啓民可汗
 
 開皇九年(589年)、隋が陳を滅ぼした。(これによって、資治通鑑の年号表記が陳の禎明から、隋の開皇へ変わりました。) 

  

大義公主 

 隋の文帝は、陳叔寶の屏風を突厥の大義公主へ賜った。
 大義公主は北周の皇女だったので、北周の滅亡以来、心中は穏やかでなく、常に怏々としていた。そこで、この屏風に陳の滅亡の詩を書いて、自らの慰めとした。
 文帝は、その話を聴いてむかついた。これ以来、突厥への礼賜が次第に薄くなっていった。
 ところで、彭公の劉昶は、もともと北周の皇女を娶っていた。流れ者の楊欽が突厥に亡命すると、都藍可汗へ嘘をついた。
「劉昶が妻と共に乱を起こし、隋を攻撃しようとしています。私は劉昶の密命を受けて大義公主へ伝えに来たのです。兵を挙げて辺域を荒らし回りましょう。」
 都藍可汗はこれを信じ、貢物を献上しなくなり、辺域を荒らし回った。
 開皇十三年(593年)、文帝は車騎将軍長孫晟を使者として突厥へ派遣し、その実情を窺わせた。
 大義公主が長孫晟へ謁見した時、その言葉は不遜だった。また、愛人の安遂加と楊欽を都藍可汗のもとへ派遣して、彼を煽動した。
 長孫晟は、都へ帰ると、これをつぶさに語った。対して文帝は、長孫晟へ楊欽の連行を命じた。
 長孫晟は都藍可汗のもとへ行き、楊欽の引き渡しを命じたが、都藍可汗は言った。
「領内を探したが、そんな者はいなかった。」
 そこで長孫晟は、要人達へ賄賂をばらまいて楊欽の居場所を探り当て、これを拉致して都藍可汗へ示した。この時、大義公主の私的な醜聞も知れ渡ってしまい、突厥の人々はこれを恥じた。とうとう都藍可汗は、安遂加も捕らえて長孫晟へ引き渡した。
 文帝は、この上首尾に大喜びで、長孫晟へ開府儀同三司を加え、突厥の公主を廃立させた。
 内史侍郎の裴矩は、都藍可汗へ大義公主を殺させようと請願した。
 この頃、莫何可汗の子の染干が、突利可汗と号して北方に割拠していたが、その突利可汗が隋へ使者を出して通婚を求めた。そこで文帝は、裴矩を使者として派遣し、言った。
「大義公主を殺したら、通婚を許そう。」
 そこで突利可汗は、都藍可汗へ大義公主を讒言した。都藍可汗は、怒って大義公主を殺した。
 ところが、都藍可汗も公主を殺した見返りとして、隋へ通婚を求めた。
 文帝がこれを議論させると、許可する方向へ議論が傾いていたが、長孫晟が言った。
「臣の見るところ、都藍可汗は叛服常無く、信用できません。彼は達頭可汗といがみ合っているので、我が国を後ろ盾にしたく通婚を求めたのですが、最後には我が国からも離れるでしょう。彼が皇女を尚ったら、達頭可汗も突利可汗も彼の指揮下へ入らざるを得ません。そのように強い勢力ができると、後々の患いとなります。それに、突利可汗は莫何可汗の息子で、誠実な人間です。彼も以前通婚を求めていましたので、彼へ娶らせましょう。我等が突利可汗の後ろ盾になれば、その権威で彼は都藍可汗と互角の力になりますから、両者を牽制させることができます。」
 文帝はこれを許諾し、突利可汗へ皇室の女を与えた。
 やがて、突利可汗が、皇女を迎えに来た。文帝は、これを太常に泊まらせ、六礼を教え、宗女の安義公主を与えた。
 文帝は、太常卿牛弘、納言蘇威、民部尚書斛律孝卿などを使者として、相継いで突利可汗の元へ派遣した。文帝は、突利可汗と都藍可汗とを離間させようと思っていたので、突利可汗を特に手厚く持てなしたのだ。
 突利可汗は、もともと北方に住んでいた。皇女を娶るに及んで、長孫晟は南へ移るよう勧めた。そこで突利可汗は、度斤の旧鎮へ移住した。隋からの賜も盛大だった。
 都藍可汗は怒って言った。
「我は大可汗だぞ。それが染干にも及ばないのか!」
 以来、都藍可汗は朝貢を止め、辺域を荒らすようになった。突利可汗は、その動静を伺い、すぐに隋へ知らせた。だから辺域では、事前に守備を固めることができた。 

  

突利可汗と都藍可汗 

 十九年、「都藍可汗が大同城攻撃の為、城攻めの道具を造っている。」と、突利可汗が報告してきた。文帝は、漢王諒を元帥とし、高潁を朔州道から、楊素を霊州道から、上国柱燕栄を幽州道から出陣させ、都藍可汗を攻撃した。彼等は皆、漢王の指揮下へ入ったが、結局漢王は、戦陣へ臨まなかった。
 都藍可汗はこれを聞き、達頭可汗と連合して突利可汗を攻撃した。両軍は長城の下で戦い、突利可汗は大敗した。都藍可汗は、突利可汗の兄弟や子息や姪を殺し尽くす。そして遂に、黄河を渡って尉州へ入った。
 突利可汗の部落はバラバラになった。突利可汗は、長孫晟と共に、わずか五騎で夜陰に紛れて逃げ出す始末。明け方まで百余里をかけ続けるうちに敗残兵が集まってきて、ようやく百騎ほどの集団となった。
 突利可汗は部下達と相談した。
「このまま随へ逃げ込んでも、一落人だ。大随の天子が、どうして我を礼遇してくれようか?今回、達頭可汗も来襲したが、元来彼とは仇ではなかった。達頭可汗へ降伏すれば、必ず可汗として存続させてくれるだろう。」
 ところが、長孫晟がこれを知った。彼は突利可汗を随へつれて行きたかったので、伏遠鎮へ使者を出し、狼煙を挙げさせた。突利可汗は、四本の狼煙が上がったのを見て、長孫晟へ訳を尋ねた。長孫晟は言った。
「城は高いし、土地は平らだから、敵が来たらすぐに判ります。もしも少数の敵が来たら日本の狼煙を挙げ、多ければ三本、大軍が迫ってきたら四本の狼煙を挙げることになっています。大軍が近くまで迫っているのです。」
 突利可汗は大いに懼れ、部下へ言った。
「敵が迫っているのなら、城へ逃げ込まなければならない。」
 こうして一行は、伏遠鎮へ逃げ込んだ。
 長孫晟は、兵卒達を鎮へ留めると、自分は突利可汗を連れて長安へ向かった。
 四月、突利可汗は長安へ入った。文帝は大いに喜び、長孫晟を左勲衙驃騎将軍持節護突厥とした。
 文帝は、都藍可汗からの使者の因頭特勒と突利可汗を御前で対決させた。突利可汗の言葉は筋道が通っていたので、文帝はこれを厚く遇した。
 都藍可汗の弟の郁速六が、妻子を棄てて、突利可汗を追って入朝した。文帝はこれを嘉し、突利可汗へ多くの珍宝を賜下して彼の心を慰めた。
 高潁は、上国柱趙仲卿へ三千の兵を与えて前鋒とした。この一軍は族蠡山にて突厥と遭遇し、七日間の交戦で、これを大破した。乞伏泊まで追撃して、更に破る。敵兵千人を捕虜にし、奪った家畜は一万を数えた。
 突厥は、再び大挙して押し寄せた。趙仲卿は方陣を造り、四面で防戦する。五日間守り続けると、潁が大軍を率いてやって来た。これと合流して攻撃する。突厥は逃げ出した。隋軍は七百余里追撃して帰った。
 楊素は、達頭可汗軍と遭遇した。
 ところで、それまで隋軍は何度も突厥と戦っていたので、彼等の騎兵の突撃の威力を知っていた。そこで将士は、車を外側にして方陣を布き、騎兵はその内側に入れるよう進言したが、楊素は言った。
「それは負けないための方策だ。勝つためには不十分である。」
 そして、従来の戦法を悉く無視して、騎馬陣を布くよう命じた。達頭可汗はこれを知って大いに喜んだ。
「天の賜だ!」
 下馬して天を拝むと、騎兵十余万で突撃した。
 対して、上儀同三司周羅候(「日/候」)は言った。
「敵はまだ、陣立てをしていません。今こそ伐つべきです。」
 そして精鋭を率いて迎撃した。楊素が大軍でこれに続く。
 突厥は大敗し、達頭可汗は全身に傷を負って逃げた。死傷した兵は数知れず。彼等は、号哭して去った。 

  

啓民可汗誕生  

 十月、突利可汗を意利珍豆啓民可汗と改称させた。啓民可汗のもとへ男女一万余人が集まった。文帝は、長孫晟へ五万人を預け、朔州へ大利城を築かせた。
 この頃、既に安義公主は卒していたので、宗女の義成公主を娶らせた。
 長孫晟が上奏した。
「啓民可汗の部落へ帰順する者がますます多くなっています。彼等は長城内に居住していますが、それでもなお都藍可汗の略奪を受け、安寧に暮らすことができません。どうか彼等を五原へ移住させ、黄河を防衛線とさせてください。夏・勝両州の間、南北四百里で任意に放牧させるのです。」
 文帝は、この案に従った。
 また、上柱国趙仲卿へ二万の兵を与えて啓民可汗の為に達頭可汗を防がせた。そして、代州総管韓洪へ一万の兵を与えて恒安を鎮守させた。
 達頭可汗が十万の兵力で来寇して、韓洪の軍は大敗した。趙仲卿は楽寧鎮からこれを攻撃し、千余の首級を挙げた。
 文帝は、楊素を霊州から、行軍総管韓僧寿を慶州から、史万歳を燕州から、大将軍姚弁を河州から出撃させ、都藍可汗を攻撃させた。だが、彼等が戦場へ到着する前に、都藍可汗は部下に殺された。十二月のことである。
 達頭可汗は自立して歩加可汗と名乗ったが、国内は大いに乱れた。
 長孫晟が上奏した。
「この好機に招撫すれば、大勢の民が降伏してきます。啓民可汗へ使者を派遣させましょう。」
 文帝は、これに従った。果たして、大勢の突厥人が隋へ降伏してきた。 

  

史万歳誅殺 

 二十年、四月。達頭可汗が辺境を荒らした。隋は、晋王、楊素、秦王、史万歳を出撃させた。
 長孫晟は、降伏した人間を率いて秦州行軍総管となり、晋王の指揮下で従軍した。彼は、突厥が水を飲む泉へ毒を流した。突厥は、大勢の人畜が死んだので、驚愕した。
「天が悪い雨を降らせた。我等を滅ぼすのか!」
 そして、夜、逃げ出した。長孫晟は、これを追撃して千余の首級を挙げた。
 史万歳は、大斤山で突厥と遭遇した。
 達頭可汗は使者を派遣したが、戻って来た使者へ訊ねた。
「敵将は誰だった?」
「史万歳でした。」
「それは、かつて敦煌の守備兵だった奴か?」
「そうです。」
 達頭可汗は懼れて逃げ出した。史万歳はこれを追撃し、数千人を斬った。
 長孫晟を大利城へ帰し、新たに帰順した者達を慰撫させた。また、啓民可汗の為に金河と定襄へ城を築かせた。 

 史万歳が大斤山から帰ると、楊素が彼の功績を邪魔して、文帝へ言った。
「突厥はもともと降伏してきたのです。彼等は我が国の辺境を荒らしに来たのではなく、国境近辺で放牧を行ったに過ぎませんでした。」
 それで、恩賞は降りなかった。史万歳は、何度も抗議文を上表したが、文帝は悟らない。
 そんな中で、皇太子勇が廃せられ、(詳細は、「隋の煬帝、皇太子廃立」へ記載。)文帝は皇太子勇の党類を糾治しようとした。この時、文帝が史万歳の所在を訊ねたところ、実は史万歳は朝堂に居たのに、楊素は言った。
「史万歳は、皇太子殿下に拝謁していましたぞ!」
 文帝は、これを信じ込んで、史万歳を召集した。この時、上役に邪魔されて正当に評価して貰えない将士が数百人も居たので、召集を受けた史万歳は彼等へ言った。
「今日こそ陛下へ物申してやる!」
 そして、文帝へ謁見すると、言った。
「将士の功績が、朝廷に邪魔されております!」
 その言葉は憤懣に溢れていた。文帝は激怒して、史万歳を撲殺するよう命じた。その後で後悔して中止するよう言ったが、その時には史万歳は既に死んでいた。仕方がないので、文帝は史万歳の罪状を公表したが、人々は冤罪だと評して、彼の死を惜しんだ。 

  

歩迦可汗の凋落 

 仁寿元年(601年)、突厥の歩迦可汗が辺境を荒らし、代州総管韓弘を敗った。
 五月、突厥の男女九万人が隋へ降伏した。
 同年、楊素が雲州行軍元帥となり、長孫晟を受降使者として、啓民可汗と共に歩迦可汗を攻撃した。
 二年、突厥の思力俟斤等が黄河を渡って、啓民可汗を襲撃、男女六千人と雑畜二十万頭を略奪して去った。
 楊素は諸軍を率いて追撃し、転戦すること六十余里。大勝利を収めた。突厥は、北へ逃げた。
 楊素はなおを追撃し、夜半、敵に追いついた。敵に気づかれないように静かに近づいて襲撃し、再び大勝利を得る。略奪された人畜は、全て奪い返して啓民可汗へ帰した。
 これより、突厥は遠くへ逃げ去り、再び南下しようとはしなかった。
 この功績により、楊素の子息の楊玄感が柱国に、楊玄縦が淮南公になった。 

 三年、歩迦可汗の所部が大いに乱れた。鉄勒の僕骨等十余部が、歩迦可汗から離れて啓民可汗へ降伏した。歩迦可汗は勢力が無くなったので、西方の吐谷渾へ逃げた。長孫晟は、啓民可汗を磧口へ送った。以来、啓民可汗は歩迦可汗の部下を全て領有した。 

  

處羅可汗と莫何可汗 

西突厥の阿波可汗が葉護可汗に捕らえられた時、国人達は鞅素特勒の子を立てた。これが泥利可汗である。泥利可汗が卒すると、その子の達漫が立った。これが處羅可汗である。
 處羅可汗の母親の向氏は、もともと中国人だったが、泥利可汗が死んだ後は、その弟の婆実特勒と再婚した。
 開皇年間の末期、婆実特勒と向氏が、隋へ入朝した。この時、突厥本国は達頭が乱を起こしたので、彼等はしばらく長安へ逗留した。
 處羅可汗の領土には、烏孫が大勢雑居していたが、處羅可汗は彼等の遇し方が悪かったので、国人達の造反が相継いだ。その上、鉄勒までが、侵略するようになった。
 鉄勒は、匈奴の末裔である。鉄勒に属する部族は多く、僕骨、同羅、契必、薛延陀などがあり、その酋長達は俟斤と号した。その風俗は突厥とほぼ等しく、鉄勒全体を治める大酋長がいなかったので、彼等は各部族毎に東西の突厥へ臣従していた。
 大業元年(605年)、處羅可汗は鉄勒の諸部を攻撃した。彼等から多量の貢物を取り上げ、特に薛延陀は造反しそうだというので、その酋長数百人を殺し尽くした。
 ここにおいて、鉄勒は団結して決起し、契必の俟利発俟斤を立てて莫何可汗とし、薛延陀の字也咥を小可汗に立て、彼等と共に處羅可汗と戦い、屡々勝利を収めた。
 莫何可汗は勇猛絶倫で衆心を得ており、隣国に憚られた。伊吾、高昌などが、彼へ臣従する。 

  

属国 

 三年、四月。煬帝は北辺を巡回した。
 五月、啓民可汗は、子息の拓特勒を来朝させた。
 丙寅、啓民可汗は、兄の子の毘黎伽特勒を来朝させた。また、啓民可汗自身が中国へやって来て煬帝を出迎えようと申し出たが、これは煬帝が許さなかった。
 六月、煬帝は突厥へ御幸した。この時、啓民可汗は諸侯としての例で恭順にこれを迎えた。詳細は、「煬帝」に記載する。 

  

處羅可汗籠絡 

 四年、西突厥の處羅可汗が母親を恋しがっている事を聞きつけた裴矩は、彼へ使者を派遣して招懐するよう煬帝へ進言した。
 二月、司朝謁者の崔君粛が、西突厥へ派遣された。
 崔君粛は、西突厥にて傲慢に振る舞ったので、處羅可汗は詔の拝受を拒んだ。すると、崔君粛は言った。
「突厥は元々一つの国だったが、今は二分して交戦している。こうして数十年経つのにどちらも相手を滅亡させることができない。
 ところで、啓民は百万の民衆を従えているのに、天子へ対しては膝を屈して臣従している。それは何故かね?それは、啓民単独では可汗を滅ぼせないので、大国の兵を借り、連合して可汗を滅ぼそうと考えているのだ。群臣の中には、啓民の要請を受け入れようとする意見もあり、天子はこれを許諾された。明日出兵が起こっても不思議はない状況だ。
 だが、可汗の母親の向夫人が西国の滅亡を懼れ、朝に夕に泣き伏して哀願し、はいつくばって謝罪している。天子はこれを憐れんで、和平の使者として臣を派遣なされたのだ。
 ところが、当の可汗がこのように傲慢なのでは、向夫人が天子を誑かしたと判じられても仕方がない。このまま報告すれば、夫人は都にて誅殺され、その首だけがこの国へ運ばれることになってしまうぞ。そして、大隋の大軍が出兵するのだ。啓民の思惑通り、この国はすぐにでも滅亡する。
 たかが二度の拝礼を惜しんで母親の命をなくし、『臣』の一言を嫌がって社稷を廃墟にするつもりか!」
 處羅可汗は涙を零して再拝し、跪いて詔を拝受した。また、崔君粛へは汗血馬を贈った。 

  

薛世雄 

 十月、隋は右翊衞将軍薛世雄を行軍将軍として、啓民可汗と共に伊吾を攻撃させた。ところが、薛世雄が玉門を出ても、啓民可汗はやって来ない。そこで薛世雄は孤軍で進軍した。
 伊吾は、どうせ隋は遠征してこないと多寡を括り軍備などしていなかったので、薛世雄が進軍してきたと聞き、恐れて降伏した。
 薛世雄は、漢代の伊吾城の跡地の東方へ城を築き、銀青光禄大夫王威と武装兵千人をそこへ留めて帰国した。 

  

啓民可汗卒す 

 五年、啓民可汗が卒した。煬帝は、彼の為に三日朝廷を休み、子息の咄吉を立てた。これが始畢可汗である。
 始畢可汗は公主を娶ることを請願し、煬帝はこれを許諾した。 

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