桓温、燕を討つ。

 

 後趙が滅亡すると、後趙の将軍の高昌は、前燕へ降伏の使者を出したが、その後、東晋へ降り、又、前秦へも降伏した。そして、それぞれから爵位を受け、中立して自分の領土を守ろうとした。
 穆帝の升平二年(358年)、九月。燕帝慕容儁は、司空の陽鶩に高昌討伐を命じた。陽鶩は、まず黎陽を攻撃したが、抜けなかった。だが、燕の攻撃は続く。
 三年、七月。遂に高昌は支えきれず、白馬から栄陽へ逃げた。

 五年、二月。高昌が死んだ。前燕の河内太守呂護がその領民を率い、東晋へ降伏を求めた。東晋は、彼を冀州刺史に任命した。呂護は、東晋の軍隊を引き入れて業を襲撃しようと考えた。
 三月、前燕は太宰の慕容恪に五万、皇甫真へ一万の兵を与え、呂護を攻撃した。呂護は籠城した。
 前燕の護軍将軍傅顔は、軍費節減の為、速攻を提言したが、慕容恪は言った。
「老獪な相手だ。どんな奇策を使うか判らん。あの防備では容易に落とせそうもないし、力攻めは被害が大きい。徒に多くの精鋭を殺すことになる。敵には兵糧の蓄えが無く、救援の見込みもないのだから、我々はしっかりと防備を固め、兵卒に休養を取らせつつ、反間工作を進めよう。我々は疲れず、賊徒は日々勢いを無くす。三カ月も経たぬうちに陥せる。なんで多くの兵卒を殺せようか。」
 包囲を始めて数カ月経ち、呂護は部将の張興を出撃させたが、傅顔が撃退した。城内の志気は益々挫けた。
 皇甫真が部将を戒めた。
「勢い窮まった呂護は、必ず弱い所を目がけて強行突破に出てくる。我が部署は、老弱の兵が多く、武器も貧弱だ。警戒を厳重にせよ。」
 そして、多くの櫓を組ませ、自ら毎晩見回った。
 食糧が尽きた呂護は、果たして皇甫真の部署へ夜襲を掛けたが、突破できなかった。慕容恪はこれを攻撃し、呂護の軍は大打撃を受けた。呂護は、妻子を棄てて栄陽へ逃げた。
 慕容恪は降伏した者へ食糧を供給した。呂護の兵卒は業へ連行したが、それ以外は好きなところへ行かせた。呂護の参軍の梁深を中書著作郎に抜擢する。
 十月、呂護は東晋へ背いて前燕へ逃げ戻った。前燕は彼を赦し、廣州刺史とした。

 哀帝の隆和元年(362年)、正月。前燕の豫州刺史孫興が、洛陽攻撃を請願した。
「晋将の陳佑が率いるのは弱兵千余人に過ぎませんし、孤立しております。これを陥すなど、造作ありません!」
 そこで、前燕は呂護を河陰へ派遣し、洛陽を攻撃させた。
 三月、洛陽を守っていた戴施は宛へ逃げ込み、陳佑へ急を告げた。
 五月、桓温はゆ希と登遐に三千の水軍を与えて洛陽救援に向かわせた。
 又、桓温は上疎した。
「洛陽を守る為、ここへ遷都しましょう。住民は、永嘉の乱以後に江南へ流入した民を全て北へ移住させればよろしい。そうすれば、河南を満たすに充分です。」
 朝廷は桓温を恐れ、敢えて異を唱えない。人情は騒然とした。これが実施できないことは誰もが知っていたが、火中の栗を拾う人間が居なかったのだ。
 そんな中で、散騎常侍領著作郎の孫綽が上疎した。
「昔、中宗(元帝)が中興をなさいましたが、これは天と人に助けられただけではありません。あの長江を、険阻な砦として活用したのです。今、喪乱から六十余年。河や洛は廃墟となってしまいました。士民が江表へ流れてきてから、既に数世代。生き延びた者も既に年老いておりますし、彼等と共に生きてきた人間の大半は、屍となってこちらで埋葬されております。北風が吹く度に望郷の念に駆られはしても、どうしてここも見捨てられましょうか。それに遷都なさるとしたら、中興の五陵(元帝から穆帝まで。東晋は哀帝で六代を数えていた)をどうなさいます?現状の本朝は、泰山のように安泰ですが、遷都したらその平安を保つことも困難です。
 桓温の今回の発案は、確かに将来を見据え、国の為の長久の策かも知れません。しかし、百姓は恐々とし、皆が危惧しております。彼等を安楽な生活から死にも等しい苦しみへ追いやることが、どうしてできましょうか!
 その苦しみとは何でしょう?
 江外に国を築いてから、既に数十年。ようやく生活が安定したのに、彼等を突然荒涼たる大地へ強制連行する。険しい地形を万里も踏破させ、墳墓を離れ、生業を棄てさせることです。田畑や住居も新たに造らなければなりません。舟や車も入手しなければなりません。それにしても、その途上で大勢の人間が倒れ伏し、見捨てられるのです。果たしてどれだけの人間がかの地へたどり着けるでしょうか。
 このようなこと、仁者ならば必ず哀矜いたします。国家が深く考慮するべき問題です!
 臣の愚見を申しますならば、威名があり能力のある将帥を派遣して、まず洛陽を占拠するべきです。そうして次に梁・許を掃平し、河南を清一いたしましょう。その上で交通の便を整え、土地を開拓し、食糧を十分に備蓄し、犲狠のような夷狄を追い払い、中夏の威勢を復興させることが出来たならば、その時始めて遷都を考えるべきなのです。
 百勝の土地を棄て、天下を挙げて大ばくちを打つなど、どうしてできましょうか!」
 孫綽は、孫楚の孫である。幼い頃から高尚を慕う心があり、かつて「遂初賦」を著して志を詠ったことがある。
 桓温は孫綽の上表文を見て、気分を害した。
 朝廷でも、この件は憂慮し、侍中を派遣して桓温を止めようとした。すると、揚州刺史の王述が言った。
「桓温は、朝廷を脅しつけて自分の権威を高めようとしているのです。実行する気などありません。下手に出たらつけあがらせるだけです。」
 そこで、朝廷は詔を下した。
「昔日の喪乱から、はや五十年が過ぎた。戎狄は謀略を恣にし、凶跡を継襲している。我等は西を向く度に、慷慨の念に絶えないのだ。三軍を率いて穢気を一掃し、中畿を清めて旧京を光復したくはあるが、異境にて本朝に殉じる人間でなければ、どうしてこれができようか!よって、この件は全て卿の高算へ委ねる。ただ、河・洛は既に廃墟と化している。卿は、営を築き広く屯田し、国の礎を固める為に一方ならぬ辛苦を舐めることとなるだろう。」
 果たして、桓温は実行しなかった。

 七月、呂護は小平津まで撤退した所で、流れ矢に当たって卒した。燕将の段崇は、兵を纏めて撤退した。彼等は黄河を渡り、野王に陣を布いた。
 登遐は新城まで進軍した。
 八月、西中郎将の袁眞が、汝南へ進軍し、洛陽へ五万石の兵糧を送った。
 十二月、ゆ希が下丕から山陽へ撤退し、袁眞も寿陽まで退いた。

 興寧元年(363年)四月。燕の寧東将軍慕容忠が栄陽太守の劉遠を攻撃し、劉遠は魯陽へ逃げた。
 五月、燕は密城を抜き、劉遠は江陵まで逃げた。

 同月、桓温の官職に、侍中・大司馬・都督中外諸軍事・録尚書事・假黄鉞を加えた。桓温は、撫軍司馬の王坦之を長史に抜擢する。坦之は、王述の息子である。
 又、袁眞を都督へい・司・冀三州諸軍事に、ゆ希を都督青州諸軍事に任命した。

 十月、燕の鎮南将軍慕容塵が、陳留太守袁皮を攻撃した。その虚を衝いて、汝南太守朱斌が許昌を襲撃し、これに勝つ。
 二年、二月。燕の太傅慕容評と龍驤将軍李洪が、河南を荒らし回った。
 四月、李洪は許昌、汝南を攻撃し、晋軍を破った。穎川太守李福が戦死。朱斌は寿春へ逃げ、陳郡太守朱輔は彭城まで退却する。
 大司馬の桓温は、袁眞を派遣して防御させ、自身は水軍を率いて合肥まで出張った。
 燕軍は遂に許昌・汝南・陳郡を抜き、万余戸を幽・冀二州へ強制連行した。又、慕容塵に許昌を守らせた。

 八月、燕の太宰慕容恪が洛陽を攻略しようとして、まず、人を派遣し、士民を招納した。すると、遠近の砦が次々と帰順した。そこで、慕容恪は、司馬の悦希を盟津へ陣取らせ、豫州刺史の孫興を成皋へ陣取らせた。

 話は遡るが、沈充(王敦の懐刀)には、沈勁とゆう息子が居た。沈充が造反して誅殺されたので、沈勁は、何とか手柄を建てて父の汚名を晴らしたいと思っていた。しかし、大逆人の息子なので、三十を過ぎても出仕できなかった。
 呉興太守の王胡之が司州刺史となった時、沈勁が有能であると上奏し、彼の禁錮を解いて麾下に加えることを請願した。朝廷はこれを許した。だが、王胡之が病に伏した、結局出仕できなかった。
 今回、燕軍が洛陽へ迫ったが、洛陽を守る冠軍将軍陳佑のもとには、僅か三千の兵力しかなかった。ここに及んで沈勁は、陳佑の麾下に入ることを自ら求めた。詔が降り、沈勁は冠軍長史に任命され、自身で壮士を募るよう命じられた。沈勁は千余人の壮士を得、洛陽へ駆けつけた。 沈勁は、屡々少数で燕の大軍を撃破した。
 やがて、洛陽は孤立したまま兵糧が底を尽き始めた。守りきれないと見切りをつけた陳佑は、「許昌へ救援を求めに行く、」と言い訳して、大軍を率いて東へ向かった。後には、沈勁がたった五百人の部下と共に洛陽に留められてしまった。
 沈勁は大いに喜んだ。
「吾は、死に場所を探していたのだ。ようやく見つけたぞ!」
 陳佑は、途中で許昌陥落を聞き、遂に新城へ逃げた。

 燕の悦希は、兵を引いて河南の諸城を攻略し、ここれを悉く占領した。

 三年、正月。陳佑が洛陽を棄てたと聞き、司徒のcが桓温と合流して共に燕を征伐しようと協議した。しかし、二月、哀帝が崩御し、沙汰止みとなった。
 哀帝には世継ぎが居なかったので、皇太后は、「琅邪王奕へ大統を承襲させる」と詔を下した。百官は琅邪王を迎え、帝位へ即けた。大赦が降る。

 慕容恪は、呉王の慕容垂と共に洛陽攻撃を続けていた。
 慕容恪は諸将へ言った。
「卿等は常に、吾が攻撃をしないと不平を言っていた。今、洛陽城は力窮まり、容易に勝てる。ここで畏懦して怠惰に流れてはならぬ!」
 遂に、総攻撃を掛けた。
 三月、遂に洛陽は陥落した。揚武将軍の沈勁を捕らえる。沈勁は自若として少しも畏れなかったので、慕容恪は気に入り、彼を釈放しようとした。すると、中軍将軍の慕輿虔が言った。
「沈勁は確かに奇士です。しかし、あの態度を見るに、二君に仕える人間ではありません。今、もし彼を釈放したら、必ず後の患いとなります。」
 そこで、遂にこれを殺した。
 慕容恪は余勢を駆って西進したので、前秦は大いに震駭した。苻堅は自ら陜城へ出向き、これに備えた。
 燕は、左中郎将の慕容筑を洛州刺史とし、金庸を鎮守させた。慕容垂を都督十州諸軍事、征南大将軍、荊州牧に任命し、一万の兵を与えて魯陽を鎮守させた。
 慕容恪は業へ帰ると、僚属へ言った。
「前回、我が廣固を平定した時、壁閭尉を帰順させる事が出来なかった。そして今回、洛陽を奪ったが、沈勁を殺してしまった。これらは皆、我が本意ではないが、元帥たる我の不徳の致すところだ。実に、天下へ対して恥ずかしい。」
 東晋朝廷は、沈勁の忠誠を嘉し、東陽太守を追贈した。

 司馬光、曰く。
 沈勁は能子と言うべきだ!父の悪行を恥じ、命を懸けてその汚名を雪いだ。凶逆の一族が、忠義の一門へ変わったのである。
 易の蠱に言う、
「父の蠱(悪行)を晴らす。これを以て誉れあり。」
 また、書経の蔡仲之命に言う、
「汝、こいねがわくば、前人の過失を補い、忠であれ、孝であれ。」
 沈勁はこれの手本か!

 海西公の太和元年(366年)、十月。燕の撫軍将軍慕容獅ェ、こん州へ来寇し、魯・高平数郡を抜き、守宰を置いて還った。

 十二月、南陽督護の趙億が、宛城ごと燕へ降伏した。太守の桓澹は新野へ逃げ、抗戦した。燕は、南中郎将の趙盤を宛へ派遣した。
 二年、六月。荊州刺史の桓豁が、羅崇と共に宛を攻撃し、これを抜いた。趙億は逃げ、趙盤は魯陽まで退却した。桓豁は、趙盤を追撃し、雉城にてこれを捕らえた。守備兵を宛へ残して還る。

 四年、三月。桓温が、希惜、桓沖、袁眞と共に燕を討伐することを請願した。(慕容恪の死に乗じたのである。)
 桓温は常に言っていた。
「京口の酒は美味い。そして、京口の兵卒は強い。」と。
 この京口を治めていたのは、徐・こん二州刺史の希惜である。桓温は、既に京口に目を付けていただけに、希惜がここを治めていることが気に入らなかった。
 しかし、希惜はそんなことに気がつかず、桓温へ書状を書き、従軍を願い出た。王室の為に、船団を河上へ出陣させると言うのだ。
 この時、希惜の息子の希超は、桓温の参軍だった。彼は父親の書状を読むと、ズタズタに引き裂き、改竄して桓温へ渡した。
「私は老齢ですので、従軍できません。我が兵は、大司馬の麾下へ参入させて下さい。」
 その書状を読んで、桓温は大いに喜んだ。そして、即座に希惜を會稽内史に転任させ、自ら徐・こん二州刺史を兼任した。

 四月、桓温は歩騎五万を率いて姑から出陣した。
 希超が言った。
「道は遠く、卞(水/卞)水は浅い。船で行くのは困難です。」
 しかし、桓温は聞かなかった。
 六月、桓温が金郷へ着くと、日照り続きで川の水が枯れていた。そこで、三百里に亘って運河を掘り、分(水/分)水の水を清水へ引き込んだ。
 桓温は、水軍を率いて清水から黄河へ入りった。舳艫は数百里連なる。
 希超は言った。
「清水から黄河へ入るのでは、補給路を断たれ易くなります。もしも敵が戦わず、糧道を断つ戦法に出れば、我々は危機に陥ります。このまま業を直撃しましょう。敵は公の威名を畏れています。必ずや風を望んで逃潰し、北方の遼へ逃げ帰るでしょう。万一、敵が戦いを挑んで来たら、即座に決戦するだけです。もし、業に城を築いて持久戦に出ようとしても、今は夏の盛りですから、百姓を総動員してもなかなか難しいでしょう。
 ただ、明公が速戦を渋られ慎重策を取られるのでしたら、河・済に屯兵しましょう。川の水を引き込み、資材兵糧を十分に備蓄し、来夏を待って進軍します。
 もし、この二策を採らずに北上を続けますならば、抜き差しならなくなってしまいます。敵方が持久戦に出て、秋冬に及べば、川の水も凝滞しますし、我が兵は寒さにもやられます。ただに兵糧を食いつぶすだけでは済まなくなってしまいますぞ。」
 桓温は、これも却下した。

 桓温は、建威将軍の檀玄に湖陸を攻撃させ、これを抜いた。燕の寧東将軍慕容忠を捕らえる。慕容偉は、慕容獅征討大将軍に任命し、二万の兵を与えて迎撃させたが、大敗し、慕容獅ヘ体一つで逃げ帰った。
 燕の高平太守徐翻が、郡を挙げて降伏した。
 前鋒の登遐と朱序が、燕将の傅顔を撃破した。
 慕容偉は、今度は安楽王の慕容藏を派遣したが、彼も桓温の軍を防ぎきれなかった。そこで、慕容藏は散騎常時の李鳳を秦へ派遣して、救援を求めた。
 七月。桓温は武陽へ屯営した。燕のもとのこん州刺史孫元が、一族郎党を率いて、桓温に呼応した。桓温は、方頭まで進軍する。
 此処にいたって、慕容偉と太傅の慕容評は大いに懼れ、和龍まで逃げようと相談した。すると、慕容垂が言った。
「臣が迎撃いたします。もしも勝てなければ、それから逃げても遅くありません。」
 そこで、慕容偉は、慕容垂を慕容藏と交代させ、征南将軍の慕容徳を副官として、五万の兵を与えて桓温を防がせた。この時慕容垂の要請により、司徒左長史の申胤、黄門侍郎の封孚、尚書郎の悉羅騰等が従軍した。
 又、慕容偉は散騎侍郎の楽崇を秦へ派遣して、虎牢以西を割譲するとゆう条件で、救援を頼んだ。秦王苻堅が群臣を集めて協議したところ、皆、答えた。
「昔、桓温が我等を攻撃し、覇上まで進撃した時、燕は救援しませんでした。(永和十年。=354年)今、桓温が燕を討つ。救援など出しますな。それに、燕は我等の属国ではありません。なんで助けなければならぬのですか!」
 しかし、王猛が密かに苻堅へ言った。
「燕は強大ではありますが、慕容偉では、桓温の敵ではありません。もし、桓温が山東を制圧して洛邑まで進軍したらどうなりましょう?奴等は、幽・冀の軍を吸収し、へい・豫の粟を奪い、肴・蠅まで軍を派遣します。そうすると、我等の大事も成就できなくなってしまいますぞ。
 今は、とりあえず燕と共同で桓温を撃退しましょう。桓温の軍が退却すれば、燕は安堵し、その朝廷はますます腐敗します。その時を見計らって、燕を討伐、占領するのです。」
 苻堅はこれに従った。
 八月、秦は将軍苟池と洛州刺史登羌へ二万の兵を与えて、穎川へ派遣し、このことを燕へ告げた。

 さて、燕軍では、封孚が申胤へ尋ねた。
「桓温の部下は精鋭揃い。それが、川の流れに乗って進軍しているのに、なかなか上陸しないし、白兵戦も起こらない。どうなっているのか?」
 すると、申胤は答えた。
「今回の戦果を見ると、桓温は有能な将軍のように思えるが、私から見れば、奴等の遠征は失敗する。何故?
 今、晋皇室は衰退して、桓温が国を専制している。これに対して、晋の朝臣は全員が同心しているわけではない。だから、桓温の成功を望まない者も多いのだ。そいつ等が邪魔立てや手抜きをすれば、どうして勝てようか。
 それに、桓温は大軍に驕り、積極的に攻めることを疎んじている。今、我等の隙を見つけて敵陣深く攻め込むべきなのに、黄河の中流辺りでフラフラしている。彼は、持久戦に出て、恐れた敵の降伏や寝返りを待つつもりだろうが、もしも補給線を断たれたら、戦わずに敗れるのは彼の方だ。」
 桓温は、燕から降伏した段思を卿導(道案内)にしていたが、悉羅騰が桓温と戦い、段思を生け捕りにした。又、桓温は、元の趙将の李述に魏・趙方面で暴れ回らせていたが、悉羅騰は、虎賁中郎将の染干津にこれを撃破させた。それで、桓温軍の志気は消沈してしまった。

 話は遡るが、桓温は、豫州刺史の袁眞に焦・梁を攻撃させていた。石門を開かせ、水運を手に入れる為だ。ところが袁眞は、焦・梁にこそ勝ったものの、肝腎の石門を開けることができず、水運路は塞がったままだった。
 九月、慕容徳が、劉當と共に一万五千の兵力で石門に屯営した。そして、豫州刺史李圭が五千の兵力で桓温の糧道を断った。
 慕容徳は、慕容宙へ一千の兵を与えて先鋒とし、東晋軍と戦うよう命じた。すると、慕容宙は言った。
「晋の兵卒は軽薄。戦うのには二の足踏むくせに、追撃を掛けるときはやたらと勇敢。ですから、餌を与えて釣り出しましょう。」
 そこで、二百騎を出して戦いを挑み、残りを三方に伏せた。
 戦いを挑んだ二百騎は戦いもしないで逃げ出し、晋兵は調子に乗って追いかけた。そこへ燕の伏兵が奇襲し、晋軍は大打撃を受けた。

 戦いは屡々敗れ、兵糧は心許ない。そのような折り、秦の援軍の話まで聞き、桓温は撤退を決意した。舟を焼き、輜重を棄て、陸路から帰る。この時、毛虎生を東燕等四軍諸軍事・領東燕太守に任命した。
 桓温は、東燕から倉垣へ出、井戸を穿って水を得ながら七百里進んだ。燕の諸将は追撃を望んだが、慕容垂は言った。
「ならぬ。桓温は撤退を始めたばかりだから、追撃を恐れている。必ず警備を厳重にし、精鋭兵で殿を固めているに違いない。だから、暫くはゆっくりと行軍しよう。追撃が遅れていると知ったら、奴はきっと、夜を日に継いで逃げ出すだろう。そうして、奴の兵卒が疲れ切った頃、これを襲撃すれば、絶対に勝てる。」
 そして、八千騎を率い、東晋軍の後をゆっくりと進軍した。桓温は、果たして軍足を急かせて逃げ出した。
 数日後、慕容垂は言った。
「今こそ討つべきだ。」
 かくして、進軍を早め、襄邑で追いついた。
 慕容徳が、軽騎四千を率いて先行し、襄邑の東に兵を伏せていた。彼は慕容垂と共に東晋軍を挟撃し、これを破る。三万の首級を挙げた。
 秦の苟池も焦にて桓温軍を攻撃し、ここでも東晋軍は一万からの被害を受けた。孫元は、遂に武陽に逃げ、ここに立て籠もって燕軍を防いだが、燕の左衛将軍孟高がこれを攻撃し、孫元を捕らえた。
 十月。桓温は敗残兵をかき集めて山陽に屯営した。

 桓温は大敗を恥じ、罪を全部袁眞へ押しつけようと、彼を弾劾し、庶民へ落とすよう朝廷へ要請した。又、登遐を罷免した。
 袁眞は納得できず、これを誣告であるとして、桓温を弾劾したが、朝廷は何の返答もしなかった。とうとう、袁眞は寿春に據って造反し、燕へ降伏し、救援を求めた。又、秦へも使者を派遣した。
 慕容偉は、袁眞を使持節・都督淮南諸軍事・征南大将軍・揚州刺史に任命し、宣城公へ封じた。

 桓温は、毛虎生を領淮南太守とし、歴陽を守らせた。
 十一月、東晋の丞相cと桓温が、余中にて会見し、善後策を協議した。その結果、桓温の世子の桓煕が豫州刺史・假節となった。

 十二月、桓温が、徐・こんの州民を徴発して廣陵城を築き、ここへ移った。
 この時、度重なる戦争に疫病まで加わり、民衆の半数近くが死に、百姓に怨みが籠もった。秘書監の孫盛は「晋春秋」を著し、時事を率直に記した。これを読んで桓温は怒り、孫盛の息子へ言った。
「こんなものが世に出たら、お前の一族は皆殺しだぞ!」
 孫盛の息子は、恐惶陳謝し、必ず改稿させることを約束した。
 孫盛は老齢だったが、家中を厳格に治めていた。言動は筋道が通っており、こうと決めたらてこでも動かない。諸子が揃って号泣し、改稿を頼んだが、孫盛は激怒して、絶対に許可しなかった。そこで、子供達は仕方なく、これを勝手に改竄して広めた。
 だが、この時既に、写本が外国に伝わっていた。後、孝武帝が異本を求めた時、遼東の人間がその写本を献上した。孝武帝が手持ちの「晋春秋」と比べてみると、内容がかなり違う。そこで、孝武帝は両方とも保存し、後世へ伝えた。

 五年、二月。袁眞が卒した。陳郡太守の朱輔は、袁眞の息子の袁瑾を建威将軍・豫州刺史に立て、寿春を治めさせ、燕へ報告の使者を派遣した。燕朝廷は、袁瑾を揚州刺史に、朱輔を荊州刺史に任命した。
 燕と秦は、袁瑾を助けようと、共に援軍を派遣した。これに対して、桓温は督護の竺瑶を派遣した。まず燕軍が到着したが、竺瑶はこれと武丘にて戦い、撃破した。東晋の南頓太守桓石虔が、寿春の南城を陥れた。桓石虔は桓温の甥である。
 七月、桓温が二万の兵を率い、袁瑾討伐に出向いた。寿春にて袁瑾軍を破り、遂にこれを包囲する。燕は救援のため左衛将軍孟高を派遣した。だが、孟高がまだ淮河を渡らないうちに、秦軍が燕を攻撃したので、燕は孟高を召還した。
 簡文帝の咸安元年(371年)、正月。袁瑾と朱輔は、秦へ救援を求めた。苻堅は、袁瑾を揚州刺史に、朱輔を荊州刺史に任命し、王鑑と張毛に二万の兵を与えて救援に派遣した。
 桓石虔と淮南太守桓伊が、これを石橋で迎撃し、大いに破る。
 丁亥、桓温は寿春を抜き、袁瑾・朱輔を捕らえると、彼等の一族共々建康へ送り、斬罪に処した。