赫連、朔方に據る。(夏の建国)
 
劉勃勃 

 魏王圭が、劉衛辰を滅ぼした時、子息の劉勃勃は、後秦へ逃げ込むことができた。後秦の高平公没奕干は、娘を彼に娶せた。勃勃は威風堂々としており、智恵が巡って弁が立ったので、後秦王の姚興はこれを奇材と評価し、軍国の大事を共に論じるようになり、勲旧の臣下以上に彼を寵遇した。
 すると、弟の姚邑が言った。
「勃勃を近づけてはいけません。」
 だが、姚興は言った。
「勃勃には済世の才がある。吾は、彼と共に天下を平定するつもりだ。それなのに、どうして彼を忌むのか。」
 そして、劉勃勃を安遠将軍とし、没奕干の補佐として高平を鎮守させ、三城と朔方の雑夷及び劉衛辰の旧臣三万を配下として与え、魏の隙を窺わせようとした。
 これに対して、姚邑が固く諫争したので、姚興は尋ねた。
「一体何を根拠に、彼の為人を疑うのだ。」
 すると、姚邑は答えた。
「奴は、上へ対しては傲慢、部下使いは残忍。貪欲狡猾で不仁な男。他人を平気で裏切ります。彼を寵用して分を越えると、遂には辺患となりましょう。」
 そこで、姚興は思いとどまったが、やがて、劉勃勃を安北将軍、五原公とし、三交五部の鮮卑及び雑虜二万をその配下として朔方を鎮守させた。 

  

勃勃造反 

 晋の安帝の義煕三年(407年)、魏王圭は、捕虜としていた秦将唐小方を秦へ返還した。すると、姚興は賀狄干の返還と良馬千匹で、狄伯支を返還させるよう持ちかけ、魏王圭は許諾した。
 ところで、前述のように、勃勃の一族は魏に滅ぼされていた。だから、これを聞いた劉勃勃は、秦が魏と修好したのを怒り、秦への造反を考えた。
 そんな時、柔然可汗が八千匹の馬を秦へ献上した。その一行が大城まで来た時、勃勃はこれを略奪した。そして、部下三万人を総動員して高平川で狩猟すると見せかけ、没奕干を襲撃してこれを殺し、その部下を奪った。
 劉勃勃は、自ら夏后氏の末裔と名乗り、六月、大夏天王、大単于と自称。大赦を下して龍升と改元し、百官を設置した。その主要な人事は、以下の通り。
 兄の右地代を丞相とし、代公に封じる。力俟提を大将軍として魏公に封じる。叱干阿利を御史大夫として梁公に封じる。弟の阿利羅引は司隷校尉、若門は尚書令、叱以建は左僕射、乙斗は右僕射。
 蛇足ながら、今回の魏秦捕虜交換で魏へ帰ることのできた賀狄干について述べよう。
 彼は、捕虜として後秦に捕らえられている時、長安に幽閉されていた。この幽閉生活の間、彼は経史を読んでおり、いつの間にか、彼の立ち居振る舞いは、まるで儒学者のようになっていた。魏へ帰った時、魏王圭が彼を見ると、衣服も喋る言葉も、まるで秦の人間のようだった。彼は、賀狄干が秦を思慕してその生活を真似ていると思って激怒し、弟の賀狄帰ともども、彼等を殺した。 

 十月、劉勃勃は鮮卑の薛千等三部を破った。この時降伏した住民は一万を数えた。更に、秦の三城以北の諸堡を攻撃し、秦将の楊丕や姚石生等を斬った。
 諸将は皆言った。
「陛下が関中を経営するおつもりなら、まず根本を固めて、人心の拠り所を作るべきです。高平は、山川が堅固で土地は肥沃、都とするに相応しい場所です。」「卿等はその一を知って二を知らない。吾は大業を興したが、まだ士民が少ない。姚興とて一時の雄だ。諸将は彼の手足となって動いており、関中を図るには、まだ力不足である。この状況で、我が一城に居城を定めれば、奴は全力を挙げて攻撃してくる。そうなれば、その大軍には敵わず、結局は滅亡してしまうぞ。だから今は、驍騎を使って風のように駆け巡り、奴等の不意を衝いて攻撃するべきだ。連中が前を助ければ、我等は後を攻撃し、右へ向かえば左を討つ、とな。そうすれば、奴等は奔命に疲れ果て、我々は自若として遊食できる。そうやれば十年も経たぬうちに、嶺北から河東まで、全て我々の領土となるだろうよ。そして、姚興が死ぬのを待つ。奴の後継は無能者。悠々と長安を奪取できる。これが我の計略だ。」
 そして、嶺北を侵略してまわったので、嶺北の諸城は昼間でも城門を閉ざしたままとなった。姚興は嘆いて言った。
「黄児(姚邑の小字)の進言を用いなかったばかりにこのていたらくだ!」 

  

夏の進撃 

 十一月、劉勃勃は、南涼の禿髪辱檀と政略結婚を求めたが、辱檀はこれを却下。そこで、勃勃は南涼と戦い、これを撃破した。(詳細は、「禿髪、廣武に據る」に記載) 

 四年、姚興は左僕射斉難に二万の兵で夏を攻撃させた。
 七月、後秦の攻撃へ対して、劉勃勃は河曲まで退いてこれを守った。勃勃が遠ざかったので、斉難は大いに略奪を働いた。そこで、勃勃はこっそりと軍を移動し、後秦軍を襲撃した。夏軍は、捕虜と首級を併せて七千にも及ぶという大勝利を収めた。
 斉難は兵を率いて敗走したが、勃勃はこれを追撃し、木城にて斉難を捕らえた。そして、その将士一万三千を捕虜とする。
 ここにおいて、劉勃勃へ帰順する嶺北の住民は、夷人華人併せて万を数えた。劉勃勃は、守宰を置いて、彼等を慰撫した。 

 五年、正月。姚興は、弟の姚沖と征虜将軍狄伯支へ四万騎を与え、夏攻撃を命じた。姚沖は、嶺北まで来たとき、兵を返して長安を襲撃しようと考えたが、狄伯支が従わなかったので、中止した。ただ、姚沖は、口封じの為、狄伯支を毒殺した。
 二月、姚興は姚沖の謀略を知り、姚沖を自殺させた。 

 九月、姚興は、劉勃勃を親征しようと、貳城まで出向いた。だが、劉勃勃が不意に襲撃してきたので、姚興は驚いて退却しようとした。すると、右僕射葦華が言った。
「陛下が逃げ出したら、部下が驚き慌て、我が軍は戦わずして潰れます。」
 そこで、姚興は劉勃勃と戦ったが、後秦軍は大敗し、将軍の姚楡生が、夏軍に捕まった。しかし、左将軍姚文祟等が奮戦したので、夏軍も退却した。そこで、姚興は長安へ戻った。
 劉勃勃は、再び後秦を攻撃し、黄石固、我羅城を抜き、七千戸を大城へ強制移住させた。又、丞相右地代を幽州牧として、その地を鎮守させた。
 この時、東晋が南燕を攻撃し、南燕は滅亡寸前だった。後秦は、南燕へ救援軍を派遣していたが、今回の敗戦で、救援軍を呼び戻した。(詳細は、「劉裕、南燕を滅ぼす」に記載。) 

 六年、三月。劉勃勃は尚書の胡金簒に平涼を攻撃させた。姚興は平涼救援に向かい、金簒を攻撃して、これを殺した。
 勃勃は、又、甥の左将軍羅提へ定陽を攻撃させた。羅提はこれを抜き、秦の将士四千余人を穴埋めとした。
 勃勃自身は、隴右を攻撃し、清水まで攻略した。すると、略陽太守姚寿都は、城を棄てて逃げたので、勃勃は、その住民一万六千人を大城へ強制移住させた。姚興は、安定からこれを追撃したが、追いつけずに引き返した。 

 七年、正月。後秦の姚詳は杏城を守っていたが、劉勃勃から迫られて、南方の大蘇へ逃げた。勃勃は部下に追撃させ、姚詳を斬って、その部下を悉く捕らえた。
 勃勃は、更に南へ向かい、安定を攻撃した。後秦の尚書楊佛嵩は撃破され、四万五千人が勃勃へ降伏した。夏軍は更に進んで東郷を攻撃し、これを下した。三千戸を貳城へ強制移住させる。
 そんな中で、後秦の鎮北将軍王買徳が、夏へ亡命してきた。そこで、劉勃勃が後秦を滅ぼす方略を尋ねたところ、王買徳は言った。
「秦は衰えてはいますが、その藩鎮は、なお、堅固です。ですから、今は力を蓄えて時期を待つべきでしょう。」
 劉勃勃は、王買徳を軍師中郎将とした。(後、王買徳の献策で、夏は長安を占領する。詳細は「劉裕、後秦を滅ぼす、夏の侵入」に記載。)
 姚興は、大将軍顕を姚詳救援に向かわせたが、間に合わなかった。そこで姚顕は、杏城を鎮守した。 

 八年、十月。姚興は、楊佛嵩をヨウ州刺史に任命し、嶺北の兵を与えて夏を攻撃させた。 だが、数日して姚興は群臣へ言った。
「楊佛嵩は、敵と遭遇する度、勇み立って自制が利かなかった。だから、彼には五千程度の兵力しか与えなかったのだ。今回、奴に与えた兵力は多すぎた。敵に遭遇したら、必ず敗北するだろう。だが、今から追っても間に合うまい。どうすればよいだろうか。」
 楊佛嵩は、姚興と戦い、果たして敗北し、勃勃に捕らえられたので、自殺した。 

  

首都建設(付、叱干阿利) 

 九年、二月。勃勃は大赦を下し、鳳翔と改元した。叱干阿利を将作大匠とし、嶺北の住民十万人を徴発して、都城を築いた。その場所は、朔方水の北、黒水の南である。
 劉勃勃は言った。
「朕は、天下を統一し、万邦に君臨する。だから、この新城を、『統萬』と名付けよう。」
 さて、叱干阿利は、巧妙で残忍な人間だった。土を蒸して城壁を作らせたが、その壁へ錐を突き立て、その刃が一寸以上突き刺さったら、工事した人間を殺した。だが、それを見た劉勃勃は、”これぞ忠義の顕れ”と評価し、全てを彼へ委任した。
 兵器を作らせた時は、完成品は必ず彼が検分したが、その度に死人が出た。例えば、甲が完成すると、それを被った人間へ、矢を射させる。矢が立たなかったら、弓を射た人間を殺し、矢が突き刺さったら、甲を造った匠を殺したのである。
 宮殿の前の飾りとして、銅を鋳て太鼓や駱駝や龍虎などを造らせ、これを黄金で覆った。この作成でも、数千の工匠が殺された。だから、これらの像は、極めて精巧な出来映えとなった。 

 勃勃は、言った。
「我が先祖は、母親の名字に従って、劉と改姓した。(漢の高祖が、一族の女性を冒頓単于へ娶らせてから、匈奴は「劉」姓を名乗るようになった。)これは礼に背く。それに、古来から、氏族が改姓することも多々あった。そこで、我が姓を、『赫連』と改姓する。そもそも、帝王は、天の子である。『赫』は、『天』を意味する。即ち、『天に連なる』である。又、我が一族は、我が直系と区別する為、これを『鉄伐』と改氏する。『鉄のように剛く鋭く、他の部族を伐る』という意味である。」 

  

姚興死去 

 十一年、三月。赫連勃勃は、秦の杏城を攻撃し、これを抜いた。守将姚逵を捕らえ、士卒二万人を穴埋めとする。秦王姚興は、姚弼と、輔国将軍斂曼鬼を新平へ派遣した。
 九月、赫連勃勃は再び秦を攻撃し、平涼太守姚軍を捕らえ、新平へ入った。 

 十二年、正月。秦の姚興が卒した。 

 六月、テイ王の楊盛が、秦の祈山を攻撃してこれを抜き、秦州へ迫った。すると、秦の後将軍姚平が救援に駆けつけたので、楊盛は退却した。姚平は、上圭守将姚嵩と共に、これを追った。
 これに乗じて、赫連勃勃は、四万騎を率いて上圭を攻撃した。
 夏軍が上圭へ到着する前に、姚嵩は楊盛と戦って敗死した。夏軍は、二旬で上圭を攻略した。後秦の秦州刺史姚軍都及び将士五千余人を殺し、上圭城を壊した。
 夏軍は、陰密まで侵攻し、ここでも秦将の姚良子及び将士萬余人を殺した。そして、子息の昌をヨウ州刺史として、陰密を鎮守させた。
 後秦の鎮北将軍姚恢は、安定を棄てて長安へ逃げ帰った。すると、安定の住民胡儼が五万戸の住民を率いて城に據り、夏へ降伏した。そこで勃勃は、鎮東将軍羊苟児に五千人の鮮卑を与えて安定を鎮守させた。
 後秦は、姚紹と征虜将軍尹昭等が五万の兵を率いて夏軍へ反撃した。赫連勃勃は安定まで退却したが、胡儼は城門を閉ざして夏軍を拒んだ。そして、羊苟児と五千の鮮卑兵を殺して、後秦へ降伏した。
 姚紹は、なおも夏軍を追撃し、馬鞍坡にて、これを撃破。夏軍は逃げる。姚紹は追撃したが、追いつけずに引き返した。夏軍も杏城へ帰った。

 一方、楊盛は、甥の楊倦に後秦を攻撃させた。だが、後秦の斂曼鬼が、これを撃退した。
 夏軍も、再び後秦へ攻撃したが、撃退された。 

長安占領 

 十三年、劉裕が後秦を滅ぼした。
 赫連勃勃は、安定へ攻め込んだ。すると、秦の嶺北の郡県は次々と降伏してきた。
 やがて、劉裕は次男の劉義真を残して東へ帰った。赫連勃勃は、息子の赫連貴(「王/貴」)へ二万の兵を与えて長安を攻撃させた。そして、赫連勃勃は、東晋軍を追い払って、長安へ入城した。(この戦役の詳細は、「劉裕、後秦を滅ぼす、夏の侵入」に記載。)
 長安を占領した赫連勃勃は、祭壇を築いて皇帝位に即き、「昌武」と改元した。 

 晋の恭帝の元煕元年(419年)、正月。夏将叱奴侯提が二万の軍勢で蒲阪の毛徳祖を攻撃した。毛徳祖は支えきれず、全軍を挙げて彭城へ帰った。 

 二月、赫連勃勃は、隠士の葦祖思を召し出した。葦祖思は、召集に応じてやって来たが、勃勃を目の前にして、非常に恭懼していた。すると、勃勃は怒って言った。
「汝が国士と思えばこそ呼び出したのに、そのように怯えているのか!汝は、昔姚興からの呼び出しに応じなかったのに、どうして今回、我へ拝礼するのだ?我を目の前に置いてすら、汝は我に帝王の徳を見ないのか!それならば、我が死んだ後、汝の筆は我のことをどのように弄ぶか判らないぞ!」
 そして、葦祖思を殺した。 

 さて、長安を占領したので、群臣は、ここを都とするよう請うた。すると、赫連勃勃は言った。
「長安は、代々帝王の都だったし、その地形は堅固で土地は肥沃。それくらいは朕も知っている!だが、あの東晋は、都が遠くにあったばかりに、この長安を守り通すことができなかったではないか。
 さて、魏と我等は、民の風俗は似ているし、国境は隣接している。そして、統萬は、魏の国境から僅か百余里しか離れていないのだ。朕が長安へ移動すれば、統萬が危うくなる。だが、我が統萬で目を光らせていれば、魏軍は河から西へは攻め込めない。諸卿はこの道理が判らないのだ。」
 皆は言った。
「とても我々の及ぶところではございません。」
 そこで、長安には南台を築き、赫連貴を大将軍としてここに置き、赫連勃勃は統萬へ還った。大赦を下し、「眞興」と改元する。 

 赫連勃勃は、驕慢残虐な人間で、民のことを草芥のように見ていた。城に居る時には、傍らに弓と剣を置き、機嫌を損ねると、即座に相手を斬り殺した。もしも臣下の目に反感が宿れば即座にその目をえぐり出し、臣下が笑えばその唇を斬った。諫める者がいれば、その舌を斬ってから斬り殺した。