石勒、河朔を寇す。

 

 恵帝の太安二年(303年)。安北将軍都督幽州諸軍事の王浚は、天下大乱の兆しを感じ取った。そこで、彼は夷狄を味方に引き入れようと、鮮卑の段務物塵へ娘を娶せ、彼を遼西郡へ封じて遼西公とするよう上表した。
 懐帝の永嘉四年(310年)、十月。劉昆(正しくは「王/昆」)は平北大将軍、王浚は司空、段務物塵は大単于となった。

 さて、劉淵の麾下に石勒とゆう猛将がいた。彼は、幼い頃略奪され、奴隷として売り飛ばされた人間だった。それ以来、彼は母親の王氏と離ればなれとなっていた。
 五年、劉昆が、石勒の母親を手に入れた。そこで、彼は石勒の養子の石虎と共に、母親の王氏を彼のもとへ送り届けて、言った。
「将軍の用兵術は、まさしく神業。向かうところ敵がない。しかしながら、その故に皆から忌避され、天下を流れ流れる羽目となってしまわれた。百戦百勝しながら、その功績としては尺寸の土地さえ与えられていないではありませんか。それに、主人に人を得れば義兵となり、逆賊の下で働けば賊徒となってしまうものです。
 今、あなたを侍中、車騎大将軍、領護匈奴中郎将、襄城郡公へ推挙いたしました。どうか将軍、この位爵をお受け下さい。」
 すると、石勒は返書をよこした。
「人それぞれに生き方がある。それは腐れ儒者の知ったことではない。君は晋朝の為に忠節を尽くせば宜しい。しかし、吾は夷狄。傘下へ入る気はない。」
 しかしながら、母親を送ってくれたことに関して、名馬や珍宝で報い、使者は厚く礼遇した。

 七月。王浚は祭壇を造って天と五帝を祀り、皇太子を立てた(皇族の誰を皇太子に立てたかは、不明)。そして詔を受けたと天下に布告し、百官を置いた。荀藩を太尉、琅邪王を大将軍に任命する。又、王浚自身は尚書令となり、裴憲とその婿の棗嵩を尚書、田徽を兌(「亠/兌」)州刺史、李軍を青州刺史とした。

 劉昆は、招懐は巧かったが、撫御は下手だった。だから、一日に数千人が帰順しても、見限って去って行く者も相継ぐ有様だった。
 そこで、劉昆は息子の劉遵を代公の拓跋猗廬へ派遣して出兵を請い、高陽内史の希と連合した。これによって幽州の民は続々と彼の許へ帰順し、遂に三万人に至った。
 王浚は怒り、燕相の胡矩と、遼西公の段疾陸眷(段務物塵の息子)に希を攻撃させ、これを殺し、代を始めとする三郡の士女を略奪した。

 六年、十二月。数万の民衆を従えて苑郷で自衛していた廣平の游綸と張豺が、王浚の麾下へ入った。すると石勒は変安、支雄等七人の将軍に苑郷を攻撃させ、その外塁を破った。これに対して王浚は、五万の兵を派遣した。これを指揮するのは督護の王昌、遼西公の段疾陸眷、その弟の段匹単、段文鴦、そして従兄弟の段末破である。彼等は襄國の石勒を攻撃した。
 段疾陸眷は緒陽に屯営した。石勒は諸将に迎撃させたが、返り討ちにあってしまった。 
迎撃を蹴散らした段疾陸眷は、城攻めの道具を大々的に製造したので、石勒の部下は懼れおののいた。
 石勒は、将校を召集して軍議を開いた。
「今、城の備えは脆く、兵糧の備蓄も少ない。その上敵は大勢だ。だから、総勢で決戦を挑もうと思う。」
 諸将は口々に言った。
「捨て身の決戦よりも、守備を固め、敵が撤退するところを追撃するべきです。」
 すると、張賓と孔萇が言った。
「鮮卑の中では、段一族が最も勇猛です。更にその中でも、段末破は群を抜いております。ですから鮮卑の精鋭は、全て段末破が率いていると聞きます。
 今、段疾陸眷は日取りを決めて北城へ総攻撃を掛けるようです。しかし、その部下は遠征の疲れと連戦の疲れが溜まっているでしょう。その上、『敵は小勢で孤立しているので、討って出るわけがない』とたかを括っております。つまり、油断しているのです。
 ですから、討って出てはなりません。怯懦に見せかけて奴等の慢心を更に助長させるのです。そして北城に二十余の突門を穿ちます。そして、奴等が北城へ集結したら、戦陣を整える前に突門から討って出るのです。この不意打ちで必ず奴等は慌てます。その時我々は、他の陣には目もくれず、段末破の陣を直撃しましょう。いくら段末破とは言え、慌てていたら撃破できます。そして段末破さえ破れば、その他は攻撃しなくても自ら潰れ去るでしょう。」
 石勒はこれに従い、突門を造らせた。
 そして、段疾陸眷は北城攻撃にやってきた。石勒が城に登ってこれを見下ろすと、将兵は警戒もせず、刀に寄りかかってうたた寝をする兵卒さえ大勢居た。そこで、精鋭兵を孔萇へ与え、突門から攻撃させた。同時に城上では軍鼓や鉦を盛大に鳴らして助勢した。
 孔萇は段末破の陣営へ攻め込んだが、勝てずに退いた。だが、段末破はこれを追撃して敵の陣中まで深入りしたので、却って捕らえられてしまった。
 段末破が捕らえられると、段疾陸眷の兵卒は雪崩を打って逃げ出した。孔萇はこれを追撃する。三十余里追いかけて、鎧馬五千匹を奪った。 段疾陸眷は敗残兵をかき集め、緒陽の屯営へ戻った。
 石勒は、段末破を人質にして、段疾陸眷へ和睦を交渉した。段疾陸眷は許諾したが、段文鴦が言った。
「今、段末破の一人の為に籠の鳥を放ちやると、王彭祖(王浚)の不興を買います。後の祟りが心配です。」
 しかし、段疾陸眷は聞かず、賄賂として鎧馬を石勒へ与え、段末破の三人の弟を人質に出してまで、彼の身柄を請うた。
 片や石勒側では、諸将は皆段末破を殺すように勧めたが、石勒は聞かなかった。
「遼西の鮮卑は強国だ。しかも我々とは、元々仇敵ではなかったではないか。奴等はただ王浚にいいように使われているに過ぎない。今、一人を殺して一国の怨みを買うのは下策だ。彼を返してやれば、奴等は必ず恩義を感じ、いずれ王浚を見限るだろう。」
 そして、厚く金帛を贈り、石虎を段疾陸眷のもとへ派遣して緒陽で盟約を交わし、義兄弟の契りを結んだ。
 こうして、段疾陸眷は撤退した。残る王昌も、孤軍では戦えないので、薊へ引き返した。
 石勒は段末破を召し出すと盛大な宴会を開き、父子の契りを交わして遼西へ返した。帰る途中、段末破は三回も、南を振り返って拝んだ。
 これ以来、段氏は石勒へ心を寄せ、王浚の勢力は衰えた。
 游綸と張豺は石勒へ降った。石勒は信都を攻撃し、冀州刺史の王象を殺した。そこで王浚は邵挙を冀州刺史に任命すると、再び信都へ派遣して守備させた。

 愍帝の建興元年、四月。石勒は、石虎に業(「業/里」)を攻撃させた。業は壊滅して、劉演は廩丘へ逃げ、三台の流民は皆石勒へ降伏した。石勒は、桃豹を魏郡太守に任命し、帰順した流民達を慰撫させた。その後しばらくして、桃豹の代わりに石虎を抜擢して業を鎮守させた。
 当初、劉昆は陳留太守の焦求を兌州刺史に任命していた。ところが、荀藩は李述を兌州刺史に任命した。李述が焦求を攻撃しようとしたので、劉昆は焦求を召還していた。今回、業城が陥落すると、劉昆は劉演を兌州刺史に任命し、廩丘を鎮守させた。
 さて、ここに希(「希/里」)鑑とゆう男が居た。元の官職は中書侍郎。清廉で節義を重んじると若い頃から評判だった男である。彼は高平の千余家を率いて疎開し、尺山に落ち着いた。琅邪王は彼を兌州刺史に任命して鄒山を鎮守させた。
 こうゆう訳で、兌州には、三人の刺史が駐留する事となったので、領民は誰に従えばよいのか判らないとゆう事態に陥ってしまった。

 石勒は更に上白の李憚を攻撃してこれを斬った。王浚は薄盛を青州刺史とした。
 王浚は、棗嵩を総大将として諸軍を易水まで出陣させた。そして段疾陸眷と共に石勒を攻撃しようと考えたが、段疾陸眷は出陣を拒絶した。王浚は怒り、拓跋猗廬へ厚く賄賂を贈り、更に慕容鬼(「广/鬼」)へ檄を飛ばし、共に段疾陸眷を討伐しようと持ちかけた。
 拓跋猗廬は右賢王の六修を派兵したが、段疾陸眷に撃退された。
 慕容鬼は慕容翰へ段氏攻略を命じた。慕容翰は、陽楽まで進軍した時、六修の敗退を知った。そこで、慕容翰は徒河に鎮留して、青山を背にした。
 当初、乱から避難した中国の士民の多くが、王浚の元へ集まって来たが、王浚は彼等を慰撫できなかったし、又、政治や法令がでたらめだったので、愛想を尽かして離散した士民が続出した。段氏の兄弟は武勇を振り回すだけで士大夫へ礼節を尽くさなかった。ただ、慕容鬼は政治がしっかりしており、人物を愛し重んじたので、士民は結局彼の元へ集まっていた。

 五月、石勒は孔萇に定陵を攻撃させ、田徽を殺した。薄盛は任地ごと石勒へ降伏した。すると、山東の郡県は相継いで石勒に占領されてしまった。  
これによって、漢の劉聡は、石勒を侍中、征東大将軍に任命した。 烏桓も又、王浚に背き、石勒へひそかに帰順した。

 十一月。王浚の父親は、「処(虎/処)道」とゆう字だったので、「当途高」こそ自分であるとして、皇帝を名乗ろうと考えた。(当時、一般に広まっていた予言書の中に、当途高」が皇帝になるとゆう一節があった。三国時代、袁術も同様の理由で皇帝を潜称した。)
 前の渤海太守劉亮、北海太守王搏、司空掾の高柔らは切に諫めたが、王浚は彼等を皆殺しとした。
 さて、燕国の霍原は志節が清高で、王浚は屡々仕官を勧めたが肯らなかった。今回王浚は尊号の件で彼に尋ねたが、霍原は変事をしなかった。王浚は、「霍原は盗賊の仲間だ。」と誣いて、彼を梟首した。
 ここに於いて、士民は驚愕し、怨嗟の声が挙がった。しかし、王浚の矜慢は日々高じた。政治を顧みず、それは苛酷な小人に委ねた。棗嵩、朱石等が、その筆頭である。彼等は貪欲で、飽きることがなかった。
 北州では流行歌が起こった。
「府中で赫々たるのは朱丘伯。十嚢、五嚢、棗郎へ入った。」
 徴発は頻繁に起こり、その苛酷さに民は堪えられず、多くの民が鮮卑へ逃げた。
 従事の韓感が柳城を守備していたが、彼は「慕容鬼は部下を大切にしている」と吹聴した。そうやって王浚を風諭したのだ。王浚は怒り、韓感を殺した。
 当初、王浚は鮮卑と烏桓を恃んで強勢となったのだが、今ではどちらも彼から離れていた。それに加えて蝗害や旱害が連年続き、国力は益々弱くなっていた。

 石勒は王浚を攻撃しようと思ったが、その国内の実状がはっきりしない。そこで探りを入れる為に使者を派遣しようと考えた。すると、側近達は口実として国書を持たせようと言い立てたので、この件について張賓へ尋ねたところ、彼は答えた。
「王浚は、上辺は晋の臣下ではありますが、その実、自立して皇帝となろうと考えています。ただ、四海の英雄がその参加に集まらないので躊躇しているだけ。彼が将軍を求めているのは、、それこそ、かつての項羽が韓信を求めるようなものでしょう。将軍の威信は天下に鳴り響いております。今、将軍が言葉丁寧に腰を低くして礼儀正しく仕えたとて、それだけではとても信用されますまい。
 他人を謀る時には、その想いを相手に悟らせてはいけません。」
「その通りだ!」
 かくして石勒は舎人の王子春と薫肇に多くの珍宝を持たせて王浚のもとへ派遣し、上表した。
「勒は、もともと野蛮人。社会の混乱と飢饉の中を逃げまどい、冀州にて細々と生きている次第です。今、晋の国運は既に尽きました。中原には主が居りません。その中にあって殿下の名望は四海から仰がれております。帝王となれるのは、公以外に誰がおりましょうか!勒は、暴乱な男を誅し、殿下の尖兵となるべく、命がけで起兵したのです。どうか陛下、天の御心と衆望に従い、一刻も早く皇祚へ登られて下さい。勒は、殿下のことを天地父母のように敬って居るのです。どうかこの心を汲んで、私のことを子供のように慈しんで下さい。」
 又、棗嵩にも書を送り、賄賂も十分に贈った。
 段疾陸眷が離反し士民も続々と逃げて行っていた最中に石勒が帰順したと聞き、王浚は大いに喜んで王子春へ言った。
「石公は天下の豪傑。しかも趙、魏を所有しているとゆうのに、この俺へ帰順したいと言って来おった。信じられぬ話ではないか?」
 すると、王子春は言った。
「石将軍が才能豊かで強盛を誇っていることは、確かに殿下の言われるとおりです。しかし、殿下とて中州の衆望を一身に担っており、その威光は中華の民から野蛮なる夷狄にまで及んでおります。それに、古来から主君を補佐して名臣と呼ばれた胡人はおりましたが、胡人自らが帝王になったことなど聞いた試しがございません。石将軍は、自ら帝位へ登ることができませんので、殿下に譲ったのでございます。
 歴史を鑑みますに、帝王には自ずから天命が備わっておりました。天下は、智力だけで取れるものではないのです。その器にない者が力尽くで奪ったとしたら、天も人も赦しません。ですから、あれほど強盛を誇った項羽でさえも、遂には漢に取って代わられたではありませんか。
 石将軍と陛下を比べますれば、それこそ月と太陽。彼は過去の歴史を慮んばかって、殿下へ帰心したのです。これこそ石将軍の明晰さを物語っているではありませんか。殿下は何を怪しまれなさいますのか!」
 王浚は大いに悦び、王子春と薫肇を共に列候と為し、石勒には返礼の使者を派遣して厚く褒美を取らせた。
 さて、游綸の兄の游統は王浚のもとで司馬となり范陽を鎮守していたが、彼は石勒のもとへ私的に使者を派遣し、密かに降伏を申し込んだ。石勒は、その使者を斬り殺し、首級を王浚へ送った。王浚は游統を罰しなかったが、石勒の忠誠を益々信じこんだ。

 二年、正月。王子春等は王浚の使者と共に襄国へ帰った。石勒は軍隊を虚弱に見せかける為に精鋭兵を隠して王旬の使者を迎え入れた。王浚は石勒へ麈尾を贈ったが、石勒はこれを受け取らず、壁に掛けて朝晩拝んだ。
「我は王公にお会いすることができないが、その賜を見るだけで、まるで王公へ拝謁しているようだ。」
 又、薫肇を使者として王浚のもとへ派遣し、三月中旬には自ら幽州へ出向いて尊号を献上する旨上表した。又、棗嵩には厚く賄賂を贈った。その時、薫肇は言った。
「王公が皇帝と成られた暁には、我が君にはへい州牧、廣平公の地位をお願いいたします。」
 石勒は、王浚の政治について、王子春へ尋ねた。すると、王子春は答えた。
「幽州は、去年水害にあいまして、人々は五穀を口にすることさえできません。ところが、王浚は百万石もの粟を倉庫に山積みしているのに、何らの救済も行わないのです。刑政は苛酷で労役は頻繁。内では忠賢の臣下さえ愛想を尽かし、外では夷狄が離反しております。その政権が長くないことは誰の目にも明らかですが、王浚一人気がついておりません。奴目は、豪華な宮殿を造って百官を並べ、自ら漢の高祖や魏の武帝を凌いだと悦には入っております。」
 石勒は、肘掛けを撫でて笑った。
「王彭祖を虜にしたぞ。」
 薊へ帰った王浚の使者は、王浚へ言った。
「石勒の軍備は貧弱。彼は心底帰順しております。」
 王浚は大いに悦び、その驕慢は益々激しく、備えなど、てんで行わなかった。

 二月、石勒の野心は益々激しく、王浚を襲撃しようとしたが、まだ出撃しなかった。すると、張賓が言った。
「他を襲撃する時は、その不意を衝くべきです。それが、今、軍備を厳重にしながら、いたずらに月日を重ねております。もしや、劉昆や鮮卑・烏桓が後顧の憂いとなっているのではありませんか?」
「その通りだ。どうすればよいかな?」
「奴等の知勇は将軍には及びません。将軍が遠出なさっても、奴等は決して動きますまい。それに、奴等は将軍が王浚を撃つことを知りません。足の速い軽兵で襲撃すれば、二旬のうちに幽州を滅ぼして戻って来れます。奴等が気がついて隙をつこうとしても、とても間に合いますまい。
 だいたい、劉昆と王浚は、上辺こそ共に晋の臣下ではありますが、その実仇敵です。もしも劉昆へ人質を贈って和平を求めれば、劉昆は我々の帰順を喜び、王浚の滅亡を痛快と笑います。王浚を救ける為に我等を襲撃するはずがありません。
 軍事行動は迅速第一。好機を逸してはなりません。」
 石勒は頷いた。
「わしの疑念を、右候めが氷解させおった。」

 遂に、石勒は動いた。宵のうちから火を灯して行軍し、柏人を襲撃、主簿の游綸を殺した。范陽にいる兄の游統へ情報を漏らすことを懼れた為だ。
 この時点で、石勒は劉昆へ人質を送った。そして、「前非を悔い、罪滅ぼしに王浚を撃つ」と伝えた。劉昆は大喜びで諸州へ檄を飛ばした。
「わしと拓跋猗廬で石勒討伐を考えていると、奴の方から降伏してきて、贖罪の為に幽州を討伐すると言いおった。今、六修に南陽を襲撃させ、皇帝を潜称した逆賊(劉聡)を討つ。石勒は既に帰順した。天意に従い人民を安んじ、皇家を翼奉する。これこそ、積年忠誠を積んだ我々への神助の顕れである!」

 三月、石勒の軍は易水へ到着した。王浚の督護孫緯は早馬を出し、王浚へ防戦を願い出たが、游統がこれを禁じた。
 王浚の将佐は皆言った。
「胡人とゆうのは貪欲で信義を知りません。必ず詭計があります。攻撃しましょう。」
 すると、王浚は激怒した。
「石公が来るのは、わしへ帝位奉戴する為だ。そんなことを言う奴は斬罪に処する!」
 諸人は押し黙り、王浚は饗応の準備を整えさせて石勒を待った。
 やがて、石勒は薊へ入城した。彼は門番を怒鳴りつけて開城させたが、なお伏兵を疑い、まず、牛や羊を数千頭放った。その後、大声で挨拶を述べた。
 ここにいたって、王浚は始めて懼れた。彼が立ったり座ったりウロチョロしている間に、石勒は入城し、略奪を働いた。王浚の側近達はこれを止めようとしたが、王浚は許さなかった。
 部下の狼藉を後目に、石勒は中庭へ入った。王浚は堂皇へ逃げ出したが、石勒はこれを捕らえた。更に、王浚の妻を引き出すと、これも捕らえて王浚と並べて座らせた。
 王浚は、石勒を罵った。
「この野蛮人!お前は俺に帰順しながら、なんでこんな事をするのだ!」
 すると、石勒は言った。
「公は高い官位と強兵を持ちながら、晋朝の滅亡を傍観した。のみならず、これ幸いと皇帝の地位まで奪おうと謀った!なんと、凶逆な男だ!それに、お前は奸佞貪婪な男達を抜擢して百姓を虐げ、忠良の臣下を迫害した。今、燕の国中が害毒に冒されているが、これは誰のせいだ!」
 そして、配下の将軍王洛生に命じて、王浚を襄国まで護送させた。その途中、王浚は入水自殺を図ったが助け出され、襄国の市で斬罪となった。

 石勒は、王浚麾下の精兵万人を殺した。王浚の将佐達は争うように石勒の軍門へ詣でて謝罪し、賄賂を贈った。ただ、元尚書の裴憲と従事中郎の荀綽だけは、そのようなことをしなかった。そこで、石勒は彼等を召集して詰った。
「孤は、暴虐なる王浚を討伐して誅殺したのだ。諸人は皆、やって来て祝いと感謝の言葉を述べている。ただ、王浚の党類はお前達だけだ。誅殺されても当然だな。それとも何か?何ぞ申し開きでもあるのか!」
 すると、彼等は答えた。
「我等は代々、晋朝の禄を食んだ者。王浚は確かに凶粗ではあったが、しかしながら、れっきとした晋の朝臣だった。だから我等は彼に従って忠誠を尽くしたのだ。だが、力及ばなかった。
 さて、もしも明公が徳義を修めようとせず、ただ刑罰を振りかざして力尽くで臨むと言うのなら、我等とて命を捨てるのが身の本分。逃げ隠れたりはせん。殺すのならば、さっさと殺せ!」
 そして、一礼さえもしないで退出した。石勒は彼等を呼び出すと、無礼を謝り、客分として礼遇した。
 石勒は、朱頁と棗嵩を、汚職によって幽州政治を腐らせた張本人と告発し、又、游統は主君に対して不忠の極みであると告発し、彼等を処刑した。
 王浚の将佐や親戚達の家には、いずれも巨万の富が積み上げられていたが、ただ、裴憲と荀綽の家にだけは、百余巻の書物と十余斗の塩・米が蓄えられていただけだった。
 石勒は言った。
「幽州を得たことなどどうでもいい。あの二人を手に入れたことが嬉しい。」
 そして、裴憲を従事中郎に、荀綽を参軍に抜擢した。
 幽州へ移住していた流民達は、それぞれ郷里へ帰らせた。
 石勒は、薊に二日留まると、宮殿を焼き払って帰った。後事については、元尚書燕国の劉翰を幽州刺史に任命して、薊の守りを委ねた。その帰路を孫緯が襲撃したが、石勒は、僅かに逃れた。
 襄国へ戻った石勒は、すぐに漢王の劉聡のもとへ使者を派遣して、王浚の首級を献上した。劉聡は石勒へ、”大都督、督陜東諸軍事、驃騎大将軍、東単于”の称号を賜下し、その領地に十二郡を加増した。石勒はこれを固辞し、ただ二郡のみを受領した。

 一方、劉昆の方は、拓跋猗廬と共に漢を討伐しようとしていた。だが、拓跋猗廬の麾下の雑胡一万人余りが石勒に帰順しようとしていたのが発覚した為、拓跋猗廬はこれの誅殺に追われ、刻限に間に合わなかった。
 こうして劉昆の漢討伐は頓挫したのだが、その間に石勒は王浚を滅ぼし、しかも劉昆へ帰順する気配さえ見せなかった。
 ここに至って、劉昆は驚愕し、愍帝へ上表した。
「東北には八州。そのうち七州まで石勒に滅ぼされ、先朝から任命された刺史は、一人私を残すのみとなってしまいました。石勒の本拠地は襄国。私とは山一つ隔てるだけです。奴等が早朝出陣すれば、その日のうちにここへ到着してしまいます。私の心は忠節をなくしておりませんが、力及ばないことを懼れるのです!」
 ただ、拓跋猗廬は代・常山二郡を領有しており、劉昆と友好関係にあったので、彼の後ろ盾で、何とか劉昆の余命が延びた。

 石勒から幽州刺史に任命された劉翰は、石勒へ投降することを潔しとせず、段匹単へ投降した。こうして、段匹単は薊城を手にした。

 話は遡るが、以前、王浚は邵続を楽陵太守に任命し、厭次へ派遣していた。王浚が滅亡した後、邵続は石勒に帰順した。石勒は、邵続の息子の邵乂を督護とした。すると、王浚麾下の渤海太守劉胤が、郡を棄てて彼の元へ逃げ込んだ。
 劉胤は邵続に言った。
「大功を建てようと思ったら、大義名分こそ大切。君は晋の忠臣なのに、賊徒へ仕えるなど、自分を汚しているのだぞ!」
 そのうちに、段匹単が邵続へ書状をよこし、共に琅邪王へ帰順しようと誘って来たので、遂に邵続も琅邪王への帰順を決意した。すると、部下達が驚いて言った。
「今、石勒を棄てて琅邪王へ帰順したら、ご子息はどうなりますか!」
 邵続は涙を零して答えた。
「子供の為に、大義を棄てることはできん。」
 これを知って、石勒は邵乂を殺した。
 邵続は劉胤を江東へ派遣した。琅邪王は劉胤を参軍に、邵続を平原太守に任命した。石勒は出兵して邵続を包囲したが、段匹単が弟の段匹鴦を救援に派遣したので退却した。
 この年、襄国は大変な飢饉で、穀物二升が銀一斤、肉一斤が銀一両にまで高騰した。

 四年、四月。石勒の命令で、石虎が廩丘の劉演を攻撃した。段匹単が弟の段文鴦を救援に派遣したが、廩丘は陥落し、劉演は段文鴦の軍へ逃げ込んだ。石虎は、劉演の弟の劉啓を捕らえて帰った。

 十一月。石勒は楽平太守の韓據の住む占城を包囲した。韓據は劉昆へ救援を求めた。
 この頃、劉昆は拓跋猗廬の部下を吸収したばかり(詳細は「拓跋、魏を興す」に収載)だったので、戦意旺盛で石勒討伐を考えた。
 すると、箕澹と衛雄が諫めた。
「降伏してきた拓跋猗廬の部下達も晋の人間ではありますが、長いこと異境に暮らしていた輩。まだ、明公の御恩を受けて間がありませんので、おそらくは使い物になりますまい。そうなれば、内に鮮卑(拓跋氏は鮮卑の一族)の余党を抱え、外には胡賊を迎えることになります。今は関所を閉ざして守りをしっかりと固め、農耕に勤しんで兵卒には休息を与え、彼等を感服させるべきでございます。その後にこそ、奴等を使役することができましょう。功績を建てるのはそれからでございます。」
 だが、劉昆は従わず、全軍を挙げて出陣した。箕澹へ二万を預けて先陣を命じ、自身は後詰めとして廣牧へ屯営した。
 これを聞いて、石勒は迎撃しようとしたが、ある者が言った。
「箕澹が率いるのは精鋭部隊。正面からぶつかってはなりません。ここはひとまず退却し、堅陣で防御して奴等の戦意が挫けた頃合いを見計らってから迎撃するべきでございます。」
「いや、箕澹は大軍とは言っても、遠征の疲れが出ている。しかも号令も揃わない。そんな軍を精鋭とは言わぬぞ!今、敵が来寇しているのに、なんで後ろを見せられる!
 それに、大軍が動いたら、俄には進路を変えられない。もし、箕澹が我等の退却に乗じて追撃を掛ければ、兵卒は夢中で逃げ回るだけ。堅陣を張る暇などないぞ。お前の策は、自滅の策だ。」
 石勒は、そう答えるや否や発案者を斬り殺した。そして孔萇を前鋒都督とし、全軍に命じた。
「遅れる者は斬る!」
 石勒は険阻な地形に陣を張り、山の上に見せ勢を置き、陣の前には二隊の伏兵を置いた。そして、まず軽騎兵を出して箕澹と戦い、わざと敗走させた。図に乗って追撃した箕澹の兵は、伏兵の中へ誘い込まれる。途端、石勒軍は前後から箕澹軍を挟撃し、これを大破した。獲得した馬や鎧は万を数える大勝利である。
 箕澹と衛雄は敗残兵をかき集めて代郡へ逃げた。韓據は城を棄てて逃げ出し、へい州は大恐慌を来した。
 十二月、司空長史の李弘はへい州ごと石勒へ降伏した。劉昆は根拠地を失い、進むにも退くにも為す術を知らない。すると、段匹単が使者を派遣してきたので、彼の元へ逃げ込んだ。
 段匹単は、劉昆を信任し、自分の兄弟を娶せ、義兄弟となった。石勒は陽曲と楽平の民を襄国へ移住させた。
 なお、孔萇は箕澹を追撃し、代郡にて斬り殺した。

 元帝の建武元年(317年)、三月。劉昆と段匹単が血を啜って盟約を交わし、共に晋室を推戴することを誓った。劉昆は華人・蛮人に檄を飛ばし、左司馬の温橋(正しくは山偏)を、段匹単は左長史の栄邵を使者として建康へ派遣し、元帝へ恭順を誓った。この時、劉昆は温橋へ言った。
「晋の国運は衰えたとは言っても、天命はまだ尽きていない。吾が河朔で手柄を建てれば、卿も江南で出世できる。さあ、頑張って行って来い!」

 七月、段匹単は劉昆を大都督と為し、兄の遼西公段疾陸拳や叔父の段渉復辰、弟の段末破等へ檄文を飛ばし、固安に集結して石勒を討とうと申し入れた。
 段末破は、段疾陸拳や段渉復辰へ言った。
「叔父や兄の身でありながら甥や弟に従うなど、恥ですぞ。それに、幸運にして手柄を建てても、段匹単に独占されてしまうでしょう。我等は出兵して何の利益がありますか!」
 両人とも同意し、兵を退いた。劉昆と段匹単も孤軍で逗留することはできず、退却した。

 太興元年(318年)、正月。段疾陸拳が死んだ。彼の息子がまだ幼かった為、叔父の段渉復辰が自立した。段匹単は、薊から弔問に出かけた。すると、段末破は宣言した。
「段匹単は簒奪にやってくるのだ!」
 段匹単が右北平まで来ると、段渉復辰は出兵して行く手を阻んだ。段末破は、その虚を衝いて段渉復辰を攻撃し、これを子弟与党もろとも殺した。そして、単于と自称するや、
余勢をかって段匹単を攻撃し、撃破した。段匹単は薊へ逃げ帰った。
 この時、劉昆は嫡子の劉群を従軍させていたが、この戦いで、劉群は段末破に捕らえられてしまった。段末破は、劉昆を仲間に引きずり込んで共に段匹単を襲撃しようと考え、劉群を礼遇し、劉昆を幽州刺史と認めた。そして、劉群に内応要請の書状を書かせ、密偵を放って劉昆のもとへ届けさせたが、その密偵は途中で段匹単方に捕まってしまった。
 劉昆は、そんなこととは知らずに居城(征北小城)から段匹単の元へやって来た。すると、段匹単は劉昆へ密書を見せて言った。
「公を疑っているわけではない。ただ、このようなことがあったと知らせているのだ。」
 劉昆は答えた。
「国家の恥を雪ぐため、公と同盟したのだ。もしも我が子がこんな恥知らずな手紙を書いたのなら、公との大義を守る為に、我が子と雖も見捨ててよう。」
 もともと段匹単は劉昆を重んじていた。そこで劉昆を害せずに居城へ返そうとした。すると、弟の段叔軍が段匹単へ言った。
「元来、我々は野蛮人。その我等へ中華の民が服従しているのは、武力を畏れているためです。それが今、我々は骨肉の争いを始めてしまいました。中華の連中にとっては付け入る隙ができたとゆうことです。この状況で不逞な連中が劉昆を担ぎ上げたら、我々は一族全滅してしまいますぞ。」
 結局、段匹単は劉昆を城へ抑留した。
 劉昆の庶子で長男の劉遵は誅殺されることを懼れ、左長史の楊橋達と、城の門を閉ざして籠城したが、段匹単に攻め陥とされた。
 代郡太守の辟閭嵩と後将軍の韓據達も密かに段匹単攻撃を企てたが、未然に発覚した。段匹単は辟閭嵩、韓據他彼等の党類を捕らえ、悉く誅殺した。

 五月、段匹単は詔と言い立てて、劉昆を収容し、子や姪四人ともども縊殺した。
 劉昆の従事中郎の廬甚、崔悦等は劉昆の余衆を率い、段末破を頼って遼西へ逃げ、劉群を主と仰いだ。だが、大勢の将佐が石勒の許へ逃げていった。
 段匹単は尚も強盛だったので、東晋朝廷は彼に河朔地方を押さえさせようと考えた。そうゆう訳で、東晋朝廷は劉昆の為に哀を発しなかった。すると、温橋が上表した。
「劉昆は帝室への忠誠に励んで家を破り身を滅ぼしたのです。どうか褒恤なさってください。」
 段末破が東晋へ使者を派遣した折、廬甚・崔悦等も書状を託して劉昆の冤罪を上表した。 数年後、劉昆へ太尉・侍中が追贈され、「愍」と諡された。
 この、劉昆の処刑によって、段匹単の人望はずっと下がってしまった。
 段末破は弟に段匹単を攻撃させた。段匹単は数千の部下を率いて邵続の許へ逃げ込もうとしたが、石勒麾下の将軍石越から塩山にて攻撃され、大敗して薊へ逃げ帰った。段末破は幽州刺史と自称した。

 二年、四月。石勒の命を受け、石虎が鮮卑の日六延を朔方にて撃破した。首級二万、捕虜三万を数える大勝利だった。孔萇は幽州諸郡を荒らし回り、次々と占領していった。
 段匹単の部下は飢えによって離散が続出した。段匹単は上谷へ移動しようと思ったが、代王の鬱律から攻撃され、遂に妻子も見捨てて楽陵へ逃げ込み、邵続へ庇護を求めた。

 三年、正月。段末破が段匹単を攻撃して、撃破した。段匹単は邵続へ言った。
「俺は元々夷狄の人間だが、義を慕って家を潰してしまった。君が昔の制約を忘れていないのなら、共に出兵して段末破を攻撃してくれないか。」
 邵続はこれを承諾し、段末破を追撃して大いにうち破った。段匹単と段文鴦は石勒に占領されてしまった薊を奪還しようと、攻撃した。
 後趙王石勒は、邵続が孤立したことを知り、石虎を派遣して厭次を包囲させ、孔萇には邵続の十一の別営を攻撃させた。孔萇は、これを次々と占領した。
 二月、邵続は自ら出撃した。これに対して、石虎は伏兵を使ってその背後を絶ち、遂に邵続を生け捕りにした。そして厭次城へ向かって降伏するよう呼びかけさせたが、邵続は甥の邵竺等に呼びかけた。
「吾は報国の一念で生きてきた。天運拙くここに至ったが、お前達は段匹単を主と抱いて国へ尽くし、決して二心を抱いてはならぬ。」
 段匹単は、薊から帰る途中で、邵続の敗北を知った。彼の部下は懼れて次々と逃散し、又、石虎がその行く手を阻んだ。しかし、段文鴦は親衛隊数百と共に力戦してどうにか薊城へ入城を果たした。そして、邵続の息子の邵緝や、甥の邵存、邵竺等と共に籠城した。
 石虎は邵続を襄国へ送った。石勒は、邵続の忠義心を喜び、釈放して礼遇した。更に、彼を従事中郎に任官し、朝臣達へ令を下した。
「今より後、敵に勝って士人を捕虜とした場合は、かってに殺害せずに、必ず本国へ送るように。」
 邵続が攻められていると聞いて、東晋の吏部郎の劉胤が、元帝へ言った。
「北方の鎮藩が次々と敵の手に落ちる中、ただ、邵続一人が頑張っています。もしも彼までもが石虎に攻め滅ぼされましたら、北方の義士達は孤立し、本朝へ忠義を尽くそうにもその手だてさえなくなってしまいます。どうか救援の軍を派遣して下さい。」
 元帝は従わなかった。ただ、邵続が没したと聞き、彼の官位を息子の邵緝へ授けた。

 六月、後趙の孔萇が段匹単を攻撃した。孔萇はそれまで連戦連勝だった為心が傲り、十分な警戒をしなかった。そこを段文鴦が攻撃したので、大敗してしまった。

 四年、三月。後趙の石虎が厭城を包囲した。孔萇は幽州の他の諸城を攻撃して悉く陥とした。ここに至って、段文鴦が段匹単へ言った。
「我々が武勇で聞こえたから、人々が望みを託して集まって来たのです。今、領民が略奪されているのを見ながら、救援にも出向かない。これは卑怯です。民からの人望を失えば、誰が我等の為に命がけで戦ってくれますか!」
 遂に、数十騎の壮士と共に出撃し、後趙の兵卒を殺しまくった。しかし、所詮は多勢に無勢。段文鴦の馬も力つき、地に伏してしまった。すると、石虎が呼びかけた。
「兄上。兄上も俺も、共に夷狄ではないか。俺はかねてから、兄上と共に戦いたいと願っていたのだ。しかし、天はその願いを叶えて下さらず、今、このような形で対面することとなってしまった。しかし、これ以上、何で戦う必要があるのか!どうか降伏してくれ!」
 しかし、段文鴦は罵った。
「お前達は、単なる寇賊だ。滅びる日も遠くない。思い起こせばその昔、(永嘉六年)兄上が私の策に従ってさえ下されば、お前をここまで蔓延らせたりしなかったものを!俺は戦って死ぬ。お前に降伏なんぞするものか!」
 遂に馬を棄てて奮戦し、力つきて捕らえられてしまった。こうして段文鴦を失い、厭次城は益々追い詰められてしまった。
 段匹単は東晋へ逃げようと思ったが、邵続の弟の邵泪が武力行使で拒絶した。のみならず、邵泪は勅使の王英を石虎のもとへ送りつけようとしたので、段匹単は顔色を変えて彼を詰った。
「卿は兄の志を遵守せず、俺が朝廷へ帰順しようとすれば力尽くで押しとどめる。それでさえ恥知らずなのに、この上勅使まで捕らえようと言うのか!夷狄の俺でさえ、そんな恥知らずは聞いたことがないぞ!」
 だが、邵泪は、遂に邵緝や邵竺等と共に、降伏した。
 捕らえられた段匹単は、石虎に言った。
「俺は晋朝の御恩を受けた身の上だ。だから、お前を滅ぼすことしか考えていなかったが、不幸にしてこうなってしまった。だが、お前に頭は下げんぞ!」
 しかし、段匹単は石勒や石虎と義兄弟の契りを交わしていたので、(永嘉六年。石虎が段文鴦へ対して兄上と呼びかけたのも、この為である。)石虎は段匹単へ跪いた。
 石勒は段匹単を冠軍将軍、段文鴦を左中郎将に任命し、散り散りになっていた流民達三万人を呼び集めて彼等へ農地を与え、守宰を置いて統治させた。こうして、幽、き、へい三州は皆、後趙の領土となった。
 段匹単は石勒へ対して頭を下げず、常に晋朝廷の朝服を着て、晋の節を持っていた。
 やがて、段文鴦も邵続も、後趙にて殺された。

(訳者曰)

 永嘉六年、段一族に追い詰められた時は、石勒にとっては滅亡寸前の危機だった。その怨み在る段末破を殺さずに返してやった。石勒が強大になったのも尤もである。
 この時、段文鴦は、段末破を見殺そうとした。
 その後の段文鴦の人生を読むと、彼が勤皇の志士である事がよく判る。多分彼は、「大義親をも滅す」と思ったのだろう。しかし、この思いは壮士にしか通じない。凡俗の身を以て見るならば、人情に欠ける。人としての情けを欠いた行動が、どうして巧く行くだろうか?
 果たして、従兄弟への思いに惹かれた段疾陸眷は、この策を却下した。これは人情の常、当然の結果でもある。そして、生還した段末破は何を思っただろうか?

 段疾陸眷が没した後、段末破は造反した。石勒への慕心が彼の心を引き、段文鴦への怨みがこれを後押ししたなら、造反しない方が異常である。そしてその時、彼は段文鴦を誣告したが、これは全領土を独占したかったのだろうか?それとも段文鴦を殺したかったのだろうか?
 石勒に心惹かれる段末破が離反したら、一族の勢力は半減する。だが、従兄弟の人情を持って彼に接すれば不可侵の条約は結べただろう。そうすれば半減で済んだ筈だ。その後、互いに攻め合ってたちまちに滅びるのと比べれば、どちらがましだっただろうか?
 段文鴦の突然の滅亡は、段末破の離反ではなく、その後の交戦にあった。そして従兄弟としての人情を断ち切ったのは、実に段文鴦の献策に他ならないのだ。

 昔、文王が狩猟を楽しんだ時、彼はその一方だけに網を張って言った。
「逃げたい者は逃げよ。我が許へ来る者だけ網に掛かれ。」
 則ち、王道とは「去る者を追わず、来たれるを拒まぬ」ものである。
 確かに大義は貴ぶべく、壮士の気質は尊敬に値する。しかし、行き過ぎて人情を失えば、残忍な人間に成り下がってしまう。これは孔子の教えではない。

 その死に臨んで、段文鴦は自分の献策が容れられなかったことを恨んだ。しかし私は、彼がその献策を行ったことを恨むのだ。