桓温、蜀を滅ぼす

 

 明帝の太寧二年(324年)成帝李雄の皇后は任氏。彼女には子供がなかったが、妾には十余人の子供が居た。しかし、雄は、兄の子の班を任氏の養子にし、太子に立ててしまった。臣下達は、実子を世継ぎとするよう乞うたが、雄は言った。
「兄は先帝の嫡流で、才を言えば奇材、しかも国に対して大功があった。事が成就する寸前に世を去ったが、余はいつもこれを悼んでいたのだ。しかも、班は仁孝な男で、学問好きだ。必ずこの国を守るだろう。」
 それに対し、太傅の李驤と司徒の王達が諫めた。
「子供を立てて継がせるのが先王の教え。これは、分を明白に定めることによって簒奪を防ごうとの深謀遠慮でございます。宋の宣公や呉の餘祭の故事をご覧になられてもおわかりになりましょう。」(宋の宣公については、「東莱博議」参照。)
 しかし、雄は聴かなかった。
 退出した後、李驤は涙を零した。
「動乱はここから始まる。」
 李班は、下位の者へ対しても恭順に接する人間で、その行動は礼法を遵守していた。そこで、大きな議題がある毎に、李雄はその裁断を李班に任せたのである。

 成帝の咸和九年(334年)、六月。李雄の頭に腫瘍ができた。
 彼は元々、体中傷跡だらけだったが、発病すると、その古傷から膿が吹き出し、全身膿にまみれてしまった。その有様に、息子達でさえ近づかなくなったが、太子の李班だけは、昼夜側を離れず、着替えもせずに看病し、自らの口で膿を吸い出した。
 やがて、李雄は建寧王の李壽を呼び出すと、遺詔を授け、死後の輔政を頼んだ。
 丁卯、李雄、卒す。享年六十一。
 太子の李班が即位した。
 李壽を録尚書事とし、政治は李壽と司徒の何點、尚書の王懐へ一切を任せきり、李班は義父の服喪に専念した。
 九月、李雄の息子の車騎将軍李越は、江陽を鎮守していたが、父の喪を聞いて成都へ戻って来た。
 ところで、新主の李班は、李雄の実子ではない。だから、李越は心中不服だった。そこで、彼は弟の安東将軍李期と共に、造反を企てた。
 李班の弟の李午は言った。
「李越を、江陽へ戻しましょう。そして、李期は梁州刺史に任命し、下向させるのです。」
 だが、まだ先帝の埋葬さえしてなかったので、李班は二人を地方へ出すのに忍びなかった。李班は、誠実に彼等を遇し、何一つ疑いもせず、実弟の李午を倍へ下向させた。
 李班は、殯宮にて毎晩哭していた。これを知った李越は、十月、殯宮にて李班を弑逆した。併せて李班の兄の領軍将軍李都も殺し、皇太后の任氏の令をでっち上げて、「李班は罪状があり、廃立する。」と発表した。
 さて、李期の母親は冉氏である。だが、彼女の出自は賤しかったので、任氏が養母となって、李期を育てていた。そして、李期は多芸で、有能との評判だった。李班が死ぬと、衆人は李越を立てたがったが、李越は李期へ譲った。結局、李期が即位して皇帝となった。
 李班へは、「戻太子」と諡した。
 李期は、李越を相国として、建寧王に封じた。李壽には、大都督を加え、漢王に移封した。二人とも、録尚書事である。兄の李覇を中領軍、鎮南大将軍に、弟の李保を鎮西大将軍、文山太守に任命した。従兄の李始を征東大将軍に任命し、李越に代わって江陽を鎮守するよう命じた。
 丙寅、李雄を安都陵へ埋葬し、武皇帝と諡する。廟号は太宗。
 李始は、李壽と手を組んで李期を攻撃しようと思ったが、李壽は動かなかった。李始は立腹し、李期へ向かって李壽を讒言し、これを殺すよう請うた。だが、李期は、李午討伐を李壽に命じるつもりだったので、これを許さなかった。
 やがて、李午の討伐を命じられると、李壽は倍へ進軍した。だが、開戦に先立って、李午へ書状で利害を説き、包囲の一方を開けておいた。李午はそこから逃げだし、東晋へ出奔した。東晋は、李午を巴郡太守に任命した。
 李期は、李壽を梁州刺史に任命すると、倍を鎮守させた。

 咸康元年(335年)九月。李班の舅の羅演が、李壽の相の上官澹と共に、李期を殺して李班の子供を立てようと謀った。だが、この計画は事前に洩れ、李期は、羅演、上官澹及び、李班の母親の羅氏を殺した。
 即位した後、李期は得意の絶頂で、諸旧臣を軽んじた。信任するのは、尚書令の景騫、尚書の姚華と田褒、中常侍の許倍等で、刑賞も政治も、わずか数人で専断し、公卿には諮らなかった。田褒には何の才能もなかった。ただ、かつて李雄へ、李期を太子とするよう勧めたことがあった。それだけで寵遇されたのである。これによって、綱紀は大いに乱れ、成は次第に衰え始めた。

 四年。李期の驕奢、暴虐は日に日に甚だしくなった。多くの臣下を誅殺し、その資財や婦女は没収する。おかげで、大臣達は不安な毎日を送るようになった。
 李壽はもともと国の重鎮で、威名があった。それで、李期も李越も彼を忌避した。だから、李壽は殺されることを懼れ、入朝の時期が来る度に、敵襲を言い立てて、緊急事態と偽って、成都へ赴かなかった。
 さて、ここに襲壮とゆう男が居た。彼の父も叔父も李特に殺されたので、何とか復讐しようと志し、長年喪を除かなかった男である。李壽は、屡々彼を招聘したが、 襲壮は応じなかった。ただ、自ら李壽のもとへ出向いては行った。すると、李壽は自分の身の処し方を密かに尋ねた。そこで、襲壮は答えた。
「巴、蜀の民は皆、本を正せば晋の臣民。もしも節下(持節や假節として地方を鎮守している者への敬称)が、西進して成都を占領し、晋へ対して藩国と称すれば、誰が節下と争えましょうか!そうすれば、傍流の子孫にも関わらず、不朽の名声を得られます。単に今の窮地を逃れられるだけではありませんぞ!」
 李壽は頷いた。
 以来、李壽は、長史の羅恒、解思明と共に成都攻略の謀略を練った。
 その風聞を聞きつけた李期は、許倍を李壽のもとへ屡々派遣し、その動静を伺わせた。又、李壽の養弟の安北将軍李悠を毒殺した。
 これに対し李壽は、妹婿の任調からの手紙と偽って、偽造した書類を部下へ公示した。
「朝廷は、某月某日に、倍を攻撃し、これを奪取するつもりです。」と。
 将兵はこれを信じ込み、万余人が決起して成都を言い立てた。彼等へ対して李壽は、城中の財宝の略奪を許可した。そして、将軍の李奕を先鋒にし、一気に進軍した。
 虚を衝かれた李期は、満足な警備もしていなかった。李壽の世子の李勢が城門を開いて彼等を城内へ導いた。こうして李壽は成都を占領した。
 李期が侍中を使者として派遣すると、李壽は上奏した。
「建寧王李越、景騫、姚華、田褒、許倍及び征西将軍李遐、将軍李西こそ諸悪の根元。政治を乱しているのはこいつらです。即刻逮捕して処刑しましょう。」
 李壽の将兵は大いに略奪を働き、その混乱は数日間続いた。
 更に李壽は、任皇太后の令をでっちあげ、李期を廃立して県公とし、別宮に幽閉した。又、戻太子を哀皇帝と追諡する。
 羅恒、解思明そして李奕は、鎮西将軍・益州牧・成都王と称して晋の藩国となり、李期を建康へ送るよう、李壽へ勧めた。だが、任調及び司馬の蔡興、侍中の李豊等は、皇帝となるよう李壽へ勧めた。
 李壽がこれを占わせたところ、占者は言った。
「数年間の天子に過ぎません。」
 だが、李壽は大いに喜んだ。
「例え一日でも天子になりたい。ましてや数年もか!」
 すると、解思明は言った。
「数年の天子と百世の諸侯では、どちらを選ばれます?」
「『朝に道を聞けば、夕べに死んでもかまわない。』と言うではないか。」
 こうして、李壽は即位して皇帝となった。国号を「漢」と改め、大赦を下し、漢興と改元する。(俗に「成漢」と呼ばれている。)宗廟を建て直し、父の李驤を献皇帝と追尊した。母親や妃や世子を、それぞれ皇太后、皇后、皇太子とした。
 襲壮には、多くの褒美を賜り、太師に任命したが、襲壮は不仕の誓いを立てており、褒美も一つとして受け取らなかった。
 相国は菫皎。羅恒を尚書令、解思明を廣漢太守、任調を鎮北将軍・梁州刺史、奕を西夷校尉、従子の李権を寧州刺史とする。そして、公、卿や州郡の長官は全て降格し、彼等の僚佐を抜擢した。成氏の旧臣、近親及び六郡の士人は、全て左遷したのである。
 李期は嘆いて言った。
「一国の天子から、ちっぽけな県公。死んだ方がましだ!」
 五月、李期は縊死した。李壽は、彼に幽公と諡し、王の礼で埋葬した。

 六月、奕の従兄の廣漢太守李乾が告発した。
「大臣が廃立を企てております。」
 七月、李壽は、息子の李廣に大臣達と盟約を結ばせ、李乾を漢嘉太守へ移した。

 八月、蜀に長雨が続き、百姓は飢餓と疫病に苦しんだ。そこで、李壽は政治の得失を腹蔵無く上奏させた。すると、襲壮が封書で言った。
「陛下が起兵なさった時、晋の藩国になるとの誓いを立てられ、星辰を指さして天地へ昭告し、血を啜って衆人にも盟約しました。だから、天が感応し、人々も悦服し、大功を建てることができたのです。ですが、その舌の根も乾かぬうちに、天子を称されました。今日、長雨が百日も続き、疫病が大流行しておりますのは、天が陛下を改悟させようとしているのです。私の愚見ですが、前の制約を遵守して、建康へ使いを立てるべきでございます。皇帝から王へ、爵位は一等降りますが、子孫へ無窮に伝えられます。福祚を長く保てるのですから、又素晴らしいではありませんか!
 ある人は言います。『二州を保持したまま晋へ帰順するのは栄誉かも知れないが、六郡の人事はどうなるのか?』
 ですが、考えて下さい。昔、蜀を支配した公孫述は羅出身の者を寵用し、同じく劉備は楚出身者を寵用しました。しかしながら、この二カ国が亡んだ時、彼等は皆屠滅してしまいました。論者達は安固の基を知らず、ただ名位を惜しんでいるに過ぎません。ですから、劉氏が同郷の者を寵用したことを言い立てて居るのです。ですが、彼は既に失敗したのです。今日、どうしてそれと同じ失敗をして良いものでしょうか!
 又、ある人は、私を法正(劉備の臣下。劉備に蜀を取るよう勧めた。)に例えております。しかし、私は陛下の大恩を蒙り、勝手気ままに暮らさせて貰って居るだけ。栄華や俸禄に関しましては、漢だろうが晋だろうが、私はその下へ就きません。何で法正と同列でしょうか!」
 これを読んで李壽は、心中恥じるところが多かったので、この書状を深くしまい込み、誰にも見せなかった。

 九月、僕射の任顔が造反したが、誅殺された。任顔は任太后の弟である。
 李壽は、これにかこつけて、李雄の諸子を悉く誅殺した。

 五年、九月。李壽は病に伏せった。
 羅恒と解思明は再び晋への帰順を言い立てたが、李壽はやはり聞かなかった。李演も又、上書したが、李壽は怒って李演を殺した。
 李壽は、常に漢の武帝や魏の明帝の為人を慕っており、自分の父や兄の業績を恥じていた。だから、上書する者は、先代の政治について口にすることができなかった。李壽は、父や兄を凌いだと、自分自身を評価していた。
 父母の勤労を嘲るのは、小人の通弊である。そこで、舎人の杜襲が、詩を作って諷諫したが、李壽は言った。
「言いたいことは判ったが、ありふれた言葉だ。」

 七年、十二月。太子の李勢を大将軍・禄尚書事とした。
 李壽は、即位した当初、倹約を美徳として蜀の人心を掴むことに専念していた。ところが、趙へ派遣した使者館が、漢へ帰って来てから、業の盛大さを褒めそやかし、石虎が厳罰で臣下に臨み、境内が良く治まっていることを伝えた。李壽はこれを慕い、大勢の民を労役に充て、宮室や器玩を豪奢に作るようになった。又、臣下に小さい過失があってもすぐに誅殺して、主君の威厳を立てた。左僕射の蔡興や右僕射の李嶷は、直諫をしたので誅殺された。そして、民は労役に疲弊した。うめき声は路に溢れ、造反を思う者が増加した。

 康帝の建元元年(343年)、八月。李壽が卒した。諡は昭文。廟号は中宗。太子の李勢が即位し、大赦を下した。
 二年、太和と改元する。母の閻氏を皇太后に、妻の李氏を皇后に立てる。

 四月、太史令の韓皓が上言した。
「火星の位置が乱れています。これは宗廟が修まっていない証です。」
 そこで、李勢は群臣に協議させた。すると、相国の菫皎と侍中の王古が言った。
「景(李特)、武(李雄)が国を興し、献(李驤)、文(李壽)がこれを継承しました。ですが、文帝陛下が宗廟を立て直してから、景、文は祀られておりません。これらを疎遠にしてはなりません。」
 そこで、成の始祖、太宗として祀られていた李特と李雄を、漢の始祖、太宗として改祀した。

 穆帝の永和元年(345年)、八月。李勢には子がなかったので、弟の大将軍李廣が皇太弟の地位を求めたが、李勢は許さなかった。
 馬當と解思明が諫めて言った。
「陛下には兄弟が少ないのです。この上疎遠になさいますと、益々危うくなります。」
 そして、皇太弟の件の裁可を固く乞うた。
 しかし李勢は、彼等が李廣と内通していると疑い、馬當と解思明を捕らえて処刑し、その三族まで誅殺した。又、太保の李奕を倍へ派遣して、李廣と交代させ、李廣を臨工侯へ格下げとした。李廣は自殺した。
 捕らえられた時、解思明は嘆いて言った。
「この国が滅びなかったのは、我等数人が居ったればこそ。今、それを自ら亡くされますか。」
 言い終えると、笑い、自若として死んでいった。
 馬當にはもともと人望があったし、解思明は知略があり諫争もした。だから、彼等が死ぬ時には、士民は皆哀しんだのである。
(弟の分際で、後継を自ら求めてはいけない。だから、馬當や解思明に国計があったなら、穏やかに話して、李廣に悔悟させるべきだった。それが後継を固く乞うなど、何たることか!殺されてしまったのも無理はない。
 訳者曰く、李勢の暴虐を記載したのだろうか?だが、解説に言うように、この件では李勢に同意できる。しかし、補弼の臣下を誅殺したのが、自らの足を食べる所業だったことに変わりはない。むしろ、馬當と解思明の過ちを惜しむのである。)

 二年、冬。太保の李奕が晋壽にて造反した。大勢の蜀民がこれに従い、その勢力は数万に及んだ。李勢は自ら城壁に登って拒戦した。
 李奕が単騎で城門を突破したが、門兵達が一斉に射撃して、これを射殺した。
 首謀者が死ぬと、造反軍は壊滅した。李勢は境内に大赦を下し、嘉寧と改元する。

 李勢は、驕奢淫乱で国事を顧みず、後宮に入り浸っていた。公卿とは滅多に接せず、旧臣を疎忌し側近ばかりを信任したので、讒言は氾濫し刑罰が苛酷に行われた。そうゆう訳で、中外の心は離れて行った。
 もともと、蜀に夷族はいなかったが、この頃から、山中に姿を現すようになった。巴西から梓潼、建為の一帯に、十余世帯が住み着いたが、これを撃退することができず、民は彼等の害に苦しんだ。それに加え、四境内に深刻な飢饉が起こっていた。

 東晋の安西将軍桓温は、漢を討伐しようと思ったが、将佐は皆、これに反対した。しかし、江夏の相の袁喬のみは、これを勧めた。
「そもそも経略の大事とゆうものは、常人の思い及ばざるものです。しかし、智者はこれを胸の中に深くしまっておりますので、どうして大勢の凡人達の同意を必要としましょうか。今、天下の患いは、胡と蜀の二寇のみ。蜀は確かに険阻な地形ですが、その兵力は胡より弱い。どちらかを先に滅ぼすなら、まず弱い方から。
 李勢は無道な主君。臣民から愛想をつかされております。しかも、険阻な地形を恃みとなし、ろくに軍備も整えておりません。一万の精鋭で疾風のように駆けつけ、敵が覚る前に険要を越えて平地へ出るのです。そうすれば、一戦にて敵を虜にできます。
 蜀は豊かな土地で、民も多い。諸葛孔明は、この一地方だけで、天下相手に戦いました。もしもこれを占領すれば、国家にとって大きな利益。
 人々は、大軍を動かした時、その隙を胡に付け入られることを恐れております。しかし、これは正しいように思えますが、とんでもない間違い。我等の遠征を聞いても、胡はそれだけの防備を残していると疑って、決して攻めてこないでしょう。それに、例え攻撃されたとて、長江を防衛戦として戦えば、防ぎきることができます。後顧に憂いはございません。」
 そこで、桓温の意志は固まった。なお、袁喬は、袁懐の息子である。
 十一月、桓温は益州刺史周撫と南郡太守司馬無忌を率いて、漢討伐を敢行した。袁喬には二千の兵を与えて、先鋒とする。
 蜀への路は険阻。しかも、桓温は少数で敵領深く入り込む。だから、晋の朝臣達は、皆この遠征を心配した。だが、劉淡だけは桓温の必勝を疑わなかった。
 ある人が其の理由を尋ねると、劉淡は答えた。
「桓温が博打を打っているのを見ると、よく判る。彼は、必ず勝てると踏まなければ、絶対に博打をしない。ただ、蜀を滅ぼした後、彼が我が朝廷を専断するのではないか?私が恐れるのはそれだけだ。」

 三年、二月。桓温は青衣まで進軍した。これに対して、李勢は大軍を動員した。叔父の右衛将軍李福、従兄の鎮南将軍李権、前将軍咎堅等がこれを率い、山陽から合水へ赴いた。
 漢の諸将は江南に伏兵を設けようと進言したが、咎堅は従わず、兵を率いて北上し、鴛鴦奇から長江を渡って建為へ向かった。
 三月、桓温は彭模へ到着した。ここで軍議を開いたところ、多くの将軍は二軍に分かれて進軍したがった。漢勢を二分する為だ。だが、袁喬は言った。
「今、我が軍は敵領深く攻め込んでいる。勝てば大殊勲だが、敗れれば逃げ道がない。ここは全軍が一丸となって進み、大会戦の勝利を得るべきである。もし、二軍に分かれれば、兵卒の心も二つに分かれる。それで一軍でも敗れれば、取り返しがつかない。ここは、一軍で進むべきだ。釜や鍋は棄て、各員三日分の食料のみを携帯し、逃げ場がないことを示せば、必ず勝てる!」
 桓温はこれに従った。参軍の孫盛と周楚へ病兵や負傷兵を与えてここへ留め、輜重を守らせると、桓温は自ら全軍を率いて成都へ進撃した。周楚は、周撫の息子である。
 李福は進軍して彭模を攻撃したが、孫盛はこれを撃退した。
 桓温は進軍し、李権軍と遭遇したが、三戦三勝。漢軍は散り散りになって成都へ逃げ戻った。鎮軍将軍の李位都は、桓温の元へ詣でて降伏を申し入れた。
 建為まで進軍した咎堅は、桓温が別道を通ったことを知り、引き返すと、沙頭津から長江を渡った。しかし、その時には桓温の軍は成都へ逼迫しており、それを知った咎堅軍は自から潰れてしまった。
 成都にて、李勢は全軍を率いて逆襲した。桓温の先鋒は押され、参軍の襲護が戦死し、矢は桓温の乗馬にも突き刺さった。東晋の兵卒は恐れて退却したがったが、この時、鼓吏が誤って進軍の太鼓を打ち鳴らしてしまった。袁喬は、良き幸いとばかりに剣を抜いて兵卒達を叱咤し、遂に敵を大破した。
 桓温は勝ちに乗じて成都まで進み、城門を焼き払った。漢人は恐れ、戦意など無くしてしまった。
 その夜、李勢は、夜に紛れて東門から逃げ出し、桓温のもとへは使者を派遣して、降伏の文書を送った。
「李勢は叩頭して罪を詫びます。」
 やがて、彼は自ら後ろ手に縛って桓温の軍門へ詣でた。桓温は、この戒めを解き、李勢及びその一族十余人を建康へ送った。
 建康を占領すると、桓温は、漢の司空の焦献之等を参佐として賢人・善人を登庸した為、蜀の人間は悦んだ。
 漢のもとの尚書僕射王誓、鎮東将軍登定、平南将軍王潤、将軍固隗文らは、東晋へ対してレジスタンスを敢行した。各々、その兵力は万余人。
 桓温は、自ら登定を攻撃し、袁喬には隗文を攻撃させ、いずれも撃破した。周撫には彭模を鎮守させ、王誓、王潤を斬るよう命じた。
 桓温は、成都に三十日間留まり、江陵へ帰った。李勢は、建康にて帰義侯に封じられた。

 四月、登定、隗文等は空になった成都を奪取し、これに據った。征虜将軍の楊謙は倍城を棄てて徳陽まで退却した。
 六月、登定、隗文等は、もとの国師范長生の息子の范賁を立てて主君とした。妖術を使って民を惑わしたので、蜀の住民は、彼のもとへ大勢帰順した。
 五年、四月。周撫と龍驤将軍の朱Zが范賁を攻撃し、これを斬った。こうして、益州は平定された。