斉の寺人貂師を漏らす。

(春秋左氏伝、その他)

 始め、斉の桓公が管仲を登庸しようとした時、管仲は言った。
「酒色に耽って勝手気儘に遊びまくることは、別に大した害はありません。覇者になるとゆう大望があったとしても、別にそれを妨げるものではないのです。覇者になりたければ、気を付けなければいけないのはただ一つ。詰まらない人間を近づけないことです。」と。
 これによって桓公は管仲に斉の全権を委ねた。桓公から全幅の信頼を得た管仲は、大胆な政治改革を行い、これによって斉は国力を高め、遂に覇者となった。(以上、出典不詳)

 桓公の二十七年、宦官の貂が軍事機密を漏らした。
 四十一年、管仲は臨終の時、桓公に言った。
「貂、易牙、開方の三人は、決して寵用してはいけません。彼等を遠ざけることです。」
 しかし、桓公はこれを聴かなかった。
 四十三年、桓公が没すると、五人の太子が王位を争い、彼等はそれぞれ三人の奸臣達を巻き込んで派閥争いに明け暮れ、太子の昭は宋へ逃げた。
 翌年、宋の襄公が諸侯の兵を集め、昭を奉じて斉へ攻め込んだ。
 桓公は生前、昭へ王位を譲る為に管仲と謀議を凝らし、結局、宋の襄公を後ろ盾とするように決め、昭の行く末を襄公へ頼んでいたのだ。襄公はその期待を裏切らず、昭を後継とすることができた。これが斉の孝公である。
 孝公が即位して斉の混乱が治まるまで、桓公の遺体は放置されっ放しだった。孝公が改めて埋葬した時には、その屍は蛆にまみれていた。

(博議)

 管仲が斉の桓公に謁見した時、彼は最初に言った。
「酒色に耽って勝手気儘に遊びまくることは、別に大した害はありません。覇者になるとゆう大望があったとしても、別にそれを妨げるものではないのです。覇者になりたければ、気を付けなければいけないのはただ一つ。詰まらない人間を近づけないことです。」と。
 この時、管仲は何を思っていたのだろうか?私には大体見当がつく。
゛あれこれと注文を付ければ、全てが中途半端に終わってしまう。だから、よっぽど大切なことにだけ十分気を遣って貰って、後のことは好き勝手にやって貰おう。゛と。
 つまり、彼が政権を与えられた時に、桓公に次のような約束をしたのである。
「斉一国の政治上の権限を全て私に預けていただけるなら、斉一国の楽しみを全て我が君のもとへ集めましょう。言ってみるなら、我が君は私に権限を与え、その見返りとして、私は我が君へ楽しみを与える。これは双方共に得になる割の良い取引ではありませんか。」
 桓公は承諾し、この契約は成立した。こうやって各々の領分が決まってしまったので、桓公は専ら遊び回れたし、管仲は政治に腕を振るえた。まるで南北に遠くかけ離れた胡と越のように互いに相手の領域を侵さず、互いに満足できるはずだった。
 これ以後、もしも管仲が桓公へ苦言を呈してその楽しみを邪魔したとしたら、桓公はそれを契約違反として管仲を詰れるわけだ。逆に桓公が詰まらない人間を政治に関わらせて管仲の権限を削いでしまったら、桓公は管仲への契約を破ったことになる。管仲は桓公のもとで宰相としての地位を長く保ち、様々な政治改革を行って多大な功績を残せたが、それは全てこの契約に基づいているのである。

 さて、宦官の貂とゆう男は、もともと猟犬や馬を太らせ女官達の面倒を見て、桓公の遊宴の悦楽の為に奉仕する者だから、その存在は管仲も認めたものである。しかし、それが桓公の寵愛を恃み政治に口を挟み、遂には軍事機密を漏らすようになってしまった。これは管仲との契約違反ではないか。
 軍事とゆうものは、機密が信条。これをやたらと漏らすような奴は誅殺されても当然である。ましてや覇者の軍団とゆうものは中国全土に睨みを利かす軍事立国の軍隊だ。これを掻き乱すような輩をどうして許せようか。管仲ともあろう男なら、当然断固たる処置を執るはずである。桓公へ対して当初の契約を表明し、軍門にて貂の首を刎ねてさらしものにするかと思いきや、意外にも彼は耐え忍び、この件について不問に処してしまった。
 何故だろうか?
 管仲が愚者だったなら、自分にそのような権利があることを知らなかっただろうが、管仲は愚者ではない。管仲が女々しい男だったなら断固たる処置を執れなかったかも知れないが、管仲は決断と実行の男である。にも関わらず、結局彼は不問に処した。これにはきっと、それなりの理由があったに違いない。それについて釈明しよう。

 碁を打って、僅か数手に過ぎないのに早々と自分の負けを認めて手を納める。それこそが碁の名人とゆうもの。明らかな敗北になっても気がつかず、手が空になるまで石を打ち続け、遂に大敗して大恥かいてもまだ認めずに、相手を罵って碁盤を蹴飛ばし、なお厭きない。こんな男は碁師としては下の下である。管仲は大名人だ。何でそんな見苦しい真似をするだろうか。
 管仲は、自分の敗北に、兆しのうちに気がついた。まだ誰も判らないこの時点で、自分の失点は既に取り返しのつかないところまで進んでいると判ったのである。だから、自分の災厄を未然に防ぐ為に、事件の糾明を止めざるを得なかったのだ。
 おおよそ、知恵者の敗北は本人の心の中だけに在る。これに対して愚者は、既に自分が負けていることに気がつかずに戦いを挑むから、決定的な敗北とゆう形でケリがついてしまう。だから、知恵者が敗れても、他の人間は誰もそれに気がつかない。それに対して愚者の敗北は、天下に広く宣伝されてしまうのだ。
 もしも管仲が、この件に関して雄弁舌を奮い、持っている権限の全てを使い果たすまで戦い続けたとしたら、結局彼は全ての権限を奪い取られ、斉一国に身の置き場すらなくなしてしまったに違いない。そんな羽目に陥るようなら管仲ではない。

 ・・・と、こう言えば、「そんな説明では判らないぞ、」と反論する人間が居た。
 貂は既に軍事を攪乱した。だから、当初の契約に照らし合わせてみると、契約違反は明らかに桓公だ。たとえ誰が裁判官になったとしても、管仲に理があり、桓公に非があると判決を下すに違いない。この二人が言い争えば、管仲が必ず勝ち、桓公は絶対負ける。そうじゃないか?
 それは確かにその通りだ。にも関わらず、管仲は自分の敗北を悟って争いを止めたのだ。
 それでは、もっと詳しく説明しましょう。

 最初の契約に於いて、桓公が逸楽に耽ることを管仲は認めたのである。
 さて、ここで問題がある。
 君主が遊び呆けていたとしよう。そうするとその周りに集まってくるのは、果たして君子か小人か?
 逸楽のあるところに集まってくるのだから、詰まらない男達に決まっている。そのような輩が、どうして権勢を貪らずに済ますだろうか?
 管仲は既に逸楽を許可したのだ。それでいて詰まらない連中が周りに集まることを禁止する。これではまるで、田畑を与えながら収穫を禁止するようなものである。その周りに小人を集めなければ、桓公は逸楽に耽れないではないか。
 では一歩譲って小人が集まることを認めよう。しかし、その小人達に権勢を与えることは禁止する。・・・ばかばかしい!盗人と同室に泊まって、物を盗まれたから怒るなど、道理として通じる筈がない。
 管仲は功績に焦った。斉国の権限を一刻も早く手にしようと、深い考えもなしにこの契約を出して桓公の気を引いたのである。結果として貂が軍事機密を漏洩するに至ったが、管仲は定めし後悔しただろう。しかしながら、始めに侵した失策を、この時に至って挽回する術はもはやなかった。だから管仲はクレーム一つつけずに泣き寝入りしたのだ。

 もしも他の男がこのような状況に置かれたなら、彼は必ず抗議しただろう。そうすると桓公は道理に押し切られて嫌々ながらでも貂を処罰するかも知れない。しかし、その後誰が桓公の遊び仲間となるだろうか?
 あるいは、桓公が再び貂のような人間を探し出して後がまに据えるかも知れない。しかし、それでは今までと変わらない。管仲の権限は今度は貂の後がまによって削がれてしまうのだ。それでは清廉潔白な人間を捜し出して桓公の側近としようか?だが、そんな連中がそばにいたのでは、口うるさくて遊びに耽るどころではなくなってしまう。
 宦官なんぞの輩で主君の意に叶う連中は、必ず主君の権限を盗む。いわゆる。「狐は虎の威を借りる」とゆう奴だ。主君の権限に薬指を動かさない人間は、主君の意に叶わない。もしも自分の周りの連中が一人残らず清廉潔白だったなら?そんな生活は、窮屈過ぎて堪らないに決まってる。そうなってしまったら、桓公は必ず管仲を詰る。
「いくら逸楽に耽っても構わないとゆう条件だったからこそ、俺はお前に全ての権限を委ねたのだ。こんな窮屈な生活の何が楽しいか!お前は俺を騙したな!」

 そう、貂を処罰する時に、管仲は左券を振りかざして桓公を責めることができた。だが、そうしてしまえば、貂を処罰した後に、今度は桓公が右券を振りかざして管仲を責めることとなってしまう。君臣が相手を互いに咎めあう。そうして憎しみ合うことになってしまえば、管仲は斉のどこに身を置くことができるだろうか?
 管仲と桓公の君臣の交わりは、模範的なものとして天下に評判が高かった。それがたちまちいがみ合ってしまえば、天下挙ってこの二人を嘲り笑い、百代後までのお笑い種となってしまうに違いない。管仲が隠忍自重して貂を不問に処したのは、この恥辱を畏れた為だ。

 いいや、実を言ったらもっと悲惨だ。
 貂が用いられた当初は、管仲が許可したからこそ桓公は貂を任用できた。この時には、管仲が主で貂は客だったと言える。しかし、桓公が貂を寵愛してからは事情が変わった。貂を害さないからこそ、管仲は桓公から疎まれなかったのである。つまり、この時には既に、貂が主で管仲は客に成り下がっていたのだ。
 君臣の歓はひそかに移り、主客の勢いは逆転した。貂が管仲から容認されていたのは既に昔の話となり、今や管仲が貂から容認されるようになっていたのだ。管仲は貂から余計なことを吹き込まれないように兢々とするばかり。なんで彼を処罰するよう要請できただろうか。

 管仲は死ぬ間際、見舞いに来た桓公へ対して、始めて貂の奸悪を暴露し、易牙・開方と共に列挙して彼等を追放しようとした。
 平時は敢えて彼等を攻撃せずに保身のみに汲々とし、死ぬ間際になれば憚らずに彼等を非難し「人を知る」の名声を博そうと望んだ。そのやり口は、マア、達者なものだ。
 しかし、いくら巧妙とは言っても、既に開かれた災いを繕う事はできなかった。
 桓公の子息達は交々相続を争い、奸臣達を巻き込んだ派閥争いは内乱の様相を呈した。こうして国力を大きく落としてしまった斉は、滅亡に至るまで、再び覇を唱えることは遂にできなかったではないか。宴遊に耽った桓公では、皇子達の教育も知れたもの。後継者争いが起こって国が没落するのも当たり前。斉の没落こそ、管仲の契約が招いた結果である。雄大にして永遠なる天下の前では、チョットばかりの小賢しさなど物の役に立たぬのだ。

 嗚呼、管仲が桓公の補佐役に名乗りを挙げた時、その胸にどれ程の野心を抱いていたのだろうか。きっと、斉を強大な国家にし、天下を統一してこれに号令を掛けることを夢見ていたに違いない。
 斉の桓公盛んなりし頃は四方の異民族達が首を垂れて入貢し、その威名は中華を越えて鳴り響いたが、それでもまだまだ功績が小さいとした。それが、その晩年に至るや悲惨なことは見る影もない。桓公は後継者一人決めることができず、管仲と謀って宋の襄公を後ろ盾としなければ、心に決めた皇子を即位させることさえできなくなってしまっていた。 管仲が「宋の襄公を恃みましょう。」と助言した時、彼の心に忸怩たる想いがあっただろう。口ごもり、地団駄を踏み、身の置き所を無くした程のいたたまれない想いに、身をさいなまれていたに違いない。私は書を読みここのくだりに至る度に、その衰えたるを憐れみ、窮したるを哀れまずにはいられないのだ。

 世間の人間は、覇者へ対して、「功利を尊ぶ。」と評している。しかしながら、五覇の筆頭として他の追従を許さない筈の桓公でさえ、子供達は互いに殺し合い、自身は屍に蛆が湧いても放置されたまま顧みられなかったのだ。しかも、その悲惨な末路を回避することさえできなかった。これでどうして「功利を尊ぶ。」と言えようか。
 だからこそ言える。王道の他に平坦な道はない。その他の生き方は、全てこれイバラの道。仁義の他に功利はない。その他を求めれば、全て禍しか得られない。覇者のことを「功利」と謗る人々は、却って覇道を高く評価しすぎているのだ。

 

(論者曰く)

 管仲が桓公から登庸された時に言った言葉は、「春秋左氏伝」には見えなかった。この論文を訳するに当たって「史記」「管子」へ目を通したが、この事件は記載されてなかった。一体、出典は何なのだろうか?
 春秋左氏伝では桓公の二十四年に管仲が桓公に言っている。
「宴会などの喜びは猛毒です。これに馴れてはいけません。」
 上記の台詞と正反対ではないか。
 しかしながら、この説話は余りにも有名だし、「東莱博議」に記されているところを見ると、宋の時代には一般に流布されていたに違いない。
 どなたか出典を知っていたらご一報願いたいものである。
 まあ、件の説話が実話にせよ虚構にせよ、現実に桓公が子供の教育に失敗したことは間違いないし、それが斉の没落を招いた。呂東莱が管仲を詰ったのは、補佐役としてそれを未然に防げなかったことにあるわけだし、覇道の限界もそこに見いだしている。この論法で行くと、諸葛孔明も蜀の後主の教育を失敗したが故に、「蜀を滅ぼした張本人だ」とゆうことになってしまうが、多分、呂東莱もそう言いたかったのだろう。大本を糺すことこそが、王道、則ち「儒教」の基本理念なのだから。
 この件については、いずれ私の言葉で詳しく論じてみたいものである。

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