徐圓朗
 
 徐圓朗は隋末の軍閥の一人である。
 唐の武徳元年(618年)、王世充は東都から援軍を得て李密を攻撃したが、大敗を喫した。李密は勝ちに乗じて東都へ迫る。その兵力は三十万を超えた。この時徐圓朗は、竇建徳、朱粲、孟海公等と同様李密へ使者を派遣して帰順した。
 二年、竇建徳の武名が轟くと、徐圓朗はこれに帰順した。四年、竇建徳が王世充の救援に出兵すると、彼も手勢を率いて洛陽へ向かった。詳細は「竇建徳」へ記載する。
 武徳四年(621年)六月、洛陽が平定した時、徐圓朗も降伏を請うた。これは受諾され、彼は?州総管を拝受し、魯郡公に封じられた。 

 劉黒闥が造反すると、彼はひそかに圓朗とも手を結んだ。
 上は、葛公盛彦師へ河南の安集を命じた。辛亥、圓朗は任城にて彦師を捕らえ、挙兵した。劉黒闥は圓朗を大行台元帥と為した。すると、?・軍(「軍/里」)・陳・杞・伊・洛・曹・戴等八州の豪傑達がみな、これに応じた。
 圓朗は、彦師を厚く遇した。彼の弟へ降伏勧告の書を書かせて、虞城を降伏させる為だ。だが、彦師は書へ書いた。
「我は君命を果たせずに賊徒の擒となった。なんとも不忠の臣下だ。もはや命を捨てると覚悟を決めた。汝は老母を大切にして、我のことを念頭に置くな。」
 圓朗は怒りを顕わにしたが、彦師は自若としていた。すると、圓朗は大笑いして言った。
「盛将軍は壮節をお持ちだ。殺してはならない。」
 そして、以前同様礼遇を続けた。 

 河南道安撫大使任壊は、宋州にて圓朗の造反に遭遇した。副使の柳濬は、退却してベン(「水/卞」)州を確保するよう勧めたが、壊は笑って言った。
「柳公は臆病だなあ。」
 圓朗は、更に楚丘を陥し、兵を率いて虞城を包囲しようとしていた。
 陵には諸豪族から差し出された人質の子弟達が大勢いたので、壊は部将の崔枢と張公謹を派遣し、質子百余人を率いて虞城を守らせた。すると、濬は言った。
「枢と公謹は、共に王世充麾下の将軍でしたし、諸州の質子の父兄達は造反に加担しています。きっと、彼等は寝返りますぞ。」
 しかし、壊は応じなかった。
 枢は、虞城へ到着すると、質子を何隊かに分けて、土地の人間達との混成部隊を編成し、共に城を守らせた。賊がやや近づいてくると、質子の中には寝返る者も出たが、その時には枢は即座にその部隊の隊長を斬った。おかげで諸隊長は震え上がり、各々自分の隊の質子達を殺した。枢は、それを禁じなかった。そして斬った質子の首は、門外に梟首した。また、壊の元へは使者を派遣して、ありのままを告げた。すると、壊は、上辺は怒って言った。
「我が質子を連れて行かせたのは、彼等の父兄を招く為だ。それなのに、何の罪で彼等を殺したのか!」
 そして、退出して濬へ言った。
「崔枢ならば、これくらいやってのけると思っていた。県人達の手で質子を殺したのだから、賊徒達とは深い仇敵になった。もう心配はいらないぞ!」
 賊は虞城を攻撃したが、果たして勝てずに帰った。 

 九月、辛酉、徐圓朗は、魯王を自称した。
 同月、徐圓朗は済州へ来寇した。治中の呉汲論が、これを撃退した。
 盛彦師が、徐圓朗のもとから逃げ帰った。王薄は、彼の話をもとに青、莱、密の三州を説得して廻り、すべて下した。
 戊申、徐圓朗の昌州治中劉善行が、須昌を以て来降した。
 十一月、庚戌、杞州の人周文挙が、刺史の王文矩を殺し、城を以て徐圓朗へ応じた。 

 武徳五年(622年)正月丁亥、済州別駕劉伯通が刺史の竇務本を捕らえ、州を以て徐圓朗へ帰属した。
 二月、戊辰、金郷の人陽孝誠が徐圓朗に背き、城を以て来降した。
 戊寅、ベン州総管王要漢が徐圓朗の杞州を攻撃して、これを抜いた。その将周文挙を捕らえる。 

 四月、劉黒闥は、李世民と戦って大敗した。それを聞いて徐圓朗は大いに懼れて為す術を知らなかった。
 河間の住民劉復禮が圓朗へ説いた。
「劉世徹とゆう者がいます。不出生の才覚を持ち、東夏では有名です。その上彼は非常の相を持ち、真に帝王の器です。将軍がもしも自立しようとしても、結局は失敗するでしょうが、世徹を迎え入れて奉じれば、天下を平定することもできましょう。」
 圓朗は納得し、世徹を迎えようと復禮を凌儀へ派遣した。
 すると、ある者が圓朗へ言った。
「将軍は誑かされて世徹を推戴しようとしていますが、世徹がもしも志を得たら、将軍の領土がどうして保全されましょうか!僕が昔の話を引き合いに出さなくても、将軍も擢譲と李密をご存知でしょうに。」
 圓朗は、これにも同意した。
 やがて世徹はやって来た。数千人の衆を率いて城外に屯営し、圓朗が出迎えるのを待った。だが圓朗は出てこないで、使者がやってきて世徹を徴召した。世徹は変事が起こったと察知し、逃げ出したかったが、逃げ切れないことを恐れ、入って謁見した。圓朗は、その兵を悉く奪って世徹を司馬とし、焦(「言/焦」)、杞二州を治めさせた。ところが、東方の人々は、もともと彼の名前を聞いていたので、世徹の行く先々、皆が降伏してきた。遂に、圓朗は世徹を殺した。 

 秦王世民は河北から兵を退き圓朗を攻撃しようとしていたが、上がこれを呼び戻した。そこで世民は朝廷へ馳せ参じ、兵卒は斉王元吉へ預けた。
 庚申、世民は長安へ到着した。上は、これを長楽にて出迎えた。
 世民が圓朗の情勢を具に伝えると、上は彼をふたたび黎陽へ派遣した。世民は、そこで大軍を手にすると、済陰へ向かった。
 同月丙子、行台民部尚書史萬寶が徐圓朗の陳衆を攻撃して、これを抜いた。
 六月乙卯、淮安王神通を徐圓朗攻撃に派遣した。
 秋、七月、甲申。秦王世民の為に弘義宮を造営し、これに住ませた。
 世民は徐圓朗を攻撃して十余城を下し、その名声は淮・泗を震駭させた。杜伏威は、恐れて入朝を請うた。世民は、淮・済の間がほぼ平定したと考え、淮安王神通、行軍総管任壊、李世勣等へ圓朗を攻撃させた。
 乙酉、軍を編成した。 

 六年、正月、劉黒闥が亡んだ。
 同月、丙寅、徐圓朗が切羽詰まって、数騎と共に城を棄てて逃げたが、野人に殺された。こうして、その地は悉く平定した。 

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