華皎の乱
 
背景 

 元康元年(566年)、陳の文帝が崩御して、皇太子が即位した。(彼は、後に廃され、後世では「臨海王」と呼ばれている。)後事は、到仲挙、孔奐、安成王、吏部尚書袁枢、中書舎人劉師知に託される。
 だが、やがて安成王(文帝の弟)の勢力が突出した。
 光大元年(567年)、到仲挙と劉師知は安成王を地方へ出向させようとしたが、詔のでっちあげが露見して、二人とも謀反人として誅殺された。
 この造反劇に連なって、右衛将軍の韓子高も殺された。彼も、到仲挙の一派だったのだ。 

  

  

華皎の乱 

 湘州刺史華皎は、韓子高が誅殺されたと聞いて、不安になった。華皎も又、到仲挙や劉師知と同じく文帝から親任されていたのである。そこで、武器の手入れをして兵卒を増やし、朝廷の意向を打診する為に廣州刺史を希望した。
 安成王は、上辺はこれを許したが、詔はなかなか出さない。
 華皎は、密かに北周の兵を引き入れ、後梁へ降伏した。
 五月、呉明徹が湘州刺史となった。
 安成王は、呉明徹へ三万の水軍を与えて郢州へ向かわせた。征南大将軍淳于量へ水軍五万を与えて後続とする。又、冠武将軍楊文通と巴山太守黄法恵がそれぞれ別道を通って共に華皎を攻撃する手筈であり、江州刺史章昭達、郢州刺史程霊洗も出兵した。
 六月、司空の徐度を車騎将軍として、建康諸軍の総督として、湘州へ派遣した。 

 華皎は、長安へ使者を派遣した。後梁王も又、上書して援軍を請うた。北周朝廷は、これに応じようとしたが、司會の崔猷が言った。
「去年の東征で、兵卒の過半数が死傷しました。彼等の傷は、まだ癒えておりません。今、陳氏は国境を守って国内の民を休息させるために、近隣と友好を結ぼうとしております。こんな時に、寸土を貪って彼等の叛臣を迎え入れ、盟約の信義に背き名分の立たない戦争を行うなど、とんでもないことです!」
 だが、晋公護は従わなかった。
 閏六月、北周は襄州総管衛公直を総大将に、柱国陸通、大将軍田弘、権景宣、元定等を派遣した。 

 華皎は、章昭達の元へ使者を送り仲間になるよう誘ったが、章昭達は、その使者を捕らえて建康へ送った。また、程霊先も誘ったが、程霊先は、その使者を斬り殺した。
 華皎は、武州を自分の心腹と思っており、都督の陸子隆のもとへ使者を送ったが、陸子隆は従わなかった。そこで派兵したが、勝てなかった。
 ところで、文帝は華皎を都督湘・巴等四州に任命していた。だから、巴州刺史戴等は華皎に隷属していたわけである。長沙太守曹慶等も、華皎に隷属していた。彼等は、華皎のもとへ就いた。安成王は、揚子江上流の守宰が華皎の配下へ走ることを恐れ、湘・巴二州を不問に処した。
 九月、華皎の家属をことごとく誅殺した。 

 後梁は、華皎を司空に任命し、国柱の王操へ二万の兵を与えて援軍とした。
 北周の権景宣は水軍を率い、元定は陸軍を率い、衛公直が総大将となって華皎と共に川を下った。
 淳于量は夏口に陣を布いた。これに対して衛公は魯山に陣を布き、元定へ数千の兵力を与えて郢州を包囲させた。華皎は白螺へ陣を布き、呉明徹等と対峙した。
 ところが、この間に徐度と楊文通が嶺を越えて湘州を襲撃し、華皎軍の兵卒達の家族を全て捕らえてしまった。
 華皎は、北周や後梁の水軍と共に、巴陵から流れに乗って下った。その軍勢は、非常に盛大だった。そして、屯口にて陳軍と戦った。
 呉明徹と淳于量は、軍中から小艦を選び出し、多額の金銀を懸賞として、西軍の大艦へぶつけた。西軍の大艦がこれの相手をしている間に、陳軍は大艦を繰り出して、西軍の残りの軍艦へぶつかった。西軍の軍艦は、悉く砕かれて、波間へ消えた。
 これへ対して西軍は、船艦に薪を乗せて火攻めを行った。だが、彼等が火を放った後、風向きが急に変わって、火は西軍を焼き払った。
 こうして、華皎等は大敗した。華皎は戴僧朔と共に単艘で逃げ出した。途中、巴隆を行き過ぎたが、岸へ上がろうともしないで、江陵まで逃げ延びる。衛公直も、江陵まで逃げた。
 本隊が敗走した為、元定軍は孤立してしまった。進むにも逃げるにも路はない。彼等は戦いながら退却し、なんとか巴陵へ逃げ込もうとした。しかし、その巴陵は既に徐度が占領していた。徐度は、彼等へ使者を出した。盟約を結んだら国へ帰ることを赦そうとゆうのだが、これは彼等を欺くための謀略だった。だが、元定は信じ込み、武装を解除して徐度のもとへ出向いた。徐度は元定を捕まえ、彼の兵卒も全て捕虜とした。更に、後梁の大将軍李廣も捕まえる。元定は憤死した。
 華皎の仲間の曹慶等四十余人は誅殺された。ただ、章昭達の弟の岳陽太守章昭裕、高祖の旧臣だった桂陽太守曹宣、そして内々で密約のあった衡陽内史任忠の三人だけが赦された。
 呉明徹は、勝ちに乗じて後梁の河東を攻撃し、これを抜いた。
 衛公は、帰国すると全ての罪を後梁の柱国殷亮へなすりつけた。後梁帝は冤罪だと知りながらも力尽くで押し切られ、遂に殷亮を誅殺した。
 北周と陳は、既に険悪となっていた。そんな中で、北周のベン州刺史裴寛が襄州総管へ請願した。
「援軍を請う。また、水を避ける為に、白を羊蹄山へ移動したい。」
 しかし、総管の軍が到着する前に、程霊洗の水軍が城下までやって来た。この時、大雨が降り、川の水位が上がった。程霊洗は大艦を城壁へぶつけ、楼台を全て壊した。
 弓矢や石で昼夜となく攻め立てること三十日。遂に陳軍は城へ登った。だが、それでも裴寛は諦めず、兵を率いて肉弾戦を挑んできた。これを捕えるのに、更に二日かかった。 

 なお、徐度は翌年正月、卒した。 

 二年、呉明徹は勝ちに乗じて江陵へ進攻し、揚子江の水を城へ濯いで水攻めとした。
 後梁帝は、紀南へ避難した。北周の総管田弘は梁帝へ従い、副総管高林と梁の僕射王操は江陵三城を守る。
 昼夜防ぎ戦うこと、数ヶ月、梁の将軍の馬武と吉徹が呉明徹を攻撃して、これを敗った。呉明徹は公安まで撤退する。
 後梁亭は、江陵へ戻った。 

 華皎は後梁に匿われていたが、やがて、北周へ亡命しようと考えた。
 三年。北周へ行く途中、襄陽を通りがかっ時、華皎は衛公直へ言った。
「梁主は、既に江南の諸郡を失っており、その民は少なく、国は貧しい。これでは、朝廷もいずれ途絶えてしまいます。周から数州を貸して、梁を助けられてください。」
 衛公はもっともと頷き、北周の武帝へ手紙を書いた。武帝は、基、平、若の三州を与えた。 

  

  

欧陽乞の乱 

 欧陽乞は廣州刺史となって十余年、その間、恩愛と威厳で百越へ接して、これを掌握した。
 ところが、華皎が造反すると、安成王は彼を疑うようにんった。
 太建元年(569年)、安成王が帝位へ即いた。これが宣帝である。文帝の嫡子は、退位して臨海王となった。
 九月、宣帝は欧陽乞を左衞将軍に任命し、都へ徴召した。欧陽乞は恐懼した。彼の部下は皆、造反を勧める。遂に、彼は挙兵して衡州刺史銭道戈を攻撃した。
 宣帝は中書侍郎の徐倹を派遣して、説得させた。
 欧陽乞は、兵を連ねて徐倹と会見した。その態度は、非常に尊大だった。すると、徐倹は言った。
「将軍、周迪や陳寶応の末路を見なかったのですか!まだ遅くありません。禍を転じて福とするのです。」
 欧陽乞は、黙り込んで答えなかった。
 会見が済むと、欧陽乞は徐倹を孤園寺へ軟禁し、数十日帰さなかった。
 やがて、欧陽乞が会いに来た時、徐倹は言った。
「将軍は既に決起したのです。私は、帰って天子へ御報告いたします。私の命は将軍の掌の中にありますが、私を殺したところで、将軍の利益にはなりますまい。帰していただければ幸いです。」
 そこで、欧陽乞は徐倹を解放した。
 十月、車騎将軍章昭達へ、欧陽乞討伐が命じられた。 

 十二月、北周から和平の使者がやってきた。
 華皎の造反以来、陳は北周と国交を断絶していたが、宣帝は、和親を結んだ。 

 二年、二月。欧陽乞は陽春太守馮僕を召し出して造反に誘った。馮僕が、母親の洗夫人のもとへ使者を派遣して尋ねると、夫人は言った。
「我は忠貞を重んじていました。国へ背くことはできません。」
 そして、兵を挙げて郡境を固め、諸酋長を率いて章昭達を迎え入れた。
 章昭達は、道を急いで始興へ到着する。それを聞いて欧陽乞は恐れおののき為す術を知らない。なんとか川岸まで進み、石や砂を詰めた竹籠を水柵の外へ置いて、敵の水軍を足止めしようとした。だが章昭達は、水練の達者な者を潜らせて、竹籠を壊し、軍艦で突撃した。
 欧陽乞軍は大敗し、欧陽乞は捕らえられ、建康の市で斬られた。
 欧陽乞が造反した時、嶺南の士人は皆、恐惶した。ただ、前の著作佐郎蕭引だけは平然として言った。
「君子は、己の行いを正すだけ。何を懼れることがあるか!」
 欧陽乞の乱が平定すると、蕭引は金部侍郎に抜擢された。
 馮僕は、母親の功績で信都侯に封じられ、石龍太守となった。 

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