魏、夏を滅ぼす
 
夏の内乱 

 宋の文帝の元嘉元年(424年)。夏王は、皇太子の貴を廃嫡して、末子の酒泉公倫を立てようと思った。
 これを知った貴は、七万の兵を率いて倫を襲撃した。倫は三万騎でこれを防ぐ。両軍は高平にて戦い、倫は敗死した。すると、倫の兄の太原公昌が一万騎を率いて貴を襲撃してこれを殺し、その兵力八万五千を吸収して統萬へ還った。
 夏王は、これを聞いて大いに悦び、昌を太子とした。
 夏王勃勃は、大言壮語を好み、首都の四門を次のように名付けた。
 東は「招魏」、南は「朝宋」、西は「服涼」、北は「平朔」。
 二年、夏の武烈王が崩じた。廟号は世祖。太子の昌が即位した。大赦を下し、「承光」と改元する。 

  

魏の評定 

 三年、六月。魏帝が臣下達へ尋ねた。
「戦争するとして、赫連と柔然と、どちらを先にするべきかな?」
 長孫嵩、長孫翰、渓斤は言った。
「赫連は領土が広く、これを一度に滅ぼすことはできません。まずは柔然を討ちましょう。奴等を攻撃して、もしも戦えたならば、大いに撃破し、奴等がもしも逃げ切ったならば、陰山で狩りをします。そして禽獣の皮や角を得て、軍費に当てるとよろしいかと。」
 だが、崔浩は言った。
「柔然は遊牧民族ですから、鳥のように集まり獣のように逃げ散ります。ですから、大軍でこれを攻撃しても逃げられてしまいますし、軽騎で追いかけたのなら、返り討ちにあってしまいます。それに引き替え赫連氏は、その領土が広いとはいえ千里もありませんし、苛政と残酷な刑罰で人からも神からも見捨てられています。まず、こちらから攻撃するべきです。」
 尚書劉契と武京侯安原は、まず北燕を討伐するよう言った。
 結局、魏王は雲中から西巡して陰山で狩猟し、東は和兜山まで至り、八月、平城へ還った。
 九月、赫連勃勃が死んで、諸子が殺し合い(貴、倫、昌の戦闘)、夏の国人が不安がっていると聞きつけた魏帝は、夏を攻撃しようと思った。すると、長孫祟等は皆言った。
「もしも奴等が籠城すれば、それこそ、『逸を以て労を待つ』と言うもの。大檀がそれを聞きつければ、虚に乗じて我が国へ攻め込むでしょう。これは危道です。」
 だが、崔浩は言った。
「往年以来、火星が再び羽林・鉤己へ入りました。これで占って、後秦の滅亡を知ったのです。今年は、五星が東方から出ました。これは西伐が巧く行く証拠です。天と人が相応じたのですから、この機会を逃してはいけません。」
 長孫祟は、なおも固く諫めたので、魏帝は大いに怒り、長孫祟が官職を利用して汚職をしていると責め立て、武士に命じて彼を辱めさせた。
 ここに於いて、司空渓斤に四万五千の兵を与えて蒲阪を襲撃させ、宋兵将軍周幾に陜城を攻撃させた。
 魏帝は、中書博士の李順に前駆の兵を統べさせようと考えて崔浩に相談したが、崔浩は言った。
「李順は確かに奇策に富んでおります。しかし、臣は彼の姻戚だから判るのですが、その人格的には、寝返りを恥としないところがあり、信用できません。」
 そこで、魏帝は思いとどまった。 

  

魏、夏を討つ。 

 十月、魏帝は平城を出発した。
 魏帝が君子津に到着した時、厳しい寒波に見舞われた。戊寅、河が凍り付いたので、軽騎二万を率いて河を渡って統萬を襲撃した。
 冬至の日、夏の君臣が宴会をしようとしていた時、突然魏軍が襲撃してきたので、皆、驚き慌てた。
 魏軍は、黒水に陣を布いた。ここは、統萬城から三十里しか離れていない。夏王は討って出たが敗北し、城へ逃げ帰った。その城門が閉じられる前に、内三郎の豆代田率いる軍勢が、勝ちに乗じて西門から入り込み、その西門を焼き払った。宮門が閉まると、豆代田は宮垣を乗り越えて退却した。魏帝は、豆代田を勇武将軍とした。
 魏軍は、城北に宿営し、兵を散らして四方を略奪した。数万人の打撃を与え、家畜十余万を捕らえた。
 魏帝は諸将へ言った。
「統萬は一息には落とせない。後日、卿等と共に再び攻撃しよう。」
 そして、夏の住民萬余家を連行して還った。
 夏の弘農太守曹達は、周幾が来襲したと聞き、戦わずに逃げた。魏軍は勝ちに乗じて長躯し、三輔まで攻め入った。ただ、周幾は、陣中で卒した。
 渓斤が来襲したと聞いた蒲阪守将の乙斗は、統萬へ使者を派遣して急を告げた。だが、使者が到着した時、統萬は既に包囲されていたので、彼は還って乙斗へ告げた。
「統萬は既に敗北しました。」
 乙斗は恐れ、城を棄てて長安へ逃げた。こうして、渓斤は蒲阪を攻略した。
 夏王の弟の助興は、もともと長安を守っていたが、乙斗が逃げ込んでくると、二人して長安を棄て、安定まで逃げた。
 十二月、渓斤は長安へ入城した。すると、秦・ようのテイ・キョウは、皆、渓斤のもとへ降伏してきた。
 北涼王蒙遜とテイ王楊玄は、これを聞いて、魏へ使者を派遣し、内附した。  

  

魏、再び夏を討つ 

 四年、正月。魏帝は平城へ戻った。統萬から連行してきた民が、途中で大勢死んでしまい、無事に平城へ来れた人間は、僅か六・七割に過ぎなかった。
 己亥、魏帝は幽州へ御幸した。すると、夏王は、平原公定(夏王赫連昌の弟)に二万の兵を与えて長安へ派遣した。それを聞いて魏帝は、陰山の木を伐って多量の攻具を造り、再び夏討伐を謀った。
 二月、魏帝は平城へ戻った。そして長安鎮守の為に、高涼王礼を派遣した。礼は、拓跋斤の孫である。又、君子津へ橋を架けるよう、執金吾の桓貸に命じた。
 四月、魏の渓斤と夏の平原公定が、長安を挟んで睨み合った。
 魏帝は、この虚を衝いて統萬を陥そうと、大軍を編成した。司徒長孫翰が三万騎を率いて前駆となり、常山王素が歩兵三万を率いて後続となり、南陽王伏眞が三万の歩兵で攻具を輸送した。前鋒は将軍賀多羅、三千の精騎を率いていた。常山王素は、拓跋遵の息子である。
 五月、魏帝は平城を出発した。君子津から、河を渡る。この出兵に当たって、龍驤将軍陸俟を、大磧へ派遣し、柔然への備えとした。
 抜隣山まで来ると、魏帝は城を築き、輜重を棄てて軽騎三万を率いて道を急いだ。
 群臣は、言った。
「統萬は堅城です。一朝一夕には抜けません。今、軽騎で進んでは、もしも勝てなければ退却もできません。ここは歩兵と共に、攻具を持って行くべきです。」
 すると、魏帝は言った。
「城攻は、用兵の最下策だ。どうしてもやむを得なかった時だけ行うものである。今、歩兵と共に攻具を持って行けば、敵は懼れ、必ずや堅守してしまう。それで攻撃して、もしも抜けなければ、我々は兵糧が底を尽き兵卒は疲弊し略奪もできずに、進退窮まってしまうではないか。ここは、軽騎で城下まで駆けつけることだ。歩兵がいないのを見れば、敵はきっと油断し、警戒を緩める。我々は弱味を見せて敵を誘い出し、奴等がウマウマ出てくれば、必ず擒にできる。なぜなら、我軍は故国を二千里も離れ、しかも大河に阻まれている。いわゆる、『死地に置いた後にこそ、生きる』という奴だからだ。
 城攻めを行うなら全軍を挙げても足らないが、決戦するならこの軽騎だけで余りあるぞ。」
 そして、遂に行軍した。
 六月、魏帝は統萬へ到着すると、深い谷へ兵を分散して伏せ、少数を率いて城下までやって来た。すると、夏将の狄子玉が魏へ降伏してきて、言った。
「魏軍の来襲を聞いた夏王は、平原公のもとへ伝令を走らせましたが、平原公は言いました。『統萬は堅城です。容易には落とせません。我が渓斤を捕らえて還ってくるのを待っていて下さい。そうすれば、内と外から挟撃できます。』そうゆう訳で、夏王は守りを固めて籠城の構えを取っているのです。」
 魏帝はこれを憂慮し、退却して弱く見せると共に、娥清と永昌王健へ五千騎馬を与え、西にて住民を略奪させた。
魏軍で罪を犯して、夏へ亡命してきた兵卒達は、口々に言った。
「魏軍は兵糧が尽き、士卒は菜っぱを食べている始末。輜重隊はまだまだ後方に居り、歩兵も到着していません。今の機会に急襲するべきでございます。」
 夏王はこれに従い、歩騎三万を率いて城を出た。
 長孫翰等は、皆、言った。
「夏軍の歩兵は侮りがたい相手です。一旦兵を引きましょう。」
 だが、魏帝は言った。
「はるばる遠征して来たこの吾は、敵が出撃しないことだけが気がかりだった。今、敵が出撃したのに迎撃しなければ、奴等は図に乗り、我が兵は怖じ気ずく。下策だ。」
 そして、衆を収めると、偽って退却した。敵に追撃させて疲れさせる為である。
 夏軍は両翼に別れ、軍鼓を鳴らして追撃した。五・六里も進んだ時、東南から雨混じりの風が吹いてきた。それは砂を巻き上げ、辺り一面暗くなったほどである。
 さて、魏軍には趙倪とゆう方術に精通した宦官が居た。彼は言った。
「今、風雨は賊の方から吹いております。敵はこの風雨に背を向け、我等は真っ向から吹き付けられる。これは、天から見捨てられたのです。それに、将士も飢えております。陛下、今回はどこぞへ避難し、後日を期して下さい。」
 だが、崔浩は趙倪を叱りつけた。
「何を言うか!我等は必勝の形を造って、千里の道をやって来たのだ。たった一日の風雨でご破算にできるか!敵は、功を貪って先を争っている。既に後続は遅れ、その軍は分断して居るではないか。今こそ伏兵を出して敵の不意を衝くべきだ。敵をやり過ごしてから追撃すれば、風は追い風。風など如何様にも利用できる。常勢などない!」
 魏帝は言った。
「よろしい!」
 かくして、左右から敵軍を襲撃した。すると、魏帝の馬が躓いて魏帝は落馬し、捕らえられそうになった。だが、拓跋斉が身を以て庇い、必死の力戦をしたので、夏兵達は退却した。
 魏帝は馬へ飛び乗ると、夏の尚書斛黎文を刺殺し、更に騎兵十余人を殺した。流れ矢が当たったが、ものともしないで奮戦したので、夏軍は大いに潰れた。拓跋斉は、翳槐(什翼建の兄)の玄孫である。
 魏軍は勝ちに乗じて夏王を追撃して、城北まで進んだ。夏王の弟の河南公満および、甥の蒙遜を殺し、夏軍へ万余人の被害を与えた。夏王は、入城することができず、上圭まで逃げた。
 魏帝は服を着替え、逃げる夏兵に紛れて入城しようとした。拓跋斉が固く諫めたが、聞かない。魏帝が入城すると、夏の方ではそれに気がつき、城門を悉く閉鎖してしまった。魏帝は、拓跋斉と共に宮中へ逃げ込んだ。そこで婦人のスカートを見つけたので、それを長い矛に結び、これを使って城壁を乗り越え、どうにか窮地を脱した。
 日が暮れると、夏の尚書が夏王の母を連れて逃げ出し、長孫翰は八千騎を率いて夏王を追って高平まで行ったが、追いつけず、戻ってきた。
 翌日、魏帝は統萬城へ入城し、夏の公卿、将校や諸母、后妃、宮人等万余人を捕らえた。三十万頭の馬や牛羊数千万頭の他、府庫の珍宝等、略奪した物は限りなかった。
 さて、赫連勃勃は、もともと豪奢な性格だったので、統萬城も豪壮に築いていた。高さは20メートル、底辺は50メートル。最上階でさえ幅15メートル。宮牆の高さは10メートル。その城壁は、刀も斧も打ち砕くほど堅い。豪壮な宮殿内は精緻な彫刻が一面に彫られ、煌びやかな飾りがしつらえてあった。
 魏帝は、側近達を見返っていった。
「民力をこのように使ったのなら、滅びないと思っても、どうしてできようか!」
 今回、統萬城を落とし、魏軍は夏の太史令張淵と徐弁を捕らえた。魏帝は、彼等を太史令として使った。又、晋の将軍毛修之と西秦の将軍庫洛干も手に入れた。庫洛干は西秦へ返してやり、毛修之は太史令とした。
 魏帝が、夏の著作郎趙逸の造った文章を読んだ時、その中で夏王が余り褒められていた為、魏帝は怒って言った。
「あの無道な豎子を、何でこのように褒めるのだ!誰だ、これを書いた男は?引き据えろ!」
 すると、崔浩が言った。
「文士の褒貶に誇張は付き物です。ましてやこれは、死にたくなければやむを得なかったこともあるでしょう。罰する程のことではありません。」
 それで、怒りはおさまった。
 又、魏帝は、赫連勃勃の三人の娘を貴人とした。
 さて、長安では、渓斤と平原公定の対峙が続いていた。そこで魏帝は、宗正の娥清と太僕の丘堆へ五千騎を与えて、関右を略奪させた。
 やがて、定は、統萬が陥落したと聞き、長安を棄てて上圭へ向かった。渓斤はこれを追撃したが、追いつけずに長安へ戻った。
 娥清と丘堆は、夏の貳城を抜いた。
 ここに至って、魏帝は渓斤等を召集した。すると、渓斤は言った。
「赫連昌は上圭をどうにか保っていますが、敗残兵をかき集めただけ。あの兵力では蟠踞できません。この機会に滅亡させるのは、簡単です。どうか増援軍を贈り、夏を平定させて下さい。」
 魏帝は当初許さなかったが、渓斤が固く請うたので、遂に許し、彼の許へ一万の軍と将軍劉抜を派遣した。又、娥清と丘堆にも、夏攻撃を続行させた。
 四日後、魏帝は統萬から本国へ還った。この時、常山王素を征南大将軍、仮節として、執金吾の桓貸、莫雲と共に統萬へ留めて鎮守させた。莫雲は、莫題の弟である。 

  

夏王拿捕 

 五年、二月。魏の平北将軍尉眷が、上圭の夏王を攻撃した。夏王は平涼まで退却した。渓斤は、安定まで進軍し、娥清、丘堆と合流した。
 この時、渓斤の軍馬に疫病が流行り、多くの馬が死んだ。士卒への兵糧も欠乏したので、彼等は塁を深く造り、守りを固めた。そして、丘堆を民間へ派遣し、租税を徴収させた。ところが、丘堆軍の兵士達は、民間へ出ると略奪へ走った。彼等は警戒も何もしていなかったので、夏王はこれを襲撃した。丘堆軍は大敗し、城へ帰れたのは、僅か数百騎だった。
 夏王は勝利に乗じて、安定城下へ軍を出した。おかげで、渓斤軍は兵糧の調達ができなくなり、諸将は大いに弱った。すると、監軍侍御史の安頡が言った。
「賊を滅ぼせとの詔を受けましたのに、今、賊の為に苦しめられ、退却してようやっと城を守っている有様です。これでは、たとえ賊から殺されなくても、軍法に照らし合わせて誅殺されるのが落ちです。進退窮まって、生きる術がない。それなのに、諸王公は漫然として計略の一つも出さないのですか?」
 渓斤は言った。
「今、我が軍には馬がないのだ。歩兵で騎兵を攻撃しても、勝ち目はない。この上は京師へ援軍を要請するしかないか。」
 安頡は言った。
「今、猛敵は城外で鋭気を養っているのです。それに引き替え、我が軍は疲弊し兵糧も底を尽きかけています。一大決戦をしなければ、ジリ貧、全滅ですぞ。援軍など、悠長に待って居れますか!どうせ死ぬのなら、命がけで戦うだけです!」
 渓斤は、馬が少ないことを理由に断ったが、安頡は引き下がらなかった。
「今、諸将の乗馬をかき集めると、二百匹は手に入ります。臣が決死隊を募り、出撃しましょう。たとえ敵を破れなくても、その鋭気は挫いて見せます。それに、赫連昌は馬鹿で無謀な人間。勇を好んで軽々しく動き、自ら毎日戦を挑んでおります。これは、皆もご存知でしょう。伏兵を置いて襲撃すれば、赫連昌を捕らえることもできます。」
 だが、それでも渓斤は二の足を踏んだ。そこで、安頡は尉眷等と密かに謀り、精鋭を選りすぐって、赫連昌を待ち受けた。
 やがて、夏軍が城下へやってくると、安頡は出撃して応戦した。夏王は自ら先頭に立っていた。魏軍の兵卒は、皆、その顔を見知っていたので、一斉に夏王へ襲いかかった。その時、丁度大風が吹き荒れて塵が舞い上がり、昼なのに黄昏のように薄暗くなった。
 夏王は敗走し、安頡は追撃する。そのうち、夏王の馬が躓いて、夏王は落馬し、遂に捕らえられてしまった。なお、安頡は、安同の子息である。
 夏の大将軍平原公定は、余衆数万を取りまとめると平涼へ逃げ帰り、皇帝に即位した。大赦を下し、「勝光」と改元する。 

 三月、赫連昌を平城まで連行した。魏帝は、これを西宮へ住ませた。日用品も、皇帝に準じた物を支給し、妹の始平公主を娶らせた。そして、会稽公の爵位を賜下した。
 安頡は、建節将軍とし、西平公の爵位を与え、尉眷は寧北将軍とし、漁陽公へ進爵した。
 魏帝は、赫連昌を、常に傍らに侍らせ、時には共に鹿を追って山林深く入ることもあった。もともと、赫連昌は武勇で鳴っていたので、諸将の中には諫める者も居たが、魏帝は言った。
「天命が降りたのだ。何を懼れようか!」
 そして、相変わらず親しく扱った。 

 渓斤は元帥となったが、実質的には、偏将と裨将が赫連昌を捕らえたので、これを深く恥じた。そこで、汚名挽回とばかり、輜重を棄て、三日分の兵糧だけを携行して平涼まで夏王定を追撃した。
 娥清は、川で水を汲んでから行きたかったが、渓斤はこれを却下。一散に追撃した。
 夏軍は逃げようとしていると、魏の小将が、罪を犯して夏軍へ亡命してきて、言った。
「魏軍には食糧が少なく、水もありません。」
 そこで夏王は、軍を分けて敵を待ち受け、前後から挟撃した。魏軍は大敗し、渓斤、娥清、劉抜は、皆、夏に捕らえられてしまった。兵卒も、六・七千人戦死した。
 丘堆は、輜重を守って安定に居たが、渓斤の敗北を聞き、輜重を棄てて長安へ逃げた。そして、高涼王礼等と共に、更に蒲阪まで逃げた。こうして、夏は長安まで回復した。
 大怒した魏帝は、丘堆を処刑し、その後任として安頡に、蒲阪を守らせた。
 四月、夏王は魏へ講和の使者を派遣し、魏帝はこれを属国とした。 

  

魏、三度の出兵 

 六年、正月。夏の酒泉公儁が、平涼から魏へ亡命してきた。
 五月、夏王は統萬城を奪還しようと、兵を率いて侯尼城まで東進したが、それ以上進まずに、退却した。
 夏王は、幼い頃から凶暴無頼な人間だったが、父親の赫連勃勃はそれを知らなかった。
 十月、夏王は陰般で狩りをして、苛藍山へ登り、統萬城を見下ろして、泣いた。
「もしも先帝が、朕を世継ぎとしていたならば、今日の憂き目はなかった物を!」
 七年、三月。魏帝は、赫連昌を秦王に封じた。
 九月、夏王は弟の謂以代に魏の鹿城を攻撃させた。魏の平西将軍隗帰等がこれを撃退し、万余人を殺した。謂以代は逃げ去った。
 そこで、夏王は自ら数万人を率いて鹿城の東で隗帰を攻撃した。この時、弟の上谷公社干と廣陽公度洛孤を留めて平涼を守らせ、宋へ使者を派遣して、共に魏を滅ぼそうと持ちかけた。
「河北を平定したら、恒山を境界に、宋と我が国で東西に分割しましょう。」
 これを聞いた魏帝は、夏討伐軍を起こした。すると、ある臣下が言った。
「劉義隆(宋の文帝)の兵が、なお、河中におります。これを棄てて西へ進めば、その虚に乗じて奴目が河を渡るかもしれません。最悪、夏を滅ぼせず、山東を失うことにもなりかねません。」
 そこで、魏帝は崔浩へ尋ねた。すると、崔浩は言った。
「劉義隆と赫連定は遙か離れて同盟を結び、共にこの国を窺っております。ですが、劉義隆は赫連定の進軍を望み、赫連定は劉義隆が進むのを待っており、互いに自ら進もうとはしておりません。
 劉義隆が河中に留まりましたが、そこから二道に分かれて東は冀州、西は業を狙うようならば、陛下自らが出向かわねばならないと思っていました。しかし、奴等はそうは動いておりません。一カ所に数千ずつの兵を配置した陣営を、東西二千里にわたって連ねております。この陣形は、河を守るためのものです。奴等に河を北渡する気はありません。
 赫連定は僅かに根が残っているに過ぎません。一押しすれば必ず倒せます。赫連定を滅ぼした後、東へ進んで潼関へ出て、前方へ席巻すれば、劉義隆は震え上がって退却するでしょう。どうか、お疑いにならないで下さい。」
 魏帝は、遂に統萬へ進み、そこから平涼へ向かった。また、衛兵将軍王斤へ、蒲阪を鎮守させた。王斤は王建の息子である。 

  

関中制圧 

 十一月、魏帝は平涼へ到着した。対して、夏の上谷公社干等が守りを固めて籠城した。魏帝は、赫連昌に招聘させたが、降伏しない。そこで、安西将軍古弼等を、安定攻略に向かわせた。
 夏王は、鹿城から安定に戻り、そこで二万の兵を整えて平涼救援に向かったが、その途中、古弼軍と遭遇した。古弼は退却して夏軍を誘う。夏軍が追撃したところを魏軍が襲撃し、夏軍は大敗した。魏軍は数千の首級を挙げた。夏王は遁走し、郭觚原に登って方陣を布いたが、魏軍はこれを包囲した。
 魏軍は、夏軍を包囲すると、水道や糧道を遮断した。夏軍は人も馬も飢渇し、夏王はとうとう、兵を率いて郭觚原を下った。
 魏の丘眷がこれを攻撃し、夏軍は大いに潰れて数万の死者を出した。夏王は重傷を負って、単騎逃げる。そして、敗残兵を取りまとめると、住民五万人を駆り立てて西へ進んで上圭を保った。魏軍は夏王の弟の烏視抜、禿骨を始め公侯百余人を捕らえた。
 この日、魏軍は勝ちに乗じて安定を攻撃した。夏の乙斗は城を棄て、数千家の住民を駆り立てて長安へ逃げた。
 魏帝は一旦安定へ出向いたが、すぐに平涼へ戻り、塹壕を掘ってこれを包囲すると共に、降伏した民を慰撫し、七年間の賦役免除を約束した。すると、夏の隴西守将が魏へ降伏した。
 十二月、夏の上谷公社干と廣陽公度洛孤が降伏し、平涼は陥落した。
 関中侯豆代田が渓斤と娥清を見つけ、魏帝へ献上した。魏帝は夏王の皇后を豆代田へ賜り、渓斤へは、膝を折って豆代田へお酌させて言った。
「豆代田は、汝の命の恩人だぞ。」
 又、豆代田を侯爵とし、散騎常侍を加えた。
 夏の長安・臨晋・武功の守将達は、皆、逃走し、関中は悉く魏の領土となった。魏帝は、延普に安定を、王斤に長安を鎮守させ、東へ帰った。
 王斤は驕慢で無法者。側近を信用し、百姓は勝手気儘に賦役に駆り立てたので、長安の民は苦しみに耐えきれず、数千家が漢川へ逃げ出した。これを知った魏帝は実情を調査した上で、王斤を処刑した。 

  

夏滅亡 

 八年、六月。魏の侵略を懼れた夏王は、秦の民十余万人を駆り立てて河を渡り、北涼王蒙遜を攻撃してその土地を奪おうと考えた。すると、吐谷渾王慕貴(「王/貴」)が三万の兵を派遣し、夏軍が半ば河を渡った頃を見計らい、これを攻撃した。夏軍は大敗し、夏王赫連定は吐谷渾に捕らわれた。(夏は、三代、二十六年で滅亡した。)
 八月、吐谷渾王慕貴は、魏への恭順を誓い、その証として赫連定を魏へ送ると申し入れた。魏は、慕貴へ大将軍・西秦王の称号を与えた。
 十一年、三月。赫連昌は魏へ背いて西へ逃げたが、河西の侯将がこれを殺した。この事件で魏は、赫連昌の弟たちも誅殺した。 

  

訳者、曰 

 赫連勃勃が造反した当初、首都を定めようと言う群臣達へ対し、ゲリラ戦術で後秦軍を翻弄することを国是とした。(「赫連、朔方による」参照)。兵力で劣る造反軍が本拠地を定めたら、後秦軍に壊滅させられていたに違いない。なるほど、赫連勃勃は奇才である。彼でなければ、強大な後秦からの自立など、果たし得なかったに違いない。東晋が後秦を滅ぼした時も、劉裕の心理を読みとって漁夫の利を得たのは、夏だった。夏は、最終的に強大な国にのし上がったが、それは全て赫連勃勃の才覚に依っていた。
 してみると、やはり軍事的な才能がなければ、国家を強大なすることはできないのだろう。
 しかしながら、赫連勃勃は民を慰撫しなかった。豪壮な建物や贅を凝らした修飾は、全て民の血と汗と涙の上に成り立っていた。それでどうして、国民が自分の国を守ろうとするだろうか?赫連勃勃は、余慶を子孫へ流さなかったのだ。
 今回の夏征伐では、魏帝の才覚が遺憾なく発揮された。彼も又、一世の雄である。赫連勃勃ならともかく、その息子がどうして太刀打ちできようか?
 だが、たとえ軍事的な才覚で劣っていても、もしも兵卒達に闘志が溢れ民が憤って義勇軍を造れば、何とか互角に戦うことはできたに違いない。戦いが長引けば、宋が北涼が柔然が介入してくるのは明らかであり、いかな魏帝といえども、夏を滅ぼすことはできなかっただろう。
 だが、赫連勃勃は余慶を流さなかった。結果、子息達は実力で魏帝と対峙する如かなく、夏は滅び去ったのである。
 赫連勃勃は、その才覚で強国を造った。彼の才覚があればこそ、残虐な想いで人を踏みにじることもできた。だが、その放埒な治世ゆえに、彼の死と共に、夏も滅び去ったのである。
 彼がその才覚に加え、国の礎である民を慰撫する心を持ち、盤石の国家を作り上げたなら、むざむざ滅びはしなかったに違いない。
 赫連勃勃と魏帝は、共に卓抜した軍才を持ち、それを駆使して強国を造った。だが、結局夏は滅んで魏が栄えた。統萬城を臨んでの魏帝の術懐こそが、両国の運命を分けたのである。