を築いて屯田させましょう。冬には武を演習し、春や夏は耕せば良いのです。」
 だが、この意見は却下された。 

  

宗教 

 泰豫元年(472年)。ある役人が上奏した。
「今、全国に諸々の祠祀が千七十五あり、毎年七万五千五百匹の生贄が奉げられています。」
 上皇はあまり多すぎる事を憎み、詔を出した。
「今後は、天地、宗廟、社稷以外をまつる時に生贄をささげては行けない。ただ、酒と肉片のみを薦めるようにせよ。」 

 元徽元年(473年)。孔子二十八世の孫孔乗を祟聖大夫とし、酒掃料として十戸を給付した。 

  

罪は一身に止まる 

 ニ年、六月。詔が降りた。
「凶戻な人間が、親戚を顧みずに悪逆を働くと、一族にまで累が及ぶ。朕は民の父母となって、この事に深く憫悼する。これからは、謀反や大逆や外叛以外、罪は一身にとどめ、連座・縁座を禁止する。」 

  

献文帝崩御 

 馮太后は、淫乱な女だった。李奕が誅殺された事で、長い間献文帝を怨んでおり、密かに献文帝へ鳰毒を飲ませた。
 四年六月、献文帝が崩御した。廟号は顕祖。享年二十三。