魏、燕を伐つ    慕容會造反

 

 皇太子立位

 燕の皇太子慕容寶の息子の中で、清河公慕容會は、母親は卑しかったが、年長の上、雄俊で器芸があったので、慕容垂は彼を寵愛していた。だから、慕容寶が魏を討伐した時には、彼に東宮のことを任せ、あたかも太子のように礼遇していた。それで、彼の国府の官吏には、一時の才望が集まっていた。慕容垂が魏を攻撃する時には、彼に龍城を鎮守させていたが、この時、東北の統治を全て彼に委ねた。それやこれやで、慕容垂は病が篤くなった時、彼を世継ぎとするよう慕容寶へ遺言したのだ。
 しかし、慕容寶は、末子の慕容策を寵愛しており、慕容會など眼中になかった。
 長楽公の慕容盛は、慕容會と同じ歳で、彼の下に就くことを恥じていたので、慕容麟と手を組んで、慕容策を皇太子とするよう運動し、慕容寶はこれに従った。
 こうして妃の段氏が皇后となり、慕容策が皇太子となった。慕容會と慕容盛は、王へ進爵した。
 慕容策は十一才。惰弱な性格だった。これを知って、慕容會は心中恨んだ。

 慕容寶が、慕容宙へ、僚属や部族ごと高陽王慕容隆の麾下へ入るよう詔を降した時、慕容會はこの詔に逆らい、その部曲を留めて移動させなかった。
 慕容宙は一族の長老だったが、慕容會は事毎に彼を侮っていたので、皆は慕容會が造反するのではないかと感じ取った。

 

 魏の進寇

 話は二ヶ月ほど前後するが、太元二十一年、七月、拓跋珪は天子の旌旗を建てた。
 魏の参軍事の張恂が、中原を攻略するよう拓跋珪へ勧め、拓跋珪はそれを善しとした。

 燕の遼西王慕容農が、数万口の部曲を率いて、へい州へ移動した。へい州は、もともと収穫の少ない土地だったが、この歳はとりわけ霜の降りるのが早かった為、民は食糧に困窮した。又、慕容農は諸部を分けて胡に備えさせたので、民は皆恨み、密かに魏軍を招き寄せた。
 八月、拓跋珪は大挙して燕を討った。四十万の大軍が、馬邑を出陣して句注を越え、その旌旗は二十余里も連なった。先鋒は、左将軍の李栗。彼は、五万の兵卒を率いていた。別働隊として、将軍の封眞等に幽州を襲撃させた。
 魏軍は陽曲、西山と進軍し、晋陽へ迫った。騎兵が城を包囲したが、大いに騒いだだけで去って行った。慕容農が出撃したが、大敗して晋陽へ戻った。だが、司馬の慕輿嵩は、城門を閉じて入れなかった。(参合陂の戦いの時、慕輿嵩は慕容麟を奉じて造反しようとし、罰せられた。その時の怨みを晴らしたのだ。)
 慕容農は、妻子と共に数千騎を率いて東へ逃げた。魏の中領将軍長孫肥がこれを追撃し、慕容農の妻子を捕らえた。燕軍は壊滅し、慕容農は傷つき、僅か三騎で中山へ逃げ帰った。
 魏王珪は、遂にへい州を占領した。ここで、魏は始めて台や省の政府組織を造り、刺史や太守や尚書郎等を置いた。これらには、儒学者が用いられた。
 軍門へ降った士・大夫は、幼長の別なく意見を述べさせ、才覚があると見て取れば登庸した。
 その傍ら、魏軍は、進撃の手を休めなかった。
 輔国将軍渓収に汾川を攻略させて、燕の丹楊王慕容買徳と離石護軍高秀和を捕らえた。中書侍郎の張恂等を諸郡の太守として、離散した民を招き、農桑を勧課した。

 

 

 中山城攻防

 魏軍の進撃を聞いた慕容寶は、東堂で軍議を開いた。
 中山尹の苻謨が言った。
「今、魏軍は盛強。千里の道を踏破し、勝ちに乗じて攻撃しております。もし、平地にて戦ったなら、とても勝てないでしょう。ですから、険阻な地形で迎え撃つべきです。」
 中書令の睦遽が言った。
「魏軍の大半は騎兵です。ですから俊敏に移動しておりますが、馬では携帯できる食料など知れた物。ここは民をかき集めるよう郡県へ命じ、千家毎に一塞を造り、溝を深く掘って自衛させるべきです。奴等は略奪できなくなれば、六旬のうちに食糧が尽き、退却するしかなくなるでしょう。」
 すると、尚書の封懿が言った。
「今、魏兵は数十万。まさに天下の悍敵です。民をかき集めて自衛させても、とても守りきれますまい。そんな事をすれば、食糧を集結させて敵へ差し出すような物ではありませんか。それに、民心は動揺し、敵へ弱みを見せることにもなります。険阻な地形で檄激するべきです。」
 慕容麟は言った。
「敵は破竹の勢い。この状況ではまともに戦えません。ですから、中山城の守備を固め、敵の志気が衰えたところへ乗じるべきです。」
 この策が採用された。燕は、中山城を整備し、食糧を備蓄し、持久戦の構えを取った。慕容農は安喜へ屯営し、軍事は全て慕容麟へ委ねられた。
 十月、魏王珪は、井徑から中山へ向かった。すると、李先(前年、彼は西燕から後燕へ降伏した。)が魏へ降伏した。珪は、彼を征東長史に任命した。
 魏軍は更に進み、常山を攻撃して、これを抜いた。太守の苟延を捕らえる。常山以東の守宰は、逃走したり降伏したり、諸郡県は全て魏へ降伏した。ただ、中山、業、信都の三城のみが、燕の為に抗戦した。業を守るのは慕容徳、信都の守備は慕容鳳である。
 十一月、拓跋珪は、東平公儀へ五万の兵を与え、業を攻撃させ、冠軍将軍王建と左将軍李栗に信都を攻撃させた。拓跋珪自身は中山へ進軍し、これを攻撃する。
 中山では、慕容隆が南郭を守っていた。彼は部下を率いて力戦し、明け方から昼頃までに、数千人を殺した。その勢いに、魏軍は一時撤退した。
 拓跋珪は諸将へ言った。
「中山城の守りは堅い。慕容寶は出陣はさせまいが、急攻すれば我が方の被害が多く、ゆっくり包囲すればこちらの食糧が尽きてしまう。ここは、業と信都を先に攻略した方がよい。その後に、中山城を攻撃するのだ。」
 こうして、魏軍は兵を纏めて南へ向かった。

 

 慕容徳、魏軍を討つ。

 慕容宙は、龍城から帰って来る途中、魏軍の来寇を聞いた。そこで彼は薊城へ入って、鎮北将軍陽城王慕容蘭と共に守備を固めた。慕容蘭は、慕容垂の従弟である。
 魏の別将石河頭がこれを攻撃したが、勝てず、漁陽まで退いた。
 拓跋珪の軍は、魯口まで進んだ。すると、博陵太守の申永は河南へ逃げ、高陽太守の崔宏は海の中洲へ逃げた。拓跋珪は、もともと崔宏の高名を聞いていたので、騎兵を派遣して追求し、これを捕らえて黄門侍郎に抜擢した。そして、給事黄門侍郎の張こんと共に機要を掌握させ、制度を創立させた。
 博陵令の屈遵は、魏へ降伏した。拓跋珪は中書令に任命し、文書を司らせた。
 慕容徳は、慕容青等へ夜襲を命じ、魏軍を撃破した。魏軍は新城まで退却した。慕容青が追撃を掛けようとすると、別駕の韓卓が言った。
「古人は、まず計略を定めてから戦ったものです。
 今、追撃を掛けてはならない要因が四つあります。敵は遠征軍ですから、野戦に利があります。これが第一。魏軍は敵地深く侵入しておりますから、いわば死地へ入ったも同然。死力を尽くして戦います。これが第二。敵の先鋒は撃破しましたが、後方はまだ無事です。これが第三。敵は大軍、それに対して我が軍は寡兵これが第四。
 又、我が方には動かない方がよい理由が三つあります。自分の国で戦うので、我が軍の兵士はどこへでも逃げられ、決死の思いに欠ける。これが一つ。攻撃して勝てなければ、部下の心が離反する。これが二つ。城壁の修復がまだ終わっておらず、敵が来襲すれば防げない。これが三つ目です。
 魏軍の兵糧は、そんなに多くありません。防備を堅固にして、敵の疲弊を待つべきです。」
 慕容徳はこれに従い、慕容青を召還した。慕容青は、慕容詳の兄である。
 十二月、魏の遼西公賀頼廬(賀訥の弟)が、二万の兵を率いて拓跋儀と合流して業を攻撃した。

 

 魏の内紛

 さて、魏の別部大人没根は、肝が太く勇敢だったので、拓跋珪はこれを憎んだ。没根は誅殺されることを恐れ、親兵数十人を率いて後燕へ降伏した。慕容寶は、彼を鎮東大将軍に任命し、雁門公に封じた。
 没根は、魏を襲撃することを申し出たが、帰順したばかりなので慕容寶は大軍を与えきれず、百騎余りを彼の指揮下に付けた。没根は、この兵を率いて魏営へ夜襲を掛けた。虚を衝かれた拓跋珪は、狼狽して逃げ出したが、没根の率いる兵が少なかった為に、壊滅させるまでには至らなかった。しかし、大勢の敵を殺し、捕らえて、帰ってきた。
 安帝の隆安元年(397年)、正月。慕容徳は、後秦へ救援を求めたが、後秦はこれを拒否。業の物情は騒然となった。
ところで、賀頼廬は、拓跋珪の舅にあたる。それ故、彼は拓跋儀の節度を受ける(麾下へはいる)のを拒否し、こうして拓跋儀との間に溝が生まれた。拓跋儀の司馬の丁建は、実は慕容徳へ内通していた。そこで、彼はこの実状を矢文に書いて、業城へ射こんだ。
 ある風の強い晩、賀頼廬の営で、火が燃えていた。丁建は、これを見て拓跋儀へ言った。
「賀頼廬は、放火して造反するつもりではないでしょうか。」
 拓跋儀はこれを真に受け、兵を退いた。それを聞いて、賀頼廬も又、兵を退いた。
 丁建は、手勢を率いて慕容徳へ降伏し、言った。
「魏軍の兵卒は疲れ切っております。今こそ、伐つべきです。」
 慕容徳は、慕容鎮と慕容青へ七千の兵卒を与えて追撃させ、魏軍を大破した。
 慕容寶は、左衛将軍慕輿騰へ博陵攻撃を命じ、魏が残していた守宰を殺した。
 王建等は信都を攻撃していたが、六十日余りしても、陥すことができず、却って多くの被害を受けた。そこで、拓跋珪自身で信都を攻撃した。慕容鳳は城を棄てて中山へ逃げ込み、信都は魏へ降伏した。

 

 燕の反撃

 信都陥落を知った慕容寶は、自ら深澤まで出陣した。そして、慕容麟に楊城を攻撃させ、敵の守備兵三百人を殺した。又、慕容寶は、官庫から珍寶をすっかり持ち出すと、それを資本に全国の群盗達を募って魏へ抗戦させた。
 二月、拓跋珪は楊城へ戻った。
 さて、没根の甥の醜提はへい州監軍だった。彼は叔父が降伏したと聞くと、誅殺されることを恐れ、手勢を率いて領地へ帰ると魏へ造反した。
 これらの事で、拓跋珪は国へ帰りたくなり、燕と講和しようと、国相の渉延を派遣した。この時、彼は人質として弟を差し出すことまで譲歩した。
 だが、魏に内紛が起こっていると知った慕容寶は、これを却下した。そして、使者を派遣して魏の背信行為を詰問し、全軍を挙げて反撃に出た。歩兵十二万、騎兵三万七千の大軍が、曲陽へ進軍し、川の北岸に陣を布いた。魏軍は南岸に陣を布いた。
 慕容寶は、勇士一万余人を募ると、密かに川を渡って魏軍へ夜襲を掛けさせ、自身は魏営の北へ陣を張って後詰めとなった。
 募兵は風を見て火を放つと、魏軍を急襲し、魏軍は大混乱に陥った。慕容珪は驚いて跳ね起きると、営を棄てて逃げた。百余人の部下を率いて拓跋珪の幕舎へ押し入った燕の将軍乞特眞は、その衣服を奪った。
 だが、ここで燕の募兵達が、理由もなく驚愕し、突然同士討ちを始めた。その有様を営外から望み見た慕容珪は、戦鼓を打ち鳴らして味方をかき集めた。すると、左右及び中軍の将士達が続々と結集したので、これを率いて反撃した。
 魏の募兵は大敗し、慕容寶の陣へ逃げ帰った。慕容寶は、敗残兵を纏めて川を渡り、北岸へ引き上げた。
 翌日、魏軍は陣を立て直して燕軍と対峙した。燕軍は、しっかり気を抜かれてしまった。そこで、慕容寶は中山へ引き返したが、魏軍はこれへ追撃を掛け、燕軍は屡々敗績した。
 慕容寶は恐れ、軍を見捨てて、二万の騎兵のみを率い、逃げ帰った。時、あたかも大吹雪。取り残された兵卒達から、凍死者が続出した。魏軍の追撃を恐れた慕容寶は、全ての兵器を棄てさせ、一散走りに逃げた。
 この戦いで、燕の朝臣や将卒が、魏へ大勢降伏した。
 さて、かつて張こんは、燕の秘書監の崔逞が立派な人材である、と、拓跋珪へ吹聴していた。それが、この戦いで崔逞を得ることができたので、拓跋珪は大いに喜び、彼を尚書に抜擢して政事を任せた。
 ところで、魏軍には、当初夜襲を受けた時にサッサと戦場から逃げ出していた兵卒達もいた。彼等は逃げ延びた先々で吹聴した。
「大軍は壊滅しちまってよお。王様だって、どこにいるのか判りゃしねえよ。」
 彼等が晋陽まで行った時、晋陽を守っていた封眞は、この噂を真に受けて造反し、へい州刺史の素延を攻撃した。素延は、これを撃退し、封眞を斬り殺した。
 魏の南安公順は、この時雲中を守っていたが、自軍が大敗したとゆう噂を聞いて、国事を専断したくなった。だが、幢将の莫題が言った。
「それは重大なことです。軽々しく動いてはいけません。今後の動きを充分確かめてから動かなければ、大きな災いを背負い込みますぞ。」
 そこで、順は中止した。なお、順は什翼建の孫である。
 だが、この噂を真に受けて不遜を謀む人間も居た。賀蘭部の酋長附力眷、乞隣部の酋長匿物尼、乞渓部の酋長叱奴根等が、次々と造反した。拓跋順はこれを討伐したが、勝てなかった。そこで、拓跋珪は、安遠将軍?岳へ一万の騎兵を与えて派遣した。?岳は三部を悉く平定し、国人は安んじた。
 拓跋珪は、降伏した人間を手懐けようと思ったが、そうなってみると、参合坡での誅殺が悔やまれてならない。その為、殺害へ対して過敏になった。へい州刺史の素延は、「封眞鎮圧の後に連座で大勢の人間を殺しすぎた」として、免職にし、後がまのへい州刺史には、渓牧を抜擢した。
 だが、この渓牧は後秦の姚興へ手紙を書いた時、その文面が無礼であるとして、姚興が激怒し、拓跋珪へ訴えた。拓跋珪は、姚興の為に、渓牧を死刑に処した。
 燕では、尚書郎の慕輿皓が、慕容寶を殺して慕容麟を立てようと謀ったが、勝てず、関所を破って魏へ出奔した。以後、慕容麟は慕容寶の報復を恐れるようになった。

 

 慕容會、出陣

 話は遡るが、魏軍の東下を聞いた清河王慕容會が、救援へ向かうことを願い出、慕容寶はこれを裁可した。
 しかし、慕容會は龍城を出たくなかった。そこで、彼は征南将軍の庫辱官偉と建威将軍の餘祟へ五千の兵を与えて先鋒とした。餘祟は、餘嵩の子息である。
 庫辱官偉等は廬龍に百日近く屯営した。食糧が尽きたので、牛や馬を殺したが、これも食べ尽くしてしまった。それでも、慕容會は出発しなかった。
 慕容寶は怒り、叱責の使者を何度も派遣した。慕容會はそこまで尻を叩かれながら、なおも兵卒の鍛錬を口実に、一ヶ月余りもぐずついた。
 当時、通路が遮断されていた。そこで、庫辱官偉は軽騎だけででも先行させようと思い、誰かに敵の強弱を偵察させようと考えた。しかし、諸将は皆、敵を畏れて行きたがらない。すると、餘祟が憤然として言った。
「今、強敵が天を冒し、京都へ危機が迫っている。君父を救う為なら、匹夫でさえ命を顧みないとゆうのに、国から大恩を蒙った君達が、何で命を惜しむのか!もし、社稷が傾けば、臣節が立たぬ。死んでもなお餘辱が残るぞ!諸君等がここで惰眠を貪ろうとも、祟がこの役をこなしましょう!」
 庫辱官偉は喜び、五百の兵卒を与えた。
 餘祟が漁陽まで進むと、千余騎の魏軍と遭遇した。
「敵は大軍、我等は小勢。ここは撃破しなければ逃げられん。」
 戦鼓を鳴らして直進し、餘祟自ら十余人を殺した。魏軍は散り散りに逃げた。
 餘祟は、庫辱官偉のもとまで引き返すと、敵の首級降伏した兵卒を見せ、「魏軍恐れるに足らず」と宣言した。これによって、庫辱官偉軍は戦意が少しは奮い立った。
 この頃になって、慕容會はようやく出陣し、三月、薊城まで進んだ。

 

 慕容麟の専横。

 魏軍の中山城包囲は続く。城中の将士達は、皆、出撃を望んだ。
 征北大将軍慕容隆が、慕容寶へ言った。
「確かに渉珪めは、屡々小競り合いで勝っております。しかし、奴等が国を出てから、既に年を越しているのです。当初の勢いは阻喪し、士馬は大半死傷し、兵卒は故郷での生活を恋しがっている頃。今こそ、敵を撃破する時です。それに対して我が兵は、戦いを望んでおりますぞ。今、我等が全軍を挙げて攻撃すれば、必ず勝ちます。自重しすぎてぐずつけば、我が軍のせっかくの戦意が阻喪し、日々追い詰められるだけ。そこで何かの事変が起これば、もはや取り返しがつきませんぞ!」
 慕容寶も同意した。
 しかし、衛将軍の慕容麟が、事毎に出陣を邪魔した。慕容隆が陣形を取りながら出撃が中止になったことが、前後四回を数えた。
 そこで、慕容寶は拓跋珪のもとへ使者を派遣した。
「弟御の拓跋觚を帰し、常山以西(へい州)を割譲いたしますので、講和して下さい。」
 拓跋珪は、これに同意した。
 しかし、講和が纏まると、慕容寶は忽ち後悔した。そうゆう訳で、拓跋珪は、一旦廬奴まで撤退したが、再び中山を包囲した。
 ここに至って、燕の将士数千人が、共に慕容寶へ請願した。
「今、城は窮地に立たされております。このままではジリ貧です。それならば、いっそのこと討って出たい。それが臣等の願いでございます。それなのに、陛下は事毎に出撃を中止させておられます。これは自ら敗北の道を取っているようなもの。それに、包囲されて時が経ちますが、何の手も打たず、ただ、敵が退却するのを待っているばかりではありませんか。しかし、内外の情勢を見ても、兵力の強弱を比べても、敵が退却しないのは明らかです。どうか、我等の建議に従われて下さい!」
 とうとう、慕容寶は出撃を許した。慕容隆は退出すると、兵を召集し、諸参佐へ言った。「皇威が振るわず、寇賊が我が国を侮っているのは、我等全員の恥だ!もはや命も顧みるな。それが義だぞ!今、幸いにして敵を撃破できたら、勿論善しい。しかし、たとえ敗れたとても、我等の志節だけは伸べることができる!」
 そうして、武具に身を固めて乗馬し、城門まで進んだ。
 しかし、又しても慕容麟がこれを中止させた。兵卒は大いに憤慨し、慕容隆は涕泣して帰った。
 その夜、慕容麟は慕容寶暗殺を企み、左衛将軍の慕容精を呼んだ。しかし、慕容精は義としてこれを拒んだので、慕容麟は怒り、慕容精を殺して西山へ逃げ、丁零の余衆を掌握した。此処に於いて、中山城の人情は騒然となった。

 

 中山城脱出

 慕容寶には、慕容麟の行方が判らなかった。慕容會の軍が中山城の近辺に居たので、慕容麟がその軍を奪うのではないかと恐れ、まず龍城を確保しようと、慕容隆と慕容農を呼び出し、中山城を棄てて龍城を確保しようと相談した。
 すると、慕容隆が言った。
「先帝は、風雨を冒して戦場を駆け巡り、中興の業を成し遂げました。それなのに、崩じて一年も経たない間に、ここまで天下が崩壊しました。先帝に背いたと言わずして、何と申しましょうか!
 今、外寇がここまで激しいのに、内患まで起こっております。骨肉は乖離し、百姓は疑い懼れる。このままでは敵を防ぐことができません。北方へ遷都するのは、適宜なる処置と申せます。
 しかしながら、龍川は、土地が狭い上に民も貧しい所です。そこへ遷都する以上、再び中国全土に覇を唱えようと思っても、一朝一夕には参りません。民を愛してその力を節用し、農事に務め兵を訓練する。そうして数年もすれば、公私ともに力が充実いたします。その間、魏・趙の土地に寇暴が横行していれば、民は燕の恩徳を思うでしょう。そうなってこそ、復興の悲願は達成されるのです。
 ですが、それができなくても、険阻な地形を恃みとすれば、宴遊して鋭気を養うことくらいはできましょう。」
 慕容寶は言った。
「卿の言葉は、理を尽くしている。朕は卿に従おう。」
 高撫とゆう男は、ト筮の名人で、慕容隆から信任されていた。彼は、慕容隆へ私的に言った。
「殿下の北行は、達成できませんし、太妃にも、もう会うことはできますまい。もしも主上一人を北行させて殿下がここへ残られたならば、必ずこの国を奪えます。」
 だが、慕容隆は言った。
「国家大乱で、主上さえ塵を蒙られるのだ。しかも老母が北へ居るのならば、吾は北を向いて死にたい。卿の言葉は、人倫に悖るぞ!」
 慕容隆は幕僚達を呼び集め、去留を尋ねたところ、司馬の魯恭と参軍の成岌のみが同行を願い、後は皆留まることを願った。慕容隆は、その願いを全て聞き入れた。
 慕容農の部将谷會帰が、慕容農へ言った。
「この城へ残っている者は全て、参合にて渉珪に殺された人間の縁者達です。皆、血涙を流す程戦いたがっておりましたのに、衛軍(慕容麟)が邪魔していたのです。今、主上の北遷を聞き、皆は言っております。『慕容氏の一人を頭に戴いて魏と戦うことができたなら、例え死んでも恨みなど無い。』と。大王が、もしも彼等の望みに従ってここに留まり、魏軍を撃退して陛下を迎え入れましたなら、それこそ忠臣ではありませんか。」
 慕容農は、谷會帰を殺してやりたかったが、それにしては惜しむべき人材だった。それで、谷會帰へ言った。
「それでは単なる犬死にだ!」
 夜半、慕容寶は、太子の慕容策、慕容農、慕容隆、慕容盛等と共に、万余騎を率いて城を出た。当面の目標は、慕容會の軍に合流すること。渤海王朗と博陵王鑑等は幼くて城を出ることができなかったが、慕容隆が引き返して、巧く連れ出せた。
 燕将の王沈等は魏へ降伏した。楽浪王恵、中書侍郎韓範、員外郎段宏、太史令劉起等は、職人三百人を率いて業へ逃げた。
 こうして、中山城には主が居なくなった。百姓はパニックを起こし、東門が開きっぱなしの有様だった。魏王珪は、その夜のうちに入城しようと思ったが、冠軍将軍の王建は略奪して宝物を独占しようと考え、言った。
「夜中に入城しますと、兵卒達が、勝手気儘に官庫を略奪して回ります。夜が明けるまで待ちましょう。」
 魏王珪は、これに従った。
 だが、やがて開封公詳が残っていることが判明した。彼は、慕容寶の出発に遅れてしまっていたのだ。そこで、民は彼を主に戴いて城門を閉じた。
 慕容珪は連日猛攻を欠けたが、中山城を落とせない。そこで、梯子車の上に使者を乗せて、城内へ呼びかけさせた。
「慕容寶は、お前達を見捨てて逃げたのに、お前達は命を懸けている。一体、誰のために死ぬつもりだ?」
 すると、城内の皆が言った。
「降伏しても、参合坡のような目に遭わされるだけじゃないか!それなら戦った方が、まだ数日でも長生きできらぁ!」
 それを聞いた魏王珪は、王建を顧みて、その顔に唾を吐き掛けた。
 又、三千騎の兵に慕容寶を追撃させたが、追いつけなかった。この軍は、新城戌を破って還った。

 

 逃避行

 中山城を出た慕容寶は、井城にて慕容麟と遭った。まさか慕容寶がここへ来るとは思っても居なかった慕容麟は驚愕し、手勢を率いて蒲陰へ逃げた。その後、望都へ出たが、住民は、彼等へ食糧を送った。
 慕容詳は兵を派遣して慕容麟を討った。彼の妻子を捕まえることができたが、当の慕容麟は脱出して山中へ逃げた。
 慕容寶の一行は、薊城へ到着した。その時までに、殿中の親近は大半逃げ出していたが、慕容隆の手勢数百騎は残り、これが慕容寶を護っていた。
 慕容會は、二万騎を率いて薊南まで出迎えた。だが、その顔は怏々として恨みがましかったので、慕容寶は密かに慕容農、慕容隆へそれを告げた。すると、二人共答えた。
「慕容會はまだ若うございます。今まで一方を専任されていたので、多少傲慢になっただけに過ぎません。臣等が、礼儀を教えて叱責すれば済むことです。」
 慕容寶はこれに従ったが、まだ信じられず、慕容會の手勢を全て慕容隆の麾下へ入れるよう詔を出そうとした。だが、慕容隆はこれを固辞した。そこで、慕容會の兵卒を減らし、その分を慕容農と慕容隆の手勢へ回した。
 又、西河公庫辱官驥へ三千の兵を与え、中山の守備を加勢させた。
 慕容寶は、薊城の府庫の中の物を、全て龍城へ持ち出そうとした。
 魏の石河頭がこれを追撃し、夏謙澤にて追いついた。慕容寶は戦いたがらなかったが、慕容會が言った。
「臣が兵卒を慰撫・鍛錬したのは、ただ敵と戦う為であります。今、大駕が塵を蒙っている有様、『君恥しめられる時、臣死す』とばかり、皆は命さえ擲とうとしております。それなのに、虜は御丁寧にも追撃を掛けてきました。衆心は怒りで張り裂けんばかりでございます。
 兵法にも言います。『帰る敵を追い詰めてはならない。』或いは、『兵を死地に置いてこそ、生きる』と。
 今の我等は、この二つを手にしております。何で負けたりいたしましょうか!
 もし、ここで敵を棄てて逃げれば、奴等は必ずそれに乗じます。そうなれば、或いは余変が起こりますぞ。」
 慕容寶は、これに従った。
 慕容會が陣を整えて魏と戦っている最中、慕容農と慕容隆が南から襲撃してきた。魏軍は大敗し、燕軍はこれを百里余り追撃し、敵の首数千級を斬った。
 慕容隆は、単軍で、更に数十里追撃し、還った。この時、彼は泣きながら部下へ言った。
「中山城に居る時は、数万の兵を擁しながら、吾が意を展べる事ができなかった。今日の大勝で、ようやく遺恨を晴らしたぞ。」

 

 猜疑

 しかし、この大勝で、慕容會の驕慢に拍車が掛かった。慕容隆は屡々これを訓責したが、それは慕容會の忿恚を募らせるだけだった。それに、慕容農も慕容隆も、かつては龍城を鎮守したことがあり、位も名声も、自分よりも高い。このままでは、龍城へ入った後、政権を取られてしまうだろう。又、慕容寶は慕容垂の遺言を無視して慕容策を太子に立てた。もはや、自分が帝位を継承することはできない。それやこれやで、遂に彼は造反を謀った。 幽州と平州の民は、慕容會の恩を深く感じており、慕容農や慕容隆の下へ就くことを望んでいなかった。そこで、彼等は慕容寶へ請うた。
「清河王(慕容會)の勇略は、天下に響いております。それに我等は、殿下へ命を預けております。どうか、陛下は皇太子や諸王と共に薊宮へ留まられてください。我等は王へ従って南征し、中山城を開放して、必ずや陛下をお迎えにあがります。」
 だが、慕容寶の近習達は、皆、慕容會の驕慢を憎んでいたので、異口同音に言った。
「清河王は、皇太子となれなかったので、不満を持っております。しかも、武才は人並以上で、人心まで把握している。陛下がもし彼等の請願に従ったなら、我等は中山城が開放された後のことを懼れます。」
 そこで、慕容寶は衆人へ言った。
「道通(慕容會)はまだ若く、才能も二王には及ばない。どうして彼独りに遠征を任せられようか!それに、いずれ朕が六軍を率いる時、會を羽翼として頼らねばならない。なんで吾が側から離せようか!」
 衆人は不平を含んで退出した。
 慕容寶の近習達は、慕容會を殺すよう勧めた。侍御史の仇尼帰は、これを聞いて慕容會へ告げた。
「大王は、父親を恃みとしておられますが、その父は、既に志を変えております。支えてくれる者は兵権。しかし、これも既に奪われました。これからどうやって身を守られるおつもりですか!こうなった以上、二王を誅殺して太子を廃立し、大王が自ら東宮となられて将相を兼任し、社稷を復興するのです。これしかありません!」
 慕容會は、決断できなかった。
 慕容寶が、慕容農・慕容隆へ言った。
「道通の行いを見るに、奴は必ず造反する。今のうちに除かなければ。」
 すると、慕容農、慕容隆は共に言った。
「今、凶寇が国中を荒らし回り、社稷は累卵の危うきにあります。慕容會は旧都を鎮撫し、国難に際して遠路駆けつけてきたではありませんか。それに、その威名も重く、四隣を震動させるに充分です。それなのに、反逆の兆しさえも見せないうちにこれを殺そうとなさる。それは、親子の情愛を破るだけではなく、威望を大きく損なうことになってしまいますぞ。」
「いや、會の逆志は既に固まっている。卿等が慈恕の想いでグズついていると、奴目は造反してしまう。そうなれば、まず奴はまず諸叔父を殺し、その後に吾を殺す。その時悔いても及ばぬぞ。」
 これを聞いて、慕容會は益々懼れた。

 

 慕容會、決起

 四月、癸酉、慕容寶は廣都の黄楡谷に宿営した。慕容會は、その党類の仇尼帰、呉提染干に二十余人の壮士を与えて派遣し、慕容農と慕容隆を襲撃させた。慕容隆は帳下で殺され、慕容農は傷つきながらも仇尼帰を捕らえ、山中へ逃げた。
 仇尼帰が捕らえられたと聞いた慕容會は、造反が露見したと思い、その夜、慕容寶のもとへ詣でて言った。
「農、隆両人が造反を謀んでおりました故、臣がこれを除きました。」
 慕容寶は、會を殺したかったが、上辺を取り繕って言った。
「吾も又、久しく二王を疑っていたのだ。良くやってくれた。」
 甲戌、朝、慕容會は厳重に警備しながら出立した。この時、慕容隆の遺体を棄てて行こうとしたが、餘祟が涕泣して固く請うたので、遂に車に乗せて従軍させることを許可した。
 そこへ、慕容農が出てきたので、慕容寶が叱りつけた。
「よくもオメオメと顔を出せたな!」
 そして、部下に命じて捕らえさせた。
 十余里程進んで所で、慕容寶は群臣を召集して食事を摂らせ、その席で慕容農の罪状を協議した。この時、慕容會も同席していたが、慕容寶が衛軍将軍の慕輿騰へ目配せすると、その意を察した慕輿騰は慕容會へ斬りかかった。だが、その太刀は慕容會の首を傷つけただけで、殺すことはできなかった。

 慕容會は自軍へ逃げ込むと、兵を指揮して慕容寶を攻撃した。慕容寶は数百騎を率いて二百里を駆け、僅かの時間で龍城へ到着した。慕容會は石城まで追撃したが、とうとう取り逃がしてしまった。
 乙亥、慕容會の命令を受けた仇尼帰が、龍城を攻撃した。しかし、慕容寶は夜襲を掛けてこれを撃退した。慕容會は使者を派遣し、左右の佞臣を殺すことと、自分を太子に立てることを要求したが、慕容寶は却下した。
 慕容會は、乗輿や器服を悉く収奪し、後宮を全て将帥へ分配し、百官を置いて、皇太子、録尚書事を自称した。そうして、慕輿騰討伐を名目に、兵を率いて龍城へ向かった。
 丙子、慕容會軍は、龍城の城下へ迫った。
 慕容寶が西門へ臨むと、慕容會は馬に乗り、遠くから慕容寶へ語りかけた。慕容寶がこれを詰ると、慕容會は戦鼓を打ち鳴らさせ、総攻撃を命じた。龍城内の兵卒は皆激怒し、出撃して會軍を大いに破った。慕容會の兵卒は大半が死傷し、営まで逃げ帰った。
 その夜、侍御郎の高雲が、決死隊百余人を率いて慕容會軍を襲撃し、慕容會軍は壊滅した。慕容會は十余騎を率いて中山へ逃げたが、慕容詳がこれを殺した。
 慕容寶は、慕容會の母親と、三人の息子を殺した。
 丁丑、慕容寶は大赦を下した。慕容會の共謀者も、その罪を全て赦し、旧職へ復帰させた。論功行賞では、数百人もの人間が、将軍職を拝受したり、侯へ封じられた。
 慕容農は、骨が破れ脳が見えるほどの重症だったが、慕容寶が自ら傷口を縫い合わせ、どうにか一命を取り留めた。慕容農は、左僕射となり、司空、領尚書令を拝受した。
 餘祟は、その忠誠を嘉され、中堅将軍を拝受した。
 慕容隆は司徒を追贈された。諡は康。
 高雲は、建威将軍に任命され、夕陽公に封じられた。のみならず、慕容寶は彼を養子とした。高雲は、高句麗の一族である。燕が高句麗を破った後、彼の一族は青山へ移住し、代々燕の臣下となった。
 高雲の為人は、沈厚寡言。余り目立たない人間だったが、中衛将軍の馮跋だけは彼の才能を奇として、これの友となっていた。(高雲、馮跋の事績は、ここに初出した。)
 馮跋の父は馮和。西燕に仕えていたが、慕容永が滅んでからは和龍へ移住していた。
 この頃、業の人間は、慕容徳へ皇帝となるよう勧めていた。だが、やがて龍城から使者が来て、慕容寶が生きていることを告げたので、取りやめとなった。