韋氏の乱
 
 則天武后の御代、長安城の東隅の住人王純の家で井戸の水が溢れ、やがて数十頃の広さの大池となった。これを隆慶池と呼んだ。
 相王の子の五王の屋敷はその北にあったが、ある日、気を観る名人が言った。
「いつも王気がわだかまっていたが、今日は又、特別に盛大だ。」
 景雲元年(710年)乙未、中宗は隆慶池へ御幸した。綏を結んで楼を造り、侍臣と宴会を開き、船を浮かべて王気の正体が自分自身であると誇示した。厄払いである。 

 定州の住人郎岌が上言した。
「韋后と宗楚客が、まさに造反しようとしています。」
 后はこれを上へ言って、岌を杖で打ち殺した。
 五月丁卯、許州司兵参軍の偃師の燕欽融がまた上言した。
「皇后は淫乱で国政に干渉し、宗族は強大です。安楽公主、武延秀、宗楚客は国を転覆しようとしています。」
 上は欽融を召し出して面罵した。しかし、欽融は頓首して言い返し、怯んだ顔色もしなかった。上は黙り込んだ。
 宗楚客は制をでっち上げ、これを撲殺するよう飛騎へ命じた。飛騎が欽融を殿庭の石の上へ投げつけると、欽融は首の骨を折って死んだ。楚客は大声で快哉を叫んだ。
 上は、この件を窮問しなかったが、心中非常に不愉快だった。これによって、韋氏とその党類は、始めて憂懼した。 

 散騎常侍馬秦客は医術で、光禄少卿楊均は料理で宮掖へ出入りしており、皇后の寵を受けていたので、事が露見して誅殺されることを恐れていた。安楽公主は、韋后が朝廷へ臨み、自らは皇太女となることを望んでいた。そこで彼等は一緒に謀略を巡らし、餅の中へ毒を仕込んだ。
 六月壬午、神龍殿にて中宗が崩御した。
 韋后は喪を秘して発せず、自ら全ての政務を執った。癸未、諸宰相を禁中へ召し入れ、諸府の軍兵五万人を徴集して京城へ屯営さた。この軍兵は、フバ都尉韋捷、韋灌、衞尉卿韋エイ、左千牛中郎将韋奇(「金/奇」)、長安令韋播、郎将高嵩へ分配してその指揮下へ入れた。 エイは温の族弟、播は従子、嵩はその甥である。中書舎人韋元へ六街を巡回させる。
 また、左監門大将軍兼内侍薛思簡等へ五百人の兵を与えて均州へ駆けつけさせ、焦王重福へ備えさせた。刑部尚書裴談、工部尚書張錫を共に同中門下三品として東都留守とした。吏部尚書張嘉福、中書侍郎岑義、吏部尚書崔是を皆、同平章事とする。義は長倩の従子である。
 太平公主と上官昭容は遺制をでっちあげた。その遺制は、温王重茂を皇太子に立て、皇后を知政事とし、相王旦を参謀政事とするとゆう内容だった。
 宗楚客が、密かに韋温へ言った。
「相王の輔政は、理にそぐわない。それに皇后について考えるなら、ソウ(「女/叟」=兄嫁)と叔とでは口をきかないのが礼儀だ。聴朝の際に、礼が廃れるぞ。」
 遂に、皇后が朝廷へ臨むのを中止し相王の政事をやめさせるよう、諸宰相を率いて上表して請うた。
 蘇壊(ほんとうは、王偏)が言った。
「遺詔にどうして違えられようか!」
 だが、温と楚客が怒ると、壊は恐れてこれに従った。そこで、相王を太子太師とした。
 甲申、梓宮を太極殿へ移し、百官を集めて喪を発した。皇后は朝廷へ臨んで摂政となり、天下へ恩赦を下し、”唐隆”と改元する。相王旦は太尉へ進位し、ヨウ王守禮をタク王、壽春王成器を宋王として、人望へ応えた。韋温は、総知内外守足(「手/足」)兵馬事とする。
 丁亥、殤帝が即位した。御年十六。皇后を尊んで皇太后とし、妃の陸氏を皇后に立てる。
 壬辰、紀處訥を持節として関内道を巡撫させた。同様に、岑義へ河南道、張嘉福へ河北道を巡撫させる。
 宗楚客と太常卿武延秀、司農卿趙履温、国子祭酒葉静能及び諸韋が、皆で韋后へ勧めた。
「武后の故事に則って、南北衞軍や台閣要司の兵卒を、韋氏の子弟で掌握し、党衆を広くかき集めて中外で連結しましょう。」
 楚客は、また、図讖を引用して韋氏が唐に取って代わるべきだと理論つけ、これを密かに上書した。彼は殤帝の殺害を謀ったが、相王と太平公主を深く忌み、韋温や安楽公主と共に彼等を取り除く陰謀を巡らせた。
 相王の子息の臨シ王隆基は、路(「水/路」)州別駕をやめてから京師に在住して密かに才子や勇者達を集め、社稷の匡復を謀っていた。
 話は遡るが、太宗皇帝が官戸と蕃口から驍勇の者を選んで虎の模様の衣を着せ、豹柄の衣を着せた馬に乗せて狩猟に随従させた。彼等は馬前で禽獣を射て、”百騎”と呼ばれていた。則天武后の頃、増員して千騎となり、左右の羽林に隷属した。中宗はこれを万騎と呼び、直参とした。隆基は彼等豪傑達と厚く交友を結んでいた。
 兵部侍郎崔日用は、もともと韋、武の腰巾着で宗楚客と仲が良かったが、楚客の陰謀を知ると、我が身に禍が及ぶのを恐れ、寶昌寺の僧侶普潤を密かに隆基の元へ派遣してこれを告げ、速やかに決起することを勧めた。
 隆基は太平公主及び公主子衞尉卿薛祟柬(「日/柬」)、苑総監の鍾紹京、尚衣奉御王祟華(「日/華」)、前の朝邑尉劉幽求、利仁府折衝麻嗣宗らと共に、機先を制してこれを誅殺する謀略を練った。
 韋播、高嵩は自分達の威勢を誇示しようと、しばしば万騎をぶったので、万騎は皆、彼等を怨んでいた。果毅の葛福順と陳玄禮が隆基を見ると、これを訴えた。そこで隆基が、「諸韋を誅殺しようか」とそれとなく告げるたところ、皆は勇躍して命懸けで戦うことを請うた。万騎果毅李仙鳬もまた、この陰謀に関与した。
 ある者が、相王にも告白するよう隆基へ告げると、隆基は言った。
「我等は社稷の為に殉じるのだ。成功したらその成果は王へ献上するが、失敗したら我が身を棄てるだけ。王へ累を及ぼしてはいけない。今、告白して、もしも王が従ったならその身も危険に預かることになるし、従わなかったなら大計は敗れる。」
 こうして、王へは告げなかった。
 庚子、申の刻(午後3時〜5時頃)隆基は微服で幽求等と苑中へ入り、官舎にて鍾紹京と会った。紹京は後悔しており、これを拒もうとしたが、妻の許氏が言った。
「我が身を棄てて国に殉じるのですから、必ず神の御加護があります。それに、謀略は既に定まったのですから、今決起しなくても、どうして免れましょうか!」
 紹京は走り出て拝謁した。隆基はその手を執って坐らせる。
 この時、羽林将士は皆、玄武門に屯営していた。夜になって、葛福順、李仙鳬等が皆、隆基の所へやって来て、号令を掛けて行軍するよう請うた。
 二鼓(時刻でしょう。いつ頃に相当するか、誰か教えてください。)頃、空の星が雪のように散り落ちてきた。劉幽求は言った。
「これぞ天意です。時を失ってはなりません!」
 福順が剣を抜いて羽林営へ突入し、韋エイ、韋播、高嵩を血祭りに上げ、言った。
「韋后は先帝を毒殺し、社稷を滅ぼそうと謀っている。今夕、諸韋を共に誅殺し、馬鞭以上の背丈の者は皆、斬って捨てろ。相王を立て、天下を安んじるのだ。敢えて二心を持って逆賊を助ける者は、その罪は三族へ及ぶぞ。」
 羽林の士は皆、大喜びで命令を聞いた。そこで、エイ等の首を隆基へ送る。隆基はこれを灯りに照らして検分すると、遂に幽求等と共に苑南門を出る。
 紹京は丁匠二百余人を率いた。彼等は斧や鋸を執って従う。
 隆基は福順へ左万騎を与えて玄徳門を、仙鳬へ右万騎を与えて白獣門を攻撃させ、凌煙閣の前で合流しようと約束した。彼等は即座に大声を挙げて進軍した。福順等は共に門番の将を殺し、関を斬って闖入する。
 隆基は玄武門外で兵を指揮していた。三鼓頃大声をきいたので、総監及び羽林兵を率いて闖入した。太極殿の宿衞梓宮にいた諸衞兵(これは南牙諸衛兵である。)は、喧噪をきき、皆、武装して応戦した。
 韋后は惶惑して飛騎営へ走り込んだ。だが、飛騎の一人がその首を斬って隆基へ献上した。
 安楽公主は鏡を見ながら眉を描いていたところを、軍士に斬り殺された。武延秀を粛章門外で斬り、内将軍賀婁氏を太極殿西で斬る。(この頃、韋氏は婦人を内将軍としており、この時は賀婁尚宮が任命されていた。)
 話は前後するが、上官昭容は、まだショウヨだった頃、従母の子息の王立(「日/立」)を左捨遣に引き立てた。すると立は、昭容の母の鄭氏へ言った。
「武氏は、天から見捨てられた一族です。もう、再興はできません。今、ショウヨは三思にくっついていますが、これは一族滅亡の道です。おばさん、どうかよくよく考えてください!」
 鄭氏は、昭容を戒めたが、昭容はきかなかった。
 やがて、太子重俊が起兵して三思を討った時、重俊は昭容を探し求めた。昭容は始めて懼れ、立の言葉を思い出した。それ以来、帝室へも心を配り、安楽公主と各々朋党を立てた。
 中宗が崩御すると、昭容は温王を立て相王を輔政とする遺制を起草したが、宗楚客と韋后がこれを改めた。
 隆基が入宮すると、昭容は燭を執って宮人を率いて迎え、制の草稿を劉幽求へ示した。幽求は彼女の為に取りなしたが、隆基は許さず、端下で斬った。
 この時、少帝は太極殿に居た。劉幽求は言った。
「衆は、今夕、共に相王を立てようと約束しました。どうして早くしないのですか!」
 隆基は慌ててこれを止めた。
 宮中に至り諸門を守っていた諸韋を探索、逮捕させ、併せて普段から韋后に親しまれていた者を皆、斬った。
 明け方、内外の騒動は漸く落ち着いた。
 辛巳、隆基は出て相王と会い、黙って決行したことを叩頭して謝った。すると相王はこれを抱いて、泣いて言った。
「社稷宗廟が地に墜ちなかったのは、汝の力だ。」
 遂に相王を迎え入れて少帝の輔とした。
 宮門及び京城の門を閉じ、万騎をあちこちへ派遣して諸韋の党類を捕まえた。東市の北で、太子少保・同中書門下三品韋温を斬る。
 中書令宗楚客は、衣を斬ってみすぼらしくして、青い驢馬に乗り逃げ出した。だが、通化門へ至ると、門番が言った。
「公は宗尚書だな。」
 布帽を取り去り、これを捕らえて斬る。併せて、その弟の晋卿も斬った。
 相王は、安福門にて少帝を奉じ、百姓を慰諭した。
 今まで、趙履温は国庫を傾けて安楽公主へ奉仕していた。彼女の為に休むこともなく第舎を起こし、台を築き池を穿つ。自ら公主の犢車(子牛に牽かせる車)を牽いたこともあった。だが、公主が死ぬと履温は安福楼のもとへ駆けつけ、躍り上がって万歳を称した。しかし、その声も終わらない内に相王は万騎に命じてこれを斬った。百姓は今までの労役で恨み骨髄に滲みていたので、争って彼の肉を食らい、たちどころに食べ尽くした。
 秘書監のベン王ユウは韋后の妹の祟国夫人を娶っていた。彼は御史大夫竇従一と共に、各々自ら妻の首を斬り、献上した。ユウは、鳳の孫である。
 僕射、同中書門下三品韋巨源の家人は、乱を聞くと逃げ隠れるよう勧めたが、巨源は言った。
「吾の位は大臣だ。難を聞いて、どうして赴かないで良かろうか?」
 家を出て、都街まで来たところで、乱兵に殺された。享年八十。
 ここにおいて、市にて馬秦客、楊均、葉静能の首と韋后の屍を曝した。
 崔日用は杜曲にて、兵を率いて諸韋を誅殺した。お襁褓をしている赤子まで見逃さずに殺し尽くす。そのとばっちりを受けて杜氏も何人も殺された。(城南には、韋氏と杜氏が隣接していたが、韋氏の勢力が増大すると、杜曲を侵略して住むようになっていた。)
 この日、天下へ恩赦を下し、言った。
「逆賊の首魁は既に誅殺した。これ以外の支党は皆不問に処す。」
 臨シ王隆基を平王兼知内外閑厩とし、左右廂万騎を指揮させる。薛祟柬へ爵立節王を賜下する。鐘紹京を中書侍郎、劉幽求を守中書舎人として、共に参知機務とする。麻嗣宗を行右金吾衞中郎将とする。(「参知機務」とゆう言葉が、ここで始めて出てきました。今までの「参知政事」を呼称変更したようです)
 武氏の宗族は、誅殺や流罪で殆ど尽きた。侍中紀處訥は華州、吏部尚書同平章事張嘉福は懐州まで逃げたが、捕まって斬られた。
 壬寅、劉幽求が太極殿にいると、宮人や宦官がやって来て、幽求へ立太后の制書を作るよう命じたが、幽求は言った。
「国に大難が起こった。人々はまだ不安がっており、先帝の埋葬も済んでいない。こんな状況で、慌ただしく太后を立てるなど、できぬ!」
 平王隆基も言った。
「これは、軽々しく口にすることではない。」
 十道使へ璽書を持たせて派遣し、宣撫させた。また、均州を詣でて焦王重福を宣慰した。竇従一を濠州司馬へ降格する。
 癸卯、太平公主が少帝の命令を伝えた。帝位を相王へ譲るとゆうもの。相王は固辞する。平王隆基を殿中監・同中書門下三品、宋王成器を左衞大将軍、衡陽王成義を右衞大将軍、巴陵王隆範を左羽林大将軍、彭城王隆業を右羽林大将軍、光禄少卿嗣道王微を検校右金吾衞大将軍とする。微は元慶の孫である。黄門侍郎李日知、中書侍郎鐘紹京を共に同中書門下三品とする。太平公主の子息の薛祟訓を右千牛衞将軍とする。
 隆基の奴隷に、王毛仲、李守徳とゆう男達がいた。共に驍勇で騎射が巧く、いつも左右に侍って隆基を守っていた。隆基が苑中へ入ると、毛仲は逃げ隠れて随従せず、事件が終わって数日して帰ってきた。隆基は彼を責めず、将軍へ抜擢する。毛仲は高麗出身である。
 ベン王ユウは沁州刺史へ、左散騎常侍・フバ都尉楊慎交は巴州刺史へ、中書令蕭至忠は許州刺史へ、兵部尚書・同中書門下三品韋嗣立は宋州刺史へ、中書侍郎・同平章事趙彦昭は絳州刺史へ、吏部侍郎・同平章事崔是は華州刺史へそれぞれ降格された。
 劉幽求が、宋王成器と平王隆基へ言った。
「相王は、昔宸極へ居たことがあり、衆望が集まっています。(則天武后は中宗を廃立して相王を立てたが、後にこれも廃立して唐周革命を起こした。)今、人心はまだ動揺しています。家国は重大なもの。相王は小さい節義を守り尊ぶより、即位して天下を鎮めるべきであります!」
 隆基は言った。
「王は無欲で恬淡な人柄。政権を取ることになど心を動かさない。昔は天下を持っていたのに、他人へ譲ったではないか。ましてや兄の子からどうして奪ったりできようか!」
 だが、幽求は言った。
「衆心に違ってはなりません。王は独り高尚でいたいのでしょうが、社稷をどうなさるのですか!」
 そこで成器と隆基は入って相王へ謁見し、この事を極言した。相王は、これを許す。
 甲辰、少帝は太極殿の東隅にて、西を向いた。相王は梓宮の傍らに立つ。
 太平公主が言った。 
「皇帝は、この地位を叔父上へ譲りたがっておられます。よろしいですか?」
 幽求が跪いて言った。
「国家多難の時期、皇帝は仁孝にして、堯や舜を追従なさった。まことに至公と言えます。相王が陛下に代わって重任を受けますのは、慈愛が厚いと申せます。」
 そこで、少帝は帝位を相王へ伝えると制した。
 この時、少帝はまだ御座に坐っていたので、太平公主が進み出て言った。
「天下の人心は、既に相王へ集まっています。ここは子供の席ではありません!」
 遂に、これを抱えて降りた。
 睿宗が即位し、承天門へ御幸すると天下へ特赦を下した。少帝を温王へ戻す。
 鐘紹京を中書令とする。
 鐘紹京は若くして司農録事となっていた。朝政を執るようになると勝手気儘に賞罰を与えたので、人々はこれを憎んだ。太常少卿の薛稷は、上表して職を辞退するよう勧めた。紹京は、これに従う。
 稷は入って上へ言った。
「紹京は勲労がありますが、才覚も仁徳もない小役人上がり。それが元宰の地位へ登りますと、聖朝の美徳を汚す結果になってしまいかねません。」
 上は、同意した。
 丙午、紹京を戸部尚書とした。次いで蜀州刺史として下向させる。 

 丁未、則天大聖皇后を、再び天后の旧号へ戻す。ヨウ王賢を章懐太子と追諡する。(ただし、十月乙未、天后の尊号を大聖天后と追復した。)
 戊申、武三思、武祟訓の爵諡を追削する。棺桶を壊し屍を暴き、その墳墓を潰す。
 郎岌と燕欽融へ諫議大夫を追賜する。
 越州長史宋之間と饒州刺史冉祖ヨウは、韋・武へ諂い附した罪で、共に嶺表へ流された。
 癸丑、もとの太子重俊の位号を追復する。敬暉、桓彦範、崔玄韋、張柬之、袁恕己、成王千里、李多祚等の罪をそそぎ、その官爵を復す。
 己巳、天下へ恩赦を下し、改元した。韋氏の余党で、まだ罰せられていない者は皆、赦した。
 乙亥、武氏の祟恩廟と昊陵、順陵を廃した。韋氏を庶人、安楽公手を悖逆庶人と追廃する。 

 十一月己酉、定陵にて孝和皇帝を葬った。廟号は中宗。
 朝議では、韋氏を有罪として、併葬しなかった。
 もとの英王妃趙氏を和思順聖皇后と追諡し、その埋葬場所を探したが、誰も知る者が居なかった。そこで、祭服で招魂の儀式を行い、夷衾で覆って定陵に葬った。 

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