斉の桓公、斉へ入る。
 
(春秋左氏伝) 

 魯の桓公は、斉の襄公の妹婿だったが、襄公は、もともと妹と私通していた。ある時、魯の桓公が妻と共に斉へ来ると、襄公は妹とよりを戻した。この時、それが桓公へばれたので、襄公は桓公を殺した。
 斉の襄公がこのような暴君だったので、襄公の弟の小白は、鮑叔牙と共に呂(草/呂)へ逃げた。その弟の糾は、管仲・召忽と共に魯へ逃げた。やがて、襄公は殺され、斉は大いに乱れた。
 魯の荘公の九年、夏。魯の荘公は糾を斉へ納れようとしたが、小白が、一足先に斉へ入って即位した。これが桓公である。(この時、管仲は小白を暗殺しようとして弓を射たが、それは帯の留め金に当たって未遂に終わった。)
 秋、魯は糾を奉じて斉と戦ったが、敗北した。(乾時の戦い)
 斉は魯へ対し、糾を殺し、管仲と召忽を引き渡すことを求めた。糾は魯で殺され、召忽は殉死したが、管仲は桓公のもとへ降伏した。すると、鮑叔牙が、管仲の有能なことを吹聴したので、桓公は管仲を宰相として使った。
 斉が国力を増強させ覇者となれたのは、全て管仲の力である。 

 後、孔子の弟子(子貢)が、孔子へ尋ねた。
「管仲は仁者と言えましょうか?桓公が公子糾を殺した時、殉死しなかったばかりか、仇の相となったのですから。」
 すると、孔子は答えた。
「管仲は桓公を補佐して覇者とし、天下を纏めた。その恩恵は、今の我々でさえも享受しているではないか。もしも管仲が居なければ、我々は野蛮人共に征服され、ザンバラ髪に左衽とゆう風俗にさせられていたのだよ。取るに足りない人間が、詰まらない義理立ての為に首吊り自殺するような真似と、管仲の偉業が、どうして比べ物になろうか。」(論語) 

  

(博議) 

 魯の荘公は、父親の仇である子糾の為に力を貸し、管仲は主人の仇である斉の桓公へ仕え、桓公は自身の仇である管仲を抜擢した。
 父の仇を忘れてはならない。それを気にも留めないで子糾へ加担したのは魯の荘公の罪である。逆に、自分自身の怨念は忘れなければならない。それを水に流して管仲を抜擢したのは、桓公の義である。
 この二人については、褒貶が容易い。ただ、難しいのは管仲である。
 管仲の主人は子糺である。そして彼は桓公に殺された。それならば、管仲にとって、桓公は主人の仇ではないか?それなのに、彼は主人の為に命を捨てなかったばかりか、その仇の許でノウノウと宰相を務めた。儒学者としては、当然その無節操さを非難し、破廉恥と非難するべきである。にも関わらず、孔子は管仲を絶賛した。だからこそ、多くの儒学者が混乱しているのだ。 

 伯楽が一言断を下せば、駄馬と名馬の鑑定は揺るぎない物となり、孔子が一言断を下せば、是非の判断は分妙に定まる。今、孔子が裁断を下した以上、当然管仲は立派な人間に決まって居るではないか。
 ただ、理由もなしに聖人に逆らうのは、確かに狂だが、しかしながら、理由も考えずに聖人に従うのも、又、愚かというものである。
 自分では何も考えず、ただ「伯楽が褒めたのだから名馬に決まっている。」「孔子が褒めたのだから立派な人間に決まっている」と、そう言っている人間へ、試みに尋ねてみよう。
「それでは、管仲はどうして立派な人間だったのかな?」と。
 そうすると、そんな連中はシドロモドロとなり、返答に窮する。それでは管仲が立派だとしても、そのどこを真似すればよいのか判らないではないか。
「伯楽が判じたから名馬だ。」と言っている人間は、まだ馬のことを知らない。同様に、「孔子が褒めたから立派な人間だ。」と言っている人間は、まだ人を見る目がない。彼等は単に、盲従しているに過ぎないのだ。 

 天下の事を知るのなら、自分で知れ。見るのなら、自分で見よ。伯楽の鑑識はお前の鑑識ではないのだ。孔子の智恵も、それを聞いただけで考えようともしなければ、お前の智恵にはならないのだ。
 管仲の出処進退の是非について、聖人(孔子)は既に判定を下した。その判定を、自分の心に照らし合わせてみて、腑に落ちるか落ちないか。合点もいっていないくせに、「孔子が言われているのだから管仲は立派な人間なのだ」と言う。これは、上辺だけ聖人に従っているので、精神まで従っているわけではない。しかし、君子の学問は、その精神に従うべきもので、上辺だけ追従するものではないのだ。
 例え聖人の言葉とは言っても、我が心に符合するところがなかった。だから深く考える。そんな行いは、「聖人を妄りに疑う行為」ではないのだ。それはむしろ、「上辺ではなく、精神から聖人に従おうとする努力」なのである。そこまで行ってこそ、始めて「聖人に心底従っている」と言えるのだ。
 だからこそ、孔子が管仲を賞賛した言葉を聞けば、「どうして孔子が管仲を褒めたのか?」その真意を深く糾明しなければならないのである。 

 孔子はどう思われたのだろうか?ただ単に、管仲の非難するべき行動に比べて、賞賛するべき実績が大きすぎたからなのか?
 とんでもない!
「尺を曲げても尋を直にすれば事足りる。」等という観念でさえ、聖門にはないのだ。ましてや、「讐に仕える」という行いが、どうして些事末葉で斬り捨てられるようか!
 それならば、孔子の真意は、果たしてどこにあったのだろうか?
 お答えしよう。
 糾も桓公も、どちらも斉の正嫡ではなかった。どちらも、斉の領主を継承する権利がなかったのだ。だからこそ、春秋では「糾を納れる」と書き、「子糾を納れる」とは書かなかった(※)。又、漢の薄昭はこの事件に関して、「弟を殺した」と書き、「兄が弟を殺した」とは書かなかった。つまり、糾が正統な継承者ではなかったという事を示しているのだ。
 勿論、小白も正統ではなかった。だから、もしも小白が、即位する前に糾を殺したら、それは確かに、兄弟で国を奪い合って殺したのだから、管仲は小白を主人の仇と見なさなければならない。
 だが、乾時にて戦った時には、既に小白は即位して斉の桓公となっていた。その地位は既に定まり、社稷をすでに奉り、斉の人民は全て彼に帰属していた。この時、桓公は斉の領主であり、糾は単なる一亡命者に過ぎなかった。
 亡命者に過ぎないのに、糾は斉の政権を奪おうと兵を挙げた。桓公は、主君の立場で臣下の造反を拒戦し、糾は臣下の立場で主君を犯した。曲直主客の勢いは分明である。
 鹿を得た桓公は、鹿を追った糾の旧悪を追治し、自分の弟を殺した。それは確かに、人間としては責めるべきだろう。しかし、斉の主君として亡命した公子を殺したのは、単なる殺人ではない。例え過激すぎる裁きとはいえ、主君が臣下を誅殺したのである。臣下の党類が、主君を仇と見るのは正しくない。
 これこそ、管仲が桓公に仕官した理由である。そして、孔子が管仲を赦したのもその為なのだ。 

 人は皆、管仲が仇敵に仕えたと言っている。だが、何ぞ知らん、管仲が桓公を仇と狙うのは間違いだったのである。桓公を仇と狙ってはいけない事を理解できたら、管仲が讐敵に仕官していないことも判るだろう。
 世間の人間は、孔子の言葉の表面だけを捕らえ、その言葉の深い意味を考えない。挙げ句の果ては、讐敵に仕えた人間が、管仲を気取って嘯いている。もしも本当に讐敵に仕えたのなら、例え万善の成果を挙げても、旧悪を贖うことなどできる筈がない。ましてや区々たる覇功にて、どうして褒められたりするものか。 

  

(※)原文、「春秋書納糾而不繋以子」 
 春秋の細かい書き方の中で、糾を正統と認めないような表現に符合したのでしょう。私は春秋の専門家ではないので、一文字一文字に隠された深い意味はよく判りません。もしも判った人がいればご一報下さい。
 それで、便宜上、上述のように訳しましたが、春秋の原文を読むと「納子糾」と記載されていますので、これ以上ないって位、明々白々な誤訳です。それとも、千年前の春秋の原典では「納糾」となっていたのだろうか?(まあ、聖典を改竄するような冒涜行為は、誰も行わないとは思いますが・・・・) 

  

(訳者、曰) 

 一部の隙もない理論です。
 即位して、斉の民衆の心を一つにした時から、桓公は斉の主君となった。その状況の変化も弁えずに、桓公へ対して弓引いた以上、糾は造反人。糾は造反して殺されたのだから、管仲が桓公の事を主人の仇と見るのは筋違いです。
 しかし、孔子はそこまで考えて管仲を評価したのだろうか?論語の言葉を読んでみると、「左衽せずに済んだ」功績を評価しているような気がして成らない。(孔子は結構功利的な人間だったような気がするのです。)
 もしも、管仲が本当に讐敵に仕えて大功を建てていたら、孔子はどう評価しただろうか?例えば、馮道のように。
 そう考えてみると、この論文は馮道を揶揄しているような気がします。してみると、かなり現実味が出てきます。それこそ、最後の一文、「讐敵に仕えた人間が、管仲を気取って嘯いている。」の中に、呂東莱が本当に訴えたかった憤りがあるのではないでしょうか?
 そうだとすれば、ここは厳密に糾明しなければならなかった訳です。今後も、そのような人間は続出する危惧があるのだから。
 唐の太宗皇帝は、「逆を以て奪うことはできるが、順を以てしか治められない」と言い、これは至言として評価されています。ですが、その精神が、どうして朱子学で受け入れられましょうか?
 突き詰めていけば、「例え悪行を働いても、それを礎にして大功を建てれば、チャラにできるどころか、十分すぎる程お釣りが来る」とゆうことになり、行き着く先は、全ての悪人達が、「今はそうかも知れないが、将来を見ろ」の一言で自分の行動を正当化してしまうようになる。(泰平が続けば、案外そうゆう小悪党が続出するのかも知れない。してみると、なにも一人の馮道を揶揄しただけではなさそうだ。)そうなれば、もう、無法地帯です。
 ここまで考えて、この論文が、軽薄化しつつある風潮へ対するアンチテーゼだったと気がつきました。
 これは凄い!この論文は、かなり価値がある。それもひとえに、「管仲が仕えた相手が、タマタマ讐敵ではなかった」ことに由来しているのだから、本っっ当に良かった!
 それとも、もしも管仲が讐敵に仕えていたら、あれだけの功績を建てたとしても、孔子は彼を評価しなかったのだろうか? 

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