晋の桓公の族滅
 
(春秋左氏伝、補足) 

 晋国では、桓叔と荘伯の子孫が、嫡系ではないのに強大な勢力を持っており、晋の献公は、これに脅威を感じていた。
 斉の献公の六年、大夫の士薦が献公へ言った。
「富子さえ除けば、他の連中は何とかなります。」
 献公は言った。
「何か策があるのなら、やってみないか。」
 そこで士薦は讒言を振りまき、諸公子(桓叔や荘伯の子孫達)と共に富子を処分した。
 七年、士薦は、諸公子をそそのかし、更に遊氏の二公子を殺させた。そして、士薦は献公へ言った。
「巧く行きました。二年としないうちに、心配はなくなります。」
 八年、士薦は、桓・荘の庶子をけしかけて、遊氏の一族を皆殺しにしてしまった。次いで、聚に城を築き、庶公子達を移住させた。その冬、献公は聚を包囲して、庶公子達を皆殺しにした。 

  

(東莱博議) 

 晋の献公の時、公子の申生が殺されたが、一体誰が彼を殺したのだろうか?
 それは、士薦である。士薦が申生を殺したのだ。
 申生を殺したのは、実は驪姫の讒言である。士薦に何の関係があるのか?
 それは、士薦が隙を開いたからだ。驪姫は、その開かれた隙に乗じたに過ぎない。 

 「子弟」とゆう言葉があるように、子と弟とでは、相去ること一間に過ぎない。
 さて、献公が殺した公子達は、皆、桓公や荘公の子孫である。献公にとって、彼等がどうして他人だろうか ?彼等の内で身近な人間は言う間でもないし、縁遠い人間でさえも、献公にとっては叔父なのだ。
 献公に悪心が起こった時、士薦は詭詐を反復し、彼等を死地へ陥れた。彼は、献公へ、宗族昆弟達を殺させたのだ。それはまるで、雑草でも刈り尽くすように、情け容赦の欠片もなかった。
 献公は、既に宗族昆弟達を大量虐殺した。それならば、どうして子供達へ対して同様にできない筈があろうか?だからこそ、驪姫は彼等を讒言できたのである。
 清廉潔白の誉れ高い伯夷へ対する者は、敢えて賄賂を口にしない。剛直で鳴った比干へ対する者は、敢えて阿諛追従を口にしない。驪姫は確かに心のねじくり曲がった毒婦だが、それでも献公の残虐さを見なかったならば、どうして三人の子息達を讒言することができただろうか?
 士薦は、申生が即位できないのではないかと憂え、蒲屈に城が築けないことを憂え、終日、晋の禍を憂えていた。その憂心はまことに正しい。だが、そもそもその禍を造った者が一体誰なのか、彼は全く判ってなかったのだ!
 驪姫の讒言は、かつて宗族を讒言した自分のやり方を踏襲したものだ。蒲屈の城は、かつて城を築かせた自分のやり方を踏襲したものだ。我が歌わなければ、彼がどうしてそれに和することができようか?我が先に行わなければ、彼がどうしてこれを継ぐことができようか。
 だから、献公の残忍な心を開いたのは、士薦である。驪姫へ離間の術を教えたのも、また、士薦である!
 既に開いたものは、もう閉じることはできない。既に教えたことを悔いても、もはや及ばない。盗賊に刀を授けながら、人を殺すことを禁じる。そんな理屈がどこにあるか!
 だから、この事件をどんな裁判官に裁かせたとしても、必ずや士薦を主犯とするに決まっている。驪姫は従犯に過ぎないのだ。 

 我は、かつて晋国の本末を考えた。この時、その支流を廃して本流を尋ね、その禍端を開いた者を知った。それは、士薦に始まったものではない。その本流は、もっと遠くまでさかのぼれた。
 晋の穆侯の二人の子息のうち、文侯は年上であり、桓叔は年下だった。この二人は、どちらも穆侯の子息だったが、桓叔の系統は、桓叔の襲爵以来、文侯の子孫のことを仇敵のように見ていた。
 桓侯の子孫が、文侯の子孫を根絶やしにして国を奪ったのは、自分の子孫へ国を継がせたいと考えたからに他ならない。だが、彼等は気がつかなかった。文侯の子孫を皆殺しにすることによって、自分の子孫も又、殺されてしまうことに。
 我が自分の子供への私欲で自分の昆弟を殺す。すると、我の長男も又、自分の子息へ私欲を持ち、その昆弟を殺す。我の長男の昆弟というのは、つまり我の子息ではないか!最初、我が自分の子息に私したことが、遂には我の子息を殺したのである。これでどうして善く謀ったと言えようか?
 こう考えるならば、桓公や荘公の子孫を献公が殺したとは言っても、その実、彼等を殺したのは、他ならぬ桓公や荘公なのである!
 桓公も荘公も、自分の子息を偏愛し、昆弟を仇敵と見なした。一族の中で親しき者と仇敵に分けた。なんと私の甚だしい事か。
 献公へ及んで、彼はケイセイに親しみ、申生を仇敵と見なした。実の息子達でさえも、親しき者と仇敵とに分ける。これは「私の私」と言うべきか。
 心の中で私が日々に強くなり、それに伴って心はますます狭くなる。心が日々に狭くなれば、毒は日々に深くなる。その末流が、どうしてここまで行き着かずに済まされようか!
 桓公や荘公が文侯の子孫を殲滅した時に、彼等は心で思った筈だ。
”危害を加える奴等は全て排除した。これで、俺の子孫は無窮の利益を享受できる。”
 この時、我が子孫は、我が子孫から害されることに、どうして気がつかなかったのか?
 献公が桓荘の子孫を殲滅した時に、彼は心で思った筈だ。
”危害を加える奴等は全て排除した。これで申生は、無窮の利益を享受できる。”
 この時、申生を自分自身が殺すことに、どうして気がつかなかったのか?
 外敵を防ごうとして、禍は内から発した。他人を防ごうとして、禍は自分が発した。禍の機は、ここにあってあそこにはなかったのだ。
 彼等数君は、自分の一族を皆殺しとした。だが、彼等はただ山のような悪行を背負っただけで、針先程の利益も享受することができなかったのである。憐れまずにはいられない。 

 哀しいかな!嗚呼!愛が私欲を生む。そして愛する者を害するのも、また、私欲なのだ。私欲を持っていながら愛情を全うできた者など、天下のどこにもいやしない。
 はじめ、献公は申生へ私して、彼を害する者を除こうと、桓荘の子孫を皆殺しにした。至上の愛と言える。だが、その申生が襲爵しないうちに驪姫を寵愛した。すると、愛情の対象は、速やかにケイセイへと移り、ケイセイの為に申生を殺した。かつては申生の為に一族を皆殺しとしたのに、この時、その申生への愛情はどこへ行ったのか!
 申生を愛する心は、既にケイセイへ移った。それならば、その後、ケイセイへの偏愛は、他の子息へ移ってしまうに違いない。そう考えるならば、献公は、昔愛した申生を守ることができなかっただけではない。今愛しているケイセイをも守ることもできないのである。
 それならば、私心へ依った偏愛が、どうして真実の「愛」と言えるだろうか。本心から出た愛だったなら、他へ移ったりは絶対にしない。林回は、千金の璧を棄て、赤子を背負って逃げた(荘子の説話)。天性の愛情ならば、どうして外物によって増減しようか?
 彼の愛が真実ではないと、献公が悟り、ほんの一念の中ででも天性の愛を体感できたならば、大本も枝葉も全てが共に生きるべきで、誰一人として斬り捨ててはならないと判るだろう。そうすれば、士薦に何ができただろうか?驪姫に何ができただろうか? 

  

驪姫・恵公の乱